日本 プロライフ ムーブメント

あらためて、キリスト教とは何か

キリスト教と言えば聖書、あるいは教会というのが常識である。『Pen』誌の『キリスト教とは何か』を見る限り、その感を強くする。そこでは、聖書や教会が美しい写真や名画でキリスト教が紹介されている。しかし、それだけだろうか。外観だけでキリスト教を批判する人もいるから、あらためてキリスト教とは何かを問うてみたい。 前々回に述べたように、イエスは教会の中に生きており、教会を通して働いて救いのわざを続けておられる。しかし、その姿を肉眼で見ることはできない。教会の中にイエス・キリストを確認できるのは「信仰」だけであって、信仰がなければ教会の外観をもってキリスト教を判断するしか手はないわけである。

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キリスト教のシンボル・十字架の神秘

キリスト教最大の祝日・キリストの復活祭は、今年はいつもより遅くて4月24日に祝われる。そして復活祭の爆発的な喜びは、それに先立つ「キリストの十字架」をどう見るかにかかっている。そこに、十字架がキリスト教のシンボルとなったわけもある。では、「十字架の神秘」とは何か。 周知の通り、イエス・キリストは十字架につけられて殺された。この十字架をどう見るか。聖パウロは言う。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユデア人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント1,23~24)。聖パウロのこの言葉は、キリストの十字架に対する人間の態度に三様のものがあることを示している。

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キリスト教における「死の神秘」

人間は誰でもやがて死ぬ。これほど明らかな現実はない。仏教では「生老病死」の四苦を唱えているが、その指摘を待つまでもなく、「死」は人生最大の苦であり悩みである。それゆえ、大昔から、死の意味を理解し、死を克服するために人類はあらゆる努力を傾けてきた。はたしてその努力は報われたであろうか。

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霊性を生きる宗教の本質は「祈り」

肉体をもちながらも霊的な存在である人間の生活の本質は「祈りの生活」であると言ってよい。つまり、祈りなくしては人間の生活は成り立たないというわけである。そして実際、昔から人間は何らかの形で神性を信じて祈りをささげてきた。そこで今回は、祈りの生活について考えてみたい。

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なぜ、この世に罪があるのか

この世は罪悪に満ちている。「思い、言葉、行い、怠り」による大小様々の罪のことである。と言えば、「自分は罪を犯したことがない、自分は潔白だ」、と言い張る人がいるかも知れない。しかし、聖書は言う。「もし、わたしたちに罪はないと言うならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません」(1ヨハネ1,8)。それほどに聖書がこだわる罪とは何なのか、教会の教えの中にその神秘を探してみよう。

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ファティマの聖母とロザリオ

過日、“The True Story of Fatima”(本当のファティマ物語―聖母ご出現の一部始終)という96ページの小冊子がファティマ・センターから送られてきた。ファティマにおける聖母のご出現とそのメッセージについては、若いころ読んだたしか『ファティマの牧童』という本で承知していたが、この本を読んで、今あらためてファティマのメッセージの重要性を生々しく感じた。

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09 カトリック平和旬間に

6日の広島原爆から9日の長崎原爆を経て15日の終戦記念日までの10日間は日本カトリック司教団が設定した“カトリック平和旬間“である。今年もわたしは一人のカトリック者としていろいろと考えをめぐらした。方や金融危機に始まる世界同時不況がもたらした世界の混乱があり、方や戦争や国際テロ、さらには民族紛争などによる血なまぐさい殺し合いが頻発して、世界中があらためて平和への思いを新たにしている。

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善きサマリアのたとえの解釈

アンリ・ド・リュバク著『カトリシズム―キリスト教信仰の社会的展望』(小高毅訳・エンデルレ書店・1989)は、教父たちの教えを詳細にわたって引用しかつ纏めていて、実に読み応えのある名著であるが、ここには、福音書のたとえ話の中から、お馴染みの「善きサマリア人のたとえ」の解釈(108ページ)を抜き出して紹介したい。

