精神科医・樺沢紫苑先生の新著「3つの幸福」と同時並行で読んでいた本がありました。
世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)
フランク マルテラ (著), 夏目 大 (翻訳)
世界幸福度ランキング3年連続第一位に選ばれたフィンランド出身の哲学者、フランク・マルテラ氏が、フィンランドにおける幸せの構造について分析を試みた本です。
以前よりフィンランドの先進性には大変興味をひかれているところですが、そのフィンランドでは「幸福を追い求めない」というのですからこれはますます興味津々です。
一見、戦略的かつ具体的実践により「幸せ」になろうとする樺沢先生のアプローチとは真逆に思えますが、これがそれぞれの本を読了すれば矛盾がないことがわかります。
要するに「フィンランドでは、ドーパミン的な幸福を安易に追い求めない」ということなのだと思います。 樺沢先生の「3つの幸福」の中でも、第一に優先すべき「セロトニン的幸福」の「 健康」があり、またその次に優先すべき「オキシトシン的幸福」の「人とのつながり」があり、これらを整えずして、いきなり最終段階の「ドーパミン的幸福」であるお金や成功などを求めたら逆に不幸せになるということが書かれています。
確かに「健康や家族をかえりみずに仕事にうちこんで、お金と成功を手に入れたはいいがそこにあったのは病気でボロボロのからだと孤独だった」というのでは幸せであるはずもありません
「3つの幸福」理論を踏まえて、フィンランド人の考える幸せを読み解いていくと、そういう「ドーパミン的な幸福」ばかりに目を向けるのではなくて、もっと地に足のついた部分を大事にする感覚、とでも言いましょうか。
自分が何をしている時にうれしいのか、何をしている時にわくわくするのか、自分の頭でよく考えて自分の特性をよく理解した上で、人とのつながりを大事に他者へ貢献し続けることに意識を向けているように思えます。
特に象徴的であったのは「人生に意味はあると感じられているかどうか」についての論説です。
(以下、p19より引用)
2007年、アメリカのギャラップ社は132ヵ国の14万人以上の人を対象にした世界世論調査を実施した。
幸福度や生活の満足度などについて国際的な調査をすると、豊かな国——つまり1人あたりのGDPが多い国——の人たちほど、貧しい国の人たちに比べて幸福度も生活の満足度も高いという結果が得られるのが常である。
その結果は同じような調査を何度しても同じだ。ところが、「あなたは自分の人生に重要な目的や意味があると感じていますか」という質問に関しては、これとは逆の傾向が見られた。
世界中の人の91パーセントがこの質問には「ある」と答えたが、イギリス、デンマーク、フランス、日本といった豊かな国では、「ない」と答える人が比較的多かった。
一方、ラオス、セネガル、シエラレオネといった貧しい国では、ほぼすべての人が、人生には目的や意味があると答えたのだ。
そして、人生に目的がないとみなす人の多い豊かな国では、自殺率も高い。
(引用、ここまで)
科学
「人生の意味がないと答えた人が多い国では、国として豊かであっても自殺率が高く幸せであるとは限らない」というわけです。まさに今の日本が見過ごせない問題だと思います。
コロナを通じて私は「世の中の過剰な科学化」に対して警鐘を鳴らしてきました。
考えてみれば「 科学」というのは「人生に意味なんてない」という話を人間に納得させてきたような側面があるように思います。
人生なんて偶然にも有機物がうまい具合に結合してできた複雑化合物の複雑な化学反応が宇宙という空間で繰り返されているだけで、死ねばみんな灰になるだけ、すべては自然の摂理に従って動いているだけという考え方はいかにも「科学的」です。
神なんていないことを暴いたのも「科学」です。「科学」が今ほど発達する前は、神が当たり前のように信じられていて、その神の思し召しに従うことに人々が人生の意味を感じられていた時代がありました。
それに対して、「神」なんてものは実在しない、そんなものは人間が頭の中で生み出した空想に過ぎず、「人生の意味」なんてものは世界中のどこを探しても見つかるはずもないのだと「科学」は残酷に告げてきます。
確かにそうなのかもしれません。しかし「人生の意味」を感じているか否かで幸せの度合いが変わってくるということもまた事実です。「科学」の立場を信奉しすぎることにもどうやら問題がありそうです。
