臨時シノドス事務局への回答
日本カトリック司教協議会としては、時間が限られていたので、臨時シノドス事務局からの準備文書を司教たちと男女修道会・宣教会の上長に送付して回答を求めた。その回答結果をさらに数名の有識者(司祭、信徒)に送りコメントを求めた。司教、修道者たちは現代の家庭の問題にかかわってきており、精通しているといえるので、彼らの回答は今の日本の家庭の状況を十分に反映していると思われる。
第三回 臨時シノドス
はじめに
シノドス事務局からの質問に直接答える前に、参考までに、今日の日本の家庭の状況とそれに対する日本カトリック司教協議会の努力の次第を概略する。来日した福音宣教者が大変熱心で優秀であるにもかかわらず、日本での宣教の効果は少なく、受洗者も少ない。今日、移住者を含めて約100万人のカトリック信者しかいないのは残念であるが、日本社会の福音化に大きな貢献が出来るとわたしたちは考えている。
1. 日本におけるカトリック教会の現勢
2012年末の統計によれば、日本のカトリック信者はおよそ444,000人(人口の約0.35%)である。これに加えてカトリック国からの多くの移住者・一時滞在者が教会を構成している。懸命な宣教の努力にもかかわらず、社会にあっても家庭にあってもカトリック信者は少数派であり、洗礼の約54%が成人洗礼、結婚の76%が異宗婚となっている。教会のメンバーが教育・福祉・医療などの場で広く貢献していることは社会的にも評価されているが、福音の価値観、教会の教えが日本の社会や文化に影響を与える機会は非常に限定されているといわざるを得ない。
2. 日本における家庭の現状とカトリック教会
アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)に敗北した日本は戦後の活路をもっぱら経済成長に求め、政府も企業もひたすら経済価値の追求に奔走した結果、国民の生活水準・教育水準飛躍的に向上した。しかしこの高度経済成長のために人々は大きな代価を払わなければならなかった。その代価の中に家庭の危機が含まれる。多くの家庭は今や深刻な問題に直面している。カトリック信者の家庭もこのような日本社会の状況や価値観の影響を免れることはできないでいる。以下に問題点を三項目にまとめてみる。
a) 家族の絆の脆弱化
1954年から1973年の「高度経済成長」に伴い人々は地方から大都市とその周辺に移住した。家族の構成人数は減少し「核家族」と呼ばれるようになり、ほとんどの家庭は、二世代(親子)から構成され、三世代(祖父母と親子)の家庭は稀となった。夫は時間と精力を会社のために消耗し、専業主婦だった妻もパートタイマーなどの仕事に従事するようになった。子どもたちは学校が終わってからも夜遅くまでクラブ活動や塾など多忙である。そのために、一家がそろって食事をすることが難しくなり、また団欒のひと時を共にする機会が著しく減少している。家庭で家族が互いに話し合い、心の交わりを持つことが難しくなってきている。都会と田舎とを問わず一人暮らしの家庭も増えており、少なからぬ人々が孤独と不安を抱えている。そして「孤独死」や「無縁死」が増えている。日本の社会は「無縁社会」と呼ばれるようになっている。このように、戦後の日本の社会では、一般的に家族の絆が弱くもろくなり、家族が互いに助け合い支え合うことが難しくなっている。
b) 少子高齢化
日本人の平均寿命は非常に延び、女性は世界第一位、男性は世界第五位を占めている(2013年)。他方出生率は減少し、日本は高齢社会となっている。その結果、子どもの世代が高齢者を支える負担が増加している。たとえば夫婦がそれぞれの両親四人の世話をしなければならない、という場合も珍しくない。この傾向は教会でも顕著であり、たとえばミサ参加者は高齢者が多く、子どもが減っている。
日本政府は高齢者の医療・介護経費の負担軽減策を講じているが、当事者と家族の負担は増加する一方である。老年をどう過ごすか、ということは誰にとっても大きな課題になっている。高齢者の介護は経済的な負担だけでなく精神的な負担を求める。寿命が延びたということはそれだけで喜ばしいこと、とは言えない。高齢者が社会のなかでふさわしい地位と場所を占める社会を建設しなければならない。教会はこの課題にもっと具体的な貢献をしなければならないと考える。
他方、少子化は大きな問題である。一般的な傾向として、ほとんどの夫婦が多くの子どもを望まないようである。その原因はさまざまで、たとえば、狭い住宅、育児の苦労、母親の就労、教育費の大きな負担などが挙げられている。「核家族」の場合、育児に協力する家族がいない。人類が有史以来続けてきた出産と育児という大事を、できるだけ避ける傾向にあるというのは大きな問題である。
c) 結婚の多様な現象と離婚の増加
