日本 プロライフ ムーブメント

いと小さき者のいやし


臨死体験した人や死者と話したことのあるたくさんの人の理解によると、現世から来世への通過は、現世の時間の数秒から数年に相当します。この通過状態の人々は度々生きている人からの助けを求めています。この中には中絶された赤ちゃん、流産した赤ちゃん、死産した赤ちゃん、生まれた後亡くなった赤ちゃんもいます。この話でジョアン・フランシスはこの状態が真実であるという彼女の体験とその子どもたちのために祈る必要と結果を述べ伝えています。フランシス夫人はオーストラリア・メルボルンのカトリック信者の主婦です。 

1. 宙吊りにされた赤ちゃん 

  はじめに、わたしはあなた方に短い話をしたいと思います。数年前わたしは家の鍵を閉めてしまってから鍵を持たないことに気付きました。家の周りを見回ってみると、一つの窓だけが開いていました。低い開き窓で、それは乗直から水平に押されていました。登って通りにくい窓でしたが、わたしはやってみた方がいいと思いました。そこでわたしは古い庭用の椅子を持って来てそれに登りました。半分ほどは入れましたが、それ以上は入れませんでした。 わたしは窓枠の上で頭と肩と腕が家の中で足は外でブラブラさせて「挟まる!!」と恐怖を感じました。 

  そうです。わたしはギャーギャー騒ぎ声をあげたので隣家の婦人がそれを聞いて、どうしたのかとやって来ました。彼女は少し窓を持ち上げて、落ちないようにわたしの足を窓枠の上に押しました。やっとわたしは頭から家の中へ滑り落ちました。わたしは中に入り玄関のドアを開けることが出来ました。けれども、わたしはそれを彼女の助けがなかったら出来なかったのです。彼女がいなかったらわたしはずっと半身は窓の外、もう半身は家の中のまま動けない状態でした。 

  さて、あなた方自身の子ども時代やあなた方の子どもが小さかった時を思い出してください。あなた方の頭がベッドの柵に引っかかった時のことや、あなたの子どもの足が乳母車の車輪に下に挟まった時のこと、塀の隙間に腕が入ってしまった時のこと、指が蛇口に入ってしまった時のことを思い出せますか。小さい子どもたちはどこかに無理やり入り込むのがとても得意ですが、入ったものの出られなくなります。そうすると彼らは大声で悲鳴をあげます。するとあなたは彼らをなだめ、自由にしてやるための何らかの方法を探さなければなりません。子どもは動けなくなり、誰かがそこから出してやる必要があります。そうでないと彼は何時間でも益々取り乱し、大声で叫き、無駄にもがきながら、そこに引っかかっているかも知れません。 

  わたしは挟まれて動けない赤ちゃんたちのために働いてきました。つまり天国に入っていない中絶された赤ちゃん、流産した赤ちゃん、死産した赤ちゃん、生まれて直ぐ死んだ赤ちゃんたちのためにです。 

  人口が増加したり堕胎が簡単に行なわれたりすることのために、この状態にいる子どもの数が増えています。現在では生まれてから人工的に生命を絶たれるケースも数を増しています。医学の進歩によって、受胎後20週から23週の未熟児が人工呼吸装置に入れられ集中的に治療されます。その赤ちゃんが生存していくことが難しいと分かった時、人工呼吸装置が外され、その赤ちゃんは亡くなります。その時、すべての人、医者、看護師、両親、特にその赤ちゃんは大変な衝撃を受けます。 

  さて、今からわたしが「赤ちゃん」とか「子ども」という単語を用いる時は生きている赤ちゃんについて語るのではないということを皆さんに知って欲しいのです。もしわたしが生きている赤ちゃんを指す時は、「生きている赤ちゃん」と言います。しかし、はっきりさせるためにこの話の中でわたしが「赤ちゃん」とか「子ども」というときは、死んだ胎児、死んだ赤ちゃん、死んだ子どもを指します。 

