日本 プロライフ ムーブメント

【 よく●●する人には、よい●●が起きる 】

知人の農家の夏祭りで講演を頼まれて、時間をみつけてはその準備をしてきたのですが、自分で自分の頭から出てくることばを書いては消し、書いてはまた書き換える、を繰り返すなかで、ごくたまに、「なかなか、いいこと言うなあ。」と、自分で自分に感心することがあるんです。このお盆のお忙しい時期にわざわざ私の記事を読んでくださる方のために、ちょっとだけ、講演の一部を話しておこうと想います。

私たちは毎日、何かを食べて生きています。

お米をご飯にして食べ、野菜を食べ、肉や魚を食べる。健康を気にする人なら、タンパク質が足りているか、血糖値はどうか、ビタミンやミネラルは十分か、と考えるでしょう。

けれど、その食べ物が「どんな土から生まれたのか」まで考える人は、どれほどいるでしょうか。スーパーに並ぶ野菜は、きれいに洗われ、袋に入り、価格と産地が表示されています。そこから土の匂いはほとんど消えています。消えているどころか、肥料の溶けた水で栽培されている野菜も多いのが現状です。

医学の世界でも同じです。健康を語るとき、血圧、血糖、コレステロール、腸内細菌、栄養素、薬の話はしても、そのさらに手前にある「土」まで遡ることは多くありません。言われてみれば不思議な話です。私たちは土から生まれた食べ物で身体をつくっているのに、健康の議論から土だけが抜け落ちている。もしかすると現代人は、自然から離れたというより、「自分がどこから来たのか」を少しずつ忘れてきてしまったのではないでしょうか?

ところが、私たちの日常使うことばを注意深く見てみると、そこにはまだ土の記憶が残っています。

人間の生き方を表す大切な言葉の多くが、土や植物に由来しています。

誰かが成功し始めれば「芽が出た」と言い、

長い努力が報われれば「実を結んだ」、

落ち着きのない人には「地に足がついていない」と言います。

これは偶然ではないでしょう。農耕とともに生きて長い歴史のなかで、人間の成長と植物の成長、人の暮らしと土地の状態を、私たちは無意識のうちに重ねてきたのだと思います。現代では都市に暮らし、土に触れる機会が少なくなっても、私たちの記憶だけは昔の世界観を運び続けているように感じます。

つまり、頭では土を忘れていても、特に日本人の中にはまだ「人間は大地から切り離されてはいない」という感覚が生き残っているのではないか、私にはそう感じられてなりません。

この感覚は、日本だけのものではありません。

旧約聖書『創世記』には、神が「大地のちり」から人を形づくったという有名な記述があります。ヘブライ語では人間を表す「アダム」と、大地や土を意味する「アダマー」が深く結びついているとされます。もちろん、これをそのまま科学的事実として読むべきと話しているわけではないのです。

しかし興味深いのは、現代科学の視点から見ても、人間の身体を構成する物質は地球環境の循環の外から来たものではないということです。骨をつくるカルシウムも、血液に必要な鉄も、酵素の働きに関わる亜鉛やマグネシウムも、人間が体内で元素そのものを作り出しているわけではありません。岩石が風化し、土壌に入り、植物に取り込まれ、あるいは動物を経て、やがて私たちの身体の一部になる。科学は「人は土からできている」と単純には言いませんが、少なくとも私たちの身体が地球の物質循環の途中にあることは確かです。古代の人々が神話として語ったことと、現代科学が元素循環として語ること。その言語は違っても、どこかで同じ方向を見ているようにも想えて、私はときどきひとりで興奮しているくらいなのです。

日本人はさらに、土と稲と季節の循環の中に神の存在を感じてきました。

各地の農耕信仰には、春になると山の神が里に降りて田の神となり、稲作を見守り、秋の収穫が終わると再び山へ帰る、という考え方があります。ここで面白いのは、神がずっと同じ場所にいるのではなく、季節とともに「巡る」存在として捉えられていることです。山から水が流れ、その水が田を潤し、稲が育ち、人が収穫し、やがて季節が巡ってまた山へ戻る。

自然、農業、信仰が別々ではなく、一つの循環として理解されていたわけです。

現代科学では、水循環、窒素循環、炭素循環、生態系などという用語を使いますが、昔の人々は数式や顕微鏡を持たなくても、「世界はつながっていて、巡っている」という感覚を生活の中で掴んでいたに違いありません。科学以前の考えだから幼稚だった、と切り捨てるより、むしろ現代人が細かく分けすぎたものを、一つの風景として見ていたと考えるほうが自然でしょう。

そして、その世界観は食事の際のことばにも残っています。「いただきます」です。

私たちは普段、ほとんど反射的にこのことばを使いますが、あらためて考えると不思議です。「食べます」ではなく、「いただきます」と言う。そこには、自分より大きなものから恵みを受け取るという感覚があります。新嘗(にいなめ)祭では、その年に収穫された新しい穀物を神に供え、その後に人がいただくという営みが長く続けられてきました。

食べものは、単なるカロリーや栄養素ではなく、土、水、太陽、季節、そして作る人の手を経て自分のところまで届いたものです。そう考えると、一膳のご飯を見る目が少し変わります。

私たちはひとつの作物としての「コメ」だけを食べているのではありません。

そこに含まれた太陽の光、水、土のミネラル、微生物の働き、農家のみなさんの手間や時間まで、さらにそれを大事に運び、店頭に並べてくれる人たちの苦労のすべてを、まとめて受け取っているとも言えるのです。

「いただきます」は、単なる食事の挨拶ではなく、人間が自然の循環の外側にはいないことを確認する言葉だったのかもしれません。科学、医学の話を学ぶ前に、もう一度じっくりと考えてほしいし、「感じて」ほしいのです。

そもそも、その「土」とは何なのか。

私たちは土を、あまりにも単純なものとして見てはいないでしょうか。

それどころか、まったく忘れてしまっていないでしょうか?

「あなたは、顔に汗を流して糧を得、

ついにはその大地に帰る。

あなたはそこから取られたのだから。

あなたは土のちりだから、

土のちりに帰るのだ。」

旧約聖書 創世記 3章19節(新改訳2017より抜粋)

今回の題名に戻ります。私がほぼ確信しているのは、

『よく巡る(体、いのち、お金、想い、行動)人には、よいめぐり逢いが起きる。』

ということです。

Takenori Funaki(フナキ タケノリ)

船木 威徳 

医療法人社団ビジョナリー 王子北口内科クリニック 医師

出典 facebook

Copyright © 2026.8.15.

掲載許可取得 2026.7.12.