少子化はさらに結婚の問題と連動している。結婚する人が減り、離婚する人が増えている。結婚したくても経済的な理由でできない人、あるいは結婚相手がいないので結婚できない人が増えている。初婚の年齢も高くなっている。また、結婚生活を望まない人も増えている。この人々は、家庭の建設に関心を向けようとはしない。結婚しないで同棲する人も珍しくない。他方、困難に遭遇するとすぐに結婚を解消する傾向がある。
避妊だけでなく人工妊娠中絶も一般に行われている。多くの胎児が生まれる前に葬られている。他方、子どもを望んでも妊娠しないので不妊治療を受ける人も増えている。
結婚に関するこのような傾向と現象は、カトリック信者にも当てはまる。日本ではカトリック信者の大部分は非キリスト信者と結婚している。彼らもこのような社会一般の結婚についての意識の影響を免れないのが現実である。
3. 日本のカトリック教会はこのような家庭の現実に対して教会としての司牧と福音化の努力を重ねてきた。それは次の二点に要約される。
a) 第二回福音宣教推進全国会議(1993年開催)
これは家庭の現実から出発して教会の使命である福音化をどのように推進したらよいのかを話し合った全国規模の大きな会議だった。信徒の代表も参加し、熱心な討議が行われ、その成果は司教協議会へ答申として提出された。司教協議会はそれを受けて『家庭と宣教』という教書(添付文書参照)を発表した。
b) 『いのちへのまなざし――二十一世紀への司教団メッセージ』(2001年)の発表
家庭といのちの問題が緊急問題となってきた状況に対して司教たちはこの教書を編纂し発表した。内容は三章から成っている。「第一章 聖書からのメッセージ」、「第二章 揺らぐ家庭」、「第三章 生と死をめぐる諸問題」。
質問に対する回答
1 聖書と教会教導職における家庭に関する教えの普及
a) 聖書、『現代世界憲章』、『家庭――愛といのちのきずな』、公会議後の教導職のその他の文書に含まれる、家庭の価値に関するカトリック教会の教えを現代の人々はどのように理解していますか。家庭生活に関する教会の教えについて、人々にどのような教育がなされていますか。
- 信者であっても大部分の人はそのような教えや文書を知らないと思われる。彼らは、司祭あるいはほかの誰かから説明を受けただけで、断片的にしか知らない。しかも、司祭自身もこの「家庭に関する教え」を十分に知っているとは限らない。
- 大半の人々が結婚を準備する際、それらの要約やまとめ程度のものを学ぶだけだと思う。
- カトリック教会が中絶に反対ということは広く知られているが、マスメディアでは批判的に報道されているようである。
- 家庭生活に関する教えは、教会では、特別に取り上げられていない。
- 家庭の生活も含めて日々の生活が忙しいので、信者が教区あるいは小教区で開催する養成講座に時間を割くことが難しい。さらに、日本では、多くの場合、カトリック信者の家庭に信者ではない家族がいるので、家庭で教会の教えを伝えるのも難しい。
- 日本人でないカトリック移住者が増えていることで、日本の教会は新たな挑戦を受けている。言語や文化の違いに加え、仕事の時間の合間に教えを受ける機会をつくることは今までにない課題である。
b) 教会の教えが知られている場合、それは完全に受け入れられていますか。それともそれを実践するための困難が存在しますか。困難があるなら、それはどのようなものですか。
- 一般的に言えば、信者は人工妊娠中絶(堕胎)、人工受胎調節、離婚と再婚が禁じられていることだけしか知らない。彼らは、教会の教え以上に社会の風潮に影響されている。特に、受胎調節についての教会の教えを真剣に受けとめていない。教会の教えは自分たちの生活に合わない、と考えるからである。
- 信者の中にも、避妊に対する教会の姿勢(コンドームの使用制限等)に批判的な意見の人が多い。
- 移住労働者にとって教会の教えを実行することは非常に困難である。彼らは十分な教育を受けていないし十分に教えられていない。不安定な生活をしているので教会の道徳の教えを守る余裕がない。
c) 全国、教区、小教区レベルの司牧計画によって、教会の教えがどの程度普及していますか。家庭に関してどのような信仰教育が施されていますか。
- 日本のカトリック信者を取り巻く文化はキリスト教的ではないので、どのような信仰教育であっても提供することが非常に困難である。
- 信仰教育に関する全国・教区・小教区レベルでの体系的な司牧計画は皆無に等しいと言わざるを得ない。一生懸命やっている教区、小教区、司祭、信者も確かにいるが、あまりにも個人の努力に依存している。
- 司牧者の養成あるいは使命感に大きく左右されている。司牧者によって信仰教育のレベルが異なる。まずは司祭養成を徹底する必要があると思われる。
- 家庭での信仰教育がおろそかにされているように見受けられる。
- 移住者の家庭では、親は仕事で忙しく家にいる時間が少ない。子どもは日本の教育を受けて親以上に日本に文化的に適応しているので、親子の意思疎通が難しくなっている。その結果、家庭での信仰教育はますます困難である。
