日本 プロライフ ムーブメント

邪悪な胎児大量殺人

胎児の幹細胞調査の合衆国の資金に関しての討論の中で、いくつかのマスメディア報道は、公正で正確で完全なものですが、しかしあまりにもたくさんのマスメディア報道は、道理をわきまえたジャ-ナリストとしての道徳的規範から離れています。 

私が見た中で、断然最も悩ませるものは、7月14日付のデンバ-ポスト紙に掲載された「熱狂的行動 対 自然科学」という社説でした。私はその新聞と力を尊敬していて、それは、私達の地域社会を象徴しています。しかし、このケ-スではその新聞はあまり利口でないいじめっ子を思い出させる方法で、胎児の幹細胞調査のための合衆国の資金を支援するための議会において、大言壮語と誤った印象を与える情報を使用しました。 

人間の胎児の尊厳を尊重する人たちを熱狂者として払いのけ、その新聞社は彼らはアメリカ人にスペインの宗教裁判の犠牲者と同じ運命の病気を望んでいると告発しました。 

実際、忠実で倫理的信念のある人は、少なくともこの問題については公の場においては居場所がないと新聞社は主張しました。宗教裁判の責め苦に対する編集者のほのめかしはク-・クラックス・クランによって遂行されている何も知らない頑固な偏見のようなものを思い出させます。これは悪いジャ-ナリズムです。(その新聞の普段のきちんとした基準は価値がありません)コロラドの人たちはメジャ-な新聞からよりよい情報を得るのに、値する人々です。 

このことについて明快にしてみましょう。カトリックでは人間の胎児の破壊を必要とする医療の調査に本当に反対しています。何百人ものアメリカ人が、宗教的な理由やその他の理由によりこの倫理的な信念を共有しています。私達は科学と医療の前進を強く支援しますが、可能な医療治療を含む場合でさえも、表面上良いゴ-ルを達成するために不道徳な方法を用いることには反対します。 

どうしてでしょうか。なぜなら、もし、最近の百年における血なまぐさい遺物が私達に何か教えたとしても、その方法は決して正しいとはされないからです。 

人間の胎児を破壊する不道徳は、その新聞が『厳格な必要条件』と名づけているもので休止しません。むしろ、人間の生命の神聖さは、一世紀の『ディダケー』から第2バチカン公会議を通して、クリスチャンの信仰の不変の教えです。次のカトリック教会のカテキズムからの二つの陳述はこの教えを明快にしています。 

『人間の絶対的権利は市民社会と政治上の権力によって、認知され尊敬されなければなりません。そのような基本的な権利の中で、全ての人間の生命と身体の高潔の権利は受胎したその瞬間から死ぬまで守られることを述べるべきです。』(2273) 

『受胎した時から人として扱われなければならないので、胎児は他の人間と同じように可能な限りこの高潔によって守られなければならず、大切にされなければならず、癒されなければなりません。』(2274) 

この教えにもかかわらず、ポストと他の人たちは胎児を極微の細胞のかたまりと呼んだり、胎児は不必要なものと主張して胎児の人間性を奪うことを試みています。しかし、これら極微の細胞のかたまりは、遺伝子的に完全で唯一の人間の個体です。胎児は大人ほど人間ではないという悪い論理のように、彼らの小さなサイズは彼らの人間性を減少させるものではありません。事実、私達は全て、人間生命の連続を通しての私達の旅において、かつて同じ大きさでした。 

『不必要な』という言葉はまたとても不思議です。人間の尊厳を否定し、人を物のように扱うという功利的な倫理を明らかにします。この倫理の開業医は、犯罪を犯しているとして、60年以内の裁判にかけられました。今日、彼らはモラルの不変原理の無視の奇跡的な回復を約束しています。私達は悪いことは決してしないので善が結果としてそれから生まれるでしょう。その回復した約束は仮説ですが、真実さえも彼らは胎児の破壊の悪を決して正当化することはできません。 

第二の倫理原則は医学の前進の希望がないのでしょうか。いいえ、違います。パ-キンソン病患者を治療するための胎児細胞の使用はがっかりさせる結果だったけれども、大人の組織や出産後の胎盤から引き出された幹細胞は将来見込みのある結果を出しています。どの胎児の幹細胞も全ての倫理を踏まえた上では得ることは出来ません。 

これはずば抜けた重要さの関わる問題です。大統領と国会の代議士にあなたの信念と重要性を等しく知らせましょう。彼らのために日々祈りましょう。主は、彼らが正しいものを見て、正しい行いをするように導くでしょう。 

Archbishop Charles J. Chaput(チャールズ・J・シャプー大司教)
デンバー大司教
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