日本 プロライフ ムーブメント

いのちへのまなざし (21世記への司教団メッセージ)

キリスト降誕二〇〇〇年の大聖年は、全世界のカトリック教会にとって、とても大きな意味を持つ一年でした。いうまでもなく、神の子・キリストの誕生は、わたしたち信仰を生きる者にとっては土台です。わたしたちはそこに、わたしたちのために尊い御ひとり子を惜しみなく与えられる神の極みない愛を見ます。神がそれほどまでにわたしたちを愛し、大事にしてくださっているという事実は、わたしたちには揺らぐことのない希望と喜びを与えます。

目次 

あいさつ

はじめに

第一章:聖書からのメッセージ

第二章:揺らぐ家族

夫婦について

性と生殖、そして家庭

親子について

高齢化社会を迎えて

第三章生と死をめぐる諸問題

出生前診断と障害者 

自殺について

安楽死について

死刑について 

生命科学の進歩と限界

脳死と臓器移植

ヒト胚の研究利用・人間のクローン・遺伝子治療

環境問題

おわりに


あいさつ

キリスト降誕二〇〇〇年の大聖年は、全世界のカトリック教会にとって、とても大きな意味を持つ一年でした。いうまでもなく、神の子・キリストの誕生は、わたしたち信仰を生きる者にとっては土台です。わたしたちはそこに、わたしたちのために尊い御ひとり子を惜しみなく与えられる神の極みない愛を見ます。神がそれほどまでにわたしたちを愛し、大事にしてくださっているという事実は、わたしたちには揺らぐことのない希望と喜びを与えます。 

昨年一年、全世界のカトリック教会は、教皇ヨハネ・パウロ二世の力強いリーダーシップのもとに、世界各地で、二〇〇〇年前のキリストの降誕の神秘に集中し、信仰を新たにし、神への賛美と感謝に浸りました。カトリック教会にとっては実に喜びの一年でした。 

しかし、わたしたちの生きている日本社会は、それとはまったく逆の状況にあります。何ともいえない不安と悲しみに覆われています。バブル経済の崩壊による社会全体の行き詰まり、家族のきずなの希薄化、学校教育現場の混乱、そして少年たちによるさまざまな残酷な事件や、中高年層の自殺増加など、悲しい事件に満ちあふれ、実に多くの人々が、複雑な社会の現実の 中で、光も支えも見いだせず、深い闇の中で苦しみ、のたうち回り、叫びをあげています。 

神がおつくりになり、その御ひとり子をお与えになるほど愛された人間の尊いいのちとその一回限りの人生が、不幸な状況の中に生きているということ、それを抜け出すためにどうしてよいか分からないままでいること。ここに、わたしたちカトリック教会の司教団が、いのちと人生についてのメッセージを世に送ろうと決意した一つの理由があります。 

また一方で科学は進歩し、生活はますます便利に、そして快適になっています。物質的な豊かさと幸せを求めようとする人々の勢いは、とどまることがありません。またとくに、格段に進歩する生命科学や医療技術も、人間の目先の幸せのために利用され、神の分野をも侵してしまうような恐れも現実となってきました。「この世界は人間だけのものではない。人間の幸せも、この世で完結するものではない。世界は神の手の中にあるものであり、人間の営みも、神とのかかわりの中で完成され充実していくものである」ということを明確に伝えたいということも、このメッセージをまとめようとしたもう一つの理由です。 

わたしたちはこのメッセージが、人生を真剣に、そして誠実に生きてみたいと願うすべての人々のいのちとその人生を照らす光、支える力となり、困難な人生を歩んでいく勇気と希望となって、とくに大聖年を通じてわたしたちが日々に味わっていた生きる喜びが、日本社会の隅隅にまで広がっていくことを、心から願います。わたしたち一人ひとり、被造物すべてのいのちをやさしさといつくしみをもって見守る神のまなざしが、わたしたち一人ひとりのまなざしとなり、すべての人が与えられたいのちを十全に生きることができるよう願って、このメッセージを送ります。 

二〇〇一年一月 
日本カトリック司教協議会会長 島本 要


はじめに

1。キリストの降誕二〇〇〇年を契機として、わたしたち日本のカトリック教会の司教たちは、信仰を同じくする信徒、司祭、修道者だけでなく、新しい世紀を生きるすべての人に、いのちの尊さを訴えるこのメッセージを送ります。それは、新たに始まった世紀の歩みとその発展が、神から一人ひとりに与えられたかけがえのないいのちを尊び、互いへの深い敬意と揺るぎない信頼の上に立って、国家、民族、言語、信条、宗教の違いを超えた共生の文化を築き上げることを願ってのことです。 

二十世紀の反省のもとに
2。さて、ここで、新しい世紀のはじまりにあたって、わたしたちが、いのちの尊さを取り上げ、広く訴えようとする理由は幾つかありますが、その一つは、二十世紀の悲惨な歴史に対する反省に立ってのことです。 

過去の人類の歴史を振り返るとき、実に二十世紀ほど、おびただしい数の戦争と、核兵器を含むハイテク兵器による大量殺戮が行われた時代は他にありません。第一次世界大戦、第二次世界大戦でいのちを奪われ、その人生を狂わされた人々の数は限りありません。ユダヤ民族の抹殺を謀ったナチスによる残酷きわまりない弾圧と虐殺、また、日本軍による南京大虐殺や住民を巻き込んだ沖縄の地上戦など、アジア諸国を巻き込み戦場にした、アジア太平洋戦争も二十世紀のことでした。 

このように、戦闘員だけでなく一般市民をも巻き込む殺戮は、その後も絶えることなく至るところで続いており、自分と家族のいのちを守るすべをまったく持たない多くの男女、子供、老人たちが傷つけられ、殺されています。 

二十世紀は、実に多くの人々の人生を軽んじ、そのいのちを虫けらのように踏みにじった世紀でした。その背景には、絶対化された国家主義、イデオロギー、民族主義があり、さらにその奥には、為政者たちの利権と権力への飽くなき野心が見え隠れしています。わたしたちは、こうした悲惨な歴史を繰り返さないために、他の何よりも、いのちは尊いものであるということを訴えたいのです。 

経済発展を最優先にした日本社会のゆがみをみて
3。また、わたしたちは、第二次世界大戦後の焼け跡の中から立ち上がり、経済的に豊かになった日本の社会が、多くの人々の人間性の犠牲の上に成り立っていると理解しています。それも、このメッセージの動機の一つとなっています。 

経済的な発展を遂げることを最優先にして構築された社会のシステムは、子供たちを実に激しい受験・進学競争に走らせ、大人たちを寸暇のゆとりもないほど仕事に駆り立てる「組織の人」にしてしまいました。その結果、家族のきずなは希薄になり、家庭は空洞化し、教育の現場はすさみ、ベテランの教師たちにとっても授業を行うのが困難な状況になってしまいました。 

耳をすませば、家庭の中から、学校の中から、そして職場の中から、こうした経済優先の功利主義的社会の仕組みによって痛めつけられ、押しつぶされ、息絶え絶えになって苦しむ人々のうめきと叫びが聞こえてきます。利潤を追求し、物質的な豊かさを求めるあまり、能力があるかないか、役に立つか立たないかで人間を評価し、その結果、年老いた人々や病んでいる人々、ハンディキャップを負った人々が社会の片隅に追いやられています。こうしたゆがんだ人間観や価値観が、人々を不幸にしているのです。これを正さなければ、日本社会の明日はないとわたしたちは判断し、一人ひとりの人格が尊重され、人生が充実するためには、いのちの尊さやその神秘をあらためて確認していく必要があると考えました。 

科学技術・生命科学の進歩を前にして
4。また、このメッセージをまとめていくにあたり、二十世紀に入って急速に発展し、今やいのちの神秘の分野にまで介入する力をつけてしまった科学技術のことも念頭にありました。 

今世紀に入って、科学技術、とくに医療技術は格段の進歩を遂げ、生活は非常に快適になりました。以前には治療手段のなかった多くの病気が克服され、平均寿命も一昔前の時代には考えられないほど長くなりました。それは確かに称賛すべきことであり、そのために日夜研鑽に打ち込む科学者のかたがたに感謝を表明することにわたしたちはやぶさかではありません。しかし、また一方で、たとえば、科学や医学の先端分野の中で、生と死にかかわるさまざまな操作において、人間の手が無原則に神の領域にまで立ち入ってしまうことに、危惧の念を抱きます。わたしたちは、その成果を利用する際に、超えてはならない一線があることを訴えたいと考えました。 

環境汚染によるいのちの危機
5。また、さらに、二十世紀に入り急速に拡がった環境汚染によって、あらゆるいのちが危機に瀕していることも念頭に置いています。 

自動車の排気ガスや工場の煙突から出る硫黄酸化物・窒素酸化物によって大気が、そして高濃度の水銀やカドミウムなどの有害物質を含んだ工場排水などによって海が、そしてまた、産業廃棄物や農薬や生活排水などによって大地が、汚されてしまっています。その結果、地球は、もはや安心して生の営みを続けていくことが難しい場になってしまいました。酸性雨は森林を痛めつけ、湖や河川で生きる植物や小動物を絶滅の危機に追いやっています。また、有害なダイオキシン等の物質を含んでしまった大地は、人体や植物をむしばんでおり、工場の排水が流れ込んだ海では奇形となった魚が多く見られるようになっています。 

この責任は、わたしたち人間にあります。経済至上主義で、刹那的な豊かさのみを求め続けてきたために、地球全体の秩序と調和をゆがめただけでなく、地球をいのちあるものにとって危険な場にしてしまったのです。欲望のままに生きてきたわたしたちの生き方を改め、いのちの尊さ、いのちの神秘を最優先する生き方に転換しなければ、地球は救われず、いのちあるものは希望を見いだすことができないのです。 

わたしたちはこのような思いから、このメッセージをすべての善意の人に送ります。

第一章 聖書からのメッセージ

生まれたばかりの幼子の中に輝くいのち・神のたまもの
6。今日もまた、世界のどこかで、そしてわたしたちの身近なところで、多くのいのちが産声をあげています。母親の腕の中に包まれてすやすやと安らぐ小さないのち。いのちの神秘について認識を新たにしていくためには、欲望が支配し、それぞれの利害関係がぶつかり合って、些細なことで互いのいのちを無視したり、傷つけたり、踏みにじったりしてしまう現実から身を離して、わたしたち自身を、誕生したばかりの幼子の前に置いてみることは大事なことかもしれません。 

 生まれたばかりの幼子の前では、単純さが支配し、いのちの尊さとその神秘について、人はみな、それぞれの立場を忘れ、理屈なしに共感し合います。なぜなら、裸の幼子は、身分や地位や権力から無縁だからです。その前では、だれもが素直になり、無防備となって、やさしい柔らかな心に立ち戻ることができるからです。 

 また、小さな幼子を前にするとき、両親をはじめだれもが、素直に、子供は天からの贈り物、神のたまものという思いに浸ります。それは、男女の愛の結晶として生まれた子供であろうと、どんなに複雑な事情のもとに生まれた子供であろうと、違いはありません。みな同じように、人間を超えた偉大な存在によって恵まれたものであるという素朴な実感に浸ります。 

神が人間を創造し、祝福した
7。だれもが抱くこの素直な実感を裏付けるかのように、聖書は、すべてのいのちは、神の創造によるものであり、神の特別な愛のたまものであると宣言しています。 

神は天地創造の前からわたしたちを愛し、選ばれた。(エフェソ1.4参照) 

神は、ご自分にかたどって人を創造された。(創世記1.27) 

いのちは、神のわざであり、神のたまものです。これは、わたしたちカトリック教会の揺らくことのない確信です。わたしたちは、ここに、人間のいのちの尊さについての絶対的な根拠があると信じています。人間が安易にいのちの分野に介入すべきではないと、わたしたちが強く訴える根拠もここにあります。どんな人であろうと、すべての人は軽んじてはならないという根拠もここにあります。 

わたしたちは、さらにここで、神が人間を創造した後すぐさま「人間を祝福した」(創世記1・28参照)と、聖書が記している事実も強調したいと思います。そこに、人間に対する神の心が示されていると思うからです。 

わたしたちは、身近な者が入学したとき、結婚したとき、就職したときなどに、それを祝福します。祝福とは、相手が望ましい何かを獲得したとき、それを一緒になって喜ぶ心を表します。と同時に、獲得した新しい可能性が開花していくことを願う祈りも込められています。聖書は、創造された人間を神が祝福したということをもって、神が人間の誕生を心から喜んでいると同時に、その与えられた可能性が開花していくことを望んでおられることを明らかにしているのです。 

神の手に導かれ支えられて
8。事実、聖書は随所で、神がどんなに人間を大切にしているか、そしてその人生を支えるために、どのように配慮し、働きかけているかを明らかにしています。 

あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(マタイ1O・30-31) 

これらの小さな者が一人でも滅びることは、 あなたがたの天の父のみ心ではない。(マタイ18・14) 

自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。いのちは食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。……あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6・25,32-33) 

永遠の神が人間の誕生を喜び、その人生が幸せになることを願い、そのために働き続けていてくださるということ、この事実ほど人間にとって心強いことがあるでしょうか。それは、どんな厳しい状況になっても生きることをあきらめず、絶望もせずに生きていくための確かな希望を与えてくれます。 

神の創造のわざへの協力としての男女の営み
9。さらに、聖書は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1・28参照)と、人間を創造した神の意図を伝えます。これは、すべてのいのちが神の手になるものであることを前提にしながら、同時に人間の創造が、男と女の愛の交わりを通して実現されることを明らかにするものです。それは、男女の営みが神の創造のわざへの参与であることを示すものです。「神なくして人間の誕生はありえない」ということも真理であれば、また、「男女の交わりがなくしては人間の誕生はありえない」ということも、軽視することのできない真理です。 

人間の誕生は、実に神の営みであると同時に、男女の愛の営みによるものでもあるということです。この視点に立つとき、ここに、無責任な男女の性の営みに対する警告と、人間の思いが先行し、いのちの誕生に関して、神の分野にまで安易に介入していくことに対する警告を読みとることができます。 

人は独りで生きられない
10。また、聖書は、人間は、自分独りの力では成長することも、秘められた可能性を豊かに開花させることもできないことを、「人が独りでいるのはよくない」(創世記2・18)ということはで表現します。聖書は、人間が神に依存するものであることを明確にしながら、生きていくため、成長していくため、その人生を豊かにするために、他の人間との出会いが必要であることを明らかにします。この人間の根元的な必要にこたえようと、神は「彼にふさわしい助け手を与えよう」(創世記2・18参照)とします。(1) 

「ふさわしい助け手」を与えられた人間にその喜びと感動を、聖書は「これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉」(創世記2.23参照)と語らせています。これは、人生の伴侶を見いだした喜びです。この喜びと感動は、結婚のきずなによって永続的に深められます。「ふさわしい」伴侶を見いだしたすぐ後に、聖書は「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2・24)と記しています。 

二人のこの「一体性」は、一人ひとりのエゴイズムと経済優先社会の多忙なリズムと効率重視の分業意識によって絶えず脅かされ、損なわれてきました。二人を分け隔て、裂こうとする社会のあらゆる傾向や力に対して、ともに逆らって進もうと決意すること……そのことのためにも二人の「一体性」が必要であり、またその深まりを祈り求めなければなりません。この夫と妻の強いきずなと結束が、やがて誕生する新たないのちを迎え入れ、愛し愛されることの豊かさを実現する家庭生活の安定した最初の出発点となるのです。 

(1) 
「ふさわしい助け手」は、聖書の原文では「ケネグドー・エーゼル」となっています。 


「助け手=エーゼル」とは、互いに補い合い、助け合うことを意味しています。富む者、能力のある者、経験のある者などが、それぞれに与えられた能力や経験をもって他の人々を支え、助け、奉仕する、それが「エーゼル」です。幼い子供を支える親、子供たちに教える教師、病人をいやす医者、年老いた人を介護するヘルパー、貧しい人々に奉仕する人、これらの人々はすべて、それぞれの相手に対し、「エーゼル」としての役割を果たしていることになります。この助け合いは、技術文明が高度に発達し、仕事も細分化した社会にあっては、ますます必要なことになっていきます。 


しかし、人間は役割分担による助けや支えだけで、満たされるものではありません。人間には交わりに対する深い飢え渇きがあります。それにこたえる存在が「ふさわしい=ケネグドー」助け手です。 


「ふさわしい」と訳された原文の「ケネグドー」には、「同じ平面に立って、顔と顔とを向き合わせて」という意味があります。それは、人間として向き合うことのできる相手という意味です。能力や地位、身分、性の違いを超えて、互いに人間として裸になって向き合うことのできる相手ということです。わたしたち人間が、心の傷をいやし、その緊張を解き、安らぎ、満たされ、生きていることの喜びを心の底から実感することができるのは、互いに相手を「ケネグドー」として見いだし、向き合い、寄り添い、解け合うことによってです。 

愛がもたらすいのち
11。聖書が、人間の生と死を、生物学的なレベルだけでとらえていないことを、さらにここで強調したいと思います。 

わたしたちは、自分が死からいのちへと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。(一ヨハネ3・14) 

「愛する」とは、互いに人間として向き合い、かけがえのない存在として交わり、互いの幸せのために奉仕し合うことを意味します。「愛さない」とは、周りの人の存在を無視し、自分のこと、自分の欲望しか考えない、エゴイスティックな生き方を示しています。「愛さないものは死の中にとどまっている」という「死」は、明らかに、欲望に導かれて生きる人間の精神的な死を意味しています。 

天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言するたまものを持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(一コンリト13・1-3) 

これは、パウロがコリントの教会にあてた手紙の一節です。そこで、彼は、どのような学問を身につけようが、どのような社会的な業績を残そうが、そしてまた、外見上はどんなに素晴らしい奉仕活動をしているように見えようが、愛がなければ、すべてがむなしいとも語るのです。愛がなければ、人生は不毛に終わるのです。 

実に、愛がなければ、精神が枯渇するだけでなく、人と人とのつながりも崩れていきます。愛ほど大事なものはありません。学歴、社会的な地位、業績等、能力を中心にして人間を評価してきた日本社会が、活力を失い、重苦しい喜びのない状態になってしまったのも、愛を見失ってしまっているからです。こうした日本社会を再生するため、また家庭、学校、社会を救うため、そして何よりも一人ひとりの人生を輝かすため、愛の火を燃え上がらせなければなりません。愛こそ最高の価値であるという価値観を育てていくことが必要であるとわたしたちは考えます。 