d) 家庭に関する教えは、教会外で、どの程度――とくにどのような点が――知られ、受け入れられ、または拒絶され、批判されていますか。家庭に関する教会の教えの完全な受容を妨げる文化的要素はどのようなものですか。
- 家庭内で男女が平等な時代に、特に妊娠・出産に関して時代遅れの考え方を教会が示していると外部の人々は批判している。
- 民法で許されている離婚・再婚、出生前診断等による人工妊娠中絶を決意してしまった信者の中には、世間の常識に傾き、この点に関して、教会外の人と同じように教会を批判する者もいるかもしれない。
- 多くのカトリック信者、特に女性は信者でない人と結婚しているので、家庭で教会の教えを守ることは容易ではない。夫が宗教に無関心なら別だが、子どもの洗礼も不和の原因となる場合が多い。
- 離婚、別居についての教会の教えは社会通念に合わないと感じる人が多い。男女平等の意識は浸透しているが、家庭では今なお男性中心であり、女性が信仰生活を守るのは難しい。
2 自然法に沿った結婚
a) 社会の文化的領域――制度、教育、学界、一般――において、自然法という思想はどのように位置づけられていますか。家庭の自然的基盤に関する議論の前提となっているのは、どのような人間観ですか。
- 自然法という考えは一般的に理解されていないし、受け入れられていない。
- 教会の指導者が自分の発言の説得力ある理由を提示できないとき、しばしばそれを「自然法」と呼び、その発言に服従を求める。このことが自然法の概念に対する不評を招いている。「もし自然なら、なぜ人に教える必要があるのか」と言われる。
- 日本の文化では、行動の基準として抽象的な原則ではなく世間の目が強調される。西欧では「自然法」は「自然」かもしれないが、日本では抽象的で心に響かない。
b)男と女の結びつきにおける自然法という思想は、受洗者一般によって普通に受け入れられていますか。
- 日本の社会では、同性の性関係は西欧諸国のようには議論されていないが、概して同性愛は志向性としても生活様式としても寛容になっているので、いずれ議論の対象となり得る。結婚による性転換手術は既に法的に承認されている。この寛容な態度はカトリック信者にも社会一般の人と同じように当てはまるようになってきている。
c)家庭教育に関して、男と女の結びつきにおける自然法の理論と実践にどのような問題が見られますか。公的機関と教会機関において、それらはどのように提示され、展開されていますか。
- 市民社会では同性結婚を認めるようにとの大きな運動はまだないが、他方、いかなる形の結婚からも離れていく流れもあるようである。
- 男女とも、結婚する人よりも独身のままの人が増えているし、晩婚化、少子化の傾向が見られる。家庭のあり方も概念も制度も徐々に変化している。
d)教会から離れたカトリック信者または非信仰者が結婚式を挙げることを望んだ場合、こうした司牧的問題にどのように対処していますか。
- 非受洗者同士の結婚式については日本の教会は聖座から認可を受け、長年、カトリックの儀式で行ってきた。それは教会の通常の活動の一部となっている。結婚式の希望者は教会の結婚観を学ぶため、少なくとも結婚準備講座に参加しなければならない。さらに離婚などの教会法上の障害がないことが要求される。もっともこの点に関しては寛大な司牧者が多いと思われる。
- 教会から離れた信者が結婚式を望む場合は、教会生活に戻る機会となると考え、結婚準備と挙式に小教区の信者に加わってもらうようにしている。
3 福音宣教との関連における家庭の司牧
a)結婚の準備に関して、この数十年間にどのような経験をしましたか。夫婦と家庭が福音宣教を行うよう促すためにどのような努力をしましたか。家庭に「家庭教会」としての自覚をもっともたせるにはどのようにすればよいですか。
- 今日では往々にして、非受洗者同士の結婚だけでなく受洗者の結婚の場合でも、結婚は子供を妊娠したことを合法的にするために行う対応にすぎない。二人は既に長い間同棲している場合が普通になっており、その点は若いカトリック信者であっても変わらない。
- カトリック家庭出身の場合、教会で結婚したいという希望は、本人の信仰からというより自分の家族からの圧力の結果として表明される場合も多い。
- このような事情から、現代日本のように基本的に非宗教的社会では世代から世代へと信仰を伝えることが難しい。家族がみな信者であるという例が少ないので、「家庭の教会」という意識はほとんどない。
- 子供の信仰生活は小さい時は活発であっても、成長に伴い、世間一般の風潮に飲み込まれてしまう傾向にある。親は、せめて復活祭とクリスマスだけは、教会に行くことを約束させるようである。
- カトリック信者全体と特に聖職者の高齢化が進んで、若いカトリック信者は小教区の活動から遠ざかるようになった。その結果、性と家庭生活に関する教会の教えを学ぶ機会に恵まれなくなる。
- 結婚準備は規定のプログラムで行っているところもあるが、多くの場合は司牧者の関心と能力に依存している。
