日本 プロライフ ムーブメント

滑りやすい坂

「どの生まれる前の胎児も、遺伝的特質を調べるあるテストを通るまでは人間とは認められず、通らなければ生きる権利は失われる。」(パシフィック ニュースサービスより、1978年1月)

中絶は、アメリカや世界中において、道徳的、精神的、感情的、そして法的にも危機に陥っている。ロー対ウェイドのアメリカ最高裁による悪名高い判決により請求次第の中絶が承認される以前から、中絶は少なくとも盛んに議論されていた。

残念な事に最高裁は、1973年1月22日にあの決定的な裁定を言い渡す事で、無実の人の大量虐殺を許可してしまった。それによる恐ろしい結末を誰が予知出来ただろうか?

請求次第の中絶という不愉快な結果は、人間のいのちへの敬意の損失である。請求次第の中絶がやがて幼児殺しや安楽死につながる、と中絶反対者達が唱えていた時は、それをあざ笑われ馬鹿にされたものである。しかし人生の最初の段階(子宮の中)が神聖だと考えられないのであれば、社会が、生まれたいのちをいつの時期でも尊重出来ないのはもっともではないだろうか?

ロー対ウェイド裁判の数年後、障害を持つ赤ちゃん、ドーちゃんが、裁判所の許可をもって餓死させられた。それ以降、数え切れない程の別の「合法化」された幼児殺しが実行されてきている。

ここへきて、世界の「一番頭が良い」人達に、人生について何が言えるというのだろうか。一つの例はノーベル賞受賞者のフランシス・クリック博士である。彼はこう言った。

ノーベル賞受賞者のジェームス・D・ワトスンはクリック博士の言う事を繰り返している。

「もし子どもが生後3日まで生きる事が出来ないと宣言された場合、これまでのシステムでは、ほんの限られた親達にしかなかった選択権をこれからはすべての親達に与えられる事になる。もし親がそう望むのなら、医師は子どもを死なせる事が出来て、それによって多くのみじめさと苦しみをなくす事が出来るだろう。私はこれが唯一の合理的で同情深い態度だと思う。」(ラストデイズ官庁回報より、5巻、7巻、1984年、27ページ)

妊娠10ヶ月間中に対する請求次第の中絶:そしてもう一つは、老人や虚弱な人への意図的な餓死や脱水死が、又しても裁判所の許可をもってなされている。

そして忘れてはならないのがケボーキアン博士の「自殺マシン」である。殺人と言われるべきものが、死ぬ権利を唱える運動の大躍進として歓呼されている。更に今、「自殺ほう助」や「安楽死」を許可する立法も考えられている。

中絶に関わる問題となると、熱意を持ち過ぎると中絶反対者達はよく非難される。しかし大切なのは、私達全員が熱意を持つという事なのである。

私達は論戦を避ける為にも妥協点を探してみた。中絶問題を「沢山ある問題のただひとつ」として捨て置く事も出来る。更に、それは「女性の選ぶ権利」であるとまで言って、中立を試みる事も出来る。しかし、これ等の妥協点は、もし裁判所が女性の二歳児の殺人の権利を認めた場合でも、まだ受け入れられるものであるだろうか?

中絶賛成活動家達のもうひとつの主張は、中絶が合法化されるまでの「裏道での隠れた中絶」では、毎年5,000人から10,000人の女性達のいのちが奪われていた、という事である。しかし統計によると、ロー対ウェイド裁判より10年前での中絶が原因の死亡数は1963年に272人、そして1971年には99人と、 数は着々と減っていた。

レイプや近親相姦、母親のいのちの危険や「先天的障害を持つ胎児」等の「難しいケース」の問題で、多くの人達は中絶反対の立場を断念する。確かにこれ等の「難しいケース」のそれぞれは悲劇的である。

しかしこの「難しいケース」の議論を違った視点から見てみよう。「難しいケース」といわれるものによる中絶は全部合わせても、実行される全中絶の2%にも満たないのである。つまり残りの98%は「便利さ」を求めての中絶なのである。

「難しいケース」に対してでさえも、中絶は良い解決法ではない。この様な厳しい状況にある時こそ、私達はイエスの愛を持って手を差し伸べなければならないのであり、中絶による心の傷は避けるべきなのである。

残念な事に社会が出している答えは、無実な人のいのちを奪い、中絶により女性を犠牲にする事である。

レイプや近親相姦の場合、父親の犯した罪のために胎児は殺されなければならないのか?