永遠のいのち
12。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6・27)。聖書のこのことばは、人間の中に永遠の神への希求があり、それが満たされなければ、真のいのちの充足がないことを指摘します。人間のいのちは、神との交わりによって完成するのです。それは、わたしたちの社会が完全に見失っている大事な光です。 

何のために生きるのかという、人間にとって最も根元的な問いを無視して、「朽ちる食べ物」つまり経済の発展を最優先して走り続けてきた日本社会の至るところで、ひずみが見られるようになったのも当然のことです。それは、「朽ちる食べ物」ということはで表現される現世的価値を最優先して、魂を満たし、心を充実させるものを無視して走り続けてきた「つけ」ともいえます。キリストのことばは、再生のための道を示します。 

「永遠のいのちにいたる食べ物のために働く」。それは、自分勝手な欲望に支配され、目先の幸せに走りがちなわたしたち人間にとっては非常に難しいことです。その難しさを十分に承知のうえで、キリストは、弟子たちを励まします。キリストは、永遠のいのちを得るためにはどうしたらよいかと問う青年に、財産の放棄を勧め、財産を放棄するものには、百倍もの報いがあると教えます(マタイ19・16-30参照)。富や財産への執着を断つことは、わたしたちにとって非常に難しいことですが、難しいからといってそこにとどまることは、わたしたちの救いになりません。人生はチャレンジです。たとえどんなに苦しくとも、それを断ち切っていくことによって、人生は輝いていきます。自分の欲望の充足を求めるだけでは、人間は死んでしまいます。物質的な豊かさを中心にした生き方を反省し、神にまなざしを上げ、神とのかかわりを最優先しながら、日々の生活を営んでいくことが、わたしたちの人生の、そして日本社会の再 生のかぎとなります。 

人間に与えられた責任
13。「神は、人間をご自分のかたどりとして造られた」(創世記1・27参照)という聖書のことばにも注目したいと思います。ここには、環境汚染等、破壊されていく地球に対する人間の責任を訴えるメッセ-ジが込められています。 

旧約聖書の時代、中近東の王たちには、自分たちの権力支配の及ぶところに、自分のかたどりとしての像を置く慣習があったようです。置かれた像は、王の支配がその地域にまで及ぶものであることを宣言しようとする意図を表していたといわれます。 

この解釈に立てば、造られたばかりの大地に神の像として人間を置くということは、神の支配が人間を通して大地に及ぶという意味になります。つまり、大地の秩序と調和に対して責任を担うものとして、人間に大事な役割が与えられたということになります。 

しかし、歴史を振り返るとき、人間はその責任を果たすことができなかったことを、正直に認めざるをえません。聖書は、アダムとエバ、そしてその子供たちの生涯の物語を通して、この世界の荒廃が、人間からくるものであることを示します。アダムとエバが、神から目をそらし、自らの欲望に引きずられて禁断の木の実を求めてしまったために、楽園からいばらとあざみの生い茂る大地に追放されたという物語は、秩序と調和に満ちた世界の喪失が人間の生き方のゆがみからくるものであることを明らかにします。地球環境の汚染は、わたしたち人間の生き方を問うものです。いのちに対してやさしい地球を守り育てていくためにも、わたしたち人間に課せられた責任を思い起こし、今、わたしたちに、わたしたちの生きる姿勢を真剣に問い直していくことが求められているように思えます。 

十字架から復活へ
14。聖書は、きれいごとを語り、それを人間に求めているのではないことも、ここで明らかにしたいと思います。聖書は、この世界の現実が人間にとって苛酷なものであるということ、この世界には、傷つけられたり、踏みにじられたり、押しつぶされたりする人々の悲痛な叫びが充満していることを、知っています。 

乳飲み子の舌は渇いて上あごに付き、幼子はパンを求めるが、分け与える者もいない。(哀歌4・4) 

飢えは熱病をもたらし、皮膚は炉のように焼けただれている。人妻はシオンで犯され、お とめはユダの町々で犯されている。君侯は敵の手で吊り刑にされ、長老も敬われない。若者は挽き臼を負わされ、子供は薪を負わされてよろめく。長老は町の門の集いから姿を消し、若者の音楽は絶えた。わたしたちの心は楽しむことを忘れ、踊りは喪の嘆きに変わった。(哀歌5・10-15) 

ここに引用した聖書の箇所は、バビロンの捕囚を体験した時代の人々の姿を伝えるものですが、しかし、そこで描写された人間の悲しい姿は、ナチス・ドイツの強制収容所や南京大虐殺、ルワンダやコソボや東ティモール等で見られるように、いまもなお、この世界で繰り返されているのです。 

苦しみに満ちた人生。それはキリストが選択し、歩んだ道でもあります。しかし、今キリストの十字架の歩みを知ったわたしたちは、苦しみが苦しみで、死が死で終わるものでないことを知りました。 

キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(一コリント15・20) 

キリストの復活は、不条理で悪に満ちたこの世界の現実も、あきらめと絶望につながるのではなく、復活につながるものであるという確信を、人類に与えました。どんなにひどい状況に追い込まれ、どんなに深い闇に囲まれようと、そしてまた、どんなに恐ろしい死の恐怖に襲われようと、それを超える希望を見いだすことができるようになったのです。 

死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこににあるのか。(一コリント15・55) 

キリストの復活を知らされたパウロは、死に対するいのちの勝利の喜びを、このように歌いました。しかし、この賛歌に加わるための道は、キリストと同じように、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、神と人とを愛していく愛の道です。

第二章 揺らぐ家族

15。わたしたち人間は、家族の中に生まれ、家族の中で育ちます。家族は、実に、いのちを包み、はぐくみ、支え、導く愛であり、力です。そこで人は、自分はかけがえのない大事な存在であることを確認すると同時に、愛する人のために生きるという生きがいを見いだします。また、家族は、船乗りたちの疲れた心を潤し、憩わせ、彼らに明日に向けての希望を与える港のように、人生を旅する人間に、安らぎ、憩い、明日を生きる力を与えます。また、たとえ、周囲に陸が見えない大海原の真っただ中にあっても港の存在が船乗りたちに安心感を与えるように、家族の存在は厳しい人生を旅するわたしたちを支えます。 

したがって家族が揺らぐときは、いのちも、そして人生も揺らぎます。それは、老いた者にとっても、生まれたばかりの幼子にとっても、そしてまた働き盛りの人間にとっても同じことです。「家族の危機はいのちの危機である」という観点に立って、さまざまな課題に直面する家族のありようについて、光を当てたいと思います。 

一。夫婦について

1 危機に直面する夫婦

離婚の増加
16。二十一世紀を迎えた今日の社会において、夫婦のきずなは、世界的な広がりで大きく揺らいでいます。 

わが国は、諸外国に比べて離婚率が低いとはいえ、一九四七年に年間七万九五五一件であった離婚件数が、一九九八年には過去最高の二四万三〇〇〇件に上っています。(2)とくに、若い世代の離婚容認派が近年増加し、晩婚化、少子化、独身志向の増加と重なり合って、これまでの夫婦のあり方を揺さぶっています。かつての村落共同体に支えられた大家族が姿を消し、核家族化、少子化が一般化する中で、兄弟姉妹がいないか、いても少ない環境で育った若い世代は、異質な相手を受け入れ、生活をともにすることに難しさを感じ、安易に離婚を求めるケースも数多くみられるようになりました。 

(2)厚生省統計情報部「平成十年人口動態統計」。 

遠のく夫と妻との距離
17。さらに、今日の日本の社会の構造が、夫と妻との距離をますます引き離そうとしている事実も見逃すことができません。競争社会の中で企業の論理が、夫たちを家族から奪い、夫と妻、親と子の家族間の親密なかかわりの時間を奪い、次代を担う子供たちの育成に大きなマイナス要因になってしまっています。 

一九九八年の統計(3)によりますと、結婚生活二十年以上の夫婦の離婚が前年比二割増しになるなど、熟年夫婦のもろさが目につくようになりました。夫が熾烈な競争原理に満ちた職場での仕事にそのエネルギーを吸い取られ、妻や子供たちと向かい合うことができず、すれ違い生活を当然視している間、母子家庭を余儀なくされた妻たちが、次第に夫への魅力を失い、むしろ疎ましい無関係な存在と感じるようになってしまっているのではないでしょうか。「一緒にいたって仕方がない」「経済的に苦しくなっても自由に個人として生きたい」という願望を表すかのように、近年、中高年女性からの離婚申し立てが増加しています。 

その他、近年離婚していく夫婦を見ていると、夫婦それぞれの人格的成長の未熟さ、不十分な性的成熟、さまざまな原因によるセックスレスの状態、夫の暴力、夫婦が互いに自立しきれずにもたれ合う共依存的関係など、今までとは違った新たな問題が原因となっています。 

(3) 厚生省統計情報部「平成十年人口動態統計」。 

一人の人間としての生きがいを求め始めた女性たち
18。平均寿命が五十年そこそこであった戦前の妻たちは、子育てが終われば、その他に特別なものがなくても、自分の人生の大切な役割を果たしたという満足感に浸ることができましたが、平均寿命が八十歳を超えた今、多くの女性たちは、子育てが終わり子供たちが自立した後の年月を、どのように生きていくのか、真剣に考えるようになりました。多くの女性たちが、これまでのような「夫の帰りを待つ、子供の帰りを待つ」という受動的な姿勢から、「人間として生きたい」という姿勢に転じ、家族の外に自己実現の道を求め始めています。 

こうしたことを背景にして、かつては夫婦のかすがいといわれてきた子供たちの存在も、今はその力を弱めました。(4)性格が合わない二人が夫婦でいることのほうが、子供に悪い影響を与えるという考えが働いています。個人の幸せ、自己実現はその人の人生にとってかけがえのないことです。それを実現するために夫婦が相互に協力することが大切でしょう。さらに、忍耐や自己犠牲もその重要な構成要素となっていることを忘れてはなりません。 

それぞれの人間としての生き方を尊重しながら、夫婦であることの意味を常に確認していくことが、新たに問われるようになってきています。 

(4)〇歳から十五歳までの子供を持つ両親への調査によると、日本人の場合、離婚に対する考え方として「子供の有無にかかわらず、事情によっては離婚もやむをえない」とするものが四八.七%もいます(総務庁青少年対策本部「子供と家族に関する国際比較調査(一九九五年)」)。 

子供たちの動揺
19。今日の家庭崩壊の現実を考えてみるとき、両親の間の愛の揺らぎは、子供たち、とくに幼い時期の子供たちに、大きな負担を与えます。両親の間から伝わってくる緊張感は、子供たちの心にも言い知れぬ緊張感を与え、その心から安らぎを奪ってしまいます。家庭が憩いの場とならなくなってしまった子供たちは、遅かれ早かれ、家の外に慰めを求めるようになります。 

さらにまた、両親の夫婦としての破綻は、容易に消すことのできない傷と深い悲しみを子供たちに与えていることも、見落としてはならないことです。世界でたった一人ずつしかいない、かけがえのない父親と母親、その二人のどちらと暮らすかを「自由に選びなさい」と言われてどちらを選べばいいのでしょうか。どちらも選びたいのに、その自由が与えられないのです。 

社会の価値観に侵されて
20。また夫婦が、目先の幸せ・快適な生活を求める現代日本社会の価値観に侵されてしまっていることも、そのきずなを弱める要因となっており、無視できません。性の商品化、若い世代の不特定異性との性交渉、既婚者の不倫等も多くなってきたということは、目先の幸せを最優先する生き方に歯止めとなる世界観・人生観が失われてしまった結果ともいえます。 

また、医療技術の進歩による性と生殖の切り離し、妊娠出産に関する女性の自己決定権等によって、人々の意識は、子供は「授かるもの」から「つくるもの」へと変えられつつあるようです。こうした意識の根底に働いているものも、同じように、物資的豊かさ、快適な生活を最優先する価値観です。 

人生も、夫婦としての出会いも、そして子供も神の導きによるたまものであるという原点に立ち返って、夫婦であることの根本的な意義を見直していく必要があるように思えます。 

2 豊かないのちをもたらすために

しっかりと向き合うこと
21。今何よりも先に夫婦の間で求められることは、夫婦のきずなの原点に立ち戻ることです。その一つは、互いにしっかりと向き合うことです。マザー・テレサは、家族が向き合うことの大切さを訴えます。 

現代社会には、愛する喜びを枯れさせる多くの要因があります。人々は、あり余るほど持っていても、さらに物を欲しがります。人々は不満でいっぱいなのです。 

六、七人の子供をかかえたオーストラリアのある家族は、互いに話し合った上で、新しいテレビを買わないことにしました。彼らは一緒にいられることの喜びを大切にしたかったのです。家族のメンバーがそろっていられるだけで十分だったのです。 

テレビを買うはずだったお金をアボリジニーの貧しい人たちのために役立てて欲しいと、その家族はわたしに送ってくれました。 (5) 

仕事に走るよりも、そしてまた経済的な豊かさを求めるよりも、すぐ傍らの大切な伴侶、そして子供たちに、まなざしを向けるよう心掛けるべきです。温かなまなざしがあってこそ、人の心は落ち着き、和らぐものです。また、家族の温かなまなざしが自分の上に注がれているという強い確信があれば、わたしたち人間は、どんなに大きな人生の嵐に遭遇しても、それに支えられて希望と力を見いだしていけるものです。 

そのためには、互いの努力が求められます。忙しいということが、互いに向き合うことを先延ばしにするための口実になってはなりません。そのために時間を惜しんでもなりません。夫婦の間のきずなをいかすのも殺すのも、コミュニケーションといって過言ではないでしょう。 

互いを大切にし合う夫婦は、次の世代を担う子供たちが、将来温かい堅固な家庭を築いていくためのモデルともなります。 

また、夫婦の協力ということについても意識を新たにしていく必要があるでしょう。「子育て」や「親の介護」といったことがらは夫婦の共同責任であることをもっと明確に意識しなければなりません。「男は外で働く、女は家を守る」という性別による役割分担の通念は見直されるべきです。女性にとって、妊娠・出産・育児、また高齢になった親たちの介護は大変な負担です。それは男性の理解と協力が最も必要な場面なのです。現在、職業に就いている女性は決して珍しくありません。自分の仕事を続けたいと女性が願うのは当然のことです。そこで夫である男性は「男性の役割」についての古い先入観を改め、育児・家事・介護などについてともに責任を持ち、それぞれの夫婦の実状に合わせて、進んで妻である女性が人間として生き生きと人生をまっとうできるよう、協力と理解を惜しむべきではありません。 

(5)マザー・テレサ『愛するために』(三島慶訳・ドン・ボスコ社・一九九五年)。 

愛を貫く
22。夫婦となった二人を待ち受けているのは、甘い快楽と喜びと感動ばかりではありません。失望や幻滅が荒波のように押し寄せてくることもたびたびあります。お互いに好きだという感情は、もろく傷つきやすいものです。二人の間に越えがたい壁があることを感じとり、相手とともに歩むことを断念したいと思う誘惑と絶望感に直面する日々もあります。それが、背負い切れない重荷であるように思えてしまうときもあります。 

個人としての幸せ、一人の人間としての能力や可能性の実現を最優先する立場に立つならば、その妨げになると思われる相手と別れて自由を取り戻すほうが、よほど理にかなっているといえるでしょうし、仲の悪い両親の関係は、子供に悪い影響を与えるという観点に立てば、さっさと離婚し、子供に落ち着きを与えたほうがよいという理屈も成り立つでしょう。しかし、わたしたちは、現代の流れに逆らって、それにもかかわらず、そこにとどまることに意味があると、はっきりと主張します。その一つの理由は、人間の真の成長が愛の献身にあると考えるからです。 

ここでいう愛とは、好き嫌いという思いのレベルにとどまる愛ではなく、自らの幸せではなく、相手の幸せのために働く愛です。 

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。(一コリント13.4-5) 

人は、苦難によって高められます。人間としての輝きは、苦難の中で磨かれていきます。「相手に幻滅を感じるから」「傷つけられたから」「ともに歩むことに意味を見いだせなくなったから」などと言って安易に相手と別れようとすることは、人間としての成長の道を自ら放棄することにつながっていくとわたしたちは考えます。 

利己的になりがちなわたしたちが、永遠の愛を誓うことは不可能なことに対する挑戦といえるかもしれませんが、それが可能であるのは、神が、わたしたちに愛の恵みを注いでくださるからです。それがわたしたちの信仰です。祭壇の前で永遠の誓いを交わす二人の男女には、「逆境にあっても順境にあっても、病気のときも健康のときも、生涯、愛と忠実を尽くすこと」ができるよう、神の恵みが注がれるのです。 

さらにまた、洗礼を受けたすべての信者は、洗礼によって、十字架を前にしてもたじろぐことなく愛を貫いたキリストに結ばれ、キリストとともに、キリストのように生きることができるよう、強められているのです。 

キリストのように生きる。それは、容易でないことをわたしたちは知っています。しかし、ともに歩んでくださるキリストが、夫婦のかかわりの中で起こるすべての喜びや悲しみを共感する中からわたしたちを励まし、支えてくださっていることへの信仰は、大きな希望となります。さらにキリストは、その人にしかない体験を通して、人々へのかかわりに向けられた固有な使命をも与えているのです。このように洗礼の恵みは、結婚生活とそこから始まる人とのかかわりへと派遣されていくという積極的な意味をもっているのです。 

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、ゆるし合いなさい。主があなたがたをゆるしてくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。(コロサイ3・12-15) 

神の導きのもとに
23。さらに、わたしたちが安易に別れてはならないと訴えるもう一つの根拠は、夫婦の出会いは、神の導きのもとにあるという信仰です。それは、カトリック信者固有ものではないように思えます。「前世から二人は赤い糸で結ばれていた」という表現にみられるように、一般の社会でも、男女の出会いは、人間の思いを超えた大きな摂理によって導かれているという素朴な感情が生きています。わたしたちの信仰は、さらにはっきりと「神が二人を結び合わせてくださった」と宣言します。 

「二人の男女を結び合わせる」神の心の中には、明確な目的があります。その一つは、男女を通しての創造のわざを続けること(この点については、「三 親子について」で詳しく触れます)、もう一つは、神が独りでは生きていけない人間に、生涯にわたるふさわしい助け手を与えるということです。神は、人生の伴侶をわたしたちに与えてくださるのです。その伴侶は、人間に対する神の最高のたまものなのです。 

また、これを別の言い方をするならば、夫婦として結ばれる相手は、神によって「このわたし」に特別にゆだねられた存在ということもできるのです。夫婦としての誓いは、この人間を生涯にわたって助けてほしいという神からの申し出に対する受託ということになります。 

