日本 プロライフ ムーブメント

世界に「NO」と言える、 世界に「LIFE YES !」と言える日本に

今年2月、週刊文春のスクープ記事がYahoo!のニューストピックにあがっていた。それは、違法中絶をおこなっていた疑いのある産科クリニックを告発したものだ。現行、日本では妊娠22週以降の中絶は違法となるが、そのクリニックでは、違法であることをわかりながらそれ以降の中絶手術をしばしば手がけていたというのである。妊娠34週での中絶事例もあったという元スタッフの証言もある。もちろん記者が現場の関係者を取材した上での、事実をもとにした記事であろう。商業誌ゆえに「違法中絶横行」という見出しで読者を煽ろうとする意図はうかがえるが、とくに踏み込んだ内容ではない。その意味でPro-Lifeに傾いている訳でもPro-Choice(中絶推進)を支持する訳でもなく、中絶という行為そのものについて週刊誌は何も責任をとろうとはしない。そうであるがゆえに、日本最大のコミュニティサイトであるYahoo!でニュースとなったこの記事は、妊娠22週以降の中絶という行為をめぐって受け手がどんな反応をするのかを知る恰好の題材である。

Yahoo!ニュースであるから、それを見たユーザーから匿名のコメントが寄せられるのが常だ。このニュースに対しても、コメント欄にはニュースがアップされてほどなく1000件を超えるコメントの山が積み上がっていた。またその”スレッド”に応答する返信が夥しい数寄せられていた。違法中絶とされる22週以降の中絶に対する世間の関心は思いのほか高い。コメントおよび返信コメントをつぶさに読み解くだけで、貴重な発見の機会となる。この問題をめぐる日本の世論を汲み取ることができる。政府に代わって「中絶白書」をまとめることだって可能かもしれない。

誰もが思いつくままを自由に書き込めるその場には、実に多様な意見が散見されるように見える。だが、その何千という声は一つに集約することができるだろう。つまり、大まかに「YES」か「NO」かと言えば、その産科クリニックの行為に対して明らかに9割がたが「NO」と言っているのである。え?そんなことは当たり前だろうと思われるかもしれない。記事の内容が本当であれば、それは違法であり不当にちがいないではないか。「NO」に決まっているだろう。 もっともである。だがそれは、日本人特有の心情であることを忘れてはならない。

Yahoo!コメントなるものが今もって”右寄り”であるというそしりを免れないかもしれないし、そこに中絶せざるをえない女性の立場に同情する声があることも無視できないが、それらを加味しても、総意として日本人は、違法か合法かに関わらず、問題の産科クリニックでおこなわれていたといういわゆる後期妊娠中絶には「NO」なのである。さらには、決して極論ではなく、中絶そのものに「NO」と言えるのが大方の日本人の心情なのではないか。

日本人の心情を強調するのは、日本以外の世界の先進諸国における反応は大きくこれとは異なるにちがいないからだ。もしアメリカやフランスのYahoo!がこのニュースを報じたとしたら、コメント欄には問題の産科クリニックの行為をむしろ擁護する声があふれることになるかもしれない。妊娠22週以降の中絶が違法であることが間違いである、その時期に中絶を必要とする女性の権利が踏みにじられているといった意見が相次ぐだろうと思われる。

言っておくが、日本には中絶を選ぶ個人の権利というものは存在しない。22週未満や「経済的理由」などの規定の枠内であれば、おおむね合法的に中絶手術を受けることはできるが、個人が自由に自身の権利を行使できているわけではない。日本で中絶が合法である根拠となる母体保護法は、あくまでも中絶手術をおこなう医師のための規定にすぎない。だからといって、欧米では守られるべき人権の一つとなっている中絶の権利が日本にないのはおかしいと、ことさら問題視する向きもなければ、欧米諸国のように中絶手術は国費で賄えと主張する声もない。それよりむしろ、養子縁組の充実が社会的にすすむのであれば、地域で子育てできる環境が整うのであれば、困難な妊娠をしても女性一人に大きな負荷がかかる状況が改善されるのであれば、中絶はやはり不幸なことであるがゆえに無いに越したことはないと多くの日本人は心のどこかで思っているはずである。