女性がレイプの犠牲になった場合、一番避けなければならないのは、彼女を更に中絶の犠牲者にしてしまう事である。しかしそれが理解されていないのは明白である。

そして「先天的障害を持つ胎児」は?どんな人間に対しても、「異常」なんてどうして言えるだろうか?私達は廃棄されたり、払い戻しの為に返品される商品ではないのだから。

貧困に悩むある女性が、自分は妊娠2ヶ月だと医師に言った。夫はアルコール中毒で梅毒である。彼女の子どもの一人は知恵遅れで、お腹の子も耳が不自由になる可能性が強いと言う。

この筋書を見れば、ほとんどの人は中絶するのをどうこう言わないだろう。しかし、もしこの子どもが中絶されていたら、私達は音楽の天才ベートーベンを知る事はなかった。一体何人のベートーベンやマザーテレサが毎日中絶されているだろうか?それは20秒に一人の赤ちゃんの割合である。これ等の赤ちゃんが将来偉人になるかなんて事は問題ではない。神の目から見れば皆、値の付けようなく貴重だからである。

「人間に口を授けたのはだれか。また、ものが言えない人、耳が聞こえない人、目の見える人や見えない人にするのはだれか。主である私ではないか。」(脱出の書 4:11)

超音波や胎児鏡を含む医療技術の大きな発展は、私達に子宮の中を見る窓を提供してくれた。最近では、いついのちが始まるかの議論を聞く事はもうほとんどない。以前は信仰で知っていたけれど、今は皆分かっている。いのちは母親の卵子が父親の精子と結合する受精の時に始まる。

受精後たった17日で胎児は母親から独立した血液供給を始める。実際赤ちゃんは母親とは違った血液型を持つ事もある。(これとこれに続く胎児発育についての情報は、日本プロ・ライフ・ムーブメント発行の「赤ちゃん:最初の十ヶ月の旅」や他の多くの本や調査書にある。)

赤ちゃんの心臓は受精後18日から25日で脈打ち始める。脳の働きもすでに40日目から確認されている。これ等はすべて、ほとんどの母親が自分の妊娠に気付いてもいないうちに起こっている事なのだ。

3ヶ月目ではすべての器官は動いている。血液循環、排泄機能、そして神経系、等。又すでに授精後8週から10週目で(ほとんどの中絶はこの時期に行われる)、胎児は中絶される痛みを感じられると報告されている。

受精の瞬間に、子どもは一人の人間になるのである。更に必要なのは時間と栄養充分な環境だけである。

いついのちが始まるかの議論が問題とされなくなってきたので、中絶支持者達は議論の矛先を「いのちの質」へ、そして誰の権利が優先するのかへと変えた。女性か、胎児か?

女性の生命のほうが胎児のそれよりいのちの質が上だとする、その巧みな話術に反して、中絶してもいいという憲法上の権利はないのである。この権利の概念は、黒いマントを着た者達が、自分達の言いたい事を憲法に当てはめているだけなのだ。どうやってか彼等は、魔術でも使って「プライバシーの権利」を作り出し、その新しく作った「権利」を広げ、「中絶する権利」まで包含してしまった。

この議論の持つ大きな間違いは、基本的な権利とは政府から与えられるものではないという事実である。権利とは神から与えられるものであり、奪う事は出来ない。

1857年アメリカ最高裁は、黒人は米国憲法の言う合法的「人間」ではないと規定した。

1936年ドイツ最高裁は、ドイツに住むユダヤ人を法的に「人間」と認めるのを拒否した。その直後からヒットラーのドイツは、あの恐ろしい、要らないと判断された人々の虐殺を始めた。

1973年アメリカ最高裁は、生まれる前の胎児は合法的「人間」ではないとし、それによって要求次第の中絶への道を開いた。その判決以来、21,000,000人以上の赤ちゃんが残酷にも殺されている。

ドイツでのホロコースは、殺人を合法化してしまった法の崩壊なくしてはありえなかった。アメリカでのホロコーストも同じ結果を生んだ法の崩壊をなくしてありえなかったのである。

ナチスの死の収容所が解放された後、近くに住むドイツ人達はその中を歩かされた。それは彼等がナチスのホロコーストを黙認していたという事実が、彼等の道徳的な罪に当たる事を胆に命じるためである。

Andes, Michael
アンデス・マイケル
Copyright ©2004
2004.11.27.許可を得て複製