  最新の統計によると、すべての妊娠の四分の一は堕胎で終わります。この数字の中には死産や流産は含まれていません。これらの赤ちゃんに何が起こるのでしょう。 

  堕胎される前のその赤ちゃんの思いと感情を想像してみましょう。多くの怒りが聞こえます。現在では、科学者がわたしたちに子宮の中の赤ちゃんは聞こえるし、感じるし、音楽に合わせることも出来るし、お母さんの感触や感情に感応することが出来ると言います。また、彼らは記憶を持っていますし、痛みを体験することも出来ます。ですから親が喧嘩をしたり怒りの声をあげたりすると、赤ちゃんは苦しみます。「わたしは赤ちゃんなんか欲しくない」というお母さんの言葉を聞くのです。「それはお前の失敗だよ。お前が面倒をみればいい」というお父さんの怒鳴り声を聞き、その小さな身体でお母さんの感情の状態によって引き起こされた化学変化の結果を感じるのです。最後にその赤ちゃんは機械で手足をもぎ取られ、頭を砕かれるのを感じるのです。あるいは多分堕胎のために含塩化剤を使われたでしょう。 

あなたは傷ついた指をヨードチンキやマーキュロクロム液に浸したことがありますか。とても痛いでしょう。意識のある生きている赤ちゃんがそのような液のお風呂の中に入れられて焼かれるのです。どんなものか想像できるでしょうか。 

  ある人々は、赤ちゃんが死ぬとすぐ直接天国に行くと思っています。ある場合にはそうかも知れません。しかし、神は今日、わたしたちにすべての場合がそうではないと示しています。 

  もし赤ちゃんが愛され、悲しまれ、祈られたなら、愛をその身に受け神の光の中に入ることが出来ます。けれども、もしその赤ちゃんが十分に愛されなかったら、赤ちゃんは見ない状態でこの物質的な世界に取り残されて、固定された状態のままでいるようです。そして、しばしば家族の輪の中に留まり、生きている子どもたちと同じ興味を持って成長するのです。ある場合には、赤ちゃんは自分が死んでいるということさえ知らないのです。自分は死んでいると知っていても大変な衝撃に苦しんでいるかも知れません。堕胎された赤ちゃんの感情や、双子のうち一方は生きていたり、生まれることが出来たのに、片方が死んでいる赤ちゃんの感情を想像してご覧なさい。彼らは怒り、妬み、恨みなどでいっぱいになっているかも知れないのです。ですから愛の状態とか、 神のものである純粋な愛と交わることの出来る状態にいるわけがありません。 人間の赤ちゃんは愛されることによって愛することを学びます。もし誰からも愛されることがなかったら、愛である神とひとつになるために、赤ちゃんは愛することをどうやって学んで行くのでしょう。 

  従って、窓に挟まれたわたしのように動けない状態、この世と次の世との中間にいる中途半端な状態、これをわたしは宙吊りにされた赤ちゃんと呼んでいます。 

  もしあなたが更に詳しく知りたいと望んでいるなら二人のカトリック司祭デニス・リンとマシュ・リンの両神父によって書かれた本「Healing the Greatest Hurt」を手に入れて読むことをお勧めします。更に医者の視点から書かれた、ケネス・マッコールの本「Healing the Family Tree」もお勧めします。 