ひるがえって、中絶のことはなかなか口にし辛いが、人は誰しもそう思うのは当たり前だろうという感覚が、もはや欧米先進諸国のあいだでは通用しないのである。週刊文春に「違法中絶横行」の記事が出た半月ほど前の1月22日、アメリカ・ニューヨーク州では妊娠全期間をとおして中絶ができるという”画期的な”法律が成立している。それまでニューヨーク州は妊娠25週以降の中絶は禁止していたのだが、妊娠40週でも合法的に中絶ができることになったのである。

問題の産科クリニックでおこなわれていた妊娠34週の中絶をありえないと非難していた日本人には開いた口が塞がらない話だろう。それどころか、この法案成立を「進歩を重んじる人々にとって歴史的な勝利」と勝ち誇り世界に祝福を求める政治家がいるなどという現実は、悪趣味なSF小説の作り話くらいにしか思えないだろう。しかし、これを対岸の火事としてやり過ごすことはできない。リベラルのイデオローグたちは、ニューヨーク州が達成した40週でも中絶できる権利を全世界に拡張するためのロビーングをはじめるだろう。アメリカの他の進歩的とされる州やヨーロッパの先進諸国のあいだでは積極的にニューヨーク州にならおうとする動きも出てくるだろう。

もし実際に日本にも圧力が掛かってきたら、そんなことは日本人の心情として受入れられないと明確に反対しなくてはならない。いや、むしろ、先手を打って今からニューヨーク州に対して「NO」を突きつけるべきではないか。あなたたちはわたしたちが大切にする価値観から程遠いところに行ってしまっていると。人間の自然な感情として中絶は決して喜ぶべきものなどではなく、中絶できる週数の引き下げを達成することこそ社会にとって進歩であると。それは、先進国の中では例外的にリベラルのイデオロギーに浸食されていない日本にこそ可能なオブジェクションである。

出生前診断という余計なサービスが普及したおかげで、ダウン症の疑いのある胎児の多くが中絶されてしまう辛い現実は日本も他の先進諸国も同じである。だが、それはダウン症にたいする偏見から生じる不幸であり、少しでも不幸な中絶がなくなるように、ダウン症の子どもを産み育てることをポジティブにとらえる啓蒙活動にケチをつける日本人はまずいないだろう。「Dear Future Mom」は、そうした意図から「世界ダウン症の日」のためにイタリアで制作された不朽の名作CMであるが、それに公然とケチをつけてしまう国がある。先進国中の先進国フランスである。あろうことか「Dear Future Mom」のテレビ放映を禁止する措置がフランスの国会で議決されたのだ。「合法的にダウン症の子どもを中絶した人の良心を損なうおそれがある」というのがその決議理由である。

今日のリベラルのイデオロギーというものに精通していればこんな理屈が導き出されることも想像に難くないが、多くの善良な日本人にとっては寝耳に水もいいところだろう。チンピラの難癖にも悖る言いがかり以上の何ものでもないと思うだろう。その感覚が、今や尊いのである。同じようにリベラルのイデオロギーの奴隷と化した先進諸国は、フランスの国をあげてのこの決定を黙認するしかないであろうが、日本のわれわれは黙っていなくていいのである。「NO」と声をあげるべきである。家族として、コミュニティの一員として、ダウン症の子どもが受け入れられる「いのちの文化」に社会を向かわせる努力は、個人の権利の尊重以上に本来的に大切なことであると、フランス政府にダメ出ししてやるべきである。こうした機会を捉まえて、日本人の心情はイデオロギーではなく「LIFE〜いのち」の側にあることを世界に知らしめてやればいい。

