日本 プロライフ ムーブメント

聖ヨゼフ:父であることと信心深さの模範

神は、その英知において、「父として」ご自分を私たちに啓示することを選んだ。神の啓示のうちにそう示されたのである。神学者たちは神の本質と属性についてこの神秘が明らかにすることを探求しながら、神の父性について広い範囲で考え巡らせてきた。

 しかしながら、一番はじめの問いに戻ることで学ぶことも多くあるものだ。または、父である、聖三位の第一位格についての聖書の啓示が、この世の父たちの性質や威厳について、語っていることについて尋ねながら学ぶことも大いにある。

確かに、神がご自分を父と呼ぶことを選んだことは、この世の父たちの威厳を大いにほめそやすことにもなったし、大きな挑戦にもなった。神が私たちの父ならば、この世の父たちは、自分たちのモデルにもなっている神ご自身の父性を模倣し、神の姿を映し出すように、自分たちの召命を生き抜けばよいだけのこととなる。

 このような任務は実行不可能なように見えるだろうし、実際不可能だ。父親というものは自分の子どもたちを愛するように招かれている。しかし、神が自分の子どもたちに抱いているような無限の愛で愛することのできる父親はどこにもいないのだ。

父親というものは、強くあるように、自分の子どもたちを己を捨てて支え、育て上げるように招かれている。しかし、ゆるぎなく、堅固で、強く、聖書に書かれているような「岩」のようになれる父親はいない。(詩編18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。

3 主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。)

幸運なことに、教会は、教会自体が持っている知恵のうちに、神の父性の理想的で具体的な姿を一人の人間のうちに示してくれた。受肉した神であるキリストその人が「父」と呼んだ、つまり聖ヨゼフという人間のうちにそれを示してくれたのだ。

聖ヨゼフは神によって、私たちの主イエス・キリストの守り手として保護者として任命された。聖ヨゼフはわたしたちにとって父性のモデルであり、信仰者のモデルでもある。「ナザレのヨゼフは、人間父性の威厳についての特別な啓示です」とヨハネ・パウロ二世は1981年の聖ヨゼフの日の説教で語られた。「家族というものは父性の威厳をよりどころにするものです。人としての、夫としての、父としての責任の上に、また、父の働きをよりどころにします。ナザレのヨゼフはわたしたちにこのことをしっかりと証ししてくださる方なのです。」と。

今週、私たちは聖ヨゼフの日を祝う。そしてまた、目下、聖ヨゼフの特別聖年をも祝いながら過ごしている。そういうわけだから、聖ヨゼフの父性の神秘について、人生や家族の文化を作り上げていく私たちの戦いにおいて、聖ヨゼフがくださるものがどんなに私たちの助けとなりうるか、ということを黙想するにしてもとても良い機会をいただいている。

乱れた時代にこそ、父親たちにとって必要なこと

現代文化における精神的な混乱の最も大きな源が父なる神を信じて信頼することをやめてしまったことであるように、それと同じように社会的混乱の最も大きな源が、人間父性の危機だと論じる人たちがいる。

悲しいことに、今日多くの父親たちが、自分の肩に負っている責任の重みをまともに取り合わなくなっている。あまりにも多くのケースで、父親たちは自分のやりたいことや楽しみを追求するために妻たちや子どもたちに背を向けている。父親たちは自分の子どもたちを文字通りにうち棄ててしまうまでではないとしても、子どもたちを父親不在の状態におく。子どもたちの精神的だったり、人格的だったりする成長に必要な愛、導き、サポートを与えそこなっているということで精神的に不在なのだ。

おなじことが教会の中で起こっている危機についてもあてはまる。この世的な事柄からの教会への、人生や家族に関わる根本的な教説を変更するようにせまる圧力がある。これらの教説は、死の業者と、生まれる前の赤ちゃんたちと傷つきやすい人々との間で防壁になって死の業者から彼らを守っている。教会の教えは、多くの家族を引き裂いて心痛の種をまく性的革命による堕落に対して家族を守る最も素晴らしい手段にもなる。

こんな時代には、勇気をもって霊的な子どもたちを守ろうと望む強い神父たち――司祭たちや司教たち—が必要なのだ。それどころか、多くの司祭たち司教たちは自分たちの霊的父性を裏切ってきている。自分たちの「教師」としての役割を放り出して、この世と妥協し、さらには(認めるのも恐ろしいことではあるが)彼らのケアに委ねられた子どもたちを悪魔のように虐待さえすることによって。

