小学2年生の夏休みのことでした。
定番の宿題と言えば「読書感想文」。
私は、もともと幼稚園のころから物語を読むのが好きではなく、もっぱら、植物や動物、地球や宇宙について説明した図鑑か、鉄道関連の本、それに時刻表ばかり読んでいました。
それが、いきなりの宿題。
好きな作品を選んで、感想文を書いてきなさい…って、どう考えても、図鑑や時刻表では無理。
そこで、私は当時住んでいたエリアに週1回だけ回ってくる、「移動図書館」(トラックの荷台に本棚が載っているような作りだったと想います)に出かけてゆき、なんとか、物語らしい、それでいて絵のたくさん入った本を選んできたのでした。
本の題名は「ちきゅうのきれし」。
いまも、おぼろげながら憶えているのは、その本のストーリーの不思議な構成のこと。
演劇の舞台のすみで、司会のおじさんが、舞台上で繰り広げられる地球の誕生から、白亜紀、ジュラ紀…人類の誕生…という説明をリアルにしてゆく、その内容が文章になっているのです。
私は、ふと、想ったのです。
「これで『読書感想文』が書けるのかな?」
私は、寝床で、昼間読んだ本の内容を想い出しながら、あることを想いつきました。
「実際に白亜紀やジュラ紀の世界に自分がいたとして、そこで三葉虫やステゴサウルスを目の前にしたとするなら、なにを考え、どう想うだろうか?これは、遠足の感想と同じ、感想文になるのではないか?」
私は我ながらすばらしいアイデアだと、翌日母親にそれを話したところ、全否定されたのです。
「読書感想文」はあくまで、●●物語、のような話を読んで、こう思いました、こんなことを考えました、という内容を書くものであって、恐竜を見たらなにを想うって、あんた何考えてるの…?という感じ。
しかしながら、私にはもう時間がなかったのです。
移動図書館はお盆が休みだったはずで、もう来ない。
お金を出して街の書店で本を買うということも、当時のうちの家庭ではありませんでした。
夏休みが終わり、担任の先生に宿題を提出して何日かたったときに、担任のM先生が満面の笑みで私を呼び止めたのです。
「ふなきくんの読書感想文、えらいええで。あんたの感想文読んだら、先生もな、あんたみたいに三葉虫や恐竜に会いに行ってみたくなったで…よう、あんな本探してきたなあ。」
その小学校一の厳しく、ハンカチを忘れただけで怒鳴られる、ささいなことで張り手される、そんな先生が笑っていたその顔が、なんともうれしく、私には忘れられない夏の想い出となっています。
もう50年も前のことなのに、なぜ、いまもそのM先生の笑顔まで覚えているのか?
それは、やはり、幼く、未熟な私が、期限に悩み、本を選ぶための制限や条件に困り、親に怒られてさらに落ち込み、考えるに考えて、それでも地球の過去の姿を見てみたいという夢に心躍らせながら、歴史の舞台ごとに感想をまとめていったという「感情と思考」を集中させた体験だったからではないかと感じるのです。
何か月か前に、私は、衝撃的なニュースを目にしました。
アメリカの著名な研究機関の発表した研究結果で、54人に、AI(ChatGPT)かGoogle検索かを使って、あるいは何も使わずに自力で、数か月にわたって与えられたテーマに関するエッセイを書かせ、その期間中の脳波を測定したもの。(「Your Brain on ChatGPT: Accumulation of Cognitive Debt when Using an AI Assistant for Essay Writing Task(ChatGPTを使った文章作成によって蓄積する認知的負債)」
この結果明らかになったのは、ChatGPTのみを使った人たちの脳内で新たに生じた脳内ネットワークの結びつきがもっとも弱く、そもそも「これは自分が書いた文章だ」という感覚が著しく弱かったというものでした。
もちろんこれは、普段、オープンAIを使って文章を作らせたときにしばしば感じる感覚なので、不思議ではないのですが、自分の頭を使って調べたり、考えたりしたときと、AIだけで文章を作り出すという作業をしたときの脳の仕事やその後の変化が想像以上に差がつくことに、私はぞっとしたのです。
私は想うのです。
本を読んで自力で要約する、
手書きでメモをする、
筆者に対する反論を考える、
最初から最後まで自分のことばで説明する…。
こうした過程では、脳のなかでは
「理解」
↓
「再構成」
↓
「(自己)表現」
という段階を踏んで、非常な量の作業を行います。
ところが、最初からAIが答え「らしいもの」を出したのを見て、なんとなく納得した気になってしまうと、おそらく私たちの脳は「理解したつもり」で、ちょうど、いっちょあがりと宣言して遊んでしまうのではないかと感じるのです。
私が最近、3年先、5年先の未来の世界を想像して、ときどき強い落ち込みに似た想いに沈むことがあるのは、おそらく、人類がAIを思考の補助として使うレベルをはるかに超え始めていて、要は、AIが発想や要約、論理の構築、さらには文章化まで代行してしまっている場面が激増している気持ち悪さに主因があると考えるから、かつて、電卓が誕生した時に、これでそろばんや暗算を習得する必要もなくなったと言っていた人がいたし、でも実際、算数や数学が学校の必修科目からなくなったわけではないから、きっとAIにやらせること、人間が結局はやるしかないことが自然に分けられてゆくと楽観的な見方をする研究者もいます。
でも、私はどうしても、このAIについては、「どの部分をAIに任せるか、どこまでを人間が苦労して感じ、考えるべきなのか」を分ける試みは、おそらく失敗するだろうと感じています。
パスカルが著述のなかで「人間は考える葦である」と書いたのは有名ですが、ここでいう考えるとは、単に文章の要約をするとか、論理を組み立てるような作業的な話ではなく、
人が自分が死ぬべき存在であると知ること
生きる苦しみや悲しみの意味を問い続けること
なぜ私は生きるのかを考えること
自分の弱さや汚さを見つめること
善悪や正義について悩むこと
にあったのではないかと個人的に考えています。つまり、人は、私やあなたは、自分の限界や個人的な死を自覚し、感じて、考えることができる存在なのです。
私は、人間の本質というのは、「弱くて、有限で、死ぬべき存在でありながら、それでもなお、自分自身の存在の意味を問い続ける」ところにあると確信しています。
なぜ、そんなことをということにこだわり、感じたり考えたりしようが、そうでなかろうが、誰もが死にます。であれば、できるだけ面倒なこと、辛いこと、やっかいなこと、答えが出そうにないことは考えることさえ避けていけばいいじゃないか、という気持ちも十分わかります。
それでも。
「それでもなお、自分自身の存在の意味を問い続ける」ことをやめてしまえば、人はなにをもって人であり続けるのでしょうか?
ちょっと想い出せない、長たらしい文章を要約してもらっちゃおう、そんなAIを使いこなす(ように見えている…だけなのかも知れませんが)毎日が、私が私ではいられなくなってしまう、私がもはや人であるかどうか以前に、「生きる」ことすら放棄してゆくことのように想えてならない、そんな毎日を過ごしているのです。
※写真は私の大好きな北海道・大雪山国立公園の紅葉。6年間をこの山々のふもとで過ごし、四季折々に変ってゆく景色を見るだけで、人間の感情や思考とは、ただの物質的なもののわけがないと、私はたびたび確信するのです。
Takenori Funaki(フナキ タケノリ)
医療法人社団ビジョナリー 王子北口内科クリニック 医師
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掲載許可取得 2026.7.12.