日本 プロライフ ムーブメント

天国のイメージと個人主義

「このような(天国)の希望は、近代になってますます厳しい批判にさらされるようになりました」。婦人たちの読書会で今読んでいるベネディクト16世の回勅『希望による救い』(カトリック中央協議会訳)の一節(13)である。この批判とは一体なにを意味するのだろうか。教皇が強調するからにはやはり今日的な理由があるに違いない。

実は、回勅のフランス語版には、「この批判とは、悲惨なこの世を捨て、永遠の救いに自分ひとりで(個人的に)逃避する、まったくの個人主義(pur individualisme)についてである」とあり、この一文が中央協議会訳には完全に欠落している。

上記の言葉の前に、教皇はキリスト者の永遠のいのちへの希望が天国というイメージで象徴的に表現され、このような表現を通して「多くの人々を信仰によって生きるよう促してきました」と述べている。ただ、天国のイメージは、永遠のいのちが「知らずに(体験せずに)知っていること」であるがゆえに、必ずしもキリスト者の希望の内容を正確に表現しているとは言えないため、個人主義に陥る危険があり、また実際に個人主義的な解釈があったことを認めている。その上で、回勅は、永遠の救いが共同体の救いであることが強調されるのである。

ここでまず、回勅は、罪が「人類の一致の破壊、すなわち人類の分散と分裂」であると断定し、分裂した人類のあがないは「一致の回復にあることを明言している。従って、愛によって一つに結ばれた「至福の生」こそがキリスト教的希望の実体であり、従ってまた、人間は「わたしたち」の中で初めてこの真のいのちに達することができるのであり、そのためには、わたしたちが自分の「わたし」という牢獄から抜け出ることが必要である」と強調している。

この回勅の教えの中でわたしの興味を引いたのは、教皇が神学者アンリ・ド・リュバク(1896-1991)の名著『カトリシズム』における教父の教えを強調していることである。ド・リュバクは周知のとおり第2バチカン公会議で指導的役割を果たした神学者の一人であり、キリスト教的救いないし希望の本質が共同体的なものであることを明確にした『カトリシズム』は日本語に翻訳されている(小高毅訳、エンデルレ書店・1989)。

一方、「教父」とは、8世紀までの古代教会で「かなりの時間を割いて教理を忠実に教えた聖なる司教たちのことで、カトリック教会の教えの源泉となる「聖伝」の担い手として、「教会の父たち”Patres Ecclesiae”」(略して教父)と呼ばれており、一部司祭を含めて数百人が数えられる。わたしは今回あらためて『カトリシズム』を読んだが、教皇が賞賛するように、教父たちの教えが全巻に溢れている。

さて、回勅は、キリスト教的希望の共同体性(ド・リュバクは「社会性」ともいう)の証として、クレルヴォーのベルナルド(1090-1153)による修道会の改革について述べている。

「一般に、修道院は、個人の救いを求めるために、この世から逃避し(contemptus mundi)、この世の責務から退く場所と考えられてきました。ベルナルドは多くの若者に自分の改革修道会に入るよう促しました。ベルナルドによれば、修道士は全教会のため、従って全世界のための任務を持っています」。

かつてわが国では女子観想修道会トラピスチヌ修道院は失恋者が世をはかなんで逃避するところという誤解が広がったことを思い出している。しかし、実際はそうではなく、修道者は世間から離脱しても、それは純粋に神に仕え、世の人々のため、祈りと奉仕に身を捧げるためであって、彼らの心は教会と人類とに固く結ばれている。

ここで、アンリ・ド・リュバクが『カトリシズム』で強調している一つの点、すなわち、人類あがないの業が人類の歴史の中で始められ、行われていることに触れておこう。この世の生は永遠のいのちに至るための前提であり、一つの人間本性を共有する人類は、肉体と魂を一体化した人格としてこの世において創造され、この人類の一致を破壊する罪も、これをあがなう救いも、人類の歴史という舞台で生起する。永遠の救いは現世において始められ、準備される。だから、天国をあてにして世を捨てるなどできるはずがない。修道者がそうであれば、修道者でないものも、おのおのの召命に従い、霊肉両面にわたって共同体に参加し、人類と「産みの苦しみ」(ローマ8,22)をともにしながら天国を目指なければならない。

Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
2016年12月10日帰天
糸永真一司教のカトリック時評
出典 折々の想い
Copyright ©2009年2月25日掲載
2021.10.4.許可を得て複製