それでは「神」を信じて「人生の意味」を授かればいいというのかと言いますと、そうではありません。「人生の意味」は自分で探すべきだと著者は述べています。
そして自分で見つけた「人生の意味」があれば、その人はそれを幸せに向けての羅針盤として人生を歩んでいくことができるというわけです。
その「人生の意味」を見つけるには、「自分らしく生きること(自己実現)」、そして「他者とつながること(他者貢献)」の二つが大事だと著者は言うのです。
戦略的に幸せになろうとする樺沢先生の考え方と、この本の考え方は本質的につながっているということになりますし、「幸せとは貢献感」であると説いたアドラー心理学にも通じる話です。
数々のすぐれた人達がこぞって同じ結論に到達しているわけですから、これはおそらく本質なのだろうなと感じることができます。
とは言え、それはあくまでも幸せへの基本的な方針であって、実際には意見の合わない人とのやりとりであったり、思い通りにならない事態への対処であったり、あるいは理不尽で悲惨な出来事であったりと、そう簡単に「幸せ」には思えない場面がいくらでもあるのが現実だと思います。だからこそ積極的に心を整える術を身につけていく必要があると思いますし、そのためには基本は是非とも忘れないでおきたいとは思います。
共通していると思う意見は他にもありました。誰もが幸せについて考えるとまっさきに出てくる「お金」の問題についてです。
(p46-47より引用)
経済的に成功すれば幸福になれると思い込む人も多いが、それは間違いだ。
皆がそういう考えを持つのは、企業や広告代理店にとってはありがたいことかもしれない。
自分たちの商品を買えば幸せになれると言って、納得してもらえる可能性が高くなるからだ。
これまでの研究でわかったのは、収入が増えることによって幸福度が即、上がるのは、もともとの収入が極めて低い人たちだけだということである。
家賃も払えず、食べ物も買えず、最低限の生活すら成り立たない、という人たちの幸福度は、そうでない人たちに比べて確かに著しく低い。そういう人たちは、少しの収入を得るだけで幸福度が大きく向上するだろう。
だが、生活にいちおう不安がない人の場合は、収入が増えてもその分だけ幸福度が上がるわけではない。
収入がある水準を上回ると、それ以上の収入増加は幸福度をほとんど、あるいはまったく向上させないことがいくつかの調査で明らかになっている。
また、最近の研究では、ある水準以上になると、収入の増加によって幸福度や生活への満足度がかえって低下することもある、という結果も得られている。
(引用、ここまで)
書籍、文学
この「お金」と幸福度の関係については、樺沢先生も「3つの幸福」の中で年収800万円までは収入の増加と幸福度の上昇が比例関係にあるけれど、年収800万円を超えると収入が増えても幸福度の伸び幅はあまり大きくならないという研究結果を提示しておられます。
これについては私も実感を持って感じることができています。
私がオンライン診療医になる前の年収はだいたい1000万円くらいであったわけですが、今は働き方を変えて、労働時間が減ったことによって年収は800万円くらいに落ちています。
その代わり、自由な時間が増えて、それをクリエイティブな活動や家族との余暇の時間に当てることによって、前回の記事で述べたようにわたしの幸福度は明らかに高まっています。
より率直に言えば、「年収800万円くらいあれば、ぜいたくさえしなければたいていのやりたいことは実際に行動に移すことができる」という感覚を持つことができるということだと思います。
行きたいところにはいけるし、やりたいことはできるし、知りたいことは学べるし、会いたい人には会いにいけます。だからそれ以上に収入を上げる行為はそこまで優先順位の高くないことだと私には思えます。
それよりも自分の能力を使って社会にどのような貢献を行うことができるか、それと同時にどのような環境になれば自分の人生は満たされるかということに時間と労力を費やすことの方がはるかに幸せにとって重要なことなのではないかと思います。
「ドーパミン的な幸福」はゲームにおけるボーナス的な宝箱のようなもので、もちろんあるに超したことはないけれど、決して無理に取りに行ってはいけないものなのではないでしょうか。