夫婦のきずながこのような神のみ心からあふれ出たものだとするならば、困難に直面したからといって、別れを選択していくことはゆるされないことです。 

神のみ心による出会いという神秘を念頭に置くとき、結婚の前の男女には、それが神のおぼしめしなのか、そして相手の人生に生涯にわたって献身することができるかどうか、慎重に考え祈りながら、決断することが求められます。 

愛が破綻したとき
24。しかしながら、現実には、多くの男女が、夫婦として愛の契りをまっとうすることができないという事実をわたしたちは知っています。趣味や理想の違いから会話のまったく途絶えてしまった夫婦、生活のすれ違いから相手に対する関心が薄れてしまった夫婦、相手の裏切りからすっかり愛が冷え込んでしまった夫婦、喜びも感動もなくただただ惰性的に生活する夫婦など、実に多くの夫婦が、夫婦として生きる難しさに苦しんでいます。早い時期にだれかに相談ができれば、楽になり、解決ができるにもかかわらず、残念なことに、それを身近なところに見いだせない夫婦が多いのです。そのために余裕を失い、解決の糸口も見つけられず、悶々と悩み、破局に向かってしまうケースも多いのです。 

わたしたちは、ここで、こうした人々が信頼をもって気安く相談することのできるよう、共同体を地域に育てていくことを提言したいと思います。なによりも、地域の教会が、それぞれの人の苦しみと喜びをともに担い合う、愛と友情に満ちた場となることを、わたしたちは心から願うものです。教会には、そうした人々の思いをくみ取り、それにこたえて新たな光と希望を与える使命があります。 

しかし、そういう周りの支えと本人たちの努力にもかかわらず、さまざまな理由から破綻を余儀なくされ、心に深い傷を負って生きようとしている人々がいます。そうした人々こそ、慰めと励まし、そして支えを必要としている人々です。わたしたちは、これまでの教会が、どちらかというと裁き手としてふるまってきたという事実を反省します。不幸にも一度誓った夫婦の契りをまっとうできず苦しむ人々に対しては、イエス・キリストのように温かく包み込み、その人生の新たな歩みを支え励まさなければならないと思います。 

不幸にも離婚し、その後、新たな伴侶と出会い、新たな人生を歩もうとする人々には、教会は、そうした人々の人生に母なる心で寄り添い、その歩みを支えたいと願っています。

二。性と生殖、そして家庭

1 切り離された性

商品化される「性」 
25。わたしたち人間は人格的存在です。豊かでトータル(全的)な存在である人間から、「性」だけを分断し、たとえ合意に基づいていたとしても、「性」をお金で交換可能な商品に卑しめること、しかもそれを当然視する消費社会の原理が、先進諸国に広く根を下ろし蔓延しています。街にはポスターや雑誌など、性的欲望を刺激するような広告が氾濫し、さらに、テレビ、インターネットなどの情報媒体を通して、商品化された「性」が地球規模であふれ出てきます。この傾向をさらに助長させているのが、すべての人が容易に手にすることができるようになった避妊手段です。「性」の商品化は、憂慮と危惧をもって迎えられる最も大きな課題の一つです。 

高度成長を遂げ始めたころから、アジアの開発途上国の貧しい女性たちに対する日本人によるその性の搾取が頻繁に行われるようになってきました。(6)そして第三世界の女性の性に対するわが国の社会全体の感覚の異常性が問題視されるようになってきました。従軍慰安婦問題の論議が盛んになってきたのもこのころからです。それは国家の犯罪であったか否かの論議以上に、支配欲と攻撃性に裏打ちされ、「性」の快楽の対象として女性を品物のように扱うことを許容している文化が、今なお温存されている日本の社会の問題でした。 

バブル経済の繁栄の中で、やがて中高校生の間にまで「援助交際」ということばが日常化するに至り、人々は度肝を抜かれることになったのでした。「自分の体を自分で売ってなぜ悪いの」という彼女たちの単純な質問に、わが国の大人たちは、明快な解答を与えることができないところに、現代日本社会の病があります。 

(6)こうした現象を表すためのことばとして、当時マスコミなどで「ジャパユキさん」「買春ツアー」などという用語も広く用いられました。 

その場限りの自由恋愛 
26また、若い世代に顕著な「自由恋愛」という名の、その場限りの肉体的コミュニケーションを志向した不特定多数との性行為や、結婚における互いへの誠実を踏みにじる不倫行為が、テレビや映画、週刊誌、コミック誌などによって無責任に奨励され、その商業主義によってさらに加速しています。そうした現象は、単に人工妊娠中絶の増加といった問題のみならず、家族の基盤、結婚のきずなを弱体化し、永続的な愛への不信を育て、その中で日常化しつつある家庭の崩壊による離婚や再婚が、数多くの子供たちの心に大きな傷を残しています。彼らは、わたしたちの生み出したこの文化の中で育ち、それを受け継いでいきます。次世代を担う子供たちのためにも、あまりにも非人間的な今日の「性」の文化に対して創造的な挑戦をしていかなければならないのではないかと、わたしたちは考えます。 

生殖から切り離された性 
27。男女の性の交わりには、必然的に妊娠・出産の可能性が含まれています。しかし、今日の消費主義的社会では、生殖としての「性」の側面は切り離され、男女の情緒的な愛の表現としての「性」にのみ焦点をあて、人間の心をときめかす世界としてたたえてしまっています。さらにその背後には、望まない妊娠が判明したときには、容易に中絶することができる、年間百万を超える中絶手術が行われる「中絶天国」といわれる日本社会全体の生き方・価値観の問題があります。 

生殖から切り離された「性」を手放しで肯定し、生まれてくる子供たちに対する責任を無視した生き方が、人間のいのち、人生の真の充実になるかどうか、真剣に問い直すことが求めら れているとわたしたちは考えます。 

2 性の本来の意味と力を取り戻すために

祝福されている「性」 
28。人間は、その誕生の瞬間から性を有しています。しかし、過去の歴史を振り返るとき、多くの宗教が、「性」をタブー視したり、罪悪視したりしてきた事実を指摘できます。今もなおその流れを引きずっている宗教もあります。しかし、聖書の世界は、人を「男と女に創造された」(創世記1.27)とあるとおり、性を、最初から神の祝福のもとにとらえてきました。 

しかし、それは、性を生殖から切り離すものでも、また生殖との関連においてのみ評価するというものでもありませんでした。人間の全体の営みにかかわる性という理解でした。裸になり、互いに何一つ隠すことなく、すべてを明け渡した男女の性の交わりは、独りでは生きていけない人間が、互いに支え合い、助け合い、一体となって人生をともに歩んでいくことを支え、深めるものです。性の交わりを通して、男女は、人生に疲れた心を憩わせ、その心を喜びで満たし、明日を生きていくための活力と希望をくみ取っていくのです。性の交わりを通して、愛する喜び、愛される喜びを深く確かめ合うことのできる男女は、どんな厳しい人生の試練に直面しても、それをくぐり抜けていくことのできる勇気をくみ取ります。 

夫婦のきずなの土台として 
29。性は、神が人類に与えた大きな恵みの一つです。それが、十全な輝きを得るのは結婚という、神にも人々にも祝福された秘跡においてです。「性」は、結婚した男女が、より生命的な愛の共同体として絶えずそのきずなを深め、新たにされる大きな支えとなるものです。(7)神によって結ばれた男と女は、互いの人格に対する尊敬と思いやりと愛情を、「性」のかかわりを通して育てていきます。「性」は、家庭という大切な共同体を支える堅固な基盤となるのです。(8) 

中高年夫婦の破綻の理由の一つとして挙げられるものに、「性の不一致」があります。それには、いろいろな要因があるとは思いますが、今の日本社会の構造が、二人のコミュニケーションを難しいものにしていることも無視できません。過重な職場の労働による疲労、家事・育児についての夫の無理解に対する不満、単身赴任などによる隔たり等が、二人の間の対話と交わりを難しくしてしまっていることも事実です。夫婦を取り巻く環境は、決してコミュニケーションに適した土壌ではありません。 

多くの男性たちは、対話のない、心の交流のない夫婦のつながりのすき間を「性」によって埋めることができると信じているかもしれませんが、それは大きな錯覚です。とくに、多忙な夫たちは、対話が欠け、心の交流が乏しくなっていく夫婦にとって、「性」はコミュニケーションにはならないことを理解すべきでしょう。性に本来の意味と力を取り戻すために、社会の現実に抵抗してでも、普段の心のこもったコミュニケーションを取り戻すことが先決です。 


(7)第二バチカン公会議『現代世界憲章』12(Gaudium et spes)に次のように述べられています。「神は人間を孤独なものとしてつくられたのではない。……彼らの共同生活は人格的交わりの最初の形態である。人間はその深い本性から社会的存在であり、他人との関係なくしては生活することも才能を発揮することもできない」。 
(8)第二バチカン公会議『現代世界憲章』49参照。

いのちの誕生に向けた責任 
30。「性」のコミュニケーションには、必然的に妊娠・出産の可能性が含まれています。性の交わりは、夫と妻の親密な愛の表現であると同時に、人類がその存続のため次世代を生みだす行為です。それはまた、その本質上、新たないのちが誕生してくることを受諾する責任を伴う行為なのです。(9)わたしたちは、そこに、神の働きとみ心があることを忘れてはならないと思います。ここで「第一章 聖書からのメッセージ」の中で指摘した原則を、あらためて確認したいと思います。つまり「神なくしては人間の誕生はありえない、しかし、また男女の交わりがなくしても人間の誕生はありえない」という原則です。 

いのちの誕生が、神の創造のわざであるという視点に立つとき、わたしたちは、いのちの誕生に夫婦の恣意的な操作を安易に肯定する現代の風潮に深い危惧を抱きます。「避妊を容認するメンタリティー」(10)を受け入れる人々の中に、自己あるいは人間を中心にした過ちを指摘できます。わたしたち人類の営みの主は、わたしたち人間ではなく、超越した神であるという世界観を、強く訴えたいと思います。 

しかし、また、その対極にある「子供は多ければ多いほどよい」といった姿勢も、わたしたちは責任ある選択とは考えません。(11)これは、最近の教皇たちが強調してきたことでもあります。生まれてこようとする子供たちのために、夫と妻、家族が今の状況で愛のきずなを深めながら責任をもって育成することができるか、子供の数や育児体制、教育の問題、経済的、環境的な状況などを十分に考慮し、神の前で祈り、熟慮した上で、責任をもった選択をすべきだと思います。(12) 

また、いのちの誕生は、神のみ心に属することであると同時に二人の男女の良心的な決断によるものですから、この分野で、政府など公的機関が、夫婦にゆだねるべき選択と決断に介入することは、避けるべきことだとわたしたちは訴えます。(13) 


9)教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書-人間の生命のはじまりに対する尊重と生殖過程の尊厳に関する現代のいくつかの疑問に答えて-(一九八七年二月二十二日)』(Donum Vitae)第二章1、教皇パウロ六世回勅『フマーネ・ヴィテ-適正な産児の調整について-(一九六八年七月二十五日)』8(Humane Vitae)、教皇ヨハネ・パウロニ世回勅『いのちの福音(一九九五年三月二十五日)』23(Evangelium Vitae)参照。 

(10)教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』13。 

(11)教皇パウロ六世回勅『フマーネ・ヴィテ』18、教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』97参照。 

(12)『家庭の権利に関する憲章(一九八三年十月二十二日)』(Charata iurium familiae)(編集部注・この文書の翻訳は、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『家庭』の日本語版に所載)、教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書』序文三参照。 

(13)『家庭の権利に関する憲章』、教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』91参照。

家族計画 
31。受胎調節を必要とする場合、その方法を選ぶにあたり、カトリック教会は、自然な方法(14)を勧めてきました。それは、女性の健康や相手の身体的状況を気遣う中で、夫と妻相互の尊敬と愛情が深められ、そして、自然を司る神のみ心によって、ふさわしい時期に、子供に恵まれるようにという思いからです。(15)その意向に反する人工妊娠中絶(16)はもちろんのこと、自分たちの幸せのみを追求する自己中心的な判断は避けるべきだと考えます。 


(14)オギノ式、基礎体温法、頸管粘液法=ビリングズ・メソッド、それらを組み合わせた徴候体温法など。 

(15)教皇パウロ六世回勅『フマーネ・ヴィテ』16参照。 

(16)教皇パウロ六世回勅『フマーネ・ヴィテ』18、教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』91参照。


三。親子について

1 問われる親子

失われるいのちの神秘性 
32。これから、親子の問題について触れていくにあたって、何よりもまず、わたしたちは、子供の誕生に関して、現代の人々の心から神秘性への感性が薄れてしまっていることに危惧を抱くものです。これまでに指摘してきましたように、人間の創造は神のわざであり、男女の営みは神の創造のわざへの参与です。ところが、家族計画手段の普及や生命科学技術、医療技術の格段の進歩の結果、人々の心の中に、「子供は自分たちが作るもの」「思いのままにできるもの」という思いが忍び込んでしまいました。また、容易になった精子バンクからの人工受精や男女の産み分けも、その思いを増長させています。 

現代人の心に忍び込み、その心に大きな影響を与えてしまっているこのような思いは、非常に危険な側面を持っています。やがて、それは、「ハンディキャップを負った子供の誕生は避けたい」という身勝手な論理にもつながっていきますし、さらにまた、成長してからは「目障りな者、邪魔な存在は拒絶する」という他者のいのちの軽視にもつながっていきます。 

いのちは神からのものです。神のみ心によって誕生し、導かれるものです。わたしたちの意に添わない辛いことも苦しいことも、神からのものです。それをどう受け止め、どう生きるか、それがわたしたちの人生に与えられる課題なのです。人間のいのち、そして人生は、神と永遠のいのちの視点の中でとらえていくことを、わたしたちは強く訴えたいと思います。 

子育てにあえぐ母親たち 
33。日本では、戦争直後のように飢えに苦しむ人はあまり見受けられなくなりましたが、愛される喜びを感じないまま育ち、愛する心を育てきれなかった人たちが親となり、多くの親たち、とくに母親たちが、育児の難しさに直面し、どうしてよいかわからず途方に暮れています。夫たちの多くは、「子育ては妻に任せている」と、会社人間を決め込み、妻たちが孤独な密室の中で子育てならぬ「孤」育てにあえぎ苦しむ姿から目をそらしています。 

しっかりとした人間観を持たない親たちの多くは、お金を注ぐことが子供たちに対する愛のあかしであるかのように思い込んでしまっています。お金をかけてとりあえず塾に行かせて、いい学校に入れることに熱心になりすぎたり、子供のいいなりに個室にテレビやエアコンを設置し、携帯電話を与えて子供の自由を大切にしていると思い込もうとしたりします。それは、決して愛ではありません。 (17) 

こうした中で、母親同士は、能力があるかないかで評価される社会の中で表面的には取り繕いながら張り合い、不安のあまり早期教育や子供たちの能力比較に走って、ますます孤立感を深める傾向も無視できません。子育てにおいて、だれよりも助けを求めているのは、女性たちといっても過言ではありません。 


(17)一方で、児童相談所に寄せられる児童虐待件数は、ここ数年で数倍になっているという状況も見られます。保育所では保育士に、虐待早期発見のチェックを呼びかけるようになりました。こうした状況は、夫からの支えが与えられず、身近なところに相談相手も見いだせず、子育てを前にして、どうしてよいか分からず混乱し、ストレスのたまった母親たちの叫びでもあります。

人間性を疎外する少子化現象 
34。いのちの存在を喜び合うことの少ない社会の中で、子育てのストレスと経済的負担のあまりの大きさに、「結婚しても必ずしも子供を持つ必要はない」と考える人が増えています。(18) 

少子化については、都市の人口密集解消や住宅事情の改善、受験競争の緩和など、よい面もあるではないか、また、地球の人口爆発が深刻な問題になる中で、先進国が出生率を低く抑えているので、よいことではないか、環境への負担も減るではないかなどと肯定的な意見も聞かれます。しかし、日本の場合、少子化の問題は高齢化の問題を深刻にし、また、多様で豊かで切磋琢磨があるべき子供社会を貧弱なものにして、子供の活力を失わせていく原因ともなっています。少子化は、安易に肯定できないさまざまな問題を含んでいます。 

  最近の子供の特徴として「自己中心的」「自分の感情をコントロールできない」「基本的な身の回りのことができない」「自分の気持ちをことばで表現できない」「集中力・粘り強さがない」「悪いのはいつも他人と社会だと考える」「見通しがない」などが挙げられ、また、親に関しては「過保護、甘やかしすぎの親の増加」「子育ての目標がわからない」などが挙げられています。 

また親子関係も、過保護、過干渉となって子離れできない親と、親離れできない子の問題を深刻化させていますし、同時に、甘やかされて育った子が親となり、大人になりきれないまま育児を放棄し、途方に暮れている光景も見られます。少子化による親子関係へのマイナスの影響は無視できません。 

多くの人間の、多様な生き方に触れることは、互いを刺激し合い、人間理解を深めます。経済的な豊かさと心地よい生活をエンジョイすることだけを最優先して、子供を育てることは、結果としては、子供の人生の豊かさをむしばみ、その人間性を疎外していくことにもつながっていきます。 


(18)総理府「男女共同参画社会に関する世論調査(一九九八年)」では、五年前の調査に比べて十二ポイント増の四二.六%となり、少子化問題はさらに深刻化し、少子化傾向の加速が親子の関係を難しくしけいます。現在の人口を維持するためには、「合計特殊出生率」(一人の女性が一生に産む子供の数)がニ.〇八人必要といわれています。しかし実際には、一九九八年の合計特殊出生率は一.三八人しかありません。

自由に、楽に生きたいという価値観にむしばまれた親たち 
35。わたしたちの社会が、結婚や子育てに希望と喜びを与えることのできない社会になってしまっていることも見逃せない事実です。(19)「自由が失われる」「お金がかかる」「負担が重い」というのは、もちろんそれなりの理由ではありますが、そこで思いが止まってしまうところに現代社会の問題があります。いのちの豊かさ、愛のダイナミズムが体験できにくくなった社会では、いわゆる「負担」が否定的なこととしてしか受け止められないのは、非常に残念なことです。 


(19)いつまでも独身であることの理由として、多い順から「適当な相手に巡り会わない」「必要性を感じない」「自由や気楽さを失いたくない」「趣味や娯楽を楽しみたい」(人口問題研究所・一九九七年)が挙がっています。また、妻たちが、子供の数を少なく保とうとする理由については、多い順から「一般的に子供を育てるのにお金がかかるから」「高年齢で産むのは嫌だから」「これ以上、育児の心理的・肉体的負担に耐えられないから」(同)となっています。