2. 宙吊りの赤ちゃんの影響 

  そのような宙吊りの赤ちゃんは何をするのでしょうか。生きている赤ちゃんは宙吊りのとき、何をするでしょうか。彼は泣き叫び、金切り声を上げて誰かに聞いもらおうとします。誰かに来て貰い助けてもらおうとします。宙吊りの赤ちゃんは誰に注意を向けてもらおうとするでしょう。お母さんかも知れないしお父さんかも、あるいはその赤ちゃんのあとに生まれた弟か前に生まれていたお姉さんか、多分家族の中でも特に敏感な誰かです。自分はここにいて何かして欲しいのだということを分からせようとして騒ぎ始めます。しかし、わたしたちの方はそれが何なのか分かりません。わたしたちはその影響を受けた人が神経を患っているとか、てんかんとか、他の病気に罹っているとか思ってしまいます。わたしたちは、その問題が交通事故や不運のせいにしたり、「そう、彼女は繊細だからいつも病気になるのだ」と言ってしまいます。わたしたちは、その病気の原因は、ある場合には誰かが何かをしてくれるように宙吊りの赤ちゃんが呼んでいるのだということが分かりません。 

  宙吊りの状態の赤ちゃんは必ずしも堕胎された赤ちゃんでないかも知れません。それは死産したり流産したりしたものかも知れません。流産はいつも理想的な状況の中で起こるとは限りません。胎児はお母さんがその時、流産だと思わないでトイレに血と一緒に赤ちゃんを流していたり、病院の汚物処理装置の中で赤ちゃんだと認めずに、あるいは医師が赤ちゃんを人間として認めないで簡単に捨てたかも知れません。 

  宙吊りの赤ちゃんは家族の一人か二人に影響を及ぼすこともありますが、 赤ちゃんの死亡の事件が何代もの家族に影響を及ぼすこともあります。わたしは自分の家系の中で起こった出来事を話したいと思います。 

  わたしの叔母は家族の系図が大好きですが、ある時、古い家族の手紙の中の一つの話を持ってやって来ました。それは小川の側の小さな家に住んでいたわたしの  曾々祖父母のもののようです。ある日、曾々祖母が小川で洗い物をしていた時、赤ちゃんがヨチヨチ歩きで来て小川に落ち溺れ死んでしまいました。彼女は大変取り乱しました。そして家族はその小川からずっと離れた新しい家に引っ越しました。しかしその手紙に書かれているように、「彼女は決して以前のようにならなかったし、他の誰もがならなかった」。それは全家族に影響を及ぼしたのでした。 

  わたしはこのことを聞いた時、何かをするべきだと思いました。その赤ちゃんが宙吊りではなくても、その死の苦難は神様の愛で癒さなければならないと思いました。そこでわたしは司祭にミサを捧げてくださるよう頼みました。わたしはその話はそれで終わると思いましたが、すぐ後に二つのびっくりする出来事について聞きました。関節炎と心臓病で大変苦しんでいたその一族の叔母の一人が突然回復したのです。医者は何が何だか分かりませんでした。 更に家系を調べていた叔母が医者の診断がつけられない奇妙な症状に悩んでいました。彼らはあらゆる治療を試みましたが、どれも効き目がありませんでした。しかし、わたしたちがその赤ちゃんとその死の出来事のために祈った後、 突然彼女はその症状から解放されました。またしても不思議がる医者! 

3. 宙吊りの赤ちゃんを見付けて 

  あなたは人生のどこかで宙吊りの赤ちゃんを見付けるでしょう。それはあなたのお母さんの流産であったり、お姉さん、あるいは義理のお姉さん、友人の亡くなった子どもであったりします。あなたが自分は妊娠したかしらと何気なく思った時、そして生理の周期が3週間遅れたならば、赤ちゃんが出来ていたかも知れません。ある人々、特に若い女の子たちはあなたを信用して、時々自分の堕胎について打ち明けるでしょう。 

  いつでも心を開いて、耳を敏感にして死んだ赤ちゃんについて聞く時、その家族を見回してご覧なさい。もし一人かそれ以上の家族の中に病気か神経系統の症状、行動を困難にするような傾向が見付かったら、おそらくその死んだ赤ちゃんが宙吊りで皆の注意を引くためにそれらの手段を使っているかも知れません。 