それを獲得しようとするが余り「セロトニン的幸福」と「オキシトシン的幸福」をないがしろにしてしまうと、「ドーパミン的幸福」をとったはいいけどそのままゲームオーバーになってしまうという警告は肝に銘じておくべきでしょう。
もうひとつ、「ドーパミン的幸福」のとりこになってしまわないようにするために知っておいた方がよい世の中の構造について書かれていました。
(p40-41, p49より引用)
(前略)
現代の私たちの社会で、幸福を目的にせずに生きるのは容易ではない。
「人間は幸福になるべきだ」というメッセージが社会にあふれているからだ。
たとえば、テレビをつけてみると——特にコマーシャルを見ると——ともかくあらゆる企業が、微笑みをたたえた 健康そうで美しい人を使い、「この商品を買えば幸福になれますよ」と訴えてくる。しかし、どの人もニセ予言者のようなものだ。その言葉に決して騙されてはいけない。
幸福とは単なる感情であり、それ以上のものではない。
なにか真に価値のあるものを手に入れたときには、その副産物として幸福感も得られることはあるが、その場合、重要なのは幸福感ではない。
つまり人生を真に価値あるもの、意味あるものにしたいのならば、単に幸福を追求して生きるのは良い方法とは言えないということだ。
(中略)
今や、20億ドルもの規模になった広告産業はただ1つの目的のために動いている。
それは、人々に「今の生活は間違っている」と感じさせることだ。今のままでは十分に幸せではないと感じさせるのだ。
大量消費主義は、人々が今の自分の生活に満足し、「もうなにもいらない。もう欲しいものは全部持っているから」と言い始めたときに終わってしまう。
それはキリスト教から仏教まで多くの宗教が理想としている状態である。どの宗教も人々をその状態へ導こうとしている。
しかし、宗教が以前のような力を失った現代では、人々がその状態に達するのを阻止するためのメッセージを発するのに何十億ドルものお金が使われている。
(引用ここまで)
科学
つまり、資本主義を基本とした社会構造が私達がまだ幸せではないという洗脳的なメッセージを送り続けているという構造にあるということです。
これは誰が悪いとかいう話ではなく、もうこの仕組みの中ではそう振る舞わずにはいられないという構造に合わせた必然的な結果としてそうなっています。まずはそのことを強く認識すべきです。
その上で、宗教が「あなたはもうすでに幸せである」という真逆のメッセージを送り続けているという指摘が面白いではありませんか。樺沢先生の言葉を借りれば「beの幸福(ここにある幸福)」を教えてくれているのが宗教です。
科学が世の中の姿を明らかにし続けてきた結果、人生には意味などないとみなしただけではなく、宗教からのそうした価値あるメッセージから目を背けさせてしまったこともまた「過剰な科学化」の弊害のひとつと言えるでしょう。
科学を本来あるべき姿に戻すことは、宗教の価値を取り戻すことでもあり、そうすることで「幸せ」というものをこの手にとどめやすくすることにもつながると思います。
具体的には人間の心の動きとそれにより起こる反応や出来事には、まだまだ科学で到底解明できていない領域がたくさんあることを素直に認め、年収や高価な持ち物、社会的地位や名声が幸せの絶対条件にはなりえないという考え方に心底納得することが「科学の適切化」につながるのではないかと私は思います。
本書の最後に、「幸せをプロジェクト化してはいけない」ということも書かれていましたね。私もそうだと思います。
幸せとは一大プロジェクトを成功させて手に入れるようなものではありません。それは「ドーパミン的な幸福」であり単なる「多幸感」です。あくまで一時的なものです。
そうではなくて幸せはもっと手直にある「安定感」と「安心感」、「セロトニン的な幸福」と「オキシトシン的な幸福」を合わせたようなものです。
日々の人生の中でいつも意識することができて、自らの意志や努力によって整えていくことができるものだと思います。
「幸せ」な人生を歩もうと思うのならば、宗教のメッセージは決して無下にしてはならないと思います。
Shuugo・Tagashira(タガシラ シュウゴ)
田頭 秀悟
オンライン診療医
主体的医療ダイアロジカルスクール(Proactive Med Dialogical School)
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