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教皇ベネディクト十六世の待降節第 - 主日前晩の祈り講話

11月27日(土)午後6時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は「待降節第 - 主日前晩の祈り」および「出生前のいのちのための前晩の祈り」を司式しました。以下は前晩の祈りにおける教皇の講話の全訳です(原文イタリア語)。「出生前のいのちのための前晩の祈り」は教皇の呼びかけでこの年初めて全世界のカトリック教会で行われました。 


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

この前晩の祈りをもって、主はわたしたちに新しい典礼暦年を始める恵みと喜びを与えてくださいます。典礼暦年はその第一段階である待降節から始まります。待降節は、神がわたしたちの間に来てくださったことを記念する季節です 。あらゆる始まりはその中に特別な恵みを携えています。なぜならそれは主に祝福されているからです。待降節の中で、わたしたちは、神が近づいてくださったことをあらためて体験する恵みを与えられます。神は世界を創造し、歴史を導き、そして、人となって、極みまでへりくだりながら、わたしたちを気遣われます。わたしたちとともにおられる神、それどころか、わたしたちの一人となられた神という、心を引き寄せられる偉大な神秘が、聖なる主の降誕に向けたこれからの数週間の中で記念されます。待降節の季節の間、わたしたちは教会に触れます。教会はわたしたちの手をとり、至聖なるマリアの姿に倣い、その母としての気遣いを示して、わたしたちに主の到来を待ち望む喜びを体験させてくれます。主はわたしたちを救い、慰めるご自身の愛のうちにわたしたち皆を抱きとめてくださいます。 

わたしたちの心が毎年祝われるキリストの降誕を目指すとき、教会の典礼はわたしたちの目を決定的な目的へと向けます。それは、栄光の輝きをもって来られる主との出会いです。だからわたしたちはつねに、感謝の祭儀を行う際、「主の死を告げ、主の到来を待ち望み、復活を告げ知らせる」ために、前晩の祈りをささげます。典礼はうむことなくわたしたちを励まし、支えます。そして、待降節の間、わたしたちの口に、聖書全体を締めくくる聖ヨハネの黙示録の最後の箇所の叫びを唱えさせます。「主イエスよ、来てください」(黙示録22・20)。 

親愛なる兄弟姉妹の皆様。待降節の歩みを始めるためのわたしたちの今晩の集いは、もう一つの重要な理由によって豊かなものとされます。わたしたちは全教会とともに、出生前のいのちのための前晩の祈りを荘厳に行うからです。わたしは、この呼びかけを受け入れてくださったかたがた、そして、さまざまな脆弱な状態にある人間のいのち、とくに始まったばかりの最初の段階のいのちを受け入れ、守るために特別な形で努力しておられるかたがたに感謝したいと思います。ちょうど典礼暦年の始まりは、おとめマリアの胎内で受肉した神をあらためて待ち望ませます。この神は小さくなり、幼子となりました。待降節は、近くに来てくださった神について語ります。この神は人の生涯を初めから体験しようと望みます。それは、いのちを完全に救うためです。だから主の受肉の神秘と人のいのちの始まりは、神の唯一の救いの計画の中で、互いに深く密接に結ばれています。神はすべての人、また一人ひとりの人のいのちの主だからです。受肉は、強い光をもって驚くべきしかたでわたしたちに示します。すなわち、すべての人のいのちは比類のない最高の尊厳をもっています。 

人間は、地上に住む他のすべての生物と比べて、みまがうことのできない独自性をもっています。人間は、物質的な要素から成るだけでなく、知性と自由な意志を備えた、唯一、独自の主体です。人間は、精神的次元と物質的次元を、同時に切り離しえない形で生きています。テサロニケの信徒への手紙一のテキストもこのことを示します。この個所はこう告げ知らせます。聖パウロは述べます。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたをまったく聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂もからだも何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」(一テサロニケ5・23)。それゆえ、わたしたちは霊であり、魂であり、からだです。わたしたちはこの世に属しており、物質的条件の可能性と限界とに結ばれています。同時にわたしたちは限りない地平へと開かれています。わたしたちは神と対話し、神を自分のうちに受け入れることができるからです。わたしたちは地上の現実の中で生きていますが、この地上の現実を通して神の現存を知り、絶対的な真理と善と美である、神に向かうことができます。わたしたちはいのちと幸福のかけらを味わいながら、完全に満ち満ちたものにあこがれます。 