加害者となってしまう親たち 
36。最近、頻繁に少年たちによる残酷な事件が起こりました。一つひとつの事件には、それぞれ固有の理由と動機がありますが、しかし、分析していくと幾つかの共通なものが見えてきます。その一つが、少年たちが通った学校の問題と親たちの姿勢です。 

とくに、親たちが、学歴社会の価値観に侵されて、よい学歴を得ることが人生の最高の目的であるかのように、幼いころから子供たちの心に刷り込みを行ってしまっていることです。よい成績をとることが人生の最も大事なことと思い込まされた子供たちが、壁にぶつかり、行き詰まりを感じるとき、学校にも家庭にも居場所を失ってしまうのは当然です。親の期待通りに生きられなかったというコンプレックスから、追いつめられて、その怒りを親に向け、やがて不特定多数の第三者に向けてしまうのも、ある意味では理解できることです。こうした子供たちを救うためには、何よりも先に、親たちの価値観の勇気ある転換が求められます。 

2 いのちをはぐくむために

何よりも愛を 
37。生きることは、いつの時代でも、容易ではありません。親の役目とは、人生は神からのたまものであること、そのためにそれぞれに豊かな可能性が与えられていることを分からせ、子供たちが生きることに希望と感謝の気持ちを持ち、思いやりの心を失うことなく、その人らしく生きていく力をつけてやることにあります。そのために、何よりも親に求められることは、揺らぐことのない温かい親の愛を感じさせることです。それが、子供たちの人生の土台となります。その土台の上に子供たちは、人生を築き上げていくことができるのです。 

子供が求めているものは心のかかわりです。「モノ」を与えるのではなく、「心を与える」ことです。それが、愛の基本です。愛されているということを、子供たちが肌で、心の底から実感できることが必要です。子供たちが幼いときには、彼らをしっかりと抱きしめたり、包み込んだり、頭を撫でたりなどのスキンシップを繰り返すことは大事なことです。それは、子供たちに、愛されているという確信を与えます。また、子供たちの成長に合わせて、子供たちの目線に立って、一緒になって遊んだり、会話を楽しんだりなどして、子供たちのために時間をとることも忘れてはならないことです。親たちが、子供たちに一人の人間として向き合い、子供たちと同じように喜怒哀楽の感情があり、懸命に生きているという事実を伝えることは、硬直した親子の関係を和らげ、思いやりとやさしさを育てていく道を開くでしょう。 

こうしたことは、親とのかかわりを「呪縛」と感じ始め、怒りをため込んでしまっている子供たちが少なくない現状において、ますます求められてきていることだと思います。 

学歴社会の呪縛からの解放を 
38。かつては「可愛くば、五つ教えて三つほめ、二つ叱って育てなでしこ」などと、教えること、ほめること、叱ることの大切さを伝えたものでした。 

自分を否定的にみてしまう子供が多いこと、これは、日本の子供たちの特徴です。(20)その背後には、子供たちの多くが、幼いときから、受験・進学の競争の流れの中に投げ込まれてしまい、学校の成績やどのような幼稚園・学校に入ったということによって評価され続けてきたため、それ以外に、自分を評価する基準を持てなくなってしまったということがあります。 

「学校だけがすべてではない」「勉強ができなくても、成績が悪くても、あなたはかけがえのない存在なのだ」「人間にはいろんな可能性がある。あなたにはあなたのよさがある」ということを、親が子供にしっかりと伝えることができるならば、多くの子供たちが救われていくはずです。親が他の子と比較する目でわが子を評価したり、自己中心的な思いでコントロールしようとすれば、子供の心の中に「愛されている」という喜びのエネルギーはわかず、生きる意味を見いだしていくことは難しくなります。子供たちに、生きていく上での希望を与えるためにも、まずは親たち自身が学歴社会の呪縛から解き放たれることが求められます。 


(20)東京都練馬区北東部の中学校九校の養護教諭が、一九九五年十一、十二月に生徒たちにアンケート調査をしたところ、「学校や友達の役に立っているか」という問いには五一・五%が、「将来、社会のために役に立つ人間になれるか」には四七%が否定的な回答で、また「自分のことが好きか」と聞くと「思わない」「どちらかというと思わない」と答えた生徒が、合わせて四七・九%いたと報告されています(読売新聞・一九九六年十二月十二日)。

価値観・人生観を伝える 
39。テレビはもとより、携帯電話、インターネットなど、次から次へと新たな装いをもって登場する情報通信システムの開発は、確実に若者たちを、家族とのコミュニケーションから遠ざけています。(21)   わたしたちは、新しい現代科学の成果を否定するつもりはありませんが、人生を考え始める育ち盛りの子供たちがそこにのめり込んでしまうことに、危惧を抱きます。情報は大切なことですが、それ以上に大切なことは、人と人との生の触れ合いです。とくに、人の痛み、悲しみ、喜び、希望に共感できる心は、人間にとって最も大事なことです。その基本を学び、それを身につける場は、まず家庭です。 

速度が速く、多様な価値を大切にする現代社会では、親が子にきちんと価値基準を示すことが困難になってきていることを承知の上で、わたしたちは、親たちが、自分たちが生きてきた価値観・人生観を子供たちに伝えていくことに、もっともっと心を配るべきだと、訴えたいと思います。とくに、道徳・倫理の規範があいまいになってしまっている現実を念頭に置くとき、親たちが確信をもって、超越した存在のあること、人生は超越した神に向かう旅であること、そうした神が一人ひとりの人間の生涯にわたってその幸せを望み働き続けていてくださること、わたしたち人間は愛し合うことによって永遠のいのちに結ばれるということなどを子供にも伝えることは、他の何よりも大切な親の務めだと考えます。 


(21)人生について考え始める若者たちが影響を受けるものとして、テレビ、友人、雑誌が八割で、家族からは一割にすぎないという、青少年を対象とした総務庁の調査報告があります(総務庁青少年対策本部「第三回情報化社会と青少年に関する調査」一九九六年)。

子育ては、みんなでカを合わせて 
40。人は、いきなり立派な親にはなれません。未熟な親も、経験と失敗を重ねながら、時間をかけて、成長していきます。一昔前の時代には、地域共同体がそれを支え応援していました。親子の間に対立が生じ、子供が親の手にあまる状態になっても、周囲の愛情あふれるまなざしや助けが、子供を助け親を支えてきました。しかし、都市化が一般化した今、個々の家庭が孤立化してしまいました。身近なところに親の迷いを打ち明け、行き詰まりについて相談できる共同体が消えてしまったのです。親たち、とくに母親たちが、独りで問題を抱え込み悩んでしまうところに、現代の問題があります。 

夫も積極的に子育てに加わり、さらに、地域に、子も親もともに育てられる新しい共同体作りを推進していくことを訴えたいと思います。 

夫と妻がこのように育児の共同責任を十分に自覚し実行しようとしても、それだけでは足りない部分がでてくることでしょう。保育園の増設や保育の改善など、夫妻が子供の数を無理に制限することなく、安心して出産・育児にあたることができるように、社会福祉制度の充実が急がれるべきです。 

そして、もう一つこのことについて、わたしたち教会の責任が重大です。「子育て」についてももっと親密に連携し、協力し合えるような教会のネットワークを確立することが急務ではないでしょうか。共同体作りは、本来の教会の使命として担われるべきものです。教会には、会社や学校と違う人間関係があります。開かれた教会として、地域社会の人々に働きかけ、さまざまな試みをともに進めていくことは意義深いことだと思います。 

子供によって親も育つ 
41。子供は、愛し合う二人の男女の人生に神から与えられる最高の恵みです。子供に恵まれた親は、子供とのかかわりによって生きがいを与えられ、多くのことを学び、成長します。親が愛することの喜び、そして人生の充実感を味わうことができるのも、子供とのかかわりによるものです。親子のかかわりにおいて、親も、子供に感謝することを忘れてはなりません。 

しかし、また、子供に恵まれない夫婦もいます。わたしたちは、そうした夫婦、とりわけ、その責を負わされることの多い女性たちが抱える心の悩み、負い目が、どんなに深いものであるか、もっと知るべきです。しかも、このような悩みに夫の理解がなく、子供の誕生のためにできる協力に消極的であったりすることが、さらに妻を孤独に追いやってしまっています。これは、本来夫婦で話し合い、分かち合い、解決しようと協力し合うべきことがらなのです。この点で、わたしたちは、夫たちの理解と協力を強く訴えたいと思います。 

また生命の誕生は神のみ心の中にあるという立場に立つとき、恵まれないことを否定的にとらえるのではなく、置かれた立場を積極的にいかしていくことを、わたしたちは勧めたいと思います。とくに諸外国では、親から放棄されたり、親を戦場で失ったりする子供たちを養子として受け入れ、血のつながりはなくとも、愛によってしっかりと結ばれた家族が数多く存在します。また子供のいない分、その余力を、地域のさまざまな奉仕活動に向けて、いかしている夫婦もいます。いずれにせよ、夫婦で十分に話し合い、夫婦の愛をさらに地域に、恵まれない子供たちに広げていくことも、一つの道だと思います。

四。高齢化社会を迎えて

1 不安に包まれて

高齢化社会 
42。経済の目覚ましい発展と医療技術の進歩とともに、平均寿命も飛躍的な伸長をみるようになりました。日本の平均寿命は、今や世界のトップになりました。それは、一面喜ばしいことではありますが、しかし、その反面、多くの人々に、高齢化社会をどう生きたらよいのか、戸惑いを与えています。高齢化社会を、どのように受け止め、どのように評価し、どのような心で生きたらよいのか、わたしたち日本の社会には、モデルがないのです。 

過去の歴史の中にも特別に長寿に恵まれた人々はおりましたが、それは例外的存在でした。大多数の人々の寿命六十歳を超えるということは、過去の歴史にはなかったことです。それは、言い換えれば、高齢化社会を、どのように受け止め、どのように生きたらよいのか、過去の歴史の中にそのモデルを見いだすことができないということを意味しています。 

わずかここ数十年の歳月の短い間に、準備のないままに、到来してきてしまったということ。歴史の流れの中での数十年ということは、あっという間のことです。準備の整わないうちに高齢化社会が一挙に押し寄せてきたことによる戸惑いは、日本社会のすべての分野に及んでしまっています。高齢化社会をどのように受け止め、どのように生きるのか、それは、わたしたちに与えられた大きな課題です。 

社会から疎外される 
43。今日のわたしたちが築き上げてきた高度経済発展を支えているものは、効率主義、管理主義、功利主義を肯定する弱肉強食の競争原理です。そこで生き抜くためには能力を育て、磨かなければなりません。能力があり、実績を残す者は評価され、大きな顔をすることができますが、能力に恵まれない人やハンディキャップを持った人は、片隅に追いやられます。その中に高齢者も入ります。こうした価値観が主流となっている社会の中では、高齢者に対する肯定的なまなざしが育ってくるはずがありません。 

実に、高齢者は、定年によって機械的に労働市場から閉め出され、社会の流れから外され、不十分な年金生活、不安定な経済的状況を余儀なくされます。また第一線から退くことによって、社会との触れ合いや文化的な刺激や情報からも取り残されます。さらに、体力や記憶力が次第に衰えていくため、望むと望まざるとにかかわらず、周囲の人々に依存することになります。そうした状況を、負の感情を抱かずに受け入れ、落ち着いて高齢期を生きていくことができるためには、競争社会を支えている価値観に代わる別の価値観が求められます。 

余力のない家族 
44。さらに、また高齢者たちを取り巻く環境、とくに家族という共同体が、高齢者たちにとって決して希望に満ちた場ではないことも指摘しなければなりません。 

世界の長寿国となった反面、一方で出生率の深刻な低下もあって、高齢者を支える家族の力が、極端に弱まってしまっているのです。五十歳、六十歳を超えた子供たちが、八十歳を超えた親たちの世話をするという事態も、珍しくなくなりました。さらに少子化によって一人っ子同士の結婚が多くなってきた結果、一組の夫婦が四人の親の世話をするというような状況にもなりました。家族のだれが年老いた親の世話をするか、深刻な問題となっています。 

これまで家父長的な伝統の中で、老親の介護はひとえに女性の手にゆだねられてきました。負担過重から、女性たちが介護疲れで倒れたり、そのために家族が崩壊したりするケースもまれではありません。職場でノルマを課せられて働かなければならない男たちには、親の世話をする心理的な余裕がないことも確かです。また、進学・受験期を迎えた子供たちを抱える家庭では、高齢者が疎ましい存在と受け止められていることも、見逃すことはできません。また、老人ホームには入ったけれども、家族の訪問がなく、家族から疎外され、孤独に苦しむ高齢者 も多くなっています。 

経済的な不安 
45。経済的な不安が、さらに多くの高齢者の心を暗くさせています。消費社会・商業主義的社会の仕組みが支配する中で、経済的な余裕がないと安心して老後を過ごせないという思いを抱かせているのです。十分な年金を保障されているのは、ごく一部の人々に限られます。大半の人々は、不十分な年金で、不安な日々を送っています。経済的余裕のない高齢者たちの多くは、屈辱感を心の中に押し込め、無力感をかみしめながら、医療介護を受けています。 

また、高齢者たちを対象とした民間の事業が増え、高齢者たちを受け入れる多様な形が工夫されてきていることは、一方で喜ばしいことですが、それが、商業べ-スで、高齢者たちが利益追求のターゲットとされている事実があることは、憂慮すべきことです。すべてがそうでないとしても、経済的に豊かな者たちしかそれを利用できないということは、残念なことです。家族の力が弱まっていることを念頭に置くとき、経済の面において、どう支えるか、それは家族の枠を超えた地方自治体と国の問題でもあります。 

2 いのちの完成に向けて

受容する 
46。人生には時があります。聖書は、人生の多様な時について、次のように記しています。 

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 
生まれる時、死ぬ時 
植える時、植えたものを抜く時 
 …… 
求める時、失う時 
保つ時、放つ時 
裂く時、縫う時 
黙する時、語る時 
愛する時、憎む時 
戦いの時、平和の時。 (コヘレト3・1-8) 

高齢期は、すべての人間に必ず訪れてきます。老いを免れることのできる人間はいません。しかし、それは、わたしたち人間に新たな課題を突きつけます。まずそれは、これまで若き日々の人生において謳歌し、賛美してきた剛健、強靱、鋭敏、躍動、豊饒、華麗、……といったもろもろの資質を少しずつ確実に返上していくことです。それは、だれにとっても辛いことです。 

これまで携わってきた仕事を手放す、人との付き合いは限られてくる、どこに行くにも人の助けを必要とする、自分が作り上げてきた世界が、後輩たちによって変えられていく。さらに老いが進むにしたがって、食べ物も自分では食べられなくなる、下の世話も人の助けを借りる。世話する人の顔色をうかがいながらしか生活できないなど、若いときの価値観からすれば、まったく屈辱的とも思える状態に直面します。 

こうした状況を、肯定的に受容し、神に向かう旅路を完成するための一つの関門ととらえていくためには、明確な価値観・人生観が前提となります。 

高齢者の人生経験をいかす 
47。現代日本社会を支配しているものは、効率主義や功利主義で、そうした基準からみるならば、心身ともに衰えていく高齢者たちは社会に貢献する場を失うことになります。しかし、人類社会を支え豊かにするものは、それだけではありません。高齢者には、長い歳月を生きてきて蓄えられた豊かな経験と知恵があります。さまざまな人生を経て豊かな経験を積んできた高齢者の存在は、それだけで人類社会の宝であり、豊かさの泉となります。その存在は、人生のさまざまな問題を解決し、照らしていく光となります。またそれは、迷路に踏み入ったかのように複雑な様相を呈しながら非人間的色合いを深めている今日の社会が、人間性を回復していくための道を示してくれます。 

そしてまた、高齢者の経験は、マスメディアが提供する情報の上に社会を構築しようとする傾向の強い現代社会にあって、民族としての文化・伝承そして人生観を伝えていくために、大きく貢献するものです。こうした観点からも、わたしたちは、家庭においても、社会においても、高齢者をもっともっと尊重し、その声に耳を傾ける流れを育てるべきだと考えます。 

彼岸を見つめて 
48。若い世代の人々には、その能力とエネルギーを、家族のため、職場のため、そして社会のためにいかすことが求められます。周りもそれを期待します。それは社会の発展ということでは高く評価すべきことではありますが、現実は、企業の歯車として位置づけられ、心身ともに疲労し、それを回復するいとまもないほどに働かされてしまっているのです。人生が神に向かう旅であるという人間にとって最も大事な課題を考える余裕もないほど、この地上の営みにすべてが吸い取られてしまっているのです。 

そうした観点からみるならば、職場の現実から解放されることは、高齢者にとっては恵みです。人生にとって最も大事な彼岸の世界に思う存分集中する、自由と時間が与えられるのです。(22) 

わたしたちの人生の究極の目標は、永遠の神との出会いです。老いと死は、神との決定的な出会いのために、すべての人間がくぐらなければならない関門なのです。高齢期は、まさにその関門を直視する時期なのです。老いに付随してくるさまざまな否定的な側面を受容しながら、その背後にわたしたちを導き、両手を大きく開いてわたしたちを温かく迎えようとしておられる神をしっかりと見つめることが求められます。 

主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしとともにおられ、そのむちとつえはわたしを守る。(典礼聖歌123より) 

永遠の神の視点から、人生を評価して日々を生きようとする高齢者は、地上の利益を最優先にして人間性を疎外してしまう現代社会に豊かさを吹き込む役割を果たすことができるのではないでしょうか。 


(22)教皇庁信徒評議会『高齢者の尊厳と使命(一九九八年十月一日)』「一 高齢期の意味と価値」参照。

祈る 
49。宣教師として日本に滞在し、誠実に働き、多くの人にその徳を慕われながら静かに世を去っていった一司祭が、次のような美しい詩を紹介しています。 

最上のわざ 
この世の最上のわざは何? 
楽しい心で年をとり、 
働きたいけれども休み、 
しゃべりたいけれども黙り、 
失望しそうなときに希望し、 
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。 
  …… 
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。 
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。 
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。 
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。 
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。 
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。 
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。 (23) 

祈りは、高齢の人々にとって、神のまなざしのもとに自分の人生を方向づけるための欠くことのできない行為です。と同時に、愛する人々や全世界の人々の幸せのために、神の恵みを招き寄せる奉仕の行為です。祈りを通して、高齢者は、孤独と疎外の壁を壊して、神と世界のすべての人々につながっていくのです。 


