日本 プロライフ ムーブメント

ボニファチオ・フィリップ神父様のお説教 – 2

2017年8月10日 – 今日、わたしたちは、流産したため、また、よくよく考えたあとに産むのをやめたために、生まれてくることができなかった子どもたちを思い、一緒にミサをささげます。 

誰かが亡くなると、わたしたちはいつも葬儀に参列して、その人の一生を思い、どれだけわたしたちを感動させてくれたかを思い起こします。しかし生まれなかった赤ちゃんにとっては、生まれるはずの時が来る前に、死に直面してしまうのです。神様からの贈り物だとわかる喜びに出合うチャンスがなかったのです。お母さんの腕の中に抱かれた姿や、お父さんとキャッチボールをして遊ぶ姿を見ることはないでしょう。子どもの成長を見ることもないでしょう。 

悲しいことに、今の世の中では、生まれる前の子どもたちにはあまり価値が置かれていません。今の政府は、生まれる前の子どもたちは何の権利もない、生きる権利さえ持たないとはっきり言っています。毎日何千人もの子どもたちが命を落としています。病気や事故のためではなく、母親が悩んだ末に、自分の体内から自分の子どもを取り去っているからです。そのような、望まれなかった子どもたち、自分を守る力のない子どもたちは、葬式やお墓に埋葬されることさえなく、用のないくずのように扱われているのです。今日、思い起こす赤ちゃんたちも、わたしたちと同じ人間なのだと、このミサで、世界に向かって、はっきり宣言しましょう。 

次の聖書に出てくる赤ちゃんたちは、子どもがほしいと思っていた親たちによって、ずっと長いこと望まれて、愛されました。聖書は彼らを『胎内の子』と呼んでいます。(創世記25:22、38:27、コヘレトの言葉11:5、ルカ福音1:36、44)『見よ、子どもたちは神のたまもの。生まれる子は神からの祝福。』(詩編127:3) 

もっとたくさんの愛情深い父親がいなければ、だれが赤ちゃんの大切さを理解するのでしょう。もっと多くの愛情深い母親たちがいなければ、だれが子どもを欲しいと望み、いつくしみ深い神さまからの贈り物だと理解するでしょう。わたしたちはまた、罪に苦しむ親たちを元気づけるために集まっています。わたしたちは赤ちゃんをめぐって涙を流すことができません。知るチャンスもなかったのです。でも親たちと一緒に涙を流すことはできます。聖書がわたしたちに教えていることは、『泣く人ととも泣きなさい。』です。(ローマの信徒への手紙12:15)わたしたち一人ひとりができる限り、悲しむ親たちを元気づけましょう。親たちをはげまし、勇気づけましょう。悲しみのうちにある彼らのために祈りましょう。 

この子どもの死からわたしたちは何を学ぶでしょうか?さらに今日、わたしたちが思い起こす純粋で穢れのない赤ちゃんたちの魂の運命について、何の疑問も持ちません。これらの赤ちゃんの形ある体はゴミ入れにすてられますが、彼らの魂は、与えてくださった神さまのところに帰って行くでしょう。子どもたちは今、父である神さまと一緒にいるのだと思うとわたしたちは嬉しくなります。 

それでも、赤ちゃんたちの死を無駄にしないように、忘れないようにしましょう。天から聞こえる赤ちゃんたちの声が聞こえます、「将来、ママ、パパ、ばあば、じいじ、どうぞわたしがいるところへ来てください。とっても会いたいし、一緒にお話がしたいよ。」 

人間の命の尊厳は政治家たちによってはげしく議論されています。しかし、実際の問題は「選ぶこと」ではなくて、「いのちの始まり」です。使徒言行録17:25によれば、『すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。』どんな命にも目的とわたしたちの考えを超える価値があります。それは、だれもが天におられる父によって深い愛で作られたからです。だから、命、それも力を持たない命を守りましょう、そして声の出せないものたちのために声を上げて伝えましょう。 

キリスト者として、神を畏れる人間として、命の尊厳を弁護して、命の尊厳について宣べ伝えていきましょう。アーメン 

Bonifacio,Philip (ボニファチオ・フィリップ)
Copyright © 2017.10.7
カトリック松戸教会主任司祭
コロンバン会
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