コロナワクチンを打つ人は、いまやほとんどいなくなりました。
なぜでしょう。
本当に必要だと考えているのであれば、打ち続けているはずです。
一方で、高齢者などに接種を薦める国の施策は、いまも続いています。
しかし、接種を控えるようになった大多数の国民が、これに異を唱えることもありません。
この不思議な空気感を、どのように捉えるべきでしょうか。
「医学の話」ではなく、「人間の心の話」として言語化してみました。
① 沈黙という自己防衛
自分の判断を否定することは痛みを伴います。
他者の判断を否定することもまた痛みを伴います。
たとえ後悔や不安があったとしても、それを言葉にすることは簡単ではありません。
なぜなら、それは自分自身の判断と向き合うことでもあり、ときに誰かを傷つけることにもなるからです。
だから多くの人は本音を語らず、沈黙という形で自分を守ろうとします。
② 静かに距離を置く社会
ワクチンを積極的に支持するわけでもなく、声高に批判するわけでもありません。
ただ、多くの人が接種からそっと距離を置き始めました。
接種を続けないという行動によって意思を示しながら、その理由については多くを語ろうとしません。
意見をぶつけ合って結論を出すのではなく、空気の変化によって社会の方向が決まっていく。
これは日本人にしばしば見られる集団心理なのでしょう。
「反対」とは言わない。
しかし従わなくなる。
その一方で、「賛成」とも言わず、十分な検証や総括もないまま社会全体が方向転換していく姿は、健全な状態とは言い難いように思えます。
明確な対立もなく、責任の所在も曖昧なまま、いつの間にか社会の空気だけが変わっていくのです。
ワクチンを巡る現在の空気にも、その特徴が色濃く表れているように感じます。
③ 沈黙が最大公約数になった時代
語れば誰かを傷つける。
黙れば波風は立たない。
その結果、沈黙が最も安全な選択肢になりました。
ワクチンを遠ざける空気は確かに広がっているのに、その理由だけが語られません。
多くの人が違和感や不安を抱えながらも、それを共有することなく、それぞれの胸の内にしまい込んでいます。
そして、その沈黙が社会の空気そのものになっているのです。
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ワクチン期を通り抜けた日本は、多くの人が後悔と不安を抱えながら、沈黙という形で自分を守っている“サイレントマジョリティー”の時代に入っています。
あの時期、多くの人が「仕方がなかった」と自分に言い聞かせながら、それぞれの判断を下しました。
その選択を、今になって容易に否定することはできません。
だからこそ、多くの人が沈黙を選び、その沈黙が社会の空気を形づくってきたのです。
しかし、これは過去を責めるための話ではありません。
大切なのは、なぜこうなったのかを振り返り、次の世代に同じ迷いや混乱を残さないことです。
私たちは何を信じ、何を疑い、そして何に従ったのか。
その検証を避けたままでは、同じような状況が再び繰り返されるかもしれません。
そして今、静かに問われています。
この沈黙のまま、次の世代に顔向けできるのか──と。
Katsuhiko Hashimoto (ハシモト カツヒコ)
薬剤師
Copyright © 2026年10月4日
メッセージで掲載許可取得 2026年4月29日