- Marriage Encounterと Engaged Encounter は日本に導入されてしばらくは盛んであったがいつの間にか下火になっている。
- どんな理由にせよ、若い二人が結婚式のために教会に来るときは、教会共同体へ戻るよい機会となり得る。あたたかく迎える努力が必要とある。
b) 生活の諸問題や現代文化にあらがうための家庭での祈り方を、どれほどうまく示すことができましたか。
- 家族全員がカトリックである家庭は少ないので、家庭では一人で祈る人の方が多い。
c)現代の世代間の危機にあって、キリスト教的家庭はどの程度、信仰を伝える使命を果たすことができていますか。
- 概して言えば信仰の次世代への伝達は難しい。日本の社会は信仰を表現しにくい社会であり、教会を老人たちのたまり場、と見ている若い人たちもいる。
- 学生・生徒は学校での諸活動、受験勉強、スポーツや社会の行事が忙しく、そちらへの参加を教会活動参加より優先させている。カトリックの家庭でも事情は同じである。結果的に、カトリックの子供も教会活動への参加は二の次のことだと思うようになっている。
- 次世代の人たちに信仰を伝えることは、極めて危機的な状況にあり、大きな課題である。
d)地方教会と家庭の霊性を推進する運動団体は、どのようにして模範的な行動様式を示すことができましたか。
- 様々な団体・運動が努力を続けている。
e)現代における夫婦とキリスト教的家庭に関する信頼のおけるバランスのとれた思想を普及させるために、夫婦と家庭はどのような特別な貢献を果たすことができるでしょうか。
- 抜本的に新しい何かの働きかけが必要である。
- 生涯にわたる夫婦の信仰学習(養成)が必要である。特に、堅信後から結婚までの期間の組織的、体系的、有機的な信仰学習、直前の結婚の準備、結婚後3年から5年までのアフターケアー、結婚10年・25年・50年目の節目での振り返りなど。
f)結婚準備中のカップルと、危機的な状態に置かれた配偶者を支えるために、教会はどのような司牧活動を行っていますか。
- 助けを必要とする夫婦と司祭が個別に接する以外に特別な計画はない。さらに司祭自身もこのような状況に対応するよう養成されていない。司祭の生涯養成が必要である。
- 国際結婚の問題には特別な配慮が必要である。日本の田舎に嫁に来た女性の場合、彼女たちは文化と言語の違いにより多くの問題にぶつかる。今や彼女たちは日本のカトリック教会で存在感を増している。移住者への司牧の必要から司祭養成には第二外国語の習得が含まれるべきである。
4 結婚におけるいくつかの困難な状態に対する司牧
a) 試しとしての同棲は、あなたの部分教会の司牧の対象となっていますか。おおまかな統計データを示すことが可能ですか。
- 日本では同棲を経験してから結婚するカップルが少なくない。厚生労働省の統計(2011年)によると結婚の前年から同居していたカップルは17%である。
- ここ数年で結婚式を挙げたほぼ全カップルが、挙式の数ヶ月前から同居を始めていた。彼らの中にそれが教会の教えに反するという認識を持っている人はいなかった、という報告がある。
- カトリック信者がカトリックでない人と結婚する場合、カトリックでない側が教会法による結婚を拒否することがある。また、同棲ないし民法上の結婚をしてから教会へ帰ってくる夫婦のケースもある。
- 移住者のカトリック信者の結婚の場合、特別な司牧が必要である。
- 海外から来日した信徒で、非キリスト者の日本人と民法上の結婚だけをしてしまっているケースが多くある。中には配偶者がその後受洗するケースも稀にあるが、多くの場合、教会での手続きを全くとらずに民法上の結婚生活を継続している。信徒の大半が海外からの信徒で占められている山間部の小教区では、司牧のうえで難しい問題を抱えることになってしまっている。しかし、そういった海外からの信徒が積極的に活動し、文化的にも保守的で宣教が困難な地域で福音をあかししている現実をみるならば、何らかの対応を早急に講じなければならないのも事実である。
- 教会は同棲や教会外での民法上の結婚が通常となっていることを前提として司牧活動を始めなければならない。そのようなカップルが教会で歓迎されるならば彼らは自分たちの問題をもっと深く考える機会になる。
- この課題の司牧の方針を考えるためにサマリアの女の話を思い出すことが重要であろう。福音書で一箇所だけであるが、結婚しないで同棲している女性との出会いが述べられている。このときイエスはサマリアの女性の同棲を問題にしないで彼女に対して丁重な態度で接した結果、彼女は回心して宣教者になった。
b) 宗教上も市民法上も認められない結合が存在しますか。これについて信頼できる統計データはありますか。
- 信用できる統計は知らない。
- 移住者が本国で結婚しているのに日本で重婚の状態にある場合がある。信用できる統計はわからない。
