日本 プロライフ ムーブメント

10代の慎みと美

10代の若者の多くは、葬儀にスエットパンツ、スニーカー、ナイキのTシャツで出席することは、結婚式にそのような服装で出席することも同様に、無神経で軽率な行動だと考えている。 

この考えを認めるのであれば、服装はその人の内面を表すという法則を容認することになる。ある人の葬儀にジョギング姿で参列したら、私がその人の死をあまり嘆いておらず、悲しみにくれる親族にそうした印象を持たれることを気にしていないと思われるだろう。 

しかし、毎日、すなわち平日、週末、特に「私服」登校日に、「適切な」服装を選ぶ責任があることを若者に認識させるのはもっと難しい。何が適切で何が不適切かの基準も統一されていない。事実、適切という言葉は相対的で、いかようにも解釈できる。そこで、相対的な観点からではなく、現在の社会傾向が慎みという美徳に一致しているかどうかをより簡単に判断できる原則を紹介したいと思う。 

慎み深く装うには、理性に基づいて服装を選択しなければならない。それは理性により表現の喜びを抑える徳、すなわち節度の一部なのである。徳は美徳の象徴であり、節度は、最も熱情的な喜びを超越するものなのである。最も熱情的な喜びとは、人間の個の保存や種の保存を目的とした行為に関係している。つまり、飲食(個の保存)や性行為(種の保存)がそれに当たる。 

10代というのは、昔から難しい年代と言われているが、成長段階で彼らを取り巻く環境を考えると、私の時代よりも、現代の10代のほうが、多くの困難を抱えているように思われる。その理由を説明しよう。快楽主義は、人生の主な目的および意義として、快楽を追求し、不快感を極力避けることを説いた哲学である。歴史を通じて、社会の主流は非快楽主義であったが、そんな中にも快楽主義者は必ず存在した。しかし今日では、文化そのものが快楽主義になっている。その結果、現代社会においては、10代が高潔な性格形成の基本や道徳の原則を学ぶことさえ難しくなっている。快楽主義の文化では、節度は無意味なことと考えられている。人生最大の目的が快楽であるにも関わらず、最大の喜び、特に性の喜びをなぜ抑えなければならないのか?人間は快楽を求めており、すべてそれに向けて行動しているというのに、なぜ節度を持たなければならないのか?そんな考えは、恣意的で時代遅れにしか見えないかもしれない。 

しかし我々にとって、人間は究極の快楽を求めるものではなく、完全なる善、すなわち神を求める存在なのである。この観点から、生命は自己より高く大きな存在であり、喜びは自己より低く小さなものと言える。ただし、共通の善、婚姻制度および神は、自己より大きな存在である。人間の性行為は、たとえそれが人間として自然な行動で満足感を伴うものであったとしても、このより高い目標の達成を目指したものでなくてはならない。この目標は、セックスを結婚の証とし、家族をつくるための寛大な行為とすることで達成できる。 

今日、コマーシャル、広告、ゴールデンタイムのTV番組が慎みを忘れ、不謹慎な内容を多く伝えるようになったのは、慎みのない人が増えた、もっと具体的 に言うと、みだらな人が多くなったということであり、服装が内面を表すという原則を考えると、慎みのない服装が一般的になっていることもうなずける。慎みのない人は、規制があってもなくても節度なく振舞うだろう。扇情的な服装もその一部である。同じように、情緒的に不安定で、男性を必要とする女性は、彼らの気を引くような服装を選ぶと考えられる。 

反対に、扇情的でもなければ、感情的に不安定でもなく、男性の欲望の対象になる必要もない10代の少女は、服装から内面を判断されたくないだろう。常に 服装にこだわり、「これが自分だ」と口癖のように言う学生もいる。こんな格言がある。「外見がアヒルのように見えてもそれが本当にアヒルかどうかは分からない(外見から人を判断してはならない)。少なくとも、それがカモの一種である可能性も考えなくてはならない。」同じように、売春婦のように装い、歩き、話す女性がいて、しかしそれが彼女本来の姿ではなく、不謹慎な服装から想像するような節度のない女性とは異なる場合、彼女は、自分の服装、話し方、特にその振る舞いを、自分本来の姿を正確にかつ正直に表すものに変えるべきである。 

慎みのない服装に美しさなどないことを若い女性に理解してもらうのは難しい。それは情緒的・心理的な未熟さの表れであり、彼女自身が節度のない行為に関 心を抱いていることを物語っている。アクィナスは、次のように指摘している。「体の美しさは、均整の取れた手足と、透明感のある肌色によって表現される。同様に、精神面の美しさは、理性に基づいた行為や行動によって現れる。」慎みという徳を培うには、慎み深さを表す服装を選び、節度という徳にふさわしい自制心が必要なのである。節度の美しさは、慎みとバランスのとれた自己愛によるものである。慎み深さも同様に美しい徳である。反対に、エゴイズムはどんな場合も醜いものである。 

慎みのない格好をしている人は、ある種の人たちが興味を持つ対象になるかもしれない。しかし、自問して欲しいのは、自分がだれの関心を引きたいかである。真の美しさを知っている人たちなのか?それとも単に性的なものに関心のある人たちなのか?慎み深い服装をしている女性が、浅ましく節度のない男性の関心を引くことはない。反対に、慎みのない服装をしている女性は、道徳的に優れた人にとって何の魅力もない。道徳的であるためにモースジョーの独身女性のように装う必要はないが、へそが見えていたり、パンツを短くカットして臀部の一部を露出したり、歩きにくいほどピチピチのパンツを履いていたり、あるいは胸をセロファンできっちり巻いて大きく見せているとしたら、頭痛とイライラの種のような男性、つまりは世の中の負け犬と交際している女性と思われてしまうだろう。現代社会にはこうした女性が大勢いる。今この問題に気づかなければ、我々の社会はそんな人々を大量に生み出すことになるだろう。 

McManaman, Doug (マックマナマン・ダグ)
Copyright ©2004年9月
2005.5.1.許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net