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老後の意味と価値

人は昔に比べて長寿となり、健康を享受できるようになった。また、高い教育レベルによって教養を深める事も可能になった。老後はもはや他人への依存や人生の質の低下と同義語ではない。しかし、これだけでは老後という言葉の持つマイナスイメージを払拭、あるいは現代人の多くが不可避で厄介な衰退と見なしている人生におけるこの時期を肯定的に受け止めるよう進言するのに十分ではない。 

老後を人生における衰退期、つまり人間的にも社会的にも適応性に欠けて当然であるという認識が実は今日非常に広まっている。しかしこれは月並みな考え方であり、実際には遥かに多様性がある。なぜなら老人は同質の一つの人間集団ではなく、様々な形で老後を経験しているという事実が全く考慮されていないからである。中には、人間が生存していく上での老後の重要性を把握し、落ち着きと威厳を持ってそれに向き合うだけでなく、成長と責任という新たな機会を提供される人生の時期として受け止める事が出来る老人もいる。また中には、こちらが大半であるが、老後とは精神的痛みを伴う経験であり、自らの老いに対してあきらめや反抗、拒絶、絶望にいたるあらゆる反応をする人もいる。こういった人は自分の殻の中に閉じこもった結果、自らの肉体的、精神的退歩のプロセスを加速させてしまう。 

従って、人生の第三期あるいは第四期というのは個々の老人の数と同じだけ多様なものであり、我々一人一人は老後に向け、そしてそれを如何に経験するかに向け、日々心構えをしているのだという事が言える。そういう意味で老後は我々と共に成長していくのである。そして老後の質は、人間的および信仰面の両方からその重要性を把握した上で、その価値を認識することができるかに大きく左右されるのである。つまり、我々は神の創造した環境の流れの中に老後を位置付ける必要がある。この時期を、父なる神のもとへキリストが導く旅の一段階として受け止める必要がある。決して裏切る事のない希望に力づけられた信仰をもってのみ、老後を贈り物として、キリスト教的に受け入れることができるのである。 

これこそが年をとっても追求し続けることができる精神的若さの秘訣である。106歳まで生きたリンダという女性がこのことを裏づけるすばらしい言葉を残した。101歳の誕生日に彼女は友人に次のように打ち明けた:「私は101歳になりましたがご存知の通り元気です。肉体的にいくつかの障害はありますが、精神的にできないことは何一つありません。肉体的障害には目もくれないのでそれらが立ちはだかることもありません。高齢であることを苦しいと感じたこともありません。なぜならそれを無視しているからです。自然に年は取りますが全く気にも留めないのです。老後を元気に過ごす唯一の方法は神を信じることです。」 

老後に対するマイナスイメージを是正することは、すべての世代の文化的、教育的任務であると言える。我々は今日の老人に対して責任がある。彼らの年齢の意義を理解し、内に秘めた力を認識し、高齢である事を拒絶したくなる気持ちに打ち克ち、孤独、あきらめ、無用であるという感覚、および絶望に屈服する事のないよう手助けする必要がある。我々はさらに次世代の人々に対しても責任がある。それは各人が人間的、社会的、精神的に威厳と豊かさをもって人生におけるこの時期を生きられるように準備を促がすことである。 

国連の老齢化に関する世界集会にあてたメッセージの中で教皇ヨハネ・パウロ二世は次のように断言している。「いのちは神の化身、そして肖像として創られた人間に対する神からの贈り物です。人間のいのちが神聖で尊厳あることを理解すれば、おのずと人生のあらゆる段階に感謝することができるでしょう。これは一貫性と正当性の問題です。子どものいのちが授精したその瞬間から尊ばれることがなければ、老人のいのちを心から尊重することなどできません。人間のいのちが絶対的で神聖なものとして尊重されなくなったら、我々はどうなってしまうかわかりません。」 

我々が切望する多世代社会は、あらゆる段階におけるいのちの尊重を追求して始めて実現できるのである。現代の多くの老人の存在は、贈り物であり豊かさのための人間的、精神的可能性と認識するべきなのだ。そうすることにより、現代の男女は市に集まった人々の影響力や政府あるいは今までのものの見方によって作り上げられていた全く不確定な意味を遥かに超越した真の意味でのいのちを再発見することが可能であるかもしれない。 

社会や文化をより人間的にするプロセスにおける経験豊富な老人の貢献は特に貴重である。老人特有の次にあげるようなカリスマ的資質ともいえるものを活用するべきである。 

公平無私:現在の文化では、効率性や物質的成功を基準に我々の行動の価値を測る。これは何の見返りも期待せずに他人に何かを提供したり、力を貸したりするといった公平無私の側面を全く無視している。時間のある老人なら、忙し過ぎる社会に利他的な衝動を低下させ、抑制してしまう無関心さという障壁を取り除く必要性を思い出させてくれるかもしれない。 

記憶:若い世代の人達は歴史の意識が薄れ、その結果として自己のアイデンティティも失いかけている。過去を無視する社会ほど同じ過ちを繰り返す危険が高いのである。歴史的意識が薄れた背景には、老人を社会の進歩から取り残し、孤立させ、世代間の会話を妨げた生活システムがある。 

経験:今日我々が生きている世界では、科学や技術的反応が人生を通じて積み重ねてきた老人の経験の価値に取って代わってしまった。こうした文化的障壁によって力を落とすことはない。なぜなら老人が若い世代に助言する事や共有する事が山ほどあるからである。 

相互依存:人間は一人ではない。しかし個人主義や自己探索の増長がこの事実を覆い隠してしまっている。老人は仲間を探そうとする際、弱いものがしばしば見捨てられるという事実に直面する。彼らは人間の社会的本質に気付き、そして個人個人や社会の関係を修復する必要性を喚起している。 

完成度のより高い人生のビジョン:われわれの人生は性急、動揺、そしてノイローゼに支配されている。職業や威厳、そして人間の運命といった根本的問題は忘れ去られてしまった乱れた人生である。老人によってつくられた感情的、倫理的、宗教的価値は、社会や家族や個人の調和を促がす上で欠かす事のできない資源である。この価値には、責任の意識、神への信仰心、友情、権力への無関心、慎重さ、忍耐、知識、そして平和をつくり育てる必要性を深く信じることも含まれる。老人は「持つ事」より「存在すること」のほうが遥かにすばらしいことを知っている。老人のカリスマ的資質を見習う事ができれば人間社会は改善するだろう。 

Billings, John (ビリングス・ジョン) 
Billings Ovulation Method Bulletin 
September 1999 
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