日本 プロライフ ムーブメント

正義にいたる真の道

ティモシー・マクベィに対する評決の直後に、地元のラジオ局がデンバーの連邦裁判所から数マイル離れたところで「通行する車による陪審」のようなものを行ないました。文字通り、それは殺人者を処刑する(または電気椅子にかける)ことを望むなら、クラクションを鳴らすというものでした。6月4日、水曜日の終わりまでに、2万4千人以上ものコロラド州の住民がクラクションを鳴らしました。

ほとんどのアメリカ人が死刑を支持しています。そしてそれはカトリック教徒もそうなのです。まともな人々が、社会における暴力にうんざりしているのはもっともなことです。彼らは自分たちの子どもやまた自分の身を守る必要があるのです。彼らは抑止力を必要としています。そしてその論理によれば、その抑止力がうまくいかないことがあっても、少なくともそれが殺人の犠牲者の親族に正義をもたらし、親族の気を納まらせることができるということになります。

これらは、特に今日、爆破事件の生々しくむごたらしい記憶に立ち向かう時、力強い主張となります。しかし、それは間違っています。聖職者のひとりとして、私は大司教管区の人々と善意を持った全ての人々に、有罪の評決が下された人々のためだけでなく、神に与えられた私たち自身の人間としての尊厳を守るためにも、死刑に背を向けるように求めます。その理由をお話ししましょう。

死刑反対の主張の大部分は、それが抑止力として機能しないというものですが、機能するとしましょう。

死刑反対の主張の大部分は、無実の人が時に有罪の評決がなされ処刑されることがある、法体系が少数派の人々や貧しい人々を差別している、多くの州で、他の弁護士を雇えなければ、被告がよい法律的助言が得ることができないというものです。これら全てのことは真実のようですが、それらを無視しましょう。

それでは、ある人が計画殺人で有罪だと仮定してみましょう。その人が、良い法的助言を得、適切な法的手続きを経て、慎重で適切な審議ののちに公正な陪審団によって、評決が下されたと仮定しましょう。それでも有罪となった人を殺すことは間違っています。それは生きている人々を高めることにならないのです。そしてそれは一時的には社会の怒りを静めることになるかもしれませんが、犠牲者を愛していた人々を悲しみから解放することすらできないのです。なぜなら許すことだけがそうできるからなのです。

死刑が実際に達成するのは、流血や暴力に暴力での決着ですが、それは決して決着にはならないのです。なぜなら人間が罪を犯す限り殺人は行なわれ続け、その本質によって、死刑は決して殺人の根源を断つことができないからです。そうできるのは、愛だけなのです。

マクベィに対する評決のことを考え、犠牲者の家族のために祈り、支援するするとき、私たちは自分の子どもたちのために、怒りを一時的に忘れる必要があります。そして私たちは、死刑について私たちがする選択のことをとても注意して考えることが必要です。テキサスでの処刑はまもなく、月に50件、日にほぼ2件に達するでしょう。そのことを、新聞を読んでいる、そしてラジオ局が主催する通りでの通行する車による処刑賛成調査に参加している若者の目を通してじっくりと考えましょう。これが、自分たちを文明人だと定義する方法でしょうか。これが亡くなった人々にふさわしい記念碑でしょうか。

このような言葉を書いていますが、私は殺人の現実が言葉にならないほど胸が張り裂けそうなものだということはわかっています。殺人によって愛する者を失った人々の深くつらい傷が理解できるふりをするつもりはありません。オクラホマ市の爆弾事件で亡くなった子どものたった一人でも取り戻せるなら、私は喜んで私が持てるものを何でも差し出すでしょう。人間として私たちは、自ら語ることのできない殺人やテロ行為の犠牲者に行なわれた不当な行為を、そして罪を犯した者に全ての責任をとらせる義務を忘れるようなことを決してしてはいけません。

しかしイエスが自らの言葉と行為によって示されたように、正義に至るただ一つの道は慈悲を通しての道なのです。正義は、さらに暴力を重ねることで達成されることはありません。「殺人者を処刑する」ということは、ある人にはこっけいに聞こえ、またある人には当然のことにように聞こえるかもしれません。しかし、間違いを犯してはいけません。死刑は、私たちの文化の向かう方向について私たちが抱く他のもっと深い心配を和らげるために飲むもう一つの薬にすぎないのです。処刑は一時的に、症状(神の前では名前とそれ自身のストーリーを持った症状)のいくらかは、取り去るかもしれませんが、その根底にある、人間のいのちを軽視するという今日の病気は残り続け、さらに悪化するのです。 私たちは、創世の書 四:10~16のことを研究することによって、いつかいくらかの智恵を見いだすかもしれません。人間最初の殺人者、流血を初めてこの世にもたらした男は公正な神によって許されました。その同じ神であるわれらの父が、マクベィを罰するときに裁判官と陪審を導いてくれますように!そして神が、私たち全員を神の慈悲の内にとどめてくださいますように!

Archbishop Charles J. Chaput(チャールズ・J・シャプー大司教)
デンバー大司教
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