c)別居した夫婦、離婚して再婚した夫婦は、あなたの部分教会の司牧の対象となっていますか。おおまかな統計データを示せますか。こうした状態に対して、どのような適切な司牧計画によって対処していますか。
- カトリック信者の多い国ほどではないが、日本のカトリック信者でもそのような人々は増えている。カトリック信者同士の離婚は非カトリックの人の離婚と比べてもあまり変わりがないようであり、司牧者にとって特別な配慮が必要な課題である。
- カトリックの女性は多くの場合キリスト教徒でない人と結婚する。日本へ来ている移住労働者のカトリック女性(フィリピン、ペルー、ブラジルなど)にとっても事情は同じである。彼女たちは洗礼を受ける見込みのない離婚歴のある非キリスト者の男性と結婚する場合が少なくない。外国人移住者の中には本国に家族を残し、時間が経ち、家族から遠く離れているために、孤独を感じ、新しい家庭を日本で始める人もいる。このような人々が結婚の秘跡を受ける場合は当然少ない。わたしたちはこの人たちを教会で歓迎し、子どもたちを日曜学校に誘う。子どもには罪がないので、彼らを断罪することなく受け入れキリスト教生活ができるよう助ける。厳しい日々の現実の中で小教区の教会は彼女たちとってオアシスとなっている。
d) 上述のケースにおいて、受洗者はこの変則的な状態をどのように生きていますか。この点について彼らに自覚はありますか。無関心ですか。彼らは排除されていると感じたり、秘跡を受けられないことで苦しんだりしていますか。
- そのような状況にある人々は多くの場合、無関心であるように見える。教会でとがめだてられるくらいなら教会との関係を絶ってしまう、という人もいる。
- 自分の責任ではなく離別状態になって、秘跡を受けられないことに苦しんでいる人たちは多い。
e) 離婚して再婚した人々は、聖体とゆるしの秘跡に関して教会にどのように問いかけていますか。こうした状態にある人々の中で、どれくらいの人がこの秘跡を求めていますか。
- 秘跡について聞きに来る人はあまりいない。彼らは、秘跡を受けるか受けないかは自分で決めている。ただ教会から去って行く人もいる。
- 離婚して再婚したらご聖体を受けられないということを知らない人がいる。知っていても拝領する人がいるし、その事実を知っていても何も言わない司祭もいる。教会に来る人は、聖体拝領を望んでいる人がほとんどである。
f)婚姻の無効宣言を行う法的手続きの簡素化は、関連する人の問題解決に役立ちうるでしょうか。役立ちうるとすれば、どのような形においてでしょうか。
- 婚姻の無効宣言手続きの簡素化は必要であり、是非しなければならないことである。特に、キリスト者が少ない宣教地で、しかも、民法が離婚を認めている日本では、相手当事者が非受洗者であるケースが多く、離婚後、無効宣言手続きのために非受洗者に聴取を求めることは非常に困難であり、場合によって、基本的人権の侵害で教会が訴えられることもあり、躓きになることもあり得る。簡素化は必要不可欠であり、法的な規定の遵守だけでなく、現場の必要に応じた現実的な対応も求められる。
- 司教をはじめとして、多くの声が離婚者・再婚者のための司牧、そして法的な救済手続としての「無効宣言」などの手続の簡略化を求めている。今度のシノドスの目的の一つには、全世界の教会から、手続の簡素化を求める声を教皇様が集約したいと思われてのことではないかと推察している。現実に教会法や教会裁判所に関わるものとして、声を大にして叫びたいことは、日本ではカトリック教会で行われている結婚式の90%が異宗婚(カトリック受洗者と未受洗者の結婚)であるということである。このような結婚ゆえに、結婚前には①自分の信仰を守ること。②生まれてきた子どもに洗礼を授け、カトリック教育を施すことを書面上だけで約束しても、結婚後には教会のミサに来ることさえ難しいことになり、子どもが生まれても、結婚相手が未受洗者の場合には、子どもの洗礼のことを言い出すことさえ、難しくなっていく。このような約束が果たせない状況にさらされており、まして離婚となった場合には、無効宣言の手続きのためにローマが必須としている相手方への召喚や出廷などは、ほとんど不可能な状態である。勿論手続き上として、ローマは「カトリック信者同士の結婚」を前提としているのであるから、当然であるが、その原則を「カトリック信者と未受洗者の結婚」にも押し付けることには無理がある。勿論、可能な限り、相手方へもこの手続への協力を求めるべきであるが、家庭内暴力があっての離婚や相手が精神的な病気のために、そもそもそれに応じることが出来ない場合など、無効宣言の手続きを担当する教会裁判所の裁量に任せて欲しい。
- 法的な手続きの簡素化は苦しんでいる人たちの救いになる。
g)こうしたケースに対応する司牧は行われていますか。どのように行われていますか。全国レベル、教区レベルの司牧計画が存在しますか。別居した夫婦、離婚して再婚した夫婦に対して、神のあわれみがどのように告げ知らされていますか。教会は彼らの信仰生活への支援をどのように実践していますか。