  わたしたちが認めなければならないことは、その宙吊りの赤ちゃんを助ける基本的な理由はその影響された人を解放するためではなく、赤ちゃんを天国の相応しい所へ行かせるためです。言い換えれば、第一の目的はその子どもに対して犯したことを直すためであり、子どもが貰うはずの命を受けるために行くべきところに行かせるためです。 

  そんな赤ちゃんがいることを見付けたら、わたしたちは自分の家族の一員として受け入れる必要があります。わたしには9人の子どもを持っている友人がいます。ある日、わたしは彼女に流産した子どもがいたことを聞きましたが、彼女はその子は自分の子どもとして数えていませんでした。わたしは彼女に言いました。「もしあなたの9人の子どもの一人が交通事故で死んだら、あなたは子どもは8人だけいたとは言わないでしょう。どうして一人は流産で亡くなっているのに9人の子どもだけいると思っているのですか」。すると彼女の顔には、「なるほど!」とその子を認める感動の表情になりました。彼女は家族全員を呼んで子どもは全部で10人であり、男の子は5人ではなく6人であったことを告げました。彼らはその赤ちゃんに名前をつけ、新聞紙上の家族の死亡欄に載せました。こうしてやっと彼の家族の中に受け入れられたのです。 

  わたしは度々宙吊りの赤ちゃんの叫びを聞きます。わたしはわざとそのような人々を探し回るわけではありませんが、ただ普通に主婦の仕事をしている間に誰かがわたしに手紙をくれたり、電話をかけてきたりします。また、会合やバスの中で誰かがわたしの傍に座る、スーパーマーケットの中でも、流産や堕胎や死者について話すということがよくあります。わたしが彼らを探す必要はないのです。彼らがわたしを見付けるのです。 

  わたしは誰にもわたしが何をしているか話しません。わたしはただ2つか3つの易しい質問をし、「その赤ちゃんとその家族のために祈りましょう」と言うだけです。時々、その赤ちゃんに名前を付けるとしたら、どんな名前を付けたかったか言って貰います。お母さんへの思いやりのある質問は、しばしば全家族の状態について多くのことを自由に話させます。そして、その話の中に時々別の宙吊りの赤ちゃんを見付けることが出来るのです。12ヵ月のうちにわたしは自分から探し出そうとしたのではなく、102人の赤ちゃんを天国へ送りました。 

4. 宙吊りの赤ちゃんの解放のしかた 

  宙吊りの赤ちゃんを助けるために一番大切なのは愛です。わたしたちの愛を貰ったら死んだ人々は神様の光に入るように導かれます。ですから第一の段階はその子どもにどんなに愛しているかを言わなければなりません。名前を付けて家族の一員として受け入れてからその子どもに謝ってください。今までその子どもについて考えなかったこと、祈らなかったこと、その子どもに対して犯した罪や傷について謝ってください。特に堕胎した子どもには、「わたしの罪を赦してください」と。他人の子どもの場合はその子どもの両親と親戚の代表として謝って赦しを頼んで下さい 。 

  次に亡くなった子どもは、色々な理由で罪悪感を持っているかも知れません。わたしたちは子どもたちが理性の働く年齢になる以前には、何が善いか、 何が悪いかを区別することが出来ないと思っています。けれども現代の科学者は胎内の赤ちゃんが考えたり自分と他人について評価したりすることだけではなく、意思決定をすることも始めると考えています。両親から望まれていない赤ちゃんを見てください。度々その赤ちゃんは、お母さんに対して反抗し愛情を拒みます。ですから、もし、どんな理由であれ子どもが罪悪感を持っているなら、イエスの名によって赦しを与えてください。彼らに、「あなたは赦されている。心配することはない」と言ってください。 

  それからわたしは、「あなたのために祈っているのですよ。他の誰かのためではなく、世界中の赤ちゃんのためではなく、あなただけのために祈っているのですよ」と言います。そしてわたしは、《主の祈り、アヴェ・マリア、栄唱》を唱えます。なぜなら、これ以上の素晴らしい祈りをわたしは未だかつて見付けたことがないからです。また、わたしはどんなに神様が彼らを愛しているかについて話します。わたしはイエスについて、またどんな風にイエスが彼らのために命を捧げたかについて話します。わたしは聖母についても、マリアが彼らのお母さんであるということについても話し、イエスにもマリアにも祈るように勧めます。 

