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緩和ケア「楽に死なせて」

緩和ケアとは死が間近に迫った人に提供される介護である。「苦痛緩和」には死に行く人の苦しみを軽減するという意味がある。そのやり方について、現在活発な議論が行われている「死に行く人」という言葉は、正しく解釈するならば、最大48時間以内に死亡すると合理的に予想できる人に当てはまる。ただし、「差し迫った」という単語の意味についても活発な議論が行われている。こうした議論に拍車をかけているのが、『生命の質』、ある種の生活に「生きる価値があるかどうか」、並びに「生きる価値がない」と思われる生命を維持することの「費用対効果」に対するさまざまな判断である。 

患者に「差し迫った」死の危険があると正しく判断された場合、従来の倫理観では必要に応じてチューブや点滴で水分と栄養分を補給し、疼痛、咳、息切れ、不安などによる苦痛を緩和する。最も重要なのは、死に行く人の霊的・心理的安らぎを考慮したケアを提供することである。つまり、治癒からケアへと治療の重点が移行するのである。   

“終末期鎮静”

従来の方法について活発な議論が行われているが、その成果が今日に生かされていないことも多い。「安楽医療」とも呼ばれる緩和ケアは、しばしば「終末期鎮静」(TS)という意味で行われる。これは「総合鎮静」「苦痛緩和鎮静」とも呼ばれている。全米ホスピス緩和ケア協会(NHPCO)はこうした介入を積極的に進めている。その目的は「意識を低下または失くした状態(無意識)にすることで、そうしなければ制御できない苦痛による負担を緩和することである」。この介入は末期疾患による激しい疼痛に苦しむ患者だけでなく、ソーシャルワーカーや施設付き牧師によるカウンセリングで緩和できない憂鬱などの霊的・感情的苦痛に対しても適切と見なされている。これは死に行く患者に限られたものではない。NHPCOの方針では、「患者が死に向かう過程の要所で」使用して良いことになっている(1)。その実施は致死的な疾患かどうかではなく、症状のみを基本とし、患者が緩和を望んでいる場合に行われる。したがって、乱用の可能性がある。 

さらに、NHPCOが認めているように、TSの検討を持ち出すのが患者本人でなくてもかまわない(2)。患者が家族や医療チームの提案を聞き、その生活が他の人にとって負担である、あるいは生きる価値がないという考えに納得することもある。また、NHPCOのガイドラインによると、医療チームは無能力となった患者の終末期鎮静について家族と話し合い、患者に相談することなくそれを実施してもよい。また、心拍停止下臓器ドナーを希望する患者がTSを選択することもある(3)。 

TSとは何か?NHCPOの定義では「緩和ケアで十分に緩和できない終末期の難治性の症状」がある場合に「故意に死亡させるのではなく、故意に深い眠りを導入・維持すること」となっている。TSという言葉は両義に解釈できる。末期患者に対する適切な鎮静、あるいは患者の生命を終わらせる目的で利用される鎮静の意味がある。NHPCOは「回復不能を懸念することなく、死が訪れるまで」TSを行ってよいと説明している。 

TSと脱水状態

従来の倫理的な緩和ケアでは食品や飲料として栄養管や点滴による栄養と水分の補給が行われる。これらは、病気の種類や段階に関わらず、人間に対する通常の治療に不可欠な部分である。その目的は臓器を正常に機能させ、空腹や喉の渇きといった症状を防ぐことである。これらは無力の患者への愛情や連帯感を表す最も重要な方法でもある。人生がいよいよ終わろうとする時、患者は末期状態の最終段階に入ることから医学的な方法を使った栄養補給や点滴の効果はなくなる。 この時点で、患者には介護、氷片と水、衛生処理、親密な交わり、聖体など信仰上の支えが提供され、死に行く患者に付き添い共に祈りを捧げる家族や友人が集まり、患者に快適な環境が用意されるべきである。 