それが日本人特有の心情である。世界に誇るべき価値観なのだ。

アースデイ東京は「SDGs」の啓蒙に力を入れている。日本語で「持続可能な開発目標」とされる「Sustainable Development Goals」の頭文字をとった略称であるが、その「エスディージーズ」という読みのまま一般の人々への普及が図られている。エスディージーズと言われてピンと来る日本人はまだまだ少ないだろうが、SDGsの知名度は欧米社会ではすでに50%に達しているらしい。「持続可能な開発目標」とは2015年の国連サミットで定められたアジェンダで、2030年までに達成することを目標に世界が一致して取り組むべき具体的な17の課題のことを言う。日本でもグローバルな視点というものが必要とされる行政機関や大企業においてはさまざまな取組みが始まっているようであるし、これからはもっと学校など教育の現場にも「エスディージーズ」が浸透していくことが期待されている。

世界を代表して集まった若い世代を中心にした議論の場などを経て、公正にして民主的なプロセスをとおして、それら17の目標が決まったのだという。わが日本代表も積極的に意見し、世界の未来に関わる重要な議論をリードしたそうである。「No Poverty〜貧困をなくそう」をはじめとした17の目標それぞれが、分かりやすくピクト化されている。17の目標のどれにも異論を差し挟むつもりはない。目標の理念が特定のイデオロギーに冒されていないことを願わずにはいられないが(とくに「ジェンダー平等を実現しよう」などは要注意)、持続可能な世界の実現のために、もちろんいずれの目標も達成されることが望ましいにちがいないと思う。しかし、この17の目標で必要十分というのなら、今からでも国連に対して「NO」と言いたい。これだけでは世界の未来のために真に意義あるエスディージーズとはならない。

17の目標には「LIFE」の語を掲げるものが2つあるが(※15,16)、それら”動植物”のことではなく、もっとも守られるべき根源的な「LIFE」を欠いているから「NO」なのだ。もともと「LIFE」という語は、人間以外の生物には使われない。人の命こそが「LIFE」なのだ。たしかに17の目標には「貧困をなくそう」「飢饉をゼロに」あるいは「すべての人に健康と福祉を」などがある。わざわざ「LIFE」と言わずとも、それらはいずれも人の命を守るための目標ではある。それらの目標が対象とするのは、写真や映像によって苦しむ人の表情などをイメージさせてくれる、目に見える「LIFE」であろう。しかし、目に見えない「LIFE」についてエスディージーズは何も語らない。

一方、動植物の保護を訴えるために、あえて「LIFE」という語を使うのは、その存在そのものが人間のエゴによって消される大きな危機にあるからだと言うかもしれない。それならば、まさに人間のエゴによって消される人間の子どものことは考えなくていいのだろうか。もっとも守られるべき「LIFE」とは、人の始まりのいのち、すなわち産まれる前の子どもなのではないか。今も日々この地上からどれだけの数の「LIFE UNBORN〜産まれる前の子ども」が消されているか考えたことがあるだろうか。それによってどれだけ持続可能な未来が奪われているか想像したことがあるだろうか。決定的な人口減によって、端的に日本には未来がない。いま多くの市町村が消滅の危機に追い込まれているのは、戦後の世界で最初に中絶を合法化した国でありながら一度も「中絶政策」をあらためなかった結果であるのは火を見るより明らかではないか。

中絶から子どもを守る。あるいは中絶から女性を守る。その目標が立たなければ、他の17の持続可能な開発目標はすべて絵空事にすぎなくなる。国連の会議に参加する日本代表の若者には、「LIFE UNBORN〜産まれる前の子ども」に言及しない世界に対して「NO」と言ってもらいたいものである。

「地球のことを考えて行動する」がアースデイのテーマである。こうした、日本人の心情にそぐわない、人のいのちが軽んじられる世界的な状況を踏まえて、そのテーマも”進歩”したらどうか。ひとつひとつのもっとも小さな人のいのちを慈しみながら、地球のことを考えて行動する。そんなアースデイに変わっていくきっかけとなる、今年のアースデイ東京でありたいと願う。

Masaaki Ikeda(イケダ マサアキ)
池田正昭
マーチフォーライフ実行委員会 代表

出典 ikedam
Copyright © 2019年4月19 日
2024年11月14日許可を得て複製