今や、かつてないくらい、進んでこの問題に取り組み、聖ヨゼフの父性を模倣しようとする男性たちが必要になっている。父親たちは、聖ヨゼフが静かに、己を振りかざすことなく縁の下で支える強さでもってマリアとイエスに仕えたように、そのおなじ強さでもって、どのように妻や子どもたちに仕えることができるかを、カトリック教会が普遍的な保護者としているこの偉大な聖人を見て学ばなければならない。司祭たちも司教たちも、同じように、奉仕、謙遜、従順そして聖性の模範とみなして聖ヨゼフに倣わなければならない。

聖ヨゼフの隠れる姿

現代文化の混沌とした状況は、フランシスコ教皇が今年を聖ヨゼフの年として定めた理由の一つになっている。聖ヨセフを普遍教会の保護者とする宣言150周年を記念して出された使徒的書簡の中で教皇フランシスコはパンデミックの時代が、来る日も来る日もだまって私たちのために働いてくれている隠れた、そしてしばしばきちんと感謝されていない労働者たちの価値をあらわにしていることを指摘している。

 「だれもが聖ヨセフ―目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人―に、困難なときの執り成し手、支え手、導き手を見いだすはずです。」と教皇は書かれている。「聖ヨセフは、一見すると地味な、あるいは「二番手」にいる人だれもに、救いの歴史の中で、比類なき主役になる資質があることを思い出させてくれます。その人たち皆に、感謝と報恩のことばを送ります。」と。

聖ヨゼフのこの隠れて目立たない姿こそ、逆説的な言い方にはなるが、聖ヨゼフのもっとも目立った特性なのだ。

聖ヨゼフは生涯をかけて、物静かで、目立たず、控えめな奉仕に従事する。このことは、世界中いたるところにいる父親たちに大きな希望を与えてくれるものとなる。彼らは、毎日仕事に行って、子どもたちと遊んだり、勉強を教えたりして、家庭の中でただ物静かに、どっかりと腰を据えて、家族を守る存在であるだけの、目立たないように見えるやり方で静かに家族に仕えながら、こんなしかたで「よその父親と違う姿を示すこと」なんかできるのかと思いあぐねているわけだが、そういう父親たちに聖ヨゼフは大きな希望を与えてくれるのだ。彼らが悶々と自問する問いの答えはイエス!なのだ。自分の仕事を神のみ旨に謙虚に従う精神で行う限り、「よその父親と違う姿を示すこと」はできるのだ!なん千回でも「イエス!(それはできる!)」といおう!

 現代の私たちの文化は、お金のある人々、富裕層、権力をもつ人々をもてはやす。しかしながら、これは神のやり方ではない。政治家も、ビジネスマンも、芸能人も、それ以外の人たちも、私たちが必要としているということは確かかもしれない。しかし、聖書が語るメッセージは、特に福音書が説くメッセージは、救いはこの世の王たちのうちには見つけられない、ということなのである。キリストはヨハネ福音書の中で井戸の傍らの女性に「救いはユダヤ人から来るからだ。(ヨハネ4:22)」と語る。ユダヤ人とは誰のことだったのか?ユダヤ人とは、古代世界において、小さな目立たない、控えめな、とるにたりない民族だったのだ。

いつの時代においてももっとも偉大な聖人であるマリア、神の母は、受肉した神を産むという比類なく偉大な仕事を成し遂げるために選ばれるわけだが、彼女はつつましい庶民の女性だった。そのマリアの次に聖なる聖人、マリアの夫であり、キリストの養父である方は、聖書の中で一貫して一言も発言が記録されることのなかった謙遜な大工であった。大したこともしていないし、偉大な言葉ものこさなかった。しかしながら、フラシスコ教皇は「神の母聖マリアに次いで、その夫ヨセフほど、教皇の教導職において重要な意味をもつ聖人はいません。」と指摘している。

 

聖ヨゼフと、いのちと家族の文化

いのちと家族の文化を創り出すために働いている人たちにとって、聖ヨゼフはいつも特別な重要性を示してきた。生まれることのできなかった子どもたち、病人たち、瀕死の人たちと家族とを守る闘い、これらの戦いのくりひろげられる三つの大きな、どの分野においても、聖ヨゼフの模範と仲介はすがるような思いをこめられて、必要とされている。

聖ヨゼフは、胎内の新しいいのちに愛と信頼を込めて責任を果たす果たし方のエンブレム(しるし)なのである。聖ヨゼフが、マリアが妊娠していることを知ったとき、彼は理解できなかった。しかし、天使が夢の中で彼に現れて、マリアを妻として迎えるように促した時、即座に、マリアの胎内の子どもを自分の子として受け入れることに従った。

