目次
1. 言葉によって切り取られた世界
2. 言葉への偏重で生み出された二つの歪み
3. 言葉の万能感は人を愚かにしていく
1. 言葉によって切り取られた世界
「すべての言葉は誰かの引用である」という言葉を聞いたことがあります。
「自分の頭で考えること」をいつも強調する私ですが、その自分の頭で考えられるようになるために私は今まで無数の他人の言葉を浴びてきました。
私が用いる表現、もっと抽象度を高めれば日本語という言語体系は、私一人で思いつき、考えだしたものでは当然ありません。
17世紀の哲学者、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉の登場以降、西洋社会を中心に「個人」という概念が浸透し、それとともに自由意思と呼ばれる考えが人々の中に定着していく流れが生まれました。
それまでは神のもとに人間があり、人間がなすべきことは神の意思によって定められていたという感覚だったという話もどこかで聞いたことがあります。
その真偽は今回の主題ではないので置いておくとして、ともかく「人には自分でやりくりすることのできる意思というものがある」という今にも通じる考えが発展してきたことは間違いないと言えるでしょう。
しかしこの考え方が広まる一方で、置き去りにされてきた感覚があると思っています。
それは、自分の思考は常に他人と、いや世界とつながっているという考え方です。
世界という空間的な広さを表す言葉だけではなく、太古の昔の人類たちの活動とも時間的に連綿とつながっているという点も忘れてはなりません。
太古の人類から連なり、人々が日本語を生み出していなければ、今私は今のように考えることはできなかったわけですから。
もっと深めると、「そもそも思考は頭の中で考えているだけではなく、身体を通じて、五感を通じて同時並行的に起こっている」と、これはデカルトと同じ時代を生き、デカルトと真っ向から対立することで立場を追われた哲学者、スピノザの考え方です。
2. 言葉への偏重で生み出された二つの歪み
私は、この近代社会が捨て去ったと言っても過言ではないスピノザ的な思想が失われたせいで、現代社会には大きな歪みがもたらされることになったと考えています。
スピノザ的思想について別の言い方をすると、「人間を自然の中の動きの一部とみなす考え」とも言えるかもしれません。
歪みの一つは、自分と密接につながっている「自然への畏敬の念が失われたこと」です。
本来は誰のものでもなく、万物とつながり、過酷でもありながら癒しでもある自然という存在が、意図的かどうかは置いておくとしても、結果的に特定の誰かの都合で独占し、そこから利益を搾取することができるように貨幣を作り、法律を作り、制度を作り出していきました。
その活動が正当化されることによって、この自然の搾取が持続的に行われていくことになりました。
油田を独占する人がいても、山を切り開いて太陽光パネルを敷き詰める人がいても、反対する人が少数派になるように社会は歪んでいきました。
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あるいは都会に住む方が快適で刺激的だと感じる人が多数になったことも、この社会の歪みを反映している現象であるように思います。
もう一つの歪みは、「言葉による価値観が強まりすぎた」ということです。
「星の王子様」という小説の中に「かんじんなことは、目に見えないんだよ」という名言が出てきますが、私たちは言葉を通じて世界を見ることによって、言葉以外で表される世界が見えにくくなってしまったようにも感じています。
今や誰もが使うと言っても過言ではない状況となった生成AIも本質的には言葉を生み出す装置にすぎません。
この生成AIを歓迎し、とにかく使い続ける人が増えていること自体も、この歪みを反映していると言えるかもしれません。
これ自体は実際に人類に貢献的な恩恵をもたらしているのは事実なのだから「歪み」と表現するのはどうかという意見も聞こえてきそうですが、その貢献はあくまでも「資本主義社会にとって」という枕言葉がつくべきものかもしれません。
すべてを含んだ自然の立場からみれば、生成AIの登場で「言葉によって駆動された人間による搾取が加速しただけ」かもしれません。
3. 言葉の万能感は人を愚かにしていく
しかし、上記で挙げた2つの歪みによってもたらされた最大の弊害は、「科学の暴走」だと私は思います。
「科学」とは言葉で表現してなんぼの世界です。
「科学」は、世界の秩序を一部言葉で合理的に説明することに成功し、かつ人類に具体的な貢献ももたらし、人類に対してかつてない信頼を勝ち得たことは疑いようのない事実だと思います。
ところが、その陰で科学の顔をした宗教のような動きも台頭してきたように思います。
その最たるものが「医学」です。
医学は本来、ある意味で一番「自然」というものと直面するはずの学問です。
人間は自然の一部であり、小宇宙であり、人体における出来事はとても複雑なことが関わり合って起こっているからです。
ところが、「科学」での成功体験をそのまま応用しようとした人類は、病名というラベルの言葉を生み出し、病名に対して病気の原因があるという要素還元論の前提で研究・発展を積み重ね、膨大な数の病名とそれに対応する主に石油由来の薬を生み出してきましたが、そのプロセスの中で、悲しいことに自然とのつながりを一切忘れてしまい、病気は薬でコントロールできるという傲慢とも言える思想を、経済と権力の力を借りながら強引に推し進めてきたように私には見えています。
その結果、病気はコントロールされているようでいて、実は新しく生み出され続けるという逆説、「科学的根拠」と声高に叫びつつ、「ワクチンは絶対に正しい」という教義を布教するかのような活動に成り下がる逆説を、実際世の中に広めてきてしまったというふうに思うのです。
その根源に人間が自然の一部であることや、心と身体はともに動いていること、そして言葉によって切り出すことで置き去りにされたことに、目をむけることができなくなったことがあるのだとすれば、私たちはそこを思い出すことからやり直すべきなのかもしれません。
最近、某所にて日本古来の「神道(しんとう)」という宗教のさわりの部分を教えてもらう機会がありました。
神道では、自然や万物に神が宿るという畏敬の念と、清らかさを重んじる考えが基本にあるとされています。
一方で科学は宗教を下に見下す傾向があるように感じます。医学の中でだけかもしれませんが。
しかし実際には、医学という名の「宗教(暴走した科学)」が、本質をついている「宗教」を馬鹿にするという逆説的な構造になっているのかもしれません。
もしかしたら「医学」が軽視してきたものの中に、私たちが見直すべきヒントが隠れているのかもしれません。
Shuugo・Tagashira(タガシラ シュウゴ)
田頭 秀悟
オンライン診療医
主体的医療ダイアロジカルスクール(Proactive Med Dialogical School)
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