神はわたしたちを深く、完全に、区別なしに愛してくださいます。神はわたしたちをご自身の友となるよう招いてくださいます。神はわたしたちを、あらゆる想像と思考と言語を超えた現実、すなわち、神ご自身のいのちにあずからせてくださいます。わたしたちは、感動と感謝をもって、すべての人間の人格が価値と比類のない尊厳を有し、自分たちがすべての人に対して大きな責任を負っていることを自覚します。第二バチカン公会議はいいます。「最後のアダムであるキリストは、父とその愛の神秘を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・・事実、神の子は受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」(『現代世界憲章』22参照)。 

イエス・キリストを信じることは、人間に対する新たな見方をもつこと、信頼と希望に基づいてものを見ることも含みます。さらに、経験と正しい理性も次のことを示します。人間は、意図し、意志することができる主体であり、自己意識と自由をもち、かけがえのない、地上のすべての存在の頂点です。わたしたちは人間を、それ自身において価値をもち、つねに尊敬と愛をもって受け入れるにふさわしいものとして認めなければなりません。人間は、所有の対象として、あるいは好きなように操作しうるものとして扱われない権利、他者の便宜や利益のための単なる手段におとしめられない権利をもっています。人格はそれ自体において善であり、つねにその完全な発展が目指されなければなりません。さらに、すべての人に対する愛は、もしそれが真実なものであるなら、自然に、もっとも弱い者、貧しい者に優先して目を向けます。出生前のいのちに対する教会の関心もこのような視点のもとに位置づけられます。出生前のいのちは、大人の利己主義と曇った良心の脅威に何よりもさらされた、もっとも脆弱な存在だからです。教会は、人工妊娠中絶と出生前のいのちを侵害するあらゆることがらに反対する第二バチカン公会議の宣言を繰り返して述べ続けます。「生命は受精のときから細心の注意をもって守護しなければならない」(同51)。 

さまざまな口実を理由に良心を麻痺させようと努める文化的傾向が存在します。母胎内の胎児に関して、自然科学も、母親と相互作用を行うことのできる自律性、生物学的諸過程の調整、発展の連続性、有機体の複雑化を強調します。胎児は生物学的な素材の堆積物ではありません。それは生きている、動的で、驚くべきしかたで秩序づけられた新たな存在であり、人類に属する新たな個人です。マリアの胎内にいたイエスもそうでしたし、わたしたちも皆、母親の胎内にいたときそうだったのです。古代のキリスト教的著作家であるテルトゥリアヌス(160以前-220年以降)とともに、わたしたちはこういうことができます。「人間になろうとしている者もまた人間である」(『護教論』:Apologeticum IX, 8〔鈴木一郎訳、『キリスト教教父著作集14 テルトゥリアヌス2 護教論(アポロゲティクス)』教文館、1987年、27頁〕)。胎児を受精のときから人格とみなさないいかなる理由もありません。 

残念ながら、誕生した後も、子どものいのちは、遺棄、飢餓、貧困、病気、虐待、暴力、搾取にさらされ続けます。世界で行われている子どもの権利のさまざまな侵害は、すべての善意の人の良心を深く傷つけます。誕生の前においても後においても、人間のいのちに対して不正が行われている悲しむべき状況を前にして、わたしは、すべての人、そして一人ひとりの人に対する教皇ヨハネ・パウロ二世の激しい呼びかけを繰り返したいと思います。「生命、あらゆる人間の生命を尊重し、守り、愛し、これに仕えてください。この方向においてのみ、わたしたちは正義、発展、真の自由、平和、幸福を見いだすのです」(回勅『いのちの福音』5)。わたしは政治、経済、メディアの指導者に促します。可能な限り、人間のいのちをますます尊重する文化を推進してください。いのちを受け入れ、発展させるために役立つ条件と支援態勢を作り出してください。  おとめマリアは、人となられた神の子を受け入れました。信仰と、自らの母胎と、優しい気遣いと、深い愛と連帯をもって付き添うことによって。わたしたちはマリアに出生前のいのちを守るための祈りと取り組みをゆだねます。典礼は、わたしたちが真理を生き、また真理がわたしたちとともに生きる場です。わたしたちは聖体礼拝を行いながら、この祈りをささげます。わたしたちは聖体のうちにキリストのからだを仰ぎ見ます。キリストのからだは、わたしたちの救いのために、聖霊のわざによってマリアからからだを受け、ベツレヘムでマリアから生まれました。「めでたし、おとめマリアから生まれたまことのからだよ(Ave, verum Corpus, natum de Maria Virgine!)」。アーメン。 

 

Editorial (オピニオン)
Catholic Bishops’ Conference of Japan
2010年11月27日
出典 カトリック中央協議会
司教協議会秘書室研究企画訳
Copyright ©2010.12.5.許可を得て複製