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聖霊と回勅『フマネ・ヴィテ』

大聖年である2000年に備えて聖霊に捧げられた1998年は、教会が回勅『フマネ・ヴィテ』発布30周年を祝った年でもありました。しかし、これら二つの出来事はカレンダー上のつながりよりもはるかに深く結ばれています。聖霊について私達が信じることは回勅『フマネ・ヴィテ』が伝える真理をより深く理解し、受容させます。 

「私達は主であり、いのちの与え主である聖霊を信じます。」

聖霊について使徒信条が宣言する第一の真理は、聖霊が主であるということです。聖霊は御父と御子にあらゆる意味で対等です。聖霊の知識、力、権威は異なっていたり、劣っていたりするものではありません。それ故に、聖霊がイエズス・キリストと御父の教えに関して私達に免除を与えることはありません。聖霊の降臨を約束をなさった主は次のように教えられました。「だが、その方つまり真理の霊の来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理に導かれるだろう。それは、自ら語るのではなく、聞いたことを語って、未来のことを示されるであろう。また霊は私に光栄を与えられる。なぜなら、霊は私のものを受け、それをあなたたちに知らせるからである。」(ヨハネによる福音書 16:13~14)。ですから、私達は皆、それどれの中に聖霊がいて、その導きのままに歩めば、キリストとぶつからないのです。人間のいのちとその伝達の聖性についての教えもそのような教えの中に含まれます。別の意味でも回勅『フマネ・ヴィテ』に関して聖霊は主であられます。回勅『フマネ・ヴィテ』は性、出産、「ピル」でなく、むしろ私達が神になれるという神話こそが現代の根本問題であると主張しています。教皇パウロ六世はこの文書の始めの方で次のように言っておられます。「さらに、これは特別に注意を要することでありますが、人間は自然の力の制御と合理的組織化の面で、驚くべき進歩をとげ、その制御力を自分の全存在、すなわち、その肉体、精神生活、社会生活、また生命伝達をつかさどる法則にまでも及ぽそうとしています。」(2)。 

教皇はここで問題をもっと広い観点から見ておられます。私達はすべてが自分たちに属していると考えますが、現実はどうかと言えば、私達は神に属しているのです。回勅『フマネ・ヴィテ』は「人間の生命(の)」を意味しますが、人間のいのちは神から来ます。神に属し、神に帰っていきます。聖パウロは「あなたたちはもはや自分自身のものではないのです。あなたたちは代価を払って買い取られたのです」と宣言しています。性と産児は私達の生活と活動を構成する現実の全集合体の一側面です。「これは私のいのち。これは私の体。これは私の選択」と主張する私達は、これらの活動すべてが自分自身に属しているという幻想に惑わされています。 

聖書はこんなことよりもっとすばらしいことを伝えてくれます。つまり、それが私に神が下さった神のいのち、愛、自由であるというのです。つまり、自分が神に属するものとしていのちを受け、自由に選択するとき、私は世界中の自由と権力を手にしたとしても達成することができないほどのいのち、愛、自由を手に入れるのです。このいのち、愛、自由は神の望まれることを行い、神のようになることの中に見いだされます。 

これはまさに私達の生活の中で聖霊が成し遂げられることなのです。ミサ中に聖変化が行われますが、その後で司祭は、パンと葡萄酒の要素を変化させたばかりの同じ聖霊によって人々が変化させられるように、と祈ります。「キリストの御体と御血によって養われる私達がその聖霊に満たされ、キリストにおいて一つの体、一つの霊になることができますように」(第三奉献文)。聖霊への信心は聖霊に私達を変えていただくこと、私達の自由と選択を神との一致に高めることに尽きます。これが、なぜ夫婦の選択が新しい人間のいのちの由来において究極的要因ではないか、の根本理由です。私達は人間のいのちに関して全権を持っているのではありません。この全権は主である神にのみ属します。 

「いのちの与え主」

聖霊はいのちの与え主であるとも宣言されます。聖霊は創造の始めに水の面を動いていました(創世の書 1:1~3)。聖霊は再び使徒たちの上に降り、息を吹きかけて、秩序といのちをもたらすために罪を赦し、神に対する反逆が引き起こした混乱と破壊に再び秩序をもたらす権威を彼らにお与えになりました(ヨハネによる福音書 20:22~23)。 

聖霊はまさに愛であるがためにいのちの与え主であられます。回勅『フマネ・ヴィテ』が宣言する根本的洞察の一つは、愛といのちが必然的につながっているということです。その理由は簡単です。神において愛といのちは同じ、一つの現実だからです。「神は愛です」(ヨハネの第一の手紙 4:8)。「私はいのちです」(ヨハネによる福音書 11:25、14:6)。聖霊は御父と御子が愛し合う愛です。自分を与え尽くすと新しいいのちを生み出します。男と女は「神にかたどり、神に似せて」創造されました。このかたどりと似姿の一つの側面は、夫婦の結びがいのちを生み出す愛であるということにあります。 