- 体系的な司牧計画はないが、司牧者は個別にできる限りの対応をしている。信者は司牧者の司牧には関係なく自分の決定に従って生きている。
5 同性結合
a) あなたの国に、同性愛者のシビル・ユニオン(同性結合)を認め、それを結婚と同等のものとみなす法律が存在しますか。
- 日本には同性の結婚を認める法律は存在しない。
b) 同性愛者のシビル・ユニオン(同性結合)を推進する国家と、こうした結合を行う人々に対して、地方教会・部分教会はどのような態度をとっていますか。
- 国家は同性結合を推進していないし、教会もやがてそのように変わるという可能性を示す態度をとることはない。
c) こうした結合を生きることを選択した人々に対して、どのような司牧的関心が示されていますか。
- 特別な司牧的関心は示されていない。
d) 養子縁組を行った同性結合の場合、信仰伝達に関してどのような司牧活動が可能でしょうか。
- これまでのところ日本では例がないと思われる。
6 変則的な結婚における子どもの教育
a) 通常の家庭で生み育てられた子どもと、変則的な結婚を行った家庭における子ども・未成年者の比率はおおよそどのくらいですか。
- 厚生労働省の2013年統計によれば2.2%という報告例がある。
b) 変則的な結婚を行った両親は、どのように教会にかかわっていますか。彼らの要望はどのようなものですか。秘跡を求めるだけですか。信仰教育や一般的な宗教教育も求めることがありますか。
- 両親が教会に求めてくるとしたら、その際両親がほかの人が受けているものをすべて受けられると期待している。教会の結婚観を教える信仰教育の機会となり得る。
- 変則的な結婚(再婚した離婚者、重婚)で生まれている子どもは、カトリック国からの移住者を親としている場合が多い。教会は変則的な結婚を認めないが、彼らは、自分たちがカトリック信者であるという強い自己意識(identity)を持っている。
c) こうした子供の両親が子供にキリスト教的教育を施すことを望む場合、部分教会はどのように対応しますか。
- 子供の家庭状況を理由にしての差別はない。子供を教会へ連れてくる親はカトリックの信仰教育を子どもに受けさせたいと望んでいる。
d) こうした場合に秘跡をどのように授けますか(秘跡を受ける準備、秘跡の授与、同伴)。
- すべての子供は同じ扱いを受ける。変則的結婚の結果生まれた子どもの場合も、洗礼・初聖体・堅信の準備は家族全員に福音を伝え家族を信仰教育する機会になり得る。
7 結婚した夫婦がいのちに開かれていること
a) 現代のキリスト信者は『フマーネ・ヴィテ』の責任ある産児に関する教えをどの程度知っていますか。異なる家族計画の方法をどの程度自覚をもって道徳的に評価していますか。このことに関して司牧的な提言がありますか。
- おそらく現代の信徒は教会の教えについて無関心か無知だと思う。
- おそらく日本の信者の大部分は『フマーネ・ヴィテ』を聞いたことがない。もし聞いたことがあったとしても、それは彼らの生活にとって重要なことにはならない。彼らには、経済的、社会的文化的配慮のほうがもっと大切なのである。
- 受胎調節についての教会の教えが話題になった場合でも、多くの司祭は、その点を強調しない。カトリックでない人と結婚した信者にとって多くの場合実行不可能である。
- バチカンと現実の差が大きい。学校の性教育ではコンドームを使った避妊を教えることが一般的である。
b) 『フマーネ・ヴィテ』の道徳的な教えは受け入れられていますか。大多数の夫婦がこの教えを受け入れる上で、もっとも困難なのはどのような点ですか。
- 『フマーネ・ヴィテ』の道徳的な教えは知られていないし教えられてもいない。知っていても実行されていない。
c) 夫婦が『フマーネ・ヴィテ』の教えを実践する助けとなる、どのような自然な方法を部分教会で推進していますか。
- ビリングス・メソドのような自然の方法の導入が試みられたがほとんど知られていない。日本の教会では性に関することはあまり話題にしない。
d)ゆるしの秘跡の授与と聖体の秘跡への参加において、このことに関してどのような経験がありますか。
- 中絶は別にして、避妊の問題に対して罪の意識は薄いようである。
e) 教会の教えと公教育の間に、この点に関してどのような違いがありますか。
- 概して言えば一般の教育では、堕胎、コンドームの使用(特にHIV/AIDSを防ぐために)、離婚と再婚、そして全体的に、性と生殖の分離を肯定的に教える。
f) どうすれば、子どもをもつことに関してより開かれた態度をもたせることができるでしょうか。出生数の増加をどのように推進できるでしょうか。
