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エロスと甘え「求める愛」をめぐって

「エロスと甘え」とは奇妙な取り合わせだが、最近読んだ本の中でこの二つは「求める愛」という表現の中で一つにつながったのである。その本とは、一つは教皇ベネディクト16世の回勅『神は愛』(2005年・邦訳はカトリック中央協議会)であり、もう一つは土居健郎の『続「甘えの国」』(2001年、弘文堂)である。これは、独りでは生きられない人間本来の姿を理解するうえできわめて重要だと思うので、あえて話題にしたい。 

ベネディクト16世は、キリスト教信仰の核心である「愛」をその最初の回勅のテーマに選び、伝統的な二つの愛の表現、すなわちエロスとアガペの区別と一致について述べている。回勅によれば、エロスとは本来、男と女に造られた人間本性に根ざす「求める愛」であり、それはまた、神の愛を求めて「上昇する愛」である。そしてアガペとは、愛である神が無償で「与える愛」であり、それはまた、人間の愛を求めて「下降する愛」である。そしてこの二つの愛は、十字架上で命をささげるキリストにおいて一つに結ばれ、こうして「人間の愛」エロスはキリストにおいて清められ、高められて「神の愛」アガペの中で完成される。 

回勅はさらに言う。啓蒙主義以来、キリスト教批判の中でアガペは無視されてきた。理性の自立を主張する近代合理主義は主観主義を生み、主観主義は個人主義となり、欲望に駆られて利己主義に毒される。このような時代精神の中にあって、人のために自己を与えるアガペなど無用である。一方、性が人格から切り離され、享楽の具または商品とされるに至ってエロスは堕落し、単なるセックスを意味するものとなった。だから、今こそエロスとアガペの見直しが必要である。 

1971年に出された土居健郎の『甘えの国』はつとに有名であるが、これまでの総括として書き上げられたのが『続「甘えの国」』である。その中の第一篇第二章「甘えの概念」で、C.S.ルイスの著書『四つの愛』(新教出版社)の冒頭にある「与える愛」(Gift-love)と『求める愛』(Need-love)を取り上げ、「ルイスの言う「求める愛」はほぼ「甘え」に相当することは明らかだと思う」(77ページ)と述べている。 

土居によれば、甘えはすべての人間に本来備わっている「求める愛」の日本的表現であって、それは母親に対する赤子の甘えに象徴的に見られるが、大人になっても形を変えて存在する。この甘えを否定することは、人に依存しないでは生きられない人間性を否定するに等しい。その証拠に、幼児期に甘えを体験したことのない子どもは、その人格形成に支障をきたすと警告している。加えて、西欧個人主義の影響を強く受け、過度に自立を要求する今日的風潮のもとでは、人の助けを必要と感じても人に頼ることができず、孤独地獄の中で鬱々として悩むことになる。この孤独地獄は日本人の間に蔓延しており、自殺その他、様々な悲劇となって顕在化するわけだ。 

土居はまた、福音の教えには甘えの精神があると言ってはばからない(土居健郎著『甘え・病い・信仰』(長崎純心レクチャーズ第3回、2001年・創文社参照)。この本の中で、土居は「(人間)キリストはこの世におられた時、自分を死から救うことができる方に大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いを捧げました」(ヘブライ5,7)などの聖句を引用して、「そういうわけで、キリストを信じるクリスチャンは、神に対して甘えることが可能になったのです」(103ページ)と言っている。ベネディクト16世の言う、まさに「上昇する愛」である。 

以上で明らかなように、人間は本来独りでは生きていけない存在であり、互いに助け合って生きる社会的存在である。人間のこの偽らない姿を表現するのがエロスであり、甘えであって、この二つは「求める愛」において一致する。従来、エロスといえば堕落した性愛、甘えといえば自立できない未熟者との誤解があったことは否めない。そのような誤解を生む現象も見られた。だが、エロスや甘えの本来の意味を考えれば、人間のあるべき姿があらためて理解されるのではないだろうか。そのためにも、エロスと甘えのマイナス・イメージの見直しが、今、切に求められているように思う。

Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
2016年12月10日帰天
糸永真一司教のカトリック時評
出典 折々の想い
2007年5月10日掲載
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