(23)ヘルマン・ホイヴェルス『人生の秋に〈増補版〉』(林幹雄編・春秋社・一九七三年)三〇八ページ。

十字架から復活のいのちに 
50。しかし、現実的に高齢期は、軽くはない重荷どころか時としては非常に重い十字架を、高齢者にも、そして高齢者とともに生きようとする人々にも与えます。実際の介護にあたっては、きれいごとでは片付けられないことも多く、高齢者の心にも、そしてその傍らに寄り添う人の心のうちにも、どろどろとした醜い思いや感情が吹き出してくるものです。互いに深く傷つけ合い、ともにいることの苦しさに音を上げ、何もかも放り出してしまいたくなるような思いに駆られるときもありますし、自分は早く死んだほうがましであるという自暴自棄の思いにさいなまれるときもあります。 

そんな中で、周りの人々の助けを受けなければならない高齢者も、介護する者も、互いに人間として向かい合おうとする姿勢を失ってはならないのです。実に、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」(マタイ25・40)というキリストのことばが明らかにしているとおり、高齢者に対する心からの奉仕によって、わたしたちは神と出会い、わたしたちの人生を豊かにしているのです。 

また高齢者の介護における日本社会のこれまでの現実をみるとき、女性だけに過重な負担がかからないように、男性にも重い責任があることを訴えたいと思います。家族、とくに夫婦の間で十分に話し合い、家族全員で協力し、互いに補い合うことが必要です。 

また、高齢者の介護にかかわる家族が孤立しないように、地域の支援も忘れてはならないことです。 

自分たちだけで背負おうとして精一杯の努力をしながら、その努力も尽き果てて行き詰まり、不幸な結末を招いた数多くのケースが見られます。高齢者の介護に家族だけでかかわろうとすることには限界があります。高齢者の介護に関して親身になって相談にのり、必要な助けを提供することができるような相談所を地域社会で育てていくべきです。また家族の者も、地域社会が提供する支援一一「デイケア」「ショートステイ」から、さまざまな形態のグループホームや高齢者施設への入居までをも含めて一一その助けを積極的に活用していくことを勧めます。 

ただし、家族から離れ、短期あるいは長期にわたる高齢者施設への入居にあたっては、彼らが孤立感を深めることがないように、そして常に家族の一員であることを実感できるよう、できる限り頻繁な家族との交流の機会を設けることが必要です。高齢者にとっても、その家族のそれぞれにとっても、そこで問われるのは、愛とゆるしと感謝なのです。それが、それぞれのいのちを、神の永遠のいのちに導いていくのです。

第三章 生と死をめぐる諸問題

一。出生前診断と障害者

出生前診断 
51。新聞や雑誌などで出生前診断が取り上げられると、障害者に対する偏見や差別を指摘する声が多数寄せられるようです。(24)なかには、障害者本人が、自分が受けた差別を子供に繰り返させられたくないがために、「出生前診断を受けることは思いやり」と言っているケースもありました。そう言わざるをえない社会の現実があります。まず、わたしたち一人ひとりの障害者に対する意識が問題になると思います。 

一方、こんな話もありました。ダウン症の子を持つ父親が、願い出てアメリカに転勤になります。一九八○年代後半のことです。ジロジロ見られることや指を指されることはなく、プールや体操教室でも、入会を断られることはなかったそうです。「ありのままを受け止めてくれる。これがどれだけ心理的な負担を軽くしてくれるか」と書いています。彼らは七年間アメリカに滞在し帰国しましたが、そのときの印象としては、日本にはダウン症についての情報が不足しており、働く場所も十分でなく、「何より、まだまだ『視線』を感じ」る、と語っています。 

このように日本は、依然として障害者が「生きにくい」社会のようです。出生前診断について考えるとき、こうした状況を切り離して考えることはできないでしょう。 

出生前診断の利点、難点は、現時点で次のように整理できるでしょう。まず利点としては、遺伝病を早く発見し発症を防止することを可能にする、出産における事故を未然に予知・予防する、胎児のうちに遺伝的異常を発見して治療を開始する、治療できない先天異常などを有する子供の場合、生まれる前に両親は心の整理ができ、必要な社会的精神的支えを確保するよう努めることができるなどです。一方、難点としては、保因者と分かったときに、保険・就職・結婚などで差別を受ける可能性がある、異常判明により人工妊娠中絶されるならば、いのちの尊厳を無視するだけでなく障害者の生きる権利も否定することになる、予防法・治療法のまだ分からない病気の発病を前もって知ることに果たしてどういう意味があるのか、ただ障害者に対する差別意識を高めるだけではないのか、などです。 

現在、妊娠した多くの女性たちが出生前診断を受け、そこで胎児の染色体異常が診断されると、多くの場合人工妊娠中絶が選択されています。(25) 

当初は重度の障害を持つ子供が出生する可能性を調べるために普及した出生前診断が、今は障害者の出生を予防するという観点から受け入れられ普及しています。わたしたちの社会では、右で述べたような障害を持つ人に対する差別が、厳然と存在することを自覚することが大切だと思います。ある種の人間は生きているべきでない、とまで考える人々がいます。このことが、障害を持つ人をみる見方に大きく影響しており、これが社会的な圧力となって、人工妊娠中絶を安易に肯定してしまうことにもなるのです。 

以上みてきたように、医学が進歩し、子供が生まれる以前から、その子が持つ遺伝的な病気の可能性が分かるようになってきたことは称賛に値します。しかしそれが、安易に人工妊娠中絶を選択するような出生前診断であるときは、これに警鐘を鳴らします。こうした行為は、生まれてくる子供を「選別する」という優生学的な発想につながり、障害者に対する人々の意識をより後退させ、差別を助長するからです。 


(24)たとえば、朝日新聞・一九九八年五月七日など。 

(25)「取材した四つの病院では、胎児の染色体異常が診断された約百人の妊婦のほとんどが、中絶を選んだ」(朝日新聞・一九九八年四月二日)。

障害の重み 
52。胎内に宿った子が障害を持っていると知らされるとき、ある親たちは「何で自分たちに、」と戸惑い、ある親たちは「この子の将来はどうなるのだろう。厳しい社会を生きていけるのだろうか」と不安に駆られ、ある親たちは「この子はふびんだ。生まれないほうが幸せなのでは……」と悩み、徐々に否定的な思いに気持ちが傾いていきがちです。 

障害を背負って生きるということは、確かに容易なことではありません。さまざまな艱難に直面して「どうして自分だけがこうなのか。運命を呪い、神さまを呪いたくなるときがある」「何の因果によってこうなったのか。前世の因縁か。だれかの罪のせいなのか」と悶々とし、「何もかも捨てて、死んでしまいたくなるときがある」などと、障害を持つ人々の口から直接、それがどんなに辛く困難なものであるか告白されるとき、わたしたちは、その重さに圧倒されて、慰めのことばを安易に発することができなくなってしまうことがたびたびあります。 

創造主であるいつくしみ深い神が、なぜこの人にこのような障害を与えられたのか、それは神の神秘に属することです。そのような重い問いに対して、障害を持って生きる人々の心を十分に納得させるような回答を示すことは、わたしたちにはできませんが、人間の幸せと価値、人間の真のいのちの輝きは、障害の有無ではないということを、はっきりと断定することはできます。さらにまた、信仰の光の中で考えるならば、「すべては神の愛の手の中にあることである」と宣言することはできます。 

重荷から、解放へ 
53。わたしたちは、障害を持つ人々との出会いから「生んでくれた両親に感謝している」という障害を肯定的にとらえる人々が存在していることを知っていますし、また「この子と一緒に生きてきてよかったと思います。わたし自身の視野も広がり、多くの人々と知り合いになりました。これは普通の生活では考えられなかったことです。この子がわたしの人生を変え、育ててくれました」と誇らしげに語る親たちも存在することを知っています。またさらには、今や、気の強さ、記憶力、背の高低、歌の上手下手と同じように、「障害は個性である」とまで言い切ってしまう障害者のかたもいます。そうした心境に達するまでには、本人の並々ならぬ努力や周りの人々の支えと素晴らしい出会いがあったことと思います。 

幸せというのは、本人が自分で見付けるものです。障害を持って生きるということがどんなに大きな負担と苦しみを与えるものであったとしても、わたしたちはここで、いのちはそれ以上に尊いものであることを強く訴えたいと思います。いのちは神からのたまものです。「障害を持って生まれる子供は不幸だから……、ふびんだから……」という価値判断からいのちを否定し、障害を与えられたということだけで、人生のすべての豊かさを量ってしまうことは誤りです。 

人生は非常に豊かなものです。素晴らしい可能性を秘めています。障害者自身も、多くの人々とかかわっていく中で多くのことを学び、とらわれから解放されていくものです。また障害のある子供を持つ親たちも、そして地域社会で障害者にかかわる人々も、そうしたかかわりの中で、視野が広げられ、解放されていきます。その解放されていく歩みの中で、一人ひとりは愛を学び、自らの人生を豊かにしていくのです。 

障害者差別と新しい障害者観 
54。残念なことに、現代の日本社会には、障害を持つ人々に対する差別意識がまだまだ根強く生きていることを認めざるをえません。それは、親たちの「恥ずかしい、人の目が気になる」という思いの中にも、そしてまた、姑や舅たちの「わたしたちの家系・先祖にはこのような者はいなかった。こんな子の誕生はお前のせいだ」などと障害を持つ子供を出産した母親に対するとげに満ちたことばの中にも指摘できます。また「障害を持つ子供たちを、自分の子供と同じクラスに入れてくれるな。授業が遅れる」と幼稚園の園長や学校の先生たちに抗議する一般の親たちのことばには、能力や学歴によって人間を評価してしまう誤った価値観が働いています。さらにまた、「かわいそうだ。助けてあげなければ……」という何気ないことばの中にも、障害を持たない者たちの優越感が働いています。 

幸いなことに、近年わたしたちの社会では、障害者のことをどのように理解するか、という障害者観が随分と変わってきています。一方で障害者に対する無知と偏見そして差別はまだまだ根強く生きていると言わざるをえませんが、全体的にはそれも徐々に克服され、さらにはまた、障害者にあわれみや同情をもって接しようという態度・姿勢から、先に触れたように「障害は個性である」という障害者観に移行しようとしています。(26) 

(26)従来は、障害者に対する無知と無関心による差別・偏見を克服し、障害者にあわれみや同情をもって接することで、障害者が「更生」し社会に貢献できるようにする、という位置づけがなされていました。ここには、経済効率や生産性重視の考え方が残り、働けない重度の障害者は依然として「社会のお荷物」と見なされたのです。しかし現在では、同じ欲求・権利を持つ仲間として、障害者と「ともに生きる」という見方が定着し、さらに、「障害は個性である」という障害者観が障害者自身や障害者に理解の深い人たちの間には広まっています(総理府編『平成七年版障害者白書』参照)。

バリアフリーな社会を目指して 
55。障害のあるなしにかかわりなく、人間は、みな尊いいのちを神から与えられ、神に向かう人生を歩む旅人です。互いに人生に対する深い敬意を示しながら、それぞれに与えられた力をもってその歩みを助け合わなければなりません。障害者が心地よく希望を持って生きていけるような生活環境を作り上げていくことはみなの責任です。家族の力には限界があります。(27)従来の家族中心の福祉のあり方を変え、地域社会が積極的にかかわっていくことが求められます。実際各地で障害者が家族から自立して生活できるようなグループホームなどの試みが始められたり、さまざまなボランティアが試みられているなどの動きは、大きな希望です。そうした人々の努力と献身に敬意を払うとともに、教会も、地域社会に根ざした共同体として積極的にかかわっていく責任があります。 

「力無い仲間」たちが、学校に、職場に、そして地域社会に積極的に参加することによって、わたしたちはあらためていのちの素晴らしさを体験します。また人と人との交わりもさらに豊かなものになっていきます。障害者の存在は、物質主義、能力主義に毒されて、激しい競争に心身を擦り減らしていく現代日本社会にとって、いのちの根元的な尊さを示す極めて尊い光であり、宝です。 

「一つの社会、一つの文明の質は、その中の最も力無い仲間がどれだけ尊重されているかによって量られる」。これは、世界障害者年に発表された教皇庁文書の一節です。(28)バリアフリーを積極的に進め、(29)それぞれの人格が尊重され、いかされ、障害の有無に関係なくすべての人とコミュニケーションがとれる社会そして教会を目指したいと思います。 


(27) 障害のある子供を持つ親たちの中から、「この子より先に死ねない」と話すことばをしばしば耳にします。また、障害者の人に娘さんが生まれたとき、「女の子でよかったね、世話をしてくれるよ」と言われた、という話もあります。家族が障害者の世話をしなければならない、という社会一般の考え方=「常識」が、こうした両親・家族に重圧をかけてしまう現実は、依然として多くみられることでしょう。 

(28)「障害者に奉仕する人々に向けて(一九八一年三月四日)」 (L’OsservatoreRomano,23March1981,6)。 

(29)この「バリアフリー」の概念には四つの側面があります。一、道路・建物などの構造の関係で障害者が利用できない、といった物理的な障壁を取り除いていく。二、資格・入試などから障害者が閉め出される、といった社会制度の中にある障壁を克服していく。三、視覚・聴覚障害者が知りたくても知ることができないという文化・情報面での障壁を取り除いていく。四、一人ひとりの意識の中にある障壁を取り除いていく。 
 四に関してさらにいえば、障害者が「差別されている」「正しく扱われていない」と感じるような発言や行動をしてしまうのは、心の中に一つの壁があるからでしょう。この意識の壁を壊していくことができれば、社会の中にある壁も次第次第に崩れ、障害者が自立して十全に自分のいのちの豊かさを生きることのできる世の中へと変わっていくことができるでしょう。


二。自殺について

1 生き抜くことの難しさ

増え続ける自殺者 
56。警察庁の発表によりますと、一九九九年一年間の自殺者数は、前年に引き続き三万人を超えたということです。(30)しかし、この数は自殺で死亡した人の数であり、本気で自殺を図った人々の氷山の一角にすぎません。自殺を試みながら、周囲の人に発見され、病院に担ぎ込まれて助けられ、未遂に終わった人々の数は、それよりもはるかに多いことと思います。 

長い歳月を生きてきて、まだまだこれから人生を豊かに育てていく可能性を持ちながら、自らいのちを断ってしまうということは、非常に残念なことです。その背後には、第三者には察することのできない、当人にしか分からない大きな苦しみ、人生の行き詰まりがあったに違いありません。 

クラスの仲間からいじめられ、さらには無神経な担任の教師の言動に絶望し、それを両親にも相談できず、家を飛び出して、自らいのちを断ってしまった中学生。恋愛問題がこじれ、頼りにしていた男性からも裏切られて、絶望し、発作的にプラットホームに入ってきた電車の前に身を投げてしまった二十代の女性。幼いときに親から受けた虐待がトラウマとして残り、思春期のころから始まった拒食と過食の摂食障害に悩み、睡眠薬を多量に服用して、病院に担ぎ込まれてしまった十八歳の女性。課せられたノルマを果たせず、職場の上司と仲間からなじられて、疲労困懲し、自殺を決意した中年の男性。有料の高価な老人ホームに入りながら、子供たちや孫たちなど身内の見舞いがないことを悲観して、ホームの屋上から身を投げてしまったお年寄りなど、その動機・理由は実に多様です。 


(30)「一九九九年一年間の自殺者は、三万三〇四八人で、初めて三万人を突破した九八年(三万二 八六三人)より○.六%増え、過去最悪を更新したことが十七日、警察庁のまとめで分かった。負債や失業など『経済・生活問題』に起因する自殺は前年より一一・六%増えて五人に一人の割合となり、年齢別では四十歳以上が全体の四分の三を占めたのが特徴。一方、九九年の家出まとめでも五十代、六十代以上の中高年の家出が増えており、自殺、家出ともリストラなどの不況の影響を色濃く反映した結果となった。自殺者の調査は全国の警察が取り扱った変死体の検視結果をまとめたもので、日本人だけを対象にした厚生省の人口動態統計と異なり、国内で確認できた自殺をすべて集計した。それによると、総数は九七年から三四.七%増と激増した一九九八年に比べ伸び率はわずかだった。性別では男性が前年比二.二%の二万三五一二人と全体の七一・一%を占めた。逆に女性は三・二%減少し九五三六人だった。原因・動機別では『健康問題』が一万六三三〇人で最も多く全体の四九・四%だが、前年より二.六%減少。一方、回復の兆しはみえてきたものの依然不況の影響は強く、前年より増えた『経済・生活問題』は全体の二〇・四%の六七五八人に達した。職業別では、学生・生徒を除く無職が四六・八%と最も多いが、失業者の占める割合が三・六%と、会社員の八・四%に次ぐ高い数値となった。年齢別では、十九歳以下の少年は六七四人で前年より六・四%減少したが、四十代は五三六三人、五十代八二八八人とわずかながら増加。六十歳以上(一万一一二三人)も含めた中高年層は二万四七七四人と全体の七五・○%を占め、不況を背景に高齢者や働き盛りの会社員、失業者が命を絶つケースが多かったことを示した」(共同通信社・二〇〇〇年八月十七日)。

「自殺」とは? 
57。ところであらためて「自殺」とは何かを考えてみると、そこには簡単には説明できない、人間の神秘が垣間見られます。自殺とは一般的には「自分の意志で自分の生命を終わらせる行為」と定義できるでしょうが、その自殺にもさまざまな態容が考えられます。(31) 

人間にとって、どのように自分の生涯を完結させるかは重大な課題です。かつて「殉死」という習慣が一般的であった時代や文化も存在しました。またわが国では、戦いに敗れた武将が「切腹」して自殺するということがしばしば行われました。さらにまた、無実の疑いをかけられた人が、生命を賭して抗議することは今日でもみられます。このような場合も「自殺」ではあるでしょうが、一つの信念に基づいた、自己主張をするための特別な場合であるといえます。また、うつ病や依存症などに苦しむ人が自殺する場合も少なくはありません。こうした場合、彼らには生死について正常に判断したり決定する能力が著しく損なわれていると考えられ、自殺者の行為が、明確な「自分の意志」を持った「自分の生命を終わらせる行為」であるといえるか、疑問が残ります。「自殺」とは何かについては、各分野におけるいっそうの研究が必要であり、今後なお慎重に検討すべき重要な課題です。 

わたしたちは、自殺についてこれらの問題があることを念頭に置きながら、苦しい状況に追い込まれて選択する「自殺」について、わたしたちの思いを伝えようと思います。 


(31)辞書によれば、自殺とは「自分で自分の命を絶つこと」(講談社『日本語大辞典』)、「自分で自分の命を終わらせること」(三省堂『新明解国語辞典』)です。また、自殺に関する専門書の中、たとえば、加藤正明『自殺』(みすず書房・一九五四年)では、「真の自殺とは、ある程度成熟した人格を持つ人間が『自らの意志に基づいて』死を求め、自己の生命を絶つ目的を持った行動をとること」といった定義をしています。さらに高橋祥友『自殺の危険』(金剛出版・一九九二年)では、自殺の定義では、「自らの意志が明確か」「自殺によって引き起こされる結果を自ら予測しているか」という二点を含めるかどうかがいつも問題になるものの、臨床にたずさわる専門家らは、こうした哲学的定義の厳密さよりも、自殺予防のための調査研究に資する自殺概念を用いることの重要性を説いている、といった状況を解説しています。