- 多くの女性は家庭外で仕事をしており、そのために子どもの出生率に影響が出ている。子どもの成人までの養育費、特に教育費は高いので人々は多くの子どもを持つ気持ちが挫けてしまっている。多くの人々は一戸建てではなくアパートに住んでおり、家には狭い生活空間しかない、育てるのを助けてくれる親類が近くにいてすぐ助けに来てもらえるというネット・ワークが消えてしまった。経済の長期的見通しが不確実であることも子どもを多く持たない動機となっている。
- 低い出生率の現象には経済的要因だけでなく、社会的要因も働いている。女性は母であること以外の選択を望むようになっている。快適な物質生活を送ろうとすれば大家族は困難となる。
- 生まれる子どもが神の子の尊厳にふさわしく生きることができるように、食料、健康・保健、教育を受ける機会に恵まれる家族計画を立てる責任がある。
- 教会は、以上のような理由で、この環境を改善するために、様々な方法で政府や自治体に働きかける。また、家族計画を含めた結婚準備の教育を充実させ、結婚は本来子供の出産と養育を目指すものであることを当事者に伝える。
8 家庭と個人の関係
a) イエス・キリストは人格に関する神秘と召命を啓示しました。どうすれば家庭はそのための特別な場となれるでしょうか。
- 家庭の中で、たとえ信者が自分ひとりであっても、相手(配偶者相互間と子供たち)が神から造られたかけがえのない存在であると認めること。
- 家族が互いの尊厳を認めて祈る。共に力を合わせ、補い合って生きる。家庭内で起こる様々な危機や困難にあっても、より大きな愛の計画を信じて、キリストの十字架の犠牲に合わせ奉献する。こうして家庭は真に愛の学び舎、家庭教会となる。また、人々、とくに困窮している人々に対しての連帯、与えられた恵みの霊的・物的分かち合いによって、世の人々への愛のあかしの場となる。
- どのような子どもも一緒に暮らし、暖かく見守ってくれる親のいる家庭。だれもが、あるがままの存在を認められ、ひとりぼっちにならない、平和な家庭。遊びや歌が溢れ、学ぶことが楽しい家庭。間違ってもやり直しが許され、自分の夢に向かって歩むことができる家庭。子どもがそのような家庭を経験できるようにすること。
- 「どんなときにも、あなたと一緒にイエス様が居てくださる。だから、あなたは決してひとりぼっちではないのだと。その方こそ、人間の本当の希望なのだ」。子供がそう感じられる家庭をつくること。
b) 現代の家庭のどのような危機的な状況が、個人がキリストと出会う妨げとなりうるでしょうか。
- 情報過多と消費主義・快楽主義・個人主義の蔓延。
- 親は毎日の生活が多忙で、心のゆとりがなく、神と出会うことのできる内的静けさ、個人的な沈黙と祈りの時間さえ見つけ出すことができない。
- 子供たちは情報におぼれ、学校の後も習い事で忙しく、睡眠や遊ぶ時間さえ乏しくなって、なかなか自分と出会う静かな時間がない。ましてや祈ることはないだろう。
- 両親が働いているため子供が家に帰ってもだれもいない家庭が多く、皆で一緒に食卓を囲むことも非常に少ない。そのため、家族が一緒に話すこともなく、それぞれが懸命に生きているが、交わりがなく、孤独で、愛し愛される経験が少なくなることもある。
- たとえば、夫婦が相手の人格に敬意を払わないこと。親が子どもを所有物のように見なし、神からの授かりものとして敬意を払わないこと。
- 家庭外では対人不信に陥るようなストレスや、人を物のようにみなす価値基準に囲まれて生きているが、一人ひとりが信頼を取り戻す場としての家族の交わりは薄くなっている。神の永続的で無私の愛を疑似体験できるような親の愛を経験できなくなっているこどもが多くなっている。
- 内的な要因として、両親の使命感、責任感などの低下と希薄化があり得る。外的な要因として、社会の世俗化、個人主義化、相対主義化などが考えられる。
- ドメスティックバイオレンス、幼児虐待、引きこもり、自死の問題は教会にとって大きな課題となっている。公に語られることがないと同時に、教会内でもそれに触れずにおこうとする風潮がある。とりわけキリスト者が極端に少ない地域では、家族内で信徒は一人だけというケースが多く、いきおいそういった家庭の内部についてはほとんど分かち合われることがない現実もある。
- 若者たちの多くが都市圏に流出している現実から、高齢化が進み、多くの信徒が教会との関わりを絶たれ、孤独の内に人生を終わる可能性も否定できない。またキリスト教系の老人施設も少ない現状では、一般の施設に入居した信徒と、教会との関係は希薄になりがちで、人生の終わりを、教会と関わりのないうちに過ごす可能性も高くなっている。公的病院や施設は言うにおよばず、民間の病院や施設においても、宗教者の訪問を積極的に受け入れるところは少なく、なかには宗教者だというだけで拒否されるケースすらある。病院や施設で過ごす高齢の信徒が増えている現実を見る時、人生の終わりにあっての信仰の必要性を、教会外にも訴えていく必要を感じる。
c) 人々が経験する多くの信仰の危機は、家庭生活にどの程度影響を及ぼしているでしょうか。