「緩慢な安楽死」

意図的に死を誘発したり死に行く人を見捨てたりするべきでないという考えには誰もが同意するだろう。それにも関わらず、一部の倫理学者や医師が自殺幇助に代わる合法的手段としてTSを提案している。多くの医師にとって、TSの基本は食事や水の供給も含めたすべての治療を中止し、死期をできるだけ早めることでもある。死に行く患者の苦痛は事実上常に管理可能であることをホスピスの職員が知っているにもかかわらず、こうした提案が行われているのである。ホスピスなどの「終末期」プログラムへのTSの導入が増えている。緩和ケアを行う医師の多くは、食料や水の供給停止が死亡原因になったり死期を早めるという概念を否定し、多数の医療施設が緩和ケアを行っている患者への栄養や水分の供給を拒否している。 

安楽死を望む人は男性より女性に多いことがわかっている。人の面倒を見る機会が多い女性は、病気になったり障害を負ったときに他の人にかかる負担を男性より強く感じるためと考えられる。ヘムロック協会のSylvia Canettoの調査結果(オメガ:ジャーナル・オブ・デスアンドダイニング、2001年9月)及びJack Kavorkianの「安楽死」を見ると、安楽死の犠牲者は男性より女性が圧倒的に多い。例えば、オレゴンでは致死量の薬を求めた自殺幇助の被害者が安楽死を希望した最大の理由は耐え難い苦痛ではなく、苦痛が増えることへの恐怖、自立性の喪失、そして家族の「負担」になることだった(4)。 

生命倫理学者のFr. Peter A. Clark, S. J., PhD.によると、ここ数年、フィラデルフィアのマーシー・ヘルスシステムは「人工呼吸器、経皮的内視鏡胃瘻造設(胃に管を導入する処置の1つ)による人工栄養や水分供給、抗生物質の静脈内投与、各種投薬などの治療が必要な状態にありながら自分の医療を依頼できる家族も弁護士もいない高齢のホームレスの増加」という問題に直面している。多くの場合、医療スタッフはこうした治療を無益で医学的な無駄とさえ考えている。だだし、患者の代理となる意思決定者がいないため、緩和ケアのほうがずっと有益な状態で数週間から時には数ヶ月も延命治療が行われる。医師は訴訟を恐れて意思決定者から何らかの同意を得ない限り治療を中止しない…『生命の質』が軽視されている(5)。 

マーシー・ヘルスケアセンターの状況は、患者が医師によって「治る見込みのない状態」と判断され、彼らの治療が「無益」で「無駄」なものと定義されている事実を表している。オーウェル式の表現では「無意味」と「危険」である。残念ながら、これらの用語を安楽死のキーワードとして使う人が出てきた。ホスピスの看護師をしていたNancy Valkoは、「患者を永久に無意識にしなければならない事例は診たことがない」と述べている(6)。このような治療形態は「総合鎮静」又は「緩和鎮静」と呼ばれ、「安楽医療」の意味を持つこともある。それでも安楽死の容認を迫る圧力は増している。「キリング・ミー・ソフトリー(楽に死なせて)」という考えに反対しない人も多い。予算が限られた民間病院や利益重視の予防医療施設に影響するコスト管理の問題、苦痛や『生命の質』の低下を恐れる患者、家族、医師が生と死について決定を行う介護者にますます大きな影響を与えるようになっている。Valkoは、卒中、痴呆などの重篤な疾患のある患者の無意識化の実態がわからないことから、ホスピス以外の分野でも「安楽医療」としてのTSの利用が急増している可能性は十分にあると指摘している(7)。 

安楽死

安楽死の擁護者たちは、「今日、世界中の病院、養護施設、ホスピス、家庭で広く行われている」「緩慢な安楽死」としてTSを支持している(8)。Quillとそのチームは「終末期鎮静と飲食の自主的な停止を行っても医師は患者のさまざまな苦痛に対処できるが、これは通常の認識よりも倫理的・臨床的に複雑で、医師の幇助による自殺、自主的に行われる能動的安楽死に近い。」と述べている。TSは「安楽死に対する社会の黙認」であり他人の生命を積極的に終わらせるのではなく、末期患者の苦痛を薬で和らげていると思わせることで、「緩和ケアを行う人にとっての心理的防衛策のひとつ」になるとも考えられている(9)。かつて老人医療の顧問を勤めていたイギリス、ノーザンプトンのGillian Craigは、水分供給無しで長期間鎮静を続けることは 安楽死に等しく、ホスピスの動向は人生の終末に水分補給を中止することの意味を理解していない結果であると指摘している(10)。 