精神的に独りぼっち 
58。その動機・理由は、それぞれ異なっていても、共通するのは、当人たちが大きな壁に直面していることです。第三者からみれば、「なんでそんな苦しみを背負えないのか」「死んでしまえばおしまいではないか、もう少し頑張ればなんとかできたのに」「あなたよりももっともっと重い苦しみに悩んでいる人はたくさんいるのに……」などということができますが、当人たちには、その声は届きません。彼らにとって、そこにあるのは地獄のような苦しみなのです。そこで、どうしていいのかわからずのたうちまわっているのです。現実の重さに圧倒され、他のことがみえなくなり、「死ねば楽になれる。死ぬしかない」と思い込んでしまっているところに、共通する心理があります。 

精神科医や苦しむ人々のカウンセラーを行っている人々は、自殺を試みる人々は、「死にたいと思っているが、その反面、だれかに助けてもらいたいという切実な思いを抱いている」と指摘します。 

「だれかに助けてもらいたい、理解してもらいたい」と願いながら、周りにそうした人々を見いだせないところに、悲劇が起こります。たとえ、家族と一緒に住んでいたり、職場や学校の仲間や友人たちとともに働き学んでいて、物理的には孤独ではないかのように見えても、自殺者たちは精神的に孤独なのです。頼る人がいないと思い込み、独りで問題を背負い、独り悩み込んでしまう、そこに彼らの病があります。 

2 与えられた生を生きる

神に目を上げることができるならば 
59。わたしたちは、人生がいばらとあざみに満ち、弱く傷つきやすい人間が、その小さな力で生涯をまっとうすることは、並大抵のことでないことを承知しています。わたしたちの人生には、時として、すべての慰めの光が奪われて、恐ろしい闇に覆われて、それ以上生きていくための光を見いだすこともできないほどの絶望的な状態に追いつめられてしまうことがあることも事実です。 

どんなに大きな苦しみに覆われ、どんなに深い闇に包まれても、生きることをあきらめてはなりません。たとえ、一つの苦しみに覆われたとしても、人生には無限の可能性があります。苦しみの闇の中には二つの扉があるといわれます。一つは簡単に開けられる、絶望の世界に導く扉です。もう一つの扉は開けるのは難しいけれども、希望の世界に導く扉。どんなに重くても、わたしたちは、希望につながる扉を開けるよう努めなければなりません。そこには、死を受諾するような厳しい闘いがあるかもしれませんが、死ぬような思いをもって闇をくぐり抜けるとき、そこには輝くいのちが待っています。死にのみ込まれたキリストが復活の輝きに包まれたと同じように、勇気をもって、「今、ここで」の苦しみに耐える者には、後になって「あのとき死なないでよかった」と、人生の素晴らしさを心の底からたたえるときが必ず準備されています。 

いのちは神からのたまものです。いのちを与えてくださった神は、同時に必要な力をお与えになっているはずです。地上がどんなに真っ暗な雲に覆われようと、その雲の上には、わたしたちを限りなく愛しておられる神が輝いておられます。そこにまなざしを上げ、生きていくための希望をくみ取ること、そこに信仰者の恵み、そして強さがあります。 

わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたがみ心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。(詩編8・4-5) 

カトリック教会が、これまで自殺を否定(32)しつづけてきたのは、自殺がいのちの与え主である神のみ心に背くことであり、神の永遠の愛を見つめるならば、絶対的な絶望はありえないという信仰に基づくからです。 


(32)たとえば、教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』66。

助けられたいという叫びにこたえる 
60。また一方、すでに指摘しましたように、自殺の原因を自殺行為者の個人的責任だけに帰せない場合も多く、当事者を追い込む状況を作り出したわたしたちにも、この状況を改める責任が問われています。自殺者の心の中に、死にたいと思いながら、できればだれかに助けてもらいたいという切実な思いが働いているとするならば、それを止めることができなかったということは、わたしたちの責任です。 

近代以降、世界は経済活動を中心に展開され、経済活動に不要な人間的価値は大切にされてきませんでした。その結果、経済中心の社会のあり方が人と人とのきずなを断ち切り、隣人同士が互いに支え合うという雰囲気が徐々に破壊され、今では家族内のきずなでさえ危うくなってきています。人と人とのきずながこの世界で最も大切であるはずなのに、わたしたちは、それを希薄にしてしまう社会を作り上げてきてしまったのです。自殺者たちは、その犠牲者ともいうことができます。 

すでに日本社会においても、自殺を何とか食い止めたいという願いから、幾つもの活動が行われてきています。自治体や警察、さらに「いのちの電話」のような民間グループが行っている電話カウンセリングはその一つです。また、医療関係機関も自殺予防のために長年取り組み、こうした人々のひたむきな努力により、数知れない人々のいのちが救われていることに勇気と希望を与えられます。自殺者たちの切ない叫びを真撃に受け止め、その心をしっかりと見つめ、その悩みや苦しみに共感し、それに寄り添って生きていけるような社会をわたしたちが築いていけることを願っています。それは、一人ひとりの責任なのです。 

残された家族のみなさんへ 
61。身内や身近な人の自殺は、残された家族や友人たちにとっては辛いものです。とくに、親や子供の自殺や、職場や学校で親しかった友人の自殺は、残された者に大きな衝撃を与えます。大半の人の心は、「自分のせいではなかったのか」「あのときのこのことば、あの態度が引き金になったのでは……」「どうして理解してあげることができなかったのか」「ああすればよかったのでは……」など、自分を責める思いにすっぽりと覆われて、何もすることができなかった自分の無力をかみしめ、悶々とします。そのかかわりが親密であればあるほど、そこから抜け出すことは、また難しいものです。 

そうした難しさを承知の上で、わたしたちは神に心をあげ、すべてをご存知の神の手の中にゆだねることを勧めます。「この世で人生は終わらない」「神の世界につながっている」、それがわたしたちの信仰です。すべての人のいのちは、この世の歩みを終えたあと、この地上の労苦と重荷から解き放たれ、永遠の神のいのちに包まれていくのです。 

62。神は正義の神であると同時にあわれみの神でもあります。この世の生を終えた人々を、「神がどのように裁き、どのように受け入れられるのか」、それはわたしたち人間の思いをはるかに超えた神秘です。裁きは、すべてを見通される神の手にゆだねるべきです。この世界の複雑な現実と、人間の弱さを考えるとき、わたしたちは自殺したかたがたの上に、神のあわれみが豊かに注がれるであろうことを信じます。 

しかし残念なことに、教会は「いのちを自ら断つことはいのちの主である神に対する大罪である」という立場から、これまで自殺者に対して、冷たく、裁き手として振る舞い、差別を助長してきました。今その事実を認め、わたしたちは深く反省します。この反省の上に立って、これからは、神のあわれみとそのゆるしを必要としている故人と、慰めと励ましを必要としているその遺族のために、心を込めて葬儀ミサや祈りを行うよう、教会共同体全体に呼びかけていきたいと思います。 

63。また身近な人々を自殺によって失ったかたがたには、わたしたちは、まず何よりも祈ることを勧めます。過去の思いにとらわれて嘆き悲しんだり、自分を責めたりする気持ちは十分に分かりますが、そこにとどまっている限り何も生まれてきません。祈りは、暗闇に閉ざされた心を、いのちに向けて開いていく救いの道です。それは、神との対話であると同時に、亡くなられたかたとの対話を育てます。神との対話は、人間のいのちがこの世で終わるものではないという確信を与え、その心を慰めてくれるでしょう。また、神の光のもとでの故人との対話は、それまで冷静にみることができなかった故人と自分との真の姿を明らかにし、彼岸と此岸の隔たりこそあれ、新たな交わりのの世界を開いてくれるでしょう。祈りがあるところに安らぎと平和、そして希望が生まれます。

三。安楽死について

安楽死を取り巻く状況 
64。「安楽死」についての現状をみてみると、アメリカ合衆国のオレゴン州やオランダなどで、これを容認する法律が制定され、議論が起こっています。日本では、これほど明確ではないにせよ、幾つかの「安楽死」の実例があり、(33)安楽死を要求する団体も存在します。いわゆる「自己決定権」が、「自分のいのちは自分で自由に扱うことができる」というように誤解され、また人間のいのちに対してさえ「効率」や「有用性」という基準が支配するようになれば、日本でもこの「安楽死」が近い将来、さらにクローズアップされるかもしれません。 

しかし一方で、「死ぬときまで、できる限り快適に、自分自身の意志と選択で生きることができるために」という理念のもと、ホスピスが日本各地で活動を広げていることは喜ばしいことです。(34)ホスピスで働く医師たちによれば、依然として痛みや苦痛が十分にケアされることなく苦しんで亡くなっていく末期患者が大勢いて、それを見かねて実際「安楽死」を選択するケースも起こりうる。反面、ホスピスなどで十分にケアすれば、こうした痛みや苦痛を抑えて死を迎えることができるようになってきているのだそうです。元来、キリスト教的な伝統と理念から生まれたホスピスやホスピス的治療方法が、日本でも受け入れられ、普及していくことを切に願います。人間が尊厳をもって、より十全な形で死を迎えるためのケアを充実させることは、わたしたちの務めです。 


(33)一九九一年の「東海大学安楽死事件」では、末期ガン患者の苦痛を見かねた家族の依頼で、主治医が塩化カリウムを注射、死亡させました。また一九九六年、京都の「京北病院事件」では、患者の友人だった主治医が、やはり患者の苦痛を見かねて筋弛緩剤などを投与、死亡させました。 

(34)ホスピスが含む要素は、一、苦痛の緩和、二、過剰医療の拒否、三、人間的なケア、四、霊的・宗教的な支え、などです。

死の意義について 
65。現代人にとって、死はどこか遠くに置き去りにされた存在となっています。それは忌み嫌われ、日常生活の中から除外され、隠蔽された感すらあります。しかし、よくいわれることですが、死は生の一部であり、わたしたちは生を受けた瞬間から、毎日一歩一歩死に向かって歩んでいるのです。「どう死ぬべきか」を考えることは、「いかに生きるべきか」を問うことと結びつきます。「死ぬとわかっていて、なぜ人間は生きていけるのか」。 

死について考えるとき、こうした根源的な問いにこたえることから、わたしたちは出発するべきだろうと考えます。「安楽死」について考えるということは、「死に方」だけの問題ではないはずです。 

堀辰雄の『風立ちぬ』では、主人公がサナトリウムの中で愛する婚約者の死をともに迎える中で、次第に死を通して物事を見つめることを学び、日常的な生の意味の代わりに、新しい価値が生まれてくることを体験します。死を通して初めて見えてくるものがあることを著者は、「こんな美しい空は、こういう風のある寒い日でなければ見られませんですね」ということはで表現しています。この小説のように、生きている人間は、死んでいくものから多くのものを学び、自らの生と死に対する意識を新たにしていきます。 

こうした死の「意義」をみてみると、人間が短絡的に「安楽死」を選択することは、人間の生に対し、十分な尊重を払っていないことになると思います。 

尊厳のある死の迎え方 
66。わたしたちは、「安楽死」と尊厳のある死の迎え方とは、異なると考えます。 

尊厳のある死の迎え方は「安楽死」による殺人とは異なるものです。回復の見込みのない患者が過剰な医療処置を拒否することや、必要な限り苦痛を緩和すること(35)が、「安楽死」と混同されてはいけません。(36)つまり、過剰医療を中止し、必要な苦痛緩和によって結果的に死期が早まったとしても、それは許されることです。(37)延命効果だけの医療を中止し、ふさわしい苦痛緩和に専念するのは、その患者が死んでいくからではなく、また殺すためではなく、生きているものの尊厳を尊重するためなのです。(38) 

こうした区別を基礎において、「死」をもたらすことを直接の目的として、意図的に行われる「安楽死」は「神の法への重大な侵犯」(39)であり、容認することはできません。 (40) 


(35)教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』64-65参照。 

(36)教皇庁教理省『安楽死に関する宣言(一九八○年五月五日)』(Iura et bona)参照。 

(37)教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』65参照。 

(38)最近の教皇の発言として一九九九年二月二十七日、教皇庁立科学アカデミーあての演説が挙げられますが、その中の次のような箇所が注目されます。 

  • 死の現象を隠す現代社会において老人が見捨てられるおそれがある。
  • 誤った形で「自己決定権」を理解された結果、自殺や安楽死が肯定されてしまうことがある。
  • 医療施設の仕組みのため十分に人間的なケアが施されていない。
  • 「効率」「効果」「実用性」等の考え方が支配的になってしまう。
  • 安楽死と自殺幇助の法令化への運動があるが、それに対する強い懸念を表す必要がある。
  • 教会はこの世での肉体的な命を絶対化はしない(『いのちの福音』47)が、人間の尊厳を尊重するように教え、自殺と安楽死を認めるわけにはいかない(同64-66)。
  • 同じく教会はいわゆる「攻撃的医療」(aggressive treatment)に反対する。
  • 教会が勧めるのは、(イ)苦痛緩和、(ロ)施設においても家庭での看護においても、人間的なケアがほどこされるようにすること。
  • 「キリスト者としての愛」と「人間としての連帯」に基づき、(イ)安楽死と自殺幇助が法令化されないように運動すること、(ロ)死に行く人のケアができるように社会機構も教会機構も使われるように改革していくことが望まれる。
  • まとめて言えば、教会は三つのこと、(a)非人間的な治療、(b)高齢者や苦しむ人の無視、(c)安楽死、に反対し、(a)人間としてのケア、(b)苦痛緩和のためのケア、(c)社会的連帯と医療機関の刷新、を勧告する。

(39)『いのちの福音』65。 

(40)なお、一九九〇年九月二十五日のスペインのカトリック司教総会で「キリスト者の病気と死に対する態度」について話し合われた結果、指針が出され、次の例のような「リビング・ウィル」(尊厳死の宣誓書、終末期医療に関する立場表明)を書くように信者に勧めたので、参考として掲載します。 
 「わたしの家族、わたしの医師、わたしの弁護士へ 
 わたしに対してどのような医療が用いられるべきかということについて自分で意思表示できなくなったとき、どうかこの遺言をわたしの意思表示として扱っていただきたいと望み、よろしくお願いいたします。わたしはこの意思を現在意識的に、責任をもって受け入れているので、これをわたしの遺言のように扱っていただきたいと思います。 
 この世での命は神からのたまものであり祝福でもありますが、最高の絶対価値ではないと思っています。死が避けられないものであり、地上でのわたしの実存の最後であることは承知していますが、信仰の目でみれば死は神とともにいる永遠のいのちへ道を開くものだと確信しています。 
 したがって、わたし(     )は次のようにお願いいたします。 

  • (イ)病気のため回復できない致命的な末期状況におかれた場合、わたしの延命のために過剰医療や攻撃的な医療手段が用いられないように、
  • (ロ)積極的な安楽死が行われないように、
  • (ハ)わたしの死に行く過程を長引かせるため、無理な医療方法が乱用されないように、
  • (ニ)わたしの痛みを和らげるために適当な痛み止めが用いられるように。

キリスト者としても、一人の人間としても、自分の死を受け入れることができるようにどうかわたしを助けてください。わたしの生涯のこの最後の出来事を平安のうちに、しかも愛するかたがたの力づけと信仰の慰めに支えられて迎えたいと思います。 

熟慮の上この遺言にサインします。どうかわたしの看病に当たるかたがた、この意思を尊重してください。難しい重大な責任をみなさんに負わせていることが分かります。そうであるからこそ、その責任をみなさんと分かち合い、みなさんに負い目を感じさせないためにこれを書きサインします。」

四。死刑について

死刑制度廃止の流れと日本 
67。「人間は、独りでは生きていけない、他者の助けを必要とする」。これは、すでに述べてきたように、否定することのできない事実です。互いに助け合い、補い合って初めて、わたしたち人間は、人生をまっとうすることができます。しかし、悲しいことに、罪あるわたしたち人間は、自己中心的な欲望にひきずられ、人々の期待を裏切り、よき助け手となるどころか、周りの人生を傷つけたり、そのいのちを奪ったりして社会を混乱させ、多くの人々に拭いきれない不安と恐れを与えてしまうことがあります。 

過去の歴史を振り返るとき、どんな社会にも、人が自らの欲望の達成を最優先して周りの人々の権利を無視し、そのいのちを奪ったり、社会の秩序と調和を著しく破壊したりする人々がいて、彼らに対し死刑をもって報いることが、当然のこととして認められてきた事実を確認することができます。そして、今もなお、数多くの国々で死刑制度が容認されていますが、その一方で、多くの先進主要国では、死刑制度が廃止されています。 

いわゆる先進諸国で死刑制度が残されているのはアメリカ(一部の州では廃止)と日本だけです。(41)日本の最近の世論調査は、相次いで凶悪犯罪が起こった影響にもよるのでしょうが、「死刑を容認する」人々は八割近くになっていると報告しています。(42) 


(41)日本の歴史を振り返るとき、八世紀から十二世紀の初頭まで、死刑の条文はあっても、死刑の執行が緩やかに運用され、島流しか禁獄の刑が与えられていた、といわれています。その後、武士たちが台頭するにしたがって公の処刑が当然のように行われるようになりました。 

 (42)総理府「基本的法制度に関する世論調査(一九九九年)」。前回調査(一九九四年)の七三・八%より五・五%増加し、七九・三%が「死刑容認」。「死刑廃止」は八・八%。一方、この設問の「廃止」「容認」「分からない」という三つの選択肢以外に、「終身刑など死刑に代わる制度導入」という選択肢を入れれば、「死刑容認」は少なくなるはず、という点を指摘する専門家もいます(菊田幸一・明治大学法学部教授、毎日新聞・一九九九年十一月二十八日)。

「死には死をもって報いる」でよいのか? 
68。「死刑制度容認」の根拠は、実にさまざまです。「死には死をもって報いる」という論理もその一つです。被害者とその遺族や親族、友人たちの怒りや報復の感情も、また、死刑制度を容認する一つの根拠になっています。さらにまた、死刑制度は犯罪の抑止力になっているという説もあります。また、社会にとって危険な人物を放置しておくことを防ぐという「予防論」という立場から、死刑制度の維持を訴える人々もいます。 