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ある高校の四旬節ミサの思い出から

カトリック教会はさる2月25日の灰の水曜日から今年の四旬節に入った。そう言えば、56年前の1953年の早春、わたしはモントリオール市内のある高校の四旬節ミサに通っていた。司祭叙階後も大神学院に留まって修士課程に取り組んでいたわたしは、市内の教会や修道院でミサをささげるために時々呼ばれていた。このときもその一つで、四旬節の間、日曜日を除いて毎日通っていたこの高校は、フランス語が中心のモントリオールでも珍しく英語の学校であった。その頃はまだ第2バチカン公会議の前で、ミサはすべてラテン語であったから、英語が苦手のわたしにも問題はなかった。

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教会の成人年齢は18歳

法務大臣から昨春諮問を受けていた法制審議会の民法成年年齢部会は先月20日、成人の年齢を20歳から18歳に引き下げることが適当とする最終報告書を取りまとめた。新聞報道などによると、国民の受け取り方は様々で、慎重論のほうが多いようにも見られる。この問題について、カトリック教会の立場から何が言えるであろうか。

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受肉により、キリストはすべての人と結ばれた

降誕祭を迎えてわたしは第2バチカン公会議の言葉を思い出している。「神の子は受肉することによって、ある意味でみずからをすべての人間と一致させた」(現代世界憲章22)。わたしはこの言葉を初めて読んだとき、強烈な印象を受けた。キリストがすべての人のために生まれて死んだことは信じていたが、このような表現は初めて聞いたからである。

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天国のイメージと個人主義

「このような(天国)の希望は、近代になってますます厳しい批判にさらされるようになりました」。婦人たちの読書会で今読んでいるベネディクト16世の回勅『希望による救い』(カトリック中央協議会訳)の一節(13)である。この批判とは一体なにを意味するのだろうか。教皇が強調するからにはやはり今日的な理由があるに違いない。

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2月11日は『世界病者の日』

教皇ヨハネ・パウロ2世は1993年、「ルルドの聖母の記念日」である2月11日を「世界病者の日」と定めた。聖母マリアは、救い主キリストの母として、十字架のもとに立って御子の苦しみに深くあずかり、同時に、信じる人々の母として彼らの苦しみをともにしながら、人類の救いのためにとりなしておられる。だから、聖母の記念日に病者を記念することはふさわしいと思う。

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ラジオから流れるロザリオの祈り

読書グループの女性たちは今、ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』を読んでいるが、そろそろ後半に差し掛かってロザリオの祈りのすばらしさがいよいよ身に沁みて理解される段階に入ったようである。「ロザリオはすばらしい祈りです。その単純さと深さのゆえに」(使徒的書簡2)と教皇は言われる。単純さとは、天使祝詞(マリアへの祈り)を繰り返しながら主キリストの生涯の出来事を思い出すだけの、誰にでも祈れるからであり、深さとは、主イエスとその母マリアの生涯から20の出来事(神秘)を思い出しながら、神のうちに秘められた人類救済の偉大な神秘を、聖母とともに観想し、その恵みにあずかるからである。

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いのちの神秘とその召命

いのちは神秘である。そして、いのちの神秘の解明は有史以来、人類の根本的な課題であった。そのいのちが、今日も、さまざまに脅かされ、虫けらのように殺害されている。だから、あらためていのちの神秘と召命について根底から問い直さなければならない。 

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「いじめ自殺」が残した教訓 – いのちを守る家庭の再建と隣人愛を育てる教育

昨年もいじめや虐待死など、幼児・児童・生徒にまつわる悲しい事件が相次いだ。いじめは昔からあったが、その後の報道によれば、いじめの実態はかなり深刻で、全国に広がっているという。あらためて、いじめ自殺からいくつかの教訓を引き出してみたい。

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80回目の正月に思う

門松80回目の正月を前にしてこの一文を綴っている。日本人の平均寿命を超える、 ずいぶんと長い人生をいただいたものである。戦前、戦中、戦後を経て今日まで、 めまぐるしく変わっていった時代に生きてきて、出遇った様々な人や出来事を感慨深く思い浮かべている。そして今年は、 どうしてか長い間忘れていた「年の始めの歌」を思い出した。 