聖ヨハネ・パウロ二世は聖ヨゼフの日の説教でこう語った。「父性はいのちにたいする責任です。というのも、いのちはまずは女性の胎内に宿り、それからあなたの血の血であり、あなたの肉体の肉である新しい人間が啓示される目的のために生まれるからです。『その女性を、あなたの妻を、捨てるな』とおっしゃる神は、『彼女に宿されたいのちを受けいれよ』とも言っているのです。ナザレのヨゼフに、彼がおとめマリアのうちに聖霊によって宿された方の血のつながった父ではないにもかかわらず、神が語りかけたのと同じように。」

 教皇フランシスコは『父の心で』のなかで、「人生には、意味を理解できない出来事が数多く起こります。わたしたちの最初の反応は、大抵は失望や反発です。ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分の推論を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしてもそれを受け入れ、その責任を引き受け、自分の過去に対するわだかまりを解くのです。」と書いている。

もしすべての父親が聖ヨゼフがそうしたように、同じ勇気と受容の精神でもって新しいいのちに対して責任を果たすなら、中絶は一夜にしてなくなるだろう。

聖ヨゼフは幸せな死の保護聖人でもある。聖書は聖ヨゼフの死について何も語っていない。しかし、キリストの受難の時に聖ヨゼフが居合わせていないことによって、キリストが十字架に向かい合うより前に、ヨゼフは亡くなっていることがわかる。そうであるならば、キリストとおとめマリアは、聖ヨゼフの臨終の床の傍らに、死を迎える彼のために祈りつつ、そこにいたはずである。まったくのところ、これよりも幸せな死があり得ようか!

 私たちの時代には、最期の時を迎える段階において、人間のいのちの尊厳を脅かす暴挙がある。誤った同情にそそのかされて、人間の自由の悪魔的な誤解によって、安楽死や自殺ほう助の支持者たちが、患者には自殺する権利がある、医者には患者を殺す権利があると扇動している。聖ヨゼフはこれとは別のやり方を教えてくれている。死が永遠の真理の光に照らされて、キリストとその御母が、死に直面している人たちの臨終の床の傍らで歓迎されるのならば、苦しみにも、死にも、尊厳と美しさがあることを聖ヨゼフは私たちに教えてくれているのだ。

最後にもう一つ語ろう。聖ヨゼフは聖家族の頭である。ナザレの家庭の中の礎の岩として、聖ヨゼフは家族を見守り、保護した。聖ヨゼフの権威ある父性は、すべての家族の偉大なる尊厳を明らかに啓示するものである。

「受肉の神秘に直接結びつけられて、ナザレの家族には特別な神秘があります。そしてこの聖家族の神秘のうちには受肉のうちの神秘とおなじように、まことの父性を見いだすのです。神の子の家族の人間的な形、神の神秘によって形成されたまことの人間家族、この家族のうちにあって、ヨゼフは父なるものであります。聖ヨゼフの父性は、子孫が生まれてくることによって発生してくる父性ではなく、見せかけ上の、単なる代用品としての父性でもありません。それはむしろ、正真正銘の人間的な父親らしさに十全に与る父性であり、家族における父親の果たす使命のことなのです。」とヨハネ・パウロ二世は1989年に発表された使徒的勧告『贖い主の守護者聖ヨセフ』の中で書いている。

 もし父親たちが、私たちの時代のここかしこにある攻撃に自分の家族が耐えるように助けようとするならば、聖ヨゼフの模範が必要だ。正真正銘の愛と奉仕のモデルを示すことで、自分の家族を聖性に導いていくことができる力ある強い導き手になるためには聖ヨゼフの模範が必要なのである。

聖ヨゼフの人生にはたくさんの知恵が詰まっている。私たちのプロライフ運動、伝統的な家族を支持するプロファミリー活動において私たちは、聖ヨゼフの人生について、神の言葉に対する堅固な信仰と信頼について、もっと内省する必要がある。

聖ヨゼフの連祷を日々祈りつつ、この連祷に「人間のいのちと、人間のいのちが妊娠から自然死まで本来的に持つ尊厳の保護者である聖ヨゼフよ、私たちのために祈ってください」と加えて祈りつつ、聖ヨゼフの取り次ぎを求めながら、ヒューマン・ライフ・インターナショナルの家族の活動に参加してください。

Shenan J. Boquet
(ボーケイ・シャーネン・J)
ヒューマン・ライフ・インターナショナル誌
英語原文 lifeissues.net
Copyright © 2021年3月15日
2021年9月20日許可を得て転載
翻訳者 多田 由理