わたしたちは、罪を犯した者がその罰を受け、その罪の償いをしなければならないという点に関しては、異議を唱えるものではありません。公正な裁判によって、罪を犯した者に、その重さに応じた罰と償いを課すことは当然なことと思います。犯罪を犯した者は、その罪の責任から逃れることはできません。しかし、法治国家としての体制が整いつつある現代社会にあっては、これまで死刑制度を容認してきたさまざまな根拠は、その説得力を失いつつあるとわたしたちは考えます。 

死刑制度の存続が犯罪抑止力になるという考え方に対しては、一九八九年に「死刑廃止条約」を総会において採択した(日本は反対、現在も未締約)国連において、死刑が犯罪抑止力になっていないという報告が繰り返し提出されています。(43)この報告をわたしたちは尊重すべきではないかと考えます。また、「被害者の遺族の感情を斟酌すると死刑もやむなし」とする考え方が人々の中にありますが、加害者が死刑になることが遺族にとって本当のいやしになるとはわたしたちは考えません。(44)被害者の心のいやしを真摯に求めるのであれば、それは別の方法が考えられるべきと思います。「予防論」という立場に立つ人々に対しては、今日、罪を犯した人々が罪を償うために設置された施設が、法の保護のもとにしっかりと運営され、逃亡は極めて難しく、たとえ逃亡ができたとしても、逃亡生活をまっとうすることは、法治国家においては至難なこととなっている事実を強調したいと思います。 

多くの国が法治国家としての体制を整えつつあることを前提にして、わたしたちはここで、一人の人間のいのちの尊さという原点に立って、死刑制度がその存在理由を失いつつあることを主張したいと思います。(45) 

重大犯罪において、加害者を死刑にすることで社会がその問題をご破算にするのではなく、被害者やその家族の人権問題をもっと真剣に考えていかなければならないでしょう。 


(43)一九六二年「アンセル報告」、一九六七年「死刑-一九六一年から一九六五年の動向」、一九八八年国連犯罪防止規制委員会「報告書」(『死刑の現在』日本評論杜・一九九〇年・二〇七ページ)。具体例としては「ナイジェリアで行われた調査によれば、死刑による処刑の増減と犯罪の増減の間には相関性がなかった。……カナダでは、十万人あたりの殺人率は、死刑を廃止した前年の一九七五年には三・〇九のピークに達したが、一九八三年には二・七四に、そして一九八六年には過去十五年で最低を記録」(岩井信「死刑の何が問題か-日本と世界の死刑の現状」新教出版社『死刑廃止とキリスト教』(一九九四年)所収)など多数。 

(44)チャールズ・チャプー大司教(アメリカ・デンバー教区)は次のように述べています。「しかし依然として犯罪者を殺害することは間違っている。死刑によって、死んだ人が栄誉を受けるわけではない。生きている人が高貴にされるわけでもない。しばらくの間、世間の人々が感じた怒りを静めることができたとしても、殺された被害者の愛する遺族をその苦しみから救い出すことはできない。というのも、いやしはゆるすことによってのみ、もたらされるからである」(一六八名の死者を出した、オクラホマ市連邦ビル爆破犯人に対する有罪判決を受けて。『デンバー・カトリック・レジスター』[教区報]一九九五年六月十一日)。 

(45)「正当な理由なく他人を攻撃する者に対して、血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきである。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからである」(『カトリック教会のカテキズム』二二六七)。他に、『カトリック教会のカテキズム』二二六六、教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』27、56、教皇ヨハネ・パウロ二世「一九九八年クリスマスのあいさつ」「メキシコでの演 説(一九九九年一月二十五日)」「セントルイスでの演説(一九九九年一月二十七日)」参照。

いのちは神のもの 
69。すでに指摘してきましたように、いのちは、神の分野に属するものです。「わたしが報復し」(申命記32・35)と聖書にあります。その生殺与奪の権威は神の手の中にあります。たとえ、どのような理由があろうと、またそれがどんなに社会正義に満ちたものであろうと、わたしたち人間が、国家共同体の名において、一人の人間のいのちを奪うことは、神の権限を侵すことになるのではないでしょうか。 

創世記の、弟を殺したカイン追放の場面にある、神が、「カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(創世記4・15)という文章は注目すべきです。そこから、わたしたちは、死刑を否定するメッセージを読み取ることができます。そのしるしは、犯した罪の行為に対する反省をカインに促すものでもあり、どんなに醜い罪を犯しても、人間に最後まで生きる可能性を与えようとする神の愛によるものです。実に、生への道が開かれていてこそ、悔い改めの可能性が開かれてくるのです。 

「ゆるし合うこと」は成熟への道 
70。またここで、死刑をもって一人の人間を決定的に裁いてしまうことは、わたしたち人間の成熟への道を閉ざしてしまうものであることも、指摘したいと思います。「七の七十倍までもゆるしなさい」(マタイ18・22)というキリストの教えに従うものとして、わたしたちの人間としての成熟と完成は、権利と義務に基づいて互いの基本的な人権を尊ぶということにとどまらず、無償の愛と献身、そして罪人に対するゆるしの中にあると、わたしたちは考えます。ゆるしがたきをゆるし合っていくことから、真の人間の輝きが現れてきます。 

それは、十字架を前にして弟子たちに剣を放棄することを命じ、自分を十字架に釘付けるものたちのためにゆるしを願いつつ息を引き取ったキリストが歩んだ道です。多くの人々を引き寄せ、多くの人々の心に訴える力を持ち続けるキリストの魅力は、報復ではなく、いのちを賭けてゆるしの道を選択したことにあります。 

幸いなことに、歴史的プロセスとして、現代、ヨーロッパ諸国を中心にして多くの国々が、死刑制度廃止への道をたどりつつあります。近年、教皇ヨハネ・パウロ二世は機会あるごとに死刑廃止を訴えています。(46)犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会になってこそ国家の真の成熟があると、わたしたちは信じるものです。 


(46)「『犯罪者を死刑にすることが絶対的に必要だというケースは、実際上存在しないとはいわないが、非常にまれになっている』のであるから、世界のすべての指導者たちが死刑廃止に同意するよう、あらためて訴えたいと思います」(一九九九年十二月十二日、お告げの祈り)。

五。生命科学の進歩と限界

科学の進歩を肯定します 
71。科学および医療技術の急激な進歩発展は、人間の生命の誕生と死の分野にも新しい可能性を開きました。わたしたち人間が思いのままに操ることができる、精子や卵子の抽出などによる生命の誕生、遺伝子操作、クローン技術、臓器移植、終末医療の発展などは、数十年前までは考えられもしないことでした。科学や医療技術の発展を、わたしたちは、ここで、一方的に否定するつもりは毛頭ありません。 

誠実な研鑽に敬意を表します 
72。人間の知性は神から与えられた貴重なたまものです。神が創造された宇宙万物にはまだまだ人類には隠された神秘があり、秩序があります。それは奥深く限りないものです。わたしたちは、自然の奥に潜む真実を求め続けるすべての誠実な営みには、心からの敬意を払い、その営みを高く評価するものです。それを、見極め、明らかにし、それを人類の幸福のためにいかしていくことは、創造主の権限を犯すことではありません。神のかたどりとして創造され、この世界の秩序と調和の守り手としての人間に課せられた使命の一端を担うことでもあります。 

人間の幸せのために 
73。現代のカトリック教会は、新しい世紀を迎えるにあたって過去の教会が犯した過ちを全世界に向かって公に謝罪した教皇ヨハネ・パウロ二世に心を合わせて、ガリレオの弾圧に代表されるような自然科学の発展を疎外するような言動に関して真摯に反省し、世界と大自然の営みを動かしている法則を見極め、その秩序に敬意を払いながら、それを人類の幸福と発展のためにいかしていくことは人間にゆるされているということだけではなく、それは神からゆだねられた責任とも考えるものです。 

どういかすのか? 
74。問題は、しかしそれをどういかすか、どのように利用するかです。人間の生き方、つまり倫理・道徳の価値観、世界観が問われてくることになります。  科学や医療技術の成果は、時として、アダムとエバの前に提供された楽園の木の実のように、わたしたち人間の幸福を約束する魅力ある対象と映ることも事実ですが、それに無原則に手を伸ばしてしまうならば、楽園から追放されてしまったアダムとエバのような状況にわたしたちは直面するかもしれないのです。どんなに魅力あるものであっても、無原則に利用してしまうならば、それは、わたしたち人類を死と滅びの中に追いやってしまう可能性を持っています。 

新たな技術の持つ両義性 
75。その一つの極端な例として、核エネルギーの発見とその利用を挙げることができます。二十世紀は物理学が科学分野の発展をリードした時代ともいわれます。その最たるものが、核エネルギーの開発です。それは、人類にこれまでにないエネルギーを提供することになりましたが、一瞬のうちに多くの人々のいのちを奪った広島や長崎に投下された原子爆弾やチェルノブイリの事故、さらに多くの人々のいのちを危険にさらし生活を著しく脅かした東海村の臨界事故にみられるように、後世の人々にも重い被害を与えてしまうことになるのです。その有効利用については、人間の限界をわきまえた英知と、細心の上に細心の注意を重ねる努力が必要でしょう。しかし、悲劇的な結果を招かないために、安全な代替エネルギーを開発していくよう希望します。 

神秘への敬い 
76。同じことは、二十一世紀になってますます研究開発が予想される生命科学の分野にもいえます。生命の分野は創造主である神の権限にも触れるものであり、一つ間違えば、神に代わって人間が生命を思うように操作できるという錯覚に陥ってしまう恐れがあります。今後ますます発展するであろう生命科学が提供するものの成果を、倫理・道徳・宗教の示す価値観のもとに識別していく必要性があることを訴えたいと思います。 

 わたしたちは、ここで具体的な科学や医療技術の発展の成果として提供される幾つかのことがらを取り上げて、それをどのように受け取り、どのようにいかすべきなのか、人間本来の価値観・世界観の視点から、考察してみたいと思います。

六。脳死と臓器移植

死の判定 
77。すべての人々に例外なく訪れてくるものは、死です。生を与えられたわたしたち人間は、誕生、成長そして老いというプロセスを踏みながら、生物学的には死に向かって歩み始めます。それは身体を持つすべての生物の宿命です。貧しい者にも富んでいる者にも、社会の底辺にいるものにも権勢の極みに立つ者にも、平等に死は訪れてきます。 

しかも、死は、すべての人々の人生に陰のようについてまわります。生まれたばかりだから、まだまだ若いから、健康だから、死は自分には縁のないものであるということのできる人はいません。突然襲ってくる災害や交通事故による不慮の死や、通り魔事件のように予想もしなかった暴力による死などにみられるように、いつ、どこで、どのような形で死を迎えなければならないのか、だれにも分からないことです。死は、隙があれば、わたしたちの人生にいつでも襲いかかろうとつねに機会を狙っています。 

昔の人々は、死は、人が息を引き取ることとして理解してきました。日本語の死の語源は、シイヌ(息去)だとされています。それは、近代医学が登場するまで、人々が納得して死を受け入れる基準でした。人々は、息を引き取った人間を見て、死と判断し、葬儀を行ってきました。 

しかし、近代医学が発展し充実することによって死の判定は、医師にゆだねられるようになりました。今や、家族も友人たちもそして行政機関も、医師の判定を尊重し、医師の判定のもとに人の死を受け入れるようになったのです。医師による死の判定は、三つの徴候によるものでした。つまり呼吸停止、心臓停止、瞳孔散大でした。この死の判定基準に何の疑問も抱かず、素直に死の事実を受け入れてきたといってよいでしょう。 

臓器移植と脳死の判定 
78。しかし、医療技術の発展に伴い、ある特殊のケースにおいては、これまでとは異なった人間の死の判定が考えられるようになりました。死の判定基準を、脳死に求めるようになってきたのです。昏睡、脳幹無反射、脳波平坦の状態が一定時間続くなどの条件が満たされれば、たとえ人工的に機械によって心臓が動いていても、脳死の状態として認定し、法的に人の死として判断を下そうというのです。「脳死を人の死とする」ということは、欧米社会では、日本と比べると比較的早い時期に認められることになりましたが、日本では、脳死に対する関心が高まったのは、臓器移植との関連においてでした。 

たとえ脳が死んだとしても、臓器は生きています。生きた臓器を移植すれば、それだけ移植の成功率は高まります。こうして臓器移植との絡みから、臓器移植法が一九九七年に制定され、臓器移植を書面によって受け入れる人にとって、脳死も新しい死の判定基準として認められるようになったのです。 

遺体には敬意を 
79。しかし、多くの人々には、脳死を人の死として受け入れてよいかどうか、戸惑いがあることは確かです。というのは、脳死と判定されても、心臓は動き、脳以外の身体には血液が循環し、手を触れればその体は温かであり、臓器は生きているということができるのです。脳死状態にありながら、医者たちの助けを借りて出産したという事例も報告されています。(47) 

したがって病人と親しく生きてきた友人や親族にとっては、専門の医師たちから脳死と判定を下されたとしても、そう簡単にそれを死として受け入れることができないことも確かです。身体のぬくもりがある限り、そして心臓が脈打っている限り、その周囲に立つ親しい友人たちや家族たちは、彼とのきずなに未練を残し、たとえ反応はなくとも、生きているかのように、コミュニケーションを求めて語りかけていくこともできるのです。 

そこで、わたしたちは、専門の医師たちによる脳死の判定が絶対化され、独り歩きし、故人と親しい家族や友人たちとのつながりへの敬意と配慮を欠くことのないよう、強く訴えたいと思います。また、それを死として受け入れ、その身体の一部にメスを入れ、臓器移植のために提供するか否かは、本人はもとより家族の承諾が絶対に必要であると考えます。 


(47)アメリカで妊娠六カ月の女性が脳死宣告を受けた五十日後に女児を出産したケース(読売新聞夕刊・一九八六年七月三十一日)や、一九九二年六月十九日に開かれた「脳死・脳蘇生研究会」で発表された、妊娠中にくも膜下出血で脳死状態と判定された女性が脳死状態となってから三十五日後の一九九一年十一月上旬に女児を出産したケース(毎日新聞・一九九二年六月二十日)などがあります。また一九九二年一月二十三日に宮沢喜一首相に提出された「臨時脳死および臓器移植調査会」の答申「脳死および臓器移植に関する重要事項について」の第四章においても「『脳死』状態のまま出産した例がアメリカにも日本にもある」(朝日新聞・一九九二年一月二十三日「脳死臨調答申要旨」)との指摘がなされています。

愛の行為としての臓器移植 
80。しかし、わたしたちは、ここで脳死を死として素直に受容できない人と人とのつながりの尊さに敬意を示しながら、臓器移植は希望を失ってしまっている人々に健康を取り戻させるだけではなく、人生を永らえる可能性を与える、現代医学が切り開いた福音として評価し、肯定するものです。(48) 

日本社会には、他者からの臓器の提供によって健康を回復し生き永らえようとする人々を、生に執着していると否定的にとらえる人々がいることも事実ですが、それは、わたしたちカトリック教会の立場ではありません。可能性のある限り、神から与えられた一回限りの生を支えるために、励まし、必要な手を差し伸べていくことはわたしたち人間の愛の務めです。実にカトリック教会は、すでに四十数年前から臓器移植を肯定し、愛他的行為として、その技術の発展・進歩を次のような条件のもとに認めてきました。一、提供者の自由意志による同意。二、死の確認。三、遺族への配慮。四、遺体への畏敬。五、遺体の売買の否定。六、受容者の選択における公正。(49) 

臓器移植について報道する最近のマスメディアが、臓器提供者のことを英語のままで「ドナー」と呼ぶことが普通になりました。この「ドナー」という英語の語源は、「たまものを与える」ことを連想させるものです。自らにとって尊い価値あるものを与えるという意味が、そこには隠れています。実に、臓器移植は、神から与えられた最も貴重なたまもの、つまりいのちの一部を必要としている他者に与えることであり、カトリック教会は、これまで一貫して積極的に愛の行為として肯定してきたのです。 


(48)教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』15、86、さらには「死の判定に関する学会(教皇庁科学アガデミー主催)参加者への教皇あいさつ(一九八九年十二月十四日)」参照。 

(49)教皇ピオ十二世は「イタリアの角膜提供者協会代表者へのあいさつ(一九五六年五月十三日)」において「遺体の一部をとることは遺体への畏敬に反するものではない」と述べ、同時に必要条件として「死の確認」「遺族への配慮」「遺体の扱い方における畏敬」などを挙げました。

寿命は神の手に 
81。しかし、日本社会の現状を直視するとき、わたしたちは、臓器移植を手放しに愛の行為として勧めることを躊躇させるものがあることも、指摘しておきたいと思います。それは、死と生を軽く扱い、人生における死の意味を直視せず、この地上の生活を生き延びることを最優先する人生観と、消費社会の論理で臓器の移植を商品化してしまう流れです。わたしたち人間の生も死も、この世界の現実の価値にとどまらない神秘的な価値が与えられています。それをあかししたのが、キリストの十字架の死と復活による生です。 

人間にとって生物学的なレベルの生が究極の価値を持つものではないということ、それは、永遠の生命に方向づけられているという人生観を、臓器移植にかかわるすべての人々に訴えたいと思います。生は神から与えられ、永遠の神との交わりに方向づけられているものです。死は、地上の生から永遠の生命への通過点でしかありません。生も死も、すべて神の手にゆだねられ、導かれているものです。したがって、臓器移植によってさらに充実した生が与えられるとしても、それを高額な経費を支払うことによって自らかちえた生ととらえるべきではありません。臓器を提供する人々の善意と神のたまものとして感謝をもって受け取り、そこに永遠の生命に向けてしっかりと生きるようにという神の呼びかけをくみ取るべきだとわたしたちは考えます。

七。ヒト胚の研究利用・人間のクローン・遺伝子治療

82。ヒトの胚、つまり受精卵から始まる妊娠初期の状態について考えるとき、次の点を基礎的前提として確認しておく必要があると考えます。どの時点から人間のいのちが始まると考えるか、という問題が出てきます。わたしたちはいのちがどの時点から始まるかを定義することよりも、まず、いのちをそのはじめから守るべきだと宣言する、という慎重な立場をとりたいと思います。(50) 

この理解の上に立って、近年さまざまな研究が進められているヒト胚の研究利用や、そこから派生するクローン技術について考えなければなりません。次のように考えられます。 


(50) 教皇庁教理聖省『堕胎に関する教理聖省の宣言(一九七四年十一月十八日)』参照。また、この点について教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『いのちの福音』60では、いのちはその始まりから尊重されるべきと強調されています。