自発的な死

1993年までに、Bernatとそのチームは医師が幇助する自殺や自発的な能動的安楽死に代わるものとして、患者による水分や栄養分の摂取拒否を紹介した(11)。この考えを支持する人々は、「判断能力があり治療を拒否する患者の基本的権利」を主張するが、終末期に水分補給を中止しても死亡まで数日から場合によっては34週間かかることもあると指摘している(12、13、14)。 

脱水による死は辛く苦痛が大きい。死亡まで1214日かかることもある。空腹と渇きに加え、患者は鼻や喉、消化管の粘膜の渇きにも耐えなければならず、その結果、吐き気、嘔吐、出血、あるいは痙攣に苦しむこともある。したがって、自主的安楽死の支持者が患者や家族の苦悩を緩和するために医師による「緩和ケア」の継続を強調するのは当然と言える。この場合、「緩和ケア」は、患者の自殺、つまり医師が教唆し意図的に幇助する自殺に伴う症状の緩和を意味する。このやり方を支持する医師は「健全な判断力のある成人に対して、彼らが生きることを合理的に耐え難いと考えるならそれを強要すべきでない。したがって、医師は道徳的観点から患者が自発的に死を選ぶ道を閉ざすべきではない」と主張している。(15) 

道徳性の問題

死に行く人へのケアとして従来行われているのは倫理的なアプローチであり、道徳的に容認できる。これにより、鎮静剤や鎮痛剤を計画的に利用して、耐え難い疼痛、動揺、不安といった症状を必要に応じて抑えることができる。このアプローチでは(通常の方法又は人工的な方法を用いて)食料と飲料を死亡まで、あるいはそうした方法が無効になるまで提供することを義務化している。教皇ヨハネ・パウロは「ひとりひとりの人間が持つ本質的な価値と尊厳は人生のどのような状況においても変わらない。深刻な病状にある、あるいは身体機能を最大限発揮できない状態にあったとしても、人は常に人であり、『野菜』や『動物』になることは決してない」と述べている。いわゆる「永久的な植物状態」に関して、教皇は次のようにも述べている。「特に、人工的な方法を使うとしても、医療行為ではなく、水や食料の供給が生命を維持する自然な方法であると強調したい。また、水や食料の供給は原則として行うべき当然の行為と見なされるべきであり、適切な最終的行為と認められる以上、そうした道徳的義務、この場合には患者への栄養供給と苦痛の緩和が行われるべきである(16)。」 

患者を永久的に無意識の状態にするTSは別の問題である。TSでは人生で最も大切な瞬間、すなわち意識下での判断が永久的な重要性を持つかもしれない死の瞬間に患者の意識が奪われてしまう。TSなどの過酷なやり方が医学的に本当に必要なのかという疑問もある。医師の指示により終末期に水分補給を断つことで、患者の生命を意図的に短縮する危険が生じる。これは不道徳な行為と見なされる。脱水状態の患者が死亡するまで何日も、あるいは何週間もかかることがある。彼ら全員に「死が差し迫っている」と決め付けることが本当に可能なのか? 

また、「非幇助自殺」の合理的かつ手軽な方法として緩和ケアを行いながら患者自身による絶食を進める医師がすでにいるという事実は、これから訪れる事態の予兆でもある。米国の一部の医師はTSを「優良実施例」として容認することで、それが医師による自殺幇助や自発的安楽死に代わるより良い選択肢と見なされるのではないかと危惧している(17)。 

安楽死、特にこのように微妙な意味を持つ安楽死をひそかに支持する人は多い。「働いていない高齢者」と「働く若者」の比率が世界中で急増しており、わが国の病院でも安楽死に関する協定の設置に向けた圧力がおのずと高まっている。歴史は我々に警告している。ギリシャの都市国家もローマ帝国も、他にも理由はあるが出生率の低下が原因で滅びている。歴史は繰り返す。 

どの国の国民にも自国の公共・民間医療施設で「緩和ケア」に関してどのような規範や方針が設置されているかを知る権利がある。そうした規範や方針は国民に広く開示されるべきである。 

(巻末の注:英文記事の末尾) 

Shea, John B. (シー・ジョン)
Catholic Insight
Copyright 1997-2004
Updated: Apr 6th, 2005
2009.7.12.許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net