日本 プロライフ ムーブメント

失われる結婚と家庭の霊性

6月末に公表された国勢調査の速報値によると、35~39歳の男性の3人に1人が未婚で、全国の人口の31%が一人暮らしだという。生涯未婚や離婚が増え、それに少子化とくれば、結婚と家庭の意義をあらためて見直す必要があるのではないか。

わたしは小学生のころ侍者としてミサに奉仕していたが、結婚式がある早朝ミサでは新郎新婦からのお小遣いがもらえたのを思い出す。結婚式は、侍者にもおこぼれがあるほど教会の喜びであった。早朝ミサの直後、よく幼児洗礼式もあった。当時、カトリック信者たちの間では、結婚式は教会で行い、子供に恵まれたらまず何よりも教会で洗礼を授けてもらい、神の子供として育てて神にお返しするのが夫婦ないし両親の使命であるとの強い信仰があったように思う。

長崎で小さな教会の主任司祭であったころも、結婚や家庭に関する信者たちの雰囲気は同じようなものだった。まず、信者たちは教会で結婚式を挙げるのを当然の務めと考えていた。カトリック信者でない相手と結婚する時には、ほとんどの婚約者が連れ立って教会に通い、公教要理の勉強をして洗礼を受け、教会で「秘跡」としての結婚式を挙げた。初めての子供が生まれたとき、真っ先に主任司祭にこれを知らせて、洗礼の日時を相談するのも習慣であった。ある若いお父さんは教会にわたしを訪ねてきて、「いま子供が産まれました。持っているものは全部人にあげたい気分です」とその喜びを語っていたのを思い出す。子供の誕生を真っ先に教会に知らせる行為は信仰の行為そのものである。

主任司祭のころ、わたしは子供の信仰教育に命を賭けていた。幼稚園を卒業する時「初聖体」を行い、小学校に上がるとすぐに教会学校のクラスを編成し、中学を卒業するまで教会学校を続けさせた。毎週土曜日の午後は、小学生から中学生まで要理クラスを開き、綿密に企画されたカリキュラムに従って「要理授業」を実施した。小中学生の要理クラスにはほぼ100パーセントの信者の子供が参加していた。こうした実績が残せたのは親たちの全面的な支持があったからに他ならない。

あれから半世紀近く経過した現在、結婚や家庭、子供の出産や信仰教育についての認識に変化があるのだろうか。少なくともわたしの知る限り、雰囲気は大いに変わったように思うがどうだろう。世俗主義の影響が教会内にも及んでいるのだろうか。

標題に「霊性」という言葉を使ったが、霊性とは霊的性質の略であり、創造主なる神によって制定された結婚と家庭の意義と目的を知りかつ実践することを意味する。つまり、神の前で結婚して、生涯にわたる堅固な夫婦共同体を作り、授けられる子供たちを立派に産み育てて、人類と神の国の繁栄に寄与することである。キリストは、そのことを指摘して結婚と家庭の霊性を明らかにする(マタイ19,3-9参照)と同時に、結婚を秘跡の地位に揚げ、キリストの現存と恵みのしるしかつ機会とされた。

このような信念と確信がいま失われようとしている。現代の人々は、結婚するのも子供をもうけるのもみんな「自分のため」であって、神様のためではない。独身貴族のぜいたくな暮らしを変えることなく、自分の都合をいささかも犠牲にすることのない条件が揃わなければ絶対に結婚などしない。性欲のはけ口はいくらでもある。一方、子供がほしければ、結婚以外にいくらでも手がある。「責任ある生殖」など眼中にない。夫婦仲がうまくいかなければ、子供を犠牲にしてでも離婚して平気である。こうして、神様のために結婚し神様のために子供産んで育てるという結婚と家庭の霊性から、自分のために結婚し、自分の都合で子供を産んだり生まなかったりする。それらの結果、少子化が進み、朝日新聞が言う孤族が広がり、無縁社会が深刻化する。

神は人間の幸せを目的として、ご自分にかたどり、ご自分に似せて人間を男と女に創造された。そしてひと組の男女を娶せて言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1,28)。従って、神のご計画に従って結婚し、子育てに励むとき、夫婦、親子、兄弟の団欒の中に幸せを感じ、そのために懸命に生きて働くとき、キリストによる救いの恵みが家庭に輝くことになろう。人間は家庭に生まれ、家庭を通して人間になっていく。だから、人間の「超越的尊厳」と「高貴な召命」に対応する結婚観、家庭観の回復に努めなければならない。

Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
2016年12月10日帰天
糸永真一司教のカトリック時評

出典 折々の想い

Copyright ©2011年08月25日掲載
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