- 大きな影響を及ぼしている。昔は、夫婦の性格が合わないとか、価値観が違うなど、今の離婚の理由として挙げられているようなことがあっても、神への信仰を頼りに家庭生活の中での困難を堪え忍んでいたこともあった。今は嫌だったら我慢しなくてもいいという通念の中にあって、信仰があっても、あえて家庭の中で我慢してでもその生活を続ける必要はないと思ってしまう。信仰者の家庭が、世間一般の価値観に覆われている。つまり、信仰者としての人間観や人生観が家庭の中で明確に反映されていない。したがって、信仰者の家庭に育ちながら、子供には、世間の価値観しか伝わらない。落伍者にならないために勉強し経済力をつけるという世間の考えに踊らされているので、召命が生まれる余地すらない。これが、信仰の危機が家庭に生み出している一番大きな危機である。
- 信仰の危機に伴い、神が家庭の中から消えていき、自己中心的で愛のない家庭へと変貌してしまう危険性がある。
- 信仰の危機は、愛の危機でもある。それは、根本的に自分の存在と他者の存在を受容できなくなるということであり、家庭生活の基本的な部分(愛や信頼や安心感など)に大きな影響を及ぼしている。
- 目先のことのみに心も体も奪われ、魂のことについて考えようとしない。
- 信仰の危機は、神との関係が稀薄になり、超越者に対する畏怖の念がなくなることであるから、自己中心的になる。当然、人間関係は難しくなり、家庭生活をも脅かす。たとえば、孤独死、高齢者の介護の拒否、育児放棄、親が子どもをまたその逆の虐待、引きこもりの青年のケースなどがある。このように、現代社会が抱えている問題は、家族が向かい合わないで、ばらばらに生きているということであり、それが家族・地域・信仰共同体の崩壊につながっている。まず、家族が家族に関心をもって関わっていくことが緊急の課題である。
9. その他の問題と提言
上記の質問に示されたテーマに関して、ほかに緊急で考察を要する問題と提言があればお示しください。
- すでに困難を抱えている信徒に対する司牧に留まらず、すべての信徒に向けて結婚、家庭について教会の教えを伝える工夫が必要である。また、結婚を控えた男女信徒に対しては、結婚の現状が教会の教えから遠く隔たっていることを示すだけではなく、信徒同士の出会いのきっかけをつくるなど、教会として積極的に関わる必要もあるのではないか。現状では、小教区で信徒に向けての積極的な関わりが、この分野でできているとは言い難いが、同時に、結婚そのものの持つ意味合いが社会全体の風潮の中で薄れてしまい、教会の中でも同じような理解が広まっていることも司牧を困難にしている。
- 質問と問題の設定が、家族全員がキリスト信者であるキリスト教国を前提にしている。たとえば、マイナス要因として「混宗婚と異宗婚」をあげているが、わたしの教区では大部分が異宗婚である。ここでは家庭と訳しているが、家庭とは何か、家族とは何かが現在問われている。結婚しない人たちの増加、単親家族の増加は、高齢者と高齢化した子どもの家族、など過去には想定していなかった家族の問題を引き起こしている。
- シノドスが開催されるこの2年間を「家庭年」とし、教会を挙げて家庭を振り返り、家庭に関する福音理解を深める。
- 家庭やいのちの大切さを説き続けることは重要だが、それを果たすことができない人々に対して、教会は、裁き・批判ではなく、癒しや支え、励ましを与える姿を示すものでありたい。
- 日本のような教会にとっては、「冠婚葬祭」の場を福音宣教の最適な機会として生かすことにもっと力を入れるべきであると思う。(もちろん、これは日常の教会の典礼や活動を前提にした上でのことであるが)結婚にしろ、葬式にしろ、追悼ミサ・周年ミサにしろ、参加者の多くは非信者である。はじめてカトリック教会に足を踏み入れる人も少なくない。とすれば、これは直接的な福音宣教ではなくても、キリスト教の香りを伝える絶好の機会である。
これに関連することとして、「家族」・「家」というものが陥りがちな閉鎖的危険を考慮に入れながらも、日本社会の家族主義の伝統の強さを前向きに評価する必要がある。親戚の結婚式や法事や葬式には、何も勧めなくても絶対といっていいほど素直に多くの人が参加する。ここには無視し得ない伝統の力というものがある。教会は、それを可能な限り応用すべきである。教会はまだまだ敷居が高いだけではなく、親切さやもてなし、という点で遅れている。「旅人をもてなすことを忘れてはなりません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」(ヘブライ13・2)とあるように、この世界の旅路に疲れている多くの旅人が教会に来る。それが冠婚葬祭の場であると思う。
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日本カトリック司教協議会
会長 ペトロ岡田武夫(東京大司教)
第三回 臨時シノドス
出典 臨時シノドス 事務局への回答
Copyright ©2014年1月15日