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離婚しない結婚の準備

先日、珍しい友人が突然訪ねてきてくれた。イエズス会の元管区長粟本昭夫神父である。80歳になる彼は、 東京からレンタカーでドライブしてきて、九州各地の殉教地や教会を巡礼しているのだという、老いても元気な神父である 。その夜は、隣に住んでいる同じくイエズス会員である「内観」の岡俊朗神父を交えて夕食を共にして語り合った。 

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「白衣の天使」が「カラフル天使」に

先日の定期診察で採血をしてくれた看護師は緑の衣服を着けていた。隣で採血していた看護師は真っ赤な服だった。 何か変な感じがして、思わず「もう白衣の天使ではないのですね。なんと呼んだらいいんでしょう?」とつぶやいたら、「 先日ある会合でカラフル天使と呼ばれました」という返事が返ってきた。「なるほど、そういえばそうですね」 と答えたものの、親しんできた看護婦さんから看護師さんに変わってまだ十分心の整理がつかないうちに、 白衣の天使がカラフル天使に変身する。長生きしているといろんなことに出会う。 

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エロスと甘え「求める愛」をめぐって

「エロスと甘え」とは奇妙な取り合わせだが、最近読んだ本の中でこの二つは「求める愛」という表現の中で一つにつながったのである。その本とは、一つは教皇ベネディクト16世の回勅『神は愛』(2005年・邦訳はカトリック中央協議会)であり、もう一つは土居健郎の『続「甘えの国」』(2001年、弘文堂)である。これは、独りでは生きられない人間本来の姿を理解するうえできわめて重要だと思うので、あえて話題にしたい。 

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あるシングルマザーのうぬぼれ

先日、テレビのチャンネルを変えていたら、精子バンクを利用して子供を産んだアメリカの、あるシングルマザー( 未婚の母)のインタビュー番組が目に入った。まず驚いたのは、精子バンクという商売が繁盛していること。 さらに驚いたことに、そのシングルマザーは言ったのである。「精子バンクを使えば後腐れがない。 自分独りで自由に子育てができる」と。後腐れとは何たる暴言、独りで育てるとは何たるうぬぼれ。一言、 世に警告を発せざるを得ない気分になった次第。 

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「ゆるし」を体現した人の物語

このほど、今評判になっている本、『生かされて。』を一気に読んだ(イマキュレー・イリバギザ著、PHP、2006) 。十年余り前、アフリカのルアンダで吹き荒れた民族浄化の大量虐殺の時代、両親と兄弟二人を奪われた中で、 肉親への愛情と共に、これに反比例するかのように繰り返し沸き起こる憎しみと復讐の情念に打ち勝って、「ゆるし」 というキリスト教の恵みを文字通り身を持って体現した一人のカトリック信者の物語である。 彼女が神のゆるしに与って救われたということは、彼女が真にカトリック信者としての教養を身に着けていたと同時に、 本書の中で彼女自身が言うように、深く長い祈りの中で神の愛に触れたためだと思うのだが、このゆるしのゆえに、今、 本当に平和であり幸せであると彼女は断言している。 

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「貧しさ」、キリスト教のキーワード

キリスト降誕の神秘的な夜、天使たちは羊飼いたちに告げて言った。「恐れることはない。わたしは、 すべての民に及ぶ大きな喜びの訪れをあなた方に告げる。きょう、ダビデの町に、あなた方のために、 救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなた方は、うぶ着にくるまれて、 飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見るであろう。これがしるしである」(ルカ2,10-12)。 

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「働きたくない者は、食べてはならない」

「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝し合う」国民の祝日・勤労感謝の日に思いを致し、また、最近の労働事情、 たとえば生活保護不正受給問題などを考えているうちに、「働きたくない者は、食べてはならない」 という聖パウロの言葉を思い出した。 

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