  わたしはその子にわたしと同じ年齢の人のように、まるで親友であるかのように話しかけます。大抵この段階でその子は初めの段階より年が上になっていることにわたしは気付きます。もし、あなたがその子を赤ちゃんとしてだけ考えたら、赤ちゃんのような会話に終始しがちです。もし、あなたがその子をあなたと同じような一個の人間として考えたら、次のような大切なことを言うことが出来ます。「双子の一方であるあなたが死んでしまい、もう一方のお姉さんが死ななかったとき、あなたは本当に動転してしまったに違いないわね」。 

  わたしは優しく彼らに彼らの状況がどうであるかを説明します。つまり彼らはこの世に属していないのであって、彼らが行くことの出来る一番相応しいところに彼ら自身の場所があるのだということを。何人かは自分たちが死んでいるとは知らないし、あるいは「死んでいる」ということがどういうことなのか知らないのです。わたしは今までのところ天国がどんなところか知っている人を見つけることが出来ません。ある場合、その人は家族の中の誰かに取り憑き、その人を通して生きますが、彼らと取り憑かれた人とは別々のものであるということを彼らが自覚するように助け、彼らに自分自身であるよう励ますことはとても大切なことです。彼らにこの人から離れて他の誰かに取り憑くことが出来ると思わせないことも大切です。なぜなら、そうしないと彼らは決して自分たちがいるべきところに到着することは出来ないでしょう。彼らには、しばしばこの世から離れて進むために勇気づけや慰めや安心感を与えることが必要なのです。 

  天国について話す時、わたしは神学上の理論や説明を使いません。天国というのはこの世ととても違っているし、彼らはそこから遠くないので、説明は必要ありません。わたしは彼らにそこでは新しい生命を楽しみ、たくさんの友達を持ち、特別にすることがあるでしょうと言います。 

  それからわたしは彼らを神様に委ねます。わたしの祈りを助けるために、わたしは第一に、イエス・マリア・ヨセフ・天使たち、聖人たちに来てくれるように求めます。特にその子どもの死んだ兄弟、また先祖に彼を迎えてくれるように頼みます。第二に、イエスが彼らを祝福し、ご自分の死と復活による恵みを与え、光に導くように求めます。第三に、わたしは彼らのためにミサを依頼します。 

  以上のこと、特にミサを依頼し祈った後、「さあ、彼は天国へ行ってしまったからもう助ける必要はないのだわ」と思ってはいけません。彼はあなたの家族だったり、友人なのです。ですから、彼があなたの子どもであるなら彼に話しかけ、他の子どもたちと同じように記念日を憶えておき、子どもは4人ではなく5人いるし、男の子は1人ではなく2人だと頭に入れておくなら、 今は天国にいる友人にあなたを助けてくれるように頼むことが出来るのです。 

  そしてわたしの経験から、彼は今はとても感謝しているし、これからも感謝し続けるだろうということを心に留めておいてください。あなたの助けがなかったら、彼がイエスの救いの愛を受けて天国に入ることはもっと困難で時間がかかったでしょう。 

聖 書 

  「キリストは、罪のためにただ一度だけ苦しまれました。正しい方が正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きるものとされたのです。そして霊においてキリストは、捕わられていた霊たちのところへ行って宣教されました。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」。(1ペトロ 3:18~19; 4:6) 

  「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」。(1コリ 15:29) 

  「彼らが罪から解かれるように死者のために祈ることは、まことに宗教的、かつ敬虔なものです」。(2マカバイ12:45)

Mckay Francis (マッケイ フランシス)
コロンバン会会員
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