いのちに開かれているということは、私達が性に付け加える何かではありません。実に私達はなぜ神が、二人の人間の間にあり得るもっとも親密な愛を表現する行為を、新しい人間のいのちをも生み出すその同じ行為として定められたか、を考えてみるといいでしょう。神がそう望まれたのであれば、この二つの目的のために神は別々の行為を定めることがおできにならなかったでしょうか? 神にとって偶然はあり得ません。神は愛といのちがその性質自体においてつながっているので、両者を一つの行為の中に融合なさいました。現代の問題は社会が性に飲み込まれているということではありません。むしろ、社会は性を恐れています。それが示す現実と力のすべて、その起源、その最終目的を恐れています。性を正しく理解する人はその起源である神を認めざるを得ません。それだけではありません。「光あれ」(創世の書 1:3)と神が言われたとき始まったいのちと愛のこの大きく、強力な動きに私達を巻き込み、霊と花嫁が「おいでください」(ヨハネの黙示録 22:17)と言うときに達成される目的から、私達は性を引き離すことができません。 

「真理の霊」

聖霊は真理の霊です(ヨハネによる福音書 14:17、16:13参照)。聖霊は私達に信仰上の真理を理解させるだけではなく、創造された現実の意味と目的を理解させてくださいます。聖霊は性の行為が何を意味するかも分からせてくださいます。性には深い象徴的意味が込められています。それは視覚と感覚を越える事柄を語る言語です。性に関する教会の教えを多くの人は「それは結婚した人だけのもので、いつでもいのちに対して開かれていなければならない」と思っています。確かにそのとおりではあります。しかし私達は、性行為にはそのメッセージを矮小化したり、その全現実を否定したりする事が間違いであるほどに深い意味があることをもっと深く理解するときに、なぜそうであるか分かるでしょう。それは必ず、(結婚によって固められた)与え尽くす愛といのちを受け入れる姿勢の文脈の中になければなりません。なぜかと言えば、このような環境だけがそのメッセージを伝え、性のたまものが私達に指し示し、私達をそれに義務づけるより偉大な現実を受け入れることができるからです。教会はある環境の元での性が悪であると教えているだけではありません。性の全現実から逃げてはいけないと教えています。自分たちの都合に合わせて、私達がその現実を変えてしまうようにコントロールできると考えること自体が間違っています。 

私達は私達自身のものではありません。私達は自分自身を所有していないので、自分自身の体も所有してはいません。性を所有しているわけでもありません。そうではなく、私達は愛の中に自分を与えます。そして性はそのより大きな現実の象徴的表現です。そして、それは本当に現実です。自分を与える愛は、特に、泣き、食事を要求し、教育されなければならない子どもの形を取るときに、何と現実的になることでしょう。子どもたちは私達に思いも寄らぬ成長を遂げさせ、しっかりとコントロールしていたはずの、私達の日々と生活を乱してくれます。それでも、彼らは彼らなしには完全に閉ざされていたはずの生活の側面を私達にのぞかさせくれます。愛の実は私達に愛を返してくれるのです。 

これは私達全部を合わせたより大きな現実です。それは聖三位一体の中で始まる自己贈与であり、それは十字架という思いもかけぬ方法で私達に知らされました。そして、それは毎日、隣人、神、自分たち自身の永遠の運命との出会いにおける私達への挑戦です。それは恐ろしくなるぐらいに現実的で巨大なのです。だから、これほどにも多くの人たちは、性が意味するすべての現実と意味に恐怖心を持つのです。それはまた教皇パウロ六世が回勅『フマネ・ヴィテ』を書かかれた理由です。 

「慰め主」

和解の秘蹟で司祭が唱える赦しの言葉は「全能の神、あわれみ深い父は、御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪の赦しのために聖霊を注がれました」です。主イエズスは「御父はあなたたちにもう一人の慰め主をお与えになるだろう」と約束なさいました(ヨハネによる福音 14:16)。慰め主は、私達が罪を悔やみ、罪に打ち勝ち、自分たちの戦いの中にも赦しを見いださせるように、御父の前で私達のために願い、取りなし、和解させ、希望を与えてくださる方です。 

教皇パウロ六世は回勅『フマネ・ヴィテ』の中でこの慰めに満ちた希望を書いておられます。「したがって、夫婦は、信仰と希望によって力づけられ、自分に与えられた労苦を快く受けとめてゆかねぱなりません。つぎに、熱心な祈りによって神の助けを乞い求め、またとくに聖体のつきない泉から恩寵と愛を汲みとらなけれぱなりません。それでも、罪にとらえられる場合には、落胆することなく、告解の秘跡において豊かに与えられる神のあわれみ、謙虚にまた忍耐強くよりすがらなけれぱなりません。」(25)。 

実に、この大事な記念の年を祝うにあたり、そして私達が聖霊に近づくに従って、また新しい千年期を迎えるに当たって、勇気を失うことのないようにしましょう。教会には常に回勅『フマネ・ヴィテ』に書かれてある真理を知り、生きる恩寵が与えられてきましたし、この恩寵はそれを受け入れる人々を決して失望させることはないでしょう。 

Pavone, Frank (パヴォーン ・フランク) 
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