ヒト・クローン 
83。「クローン」とは、遺伝的に同一の細胞や生物を指すことばです。一九九七年、未受精卵に乳腺細胞の核を移植して生まれたクローン羊、ドリーの誕生が報告され、それが「クローン人間」を連想させたことで、世界は大きな衝撃を受けました。クローン技術をめぐっての倫理上の議論では、初期の極端な賛否両論がようやく静まり、多くの研究者はより厳密で、ケースごとの差異を考慮した微妙な判断を一般世論に対し訴え始めています。次の二点が論争の中心です。一つは二種類のクローン、すなわち「生殖を目的とする胚細胞クローン(reproductive cloning)」と「生殖以外の目的で行われる体細胞クローン(non-reproductive cloning)」について。もう一つは、ヒト胚の倫理的かつ法的地位、すなわち、どのように扱われるべきか、という問題です。教会の立場は、次のようにいえるでしょう。 

 一、生殖を目的とする胚細胞クローンに対して反対します。理由は、人間は目的であって、手段として人間を使ってはならないからです。人間には遺伝的にプログラムされない権利があります。人間には遺伝的に唯一無二の存在として認められる権利があるからです。 

 二、生殖以外の目的(たとえば、クローン技術を用いてヒトの組織や器官を作成する)で行われる体細胞クローンに関しては、それぞれの技術を厳密に検討し、より微妙な判断をするような立場をとることができるでしょう。この場合、そのために用いられる胚の扱いについての基準が問題となります。普通の生殖の方法ではないやり方によって個体の誕生が目指された場合、いったいどの時点から新しい個体のいのちが始まるといえるのかという問題が避けられず、胚もすでに人間であるという立場では、これを研究のために利用することは許されません。 

遺伝子治療 
84。教皇ヨハネ・パウロ二世は、「遺伝子組み替えなどのような最近の研究の成果は、人間のために使われなければならないものであり、病気の治療や食料事情の改善に貢献するように」と述べ、同時に「倫理的価値と人間の尊厳が損なわれることのないように、なかでも、生きている胎児を単なる実験道具にするようなことは許されない」とも語っています。(51) 

さらに、一九九七年十一月十一日にユネスコによって「ヒトゲノム(遺伝子情報)と人権に関する世界宣言」が採択されたとき、フランス・カトリック司教団は「遺伝子科学の進展と人間の尊厳」に関する教書を公表し、次のように述べています。「『遺伝子治療』は、患者を救うために医学によってなされるが、まだその成果が十分にみられない。実験の被験者を十分尊重したうえで研究を続行するのは望ましいが、この方法の行き過ぎを避け、生殖細胞あるいは『胚』細胞を含めた『体細胞』への遺伝子導入を規制する必要があろう。現在では、来るべき世代への配慮から、すべての『生殖細胞や胚の細胞を対象にする遺伝子治療』の試みを控えたほうが慎重であろう」。(52) 

遺伝子治療は、現在、先天的に特定の遺伝子が機能しないために起こる疾患の治療と、他の治療法のない後天性の疾患の治療に用いられ、前者については効果が出たという症例が報告され始めているものの、後者に含まれるガンやエイズなどの難治性の疾患についてはまだ研究が始まった段階です。すなわち依然として確立された治療法とはなっておらず、いったん始めた人間への遺伝子治療を中断しているケースも見られます。(53)その将来の発展を期待しつつも現状では慎重に検討されなければならない技術といえるでしょう。 


(51)一九八二年十月二十三日、教皇庁立科学アカデミーの参加者に対するメッセージ。 

(52)Le Conseil permanent des eveques de France, Essor de la genetique et dignite humaine, Bayard Editions/Centurion/Les Editions du Cerf, Paris 1998. 

(53)アメリカ・ペンシルバニア大学ヒト遺伝子治療研究所は二〇〇〇年五月二十四日、人を対象にした遺伝子治療をすべて中止すると発表しました。これは前年、同研究所で遺伝子治療中の患者が死亡したためです(朝日新聞・二〇〇〇年五月二十五日夕刊)。

八。環境問題

地球規模での問題 
85。神は世界を創造され、それをよしとなさいました。神は、宇宙万物に秩序と調和を与え、ことに自然と人間が、豊かに共生することを望まれました。しかし、人間は十九、二十世紀にかけて、近代化、工業化のもとに、自然を征服していくことで欲望を満たそうとしてきました。先進国の人々は、便利さや快適さを飽くことなく追求し、自らのエゴイズムとそれをあおる商業主義により、短期間のうちに地球環境を破壊してきました。 

地球が誕生して四十六億年。地球上の人間は、十九世紀の初めには約十億人でしたが、二十世紀の初めには約十六億人に、そして二十一世紀初めには六十億人、半ばには百億人を超えることも予想されています。未来の予測は難しいものですが、二十一世紀にほぼ確実な三点といえば、人口増、エネルギー消費増、地球環境問題の深刻化であるといわれています。 

このままでは 
86。アメリカの生物学者レイチェル・カーソンは、一九六二年に彼女の著書『沈黙の春』の中で、いち早く環境汚染問題を訴えました。 

いつもだったら、コマドリ、スグロマネシツグミ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。……リンゴの木は、溢れるばかり花をつけたが、耳をすましてもミツバチの羽音もせず、静まりかえっている。(54) 

こうした「沈黙の春」がやってくることを、今からもう四十年近く前に予言したのです。一九七二年には、ローマクラブの「成長の限界」という報告書が発表され、人口増加、経済成長、資源消費量、食料需要、環境汚染といった要素分析から、このままの状態では資源の枯渇か地球環境の汚染によって、人類の成長に限界が生じると警告しました。 

今日、その予言は不気味な重さをもってわたしたちの胸に迫ります。一度失われた自然を元に戻すのは至難のこと。一九七五年から二〇〇〇年までの間に、年間約四万種の野生生物の絶滅が観測されていますが、滅びてしまった生物の再生はほとんど不可能視されています。 

二十世紀の後半は、とくに機械文明が進み、車社会となり、先進国では一人ひとりがぜいたくで気まぐれな消費生活を求めた結果、大量生産、大量消費、大量廃棄、大量排出型社会となりました。そして、そのことによる二酸化炭素(CO2)発生は地球を温暖化させています。また、化学物質による環境汚染は、ダイオキシンや環境ホルモンの問題にまで進み、人類だけでなく地球上のあらゆる生物の存在を脅かしています。 


(54)レイチェル・カーソン『沈黙の春』(青樹簗一訳・新潮文庫・一九七四年)。

環境汚染の実態

87。地球環境問題でとくに深刻なのは、地球の温暖化、酸性雨、オゾン層の破壊、発展途上国の被害などです。 

温暖化とは、石油、石炭などの化石燃料を消費することで、温室効果ガスともいわれている二酸化炭素が発生し、地球を暖めていくことで、二十一世紀には気温が平均で摂氏二度上昇し、海面が約五十センチメートル上昇するのではないかと推測されています。温度上昇は、降水の量やパターンの変化を起こし、植物や生物に大きな影響を与えます。異常気象は、食料不足問題や環境難民の発生につながっていきます。 

酸性雨は、工場や自動車などから排出される硫黄酸化物(SOx)や窒素酸化物(NOx)が、化学変化を空気中で起こして硫酸や硝酸となり、酸性雨として地上に降り注ぐものです。一九五〇年ころから北欧の湖や川で魚の死滅が観測されましたが、現在では、ドイツの森の半分以上が酸性雨による被害を受け、中国では農作物の被害が報告され、アメリカ、カナダ、日本でも酸性雨が観測されています。汚染物質は、気流に乗って二千キロメートルも移動することが観測されているので、地球規模での影響が心配されています。 

オゾン層の破壊とは、フロンガスなどにより、成層圏下層にあるオゾン層が破壊されることで、有害な紫外線が地上に到達する量が増加し、ガンなどの健康被害や、植物の光合成、プランクトンの生育などに問題が出てくることが心配されています。 

発展途上国では、産業公害が深刻です。それには、発展途上国の責任もありますが、工場を現地に設立したりする先進国の責任もあります。 

わが国では一九六〇年代から公害問題が起こり、四日市市や川崎市などの大気汚染公害や、水俣市の工場排水による水質汚染問題で公害裁判が起こり、さまざまな公害規制のための対策により沈静化されてきました。ところが、途上国ではいま、大気汚染、工場排水、重金属汚染が顕現化しています。 

先進国の人間は途上国の発展を否定するのではなく、経験をいかし、技術移転、人材、資金などの面で支援していくことが大切でしょう。 

また、森林の過伐採による熱帯林の減少や、海洋汚染による漁業資源の減少、有害廃棄物の海洋投棄、砂漠化などは、地球上のあらゆる生物の生存に深刻な問題を投げかけています。とくに、熱帯林には世界の生物種の半数以上が生息するといわれているので、二〇二〇年までに五万~一五〇万種の生物の絶滅が予想されています。 

神からの期待とは 
88。自然も人間も、神の手により地球上に精緻に創造されています。人間も動物も植物も、地球上ではあい携え、壮大にして緻密な生態系で結ばれています。まさに神秘の連鎖です。地球の資源を現世代だけで使い切ったり、神の創造物であるいのちあるすべての存在を、人間のエゴイズムと愚かさで滅ぼしてよいはずがありません。人間は環境との関係を見直し、新しい枠組みを作っていかなければならないのです。 

わたしたち人間は、思い上がりを正し、各自、神が創造されたこの世界のバランスを感じとり、自分のいのちのよって立つところをわきまえ、自然の中での人間の位置づけを正しく認識して、身の交感覚を大切にすることが求められていると思います。人間には自然が必要です。生きるため、食べるため、愛し合うために必要です。 

一九九〇年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、神は人類に地球環境の保護を期待しておられるとして、「宇宙には守るべき秩序があり、自由意志によって選択の可能性を与えられた人間は、来たるべき世代の利益のためにこの秩序を保つ厳粛な責任があるのだということです。生態系の危機は倫理の問題だと繰り返していいたいと思います」(55)と呼びかけられました。 


(55)一九九〇年「世界平和の日」メッセージ「創造主である神とともに生きる平和、創造されたすべてのものとともに生きる平和」15。

まずわたしたちが身近なところでできることを 
89。先進国の人々の生活形態や、文明・経済活動のあり方が問われている今、わが国の企業はこれまでのような大量生産、大量消費、大量廃棄のあり方を見直し、新しい商品の開発には、省エネルギー、省資源、リサイクル、低排出型システムの創造を重視し、製造工程の見直しや処分までを考えた技術開発に取り組んでほしいと思います。 

わたしたちも、冷暖房のかけ過ぎや過剰包装などの無駄はやめ、製品を購入する場合は、本当に必要か、再生資源利用品か、消費電力はどうかなどを考えて買うなど、一人ひとりが自分にできること、地球環境への重荷を減らす行動をしていくことが求められます。地球環境NG○活動の重要性も増してきています。 

野の花の一つにさえ神は心をかけ、美しく装い、いつくしみをかけています。それぞれの生き物が、それぞれのいのちの歌を歌っているように感じ入ることは、神の愛と希望の中にわたしたちが喜び生きることにつながります。他の生き物の存在の、絶対の豊かさに気づくとき、わたしたちは目覚めて神の存在を直観することができるのです。人間には、環境を破壊するのではなく、環境創造を神とともにしていく務めがあります。問題を整理し、冷静に向き合って、解決のための行動と対話を、希望を持って続けていくことが大切です。

おわりに

「はじまり」としてのメッセージ 
90。この種のメッセージを、日本の司教団がまとめ、信者だけではなく、一般社会の人々に向けて投げかけるのは、初めてのことです。これを手に取られたかたがたの中から、「こうしたケースも扱ってほしかった」「現状認識が甘すぎる」「自分たちの立場・状況を十分に理解してくれていない」、さらにはまた「カトリック教会の立場や教えをもっともっと明確にしてほしかった」など、不満や批判の声が挙がってくるかもしれません。それは、わたしたちがこのメッセージをまとめていく作業の中でも、たびたび指摘されてきたことでした。 

わたしたちは、このメッセージの中で、本来ならば取り上げるべきだったと思われる事項が他にも多々あり、また個々の状況はもっともっと厳しいものであることも理解しているつもりです。そうした不十分さを含みつつも、この時期にあえてこのメッセージを世に出すことを決断したのは、新たな世紀、また新たな千年期に入ったばかりのこのときに、神の光に基づいた人間の生きる姿勢を人々に呼びかけ伝えることは、司教団の本来の使命である、という確信があるからです。 

教皇パウロ六世は、一九七一年、社会問題についての教説の発表に際し、次のように述べています。 

このように千差万別の状態を目前にして、世界各地に適応できる解決策を提示することは、わたしにとって確かに困難なことです。そして、わたしはそうするつもりはありませんし、それはわたしの任務でもありません。それぞれの地域の実状を綿密に調査し、それを不変の福音のことばと照合して解明し、社会問題についての教会の教説から考察の原則と判断の基準と行動の指標を引き出すのは、キリスト教共同体の義務です。……キリスト教徒の共同体は、聖霊の助けによって、自分たちが所属する司教と交流を保ち、他のキリスト教徒およびすべての善意の人々と協力して、必要と思われ、緊急を要する社会・政治改革を行うために、活動方針と手段を決定しなければなりません。 (56) 

わたしたちも今回、教皇パウロ六世と同じ希望を持っています。このメッセージを読むみなさんが、ここにある記述をそれぞれの課題について教会が示す「最後のことば」と理解するのではなく、むしろこのメッセージをもとに一人ひとりが議論を進め、いのちが大切にされる社会を建設していくための「出発点」として利用していただきたいと願ってやみません。 


(56)教皇パウロ六世『オクトジェジマ・アドヴェニエンス(一九七一年五月十四日)』(Octogesima adveniens)4。

キリストのまなざし 
91。わたしたちには、現代の日本社会に生きる人々のいのちとその人生が直面している問題は、根本的に一人ひとりの生き方、価値観、人生観に帰するものである、という共通理解がありました。物質主義、快楽主義、この世の営みだけですべてが完結するという世俗主義、そして自分の幸せだけを追い求めようとする個人主義などが人々を不幸にし、この社会を行き詰まらせているという判断から、わたしたちは、何よりもまず人々にキリストが示された生き方を伝え、キリストのいのちを吹き込みたいと願ったのです。この文書の第一章を「聖書からのメッセージ」としたのも、そのような理由からでした。 

実に、このメッセージを根底で支え、いかしているものは、イエス・キリストです。つまり、神を愛し、人々を愛して、十字架につけられ、死して葬られ、復活されたキリストの生き方にこそ、危機に瀕しているわたしたちのいのちを救い、わたしたちの人生を永遠のいのちに導くものであるという、わたしたちの信仰が根底にあるのです。このキリストは、現代社会においても、そこで翻弄されて苦しみ悩む人々を、いつも見つめ、苦しみをともにしているのです。そのいつくしみ深いまなざしにならい、わたしたち自身も同様に悩み苦しむ人々に同じまなざしを向けていくことによって、社会が少しでもよい方向に向かうよう願っています。 

このメッセージは、人々が直面している、複雑で重大な問題を解決し、克服していくためには十分な光にはならなかったかもしれません。しかし、わたしたちが示したかったことは、聖書にあるとおり、実にキリストこそ「道、真理、そしていのち」(ヨハネ14.6参照)であるということを、ご理解ください。苦しみの中にあっても、神のみ心に従い、愛に徹して生きたキリストの姿こそ、人々のいのちと人生を喜びに輝く道に導いてくれる、とわたしたちは確信しています。 

自分の責任で 
92。わたしたちは、このメッセージを手に取られたかたがた一人ひとりが、カトリック教会の信者であれ信者でないかたであれ、この中から光をくみ取り、それを自らの責任において主体的に、自分の生き方として選択してくれることを心から願っています。一人ひとりが自分の人生の責任を負わなければならない、ということは厳粛な事実です。 

教会がこれまでさまざまな機会に公にしてきた文書と異なり、「教会の教えはこうである」という、どちらかというと断定的な表現を避けて、人々と社会に対する「メッセージ」という形をわたしたちが選んだのはそのためです。わたしたちのこの呼びかけを受けて、みなさん一人ひとりが自らの生き方を振り返り、良心に従い、自らの責任において判断し、決断することをわたしたちは願います。 

カトリック信者のみなさんには、教会が教えてきた倫理やおきてを、このメッセージの示す光に基づいて理解し、自らの責任において決断し、深めてくださることを願います。また、司牧者のみなさんには、このメッセージの精神を理解し、教会の教えやおきての実践において、信者のかたがたを支え、励まし、勇気づけてくださるようにお願いいたします。 

裁きより、いつくしみを 
93。このメッセージをまとめるにあたっての司教団のもう一つの共通理解は、神の限りないあわれみを示すことでした。これまで、教会の教えやおきてが、どちらかというと硬直的に理解され、おきての通りに歩むことのできなかった人々やその家族のかたがたを裁き、差別するような傾向にあった事実を、わたしたちは認めます。今回わたしたちは、高い理想を訴えながらも、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9・13)「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父のみ心ではない」(同18・14)というキリストの心を受けて、このメッセージの中に、神のやさしさを吹き込むように努めたつもりです。 

わたしたちは、「罪」そのものを肯定するつもりはまったくありませんが、「今、ここで」複雑な人生の中で、光を失い、挫折してしまった個々の人々が恵みの中で立ち上がり、人生をもう一度新たに歩み始めるための良き友となりたいと切に願います。 

愛とゆるしは光であり力です。罪を犯した闇の中でゆるしを体験し、愛に包まれるときにも、人のいのちは和らぎ、人生は輝くものです。罪深い人間のいのちと、人生の救いのためには、ゆるしと愛は不可欠です。 

このメッセージが、弱さのために挫折し、孤独の闇の中で寂しく生きる人々を受け入れ、温かく理解し、慰め、励まし、歩みをともにしようとする社会の建設に貢献することができれば幸いです。 

新たな世紀にあたって 
94。最後に、新しい世紀を迎えたこのとき、わたしたちは、人間のいのちをむしばみ、その人生を疎外させるすべての悪に対して、カトリック教会がはっきりと「否」と言い、個々の困難な状況を克服し、問題を解決して、真理と正義と愛にあふれた社会をつくり上げようとする人々の輪に積極的に加わっていきたいと願っていることを表明します。 

すべての人々に神の豊かな光と恵みが注がれることを祈ります。 

二〇〇一年一月一日、 神の母聖マリアの日に 
日本カトリック司教団 

*聖書の引用は原則として日本聖書協会『聖書 新共同訳』(一九九九年版)を使用しました。ただし、漢字・仮名の表記は本文に合わせたことをお断りいたします。 

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2002年1月1日
神の聖母マリアの日に
日本カトリック司教団
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