日本 プロライフ ムーブメント

「母の日」と奇跡のテノール歌手の話

9日は「母の日」だ。世界各地で子供たちからお祝いの言葉やカーネーションなどの花を受け取る母親が多いことだろう。母親を早く亡くした人にとっては生前の母親の思い出に浸る日となるだろう。

「母の日」といえば、当方は直ぐにユダヤ人の名言を思い出す。「神は常に貴方の傍にいれないので母を貴方のもとに遣わした」という言葉だ。正直言って驚いた。旧約聖書の神は厳格な父親のような存在だが、その旧約の神を信望するユダヤ人が神に母親のような役割があることを指摘しているからだ。旧約時代の神は戒めに従わない人間を罰し、他民族によって滅ぼさせてきた。モーセの「出エジプト」時代を思い出しても、神は異教の教えを許さなかった。先のユダヤ人の名言は、ユダヤ民族の心の中に母性的神、愛し、許す神を求めていく信仰が芽生えていったことを示唆しているのだ。日本のカトリック教作家・遠藤周作は生涯、母親のような神を求めていたように、ユダヤ人はキリスト教が生まれる前から神の中に母性的神性を模索してきたのかもしれない。

「母の日」の2日前、アマゾン・プライムのビデオで世界的テノール歌手アンドレア・ボチェッリの自伝小説の映画「ミュージック・オブ・サイレンス」(監督マイケル・ラドフォード)を観た。2017年に公開された映画だ。

当方は音楽の都ウィ―ンに久しく住みながらクラシックには疎いが、イタリア人の盲目のテノール歌手ボチェッリの名前は知っていた。奇跡のテノール歌手と呼ばれるボチェッリのアルバムは1億枚以上売られているという。新型コロナウイルスの感染で自宅にいる時間が多くなった当方はひょんなことからCarly Paoliが出演する「Music for Mercy」のライブコンサートのビデオでボチェッリが歌っているのを聞いて、凄い歌手だと改めて感じた。

1時間55分の映画はボチェッリの自伝小説に基づいたもので、イタリアの美しいトスカーナ地方の風景を背景に、アモス(映画の中ではアンドレアではなく、アモスと呼ばれている。ボチェッリ自身、最もトスカニー的な名前と述べている)は1958年9月に生まれた。母親は赤ん坊のアモスが激しく泣くのをみて「何かおかしい」と気が付き、「赤ん坊は泣くものだ」という夫の言葉を振り切って病院に行く。そこで視力が脆弱だと分かる。しかし、アモスはまだ光は見え、両親のシルエットは見えた。その数年後、アモスは12歳の時、光が見えなくなったことに気が付き、両親に告げる。母親はアモスの傍に駆け寄って嗚咽する場面は映画の中で最も心が動かされるシーンだ。

叔父がアモスにはオペラ歌手の才能があると気が付き、地元のコンサートに参加させた。アモスは優勝したが、オペラ批評家から「貴方にはオペラの才能はない」と指摘され、失望。その後、弁護士になる為に法学を学び出す。さまざまなハンディがあったが、友人や叔父の助けを受け、無事卒業することができた。

アモスは当時、学費を稼ぐためにミュージック・バーでピアノを弾き、歌っていたが、オペラ批評家から言われた「オペラ歌手として才能がない」という言葉を忘れることができず、少々自暴自棄になっていた。両親からの自立を願っていたアモスはある日、ピアノの調律師から近くにスペイン人の歌の先生がいることを聞く。アモスはそこで生涯最良のマエストロ(伊巨匠、師)に出会い、歌の指導を受けることになる。師(映画「怪傑ゾロ」役のアント二オ・バンデラスが演じている)はアモスに「テノール歌手となれるためには規律ある生活をしなければならない」と諭す。紆余曲折があったが、イタリアの有名ポップ歌手ズッケロと一緒に共演できるチャンスを得て、世界的なテノール歌手となっていく。

ボチェッリの話を聞くと、日本の盲目の天才ピアニスト辻本伸行氏を思い出す。彼はボチェッリとは違い、生まれた時から全盲だった。もし見えたら何を見たいですかと質問された時、同氏は「お母さんを見たい」と答えたという。ボチェッリは目が見えなくなって失望していた時、母親が慰めに来る。母親は「お前は何も見えないのか」と寂しく聞くと、アモスは「お母さんが傍に立っているのを知っているよ」と答える。

叔父はアモスに「音楽は人を幸せにする」と述べ、音楽の道に行くように説得する場面は印象的だ。マエストロはアモスに「君は(目が見えないから)周囲の動きに左右されない。だから喋らず、心の声に集中し、そこから生まれる声で歌え」と述べている。同映画は英語では「ザ・ミュージック・オブ・サイレンス」と呼ばれているのも頷ける。アンドレア・ボチェッリの歌声は心の中のサイレンスから生まれてきたものだろう。放浪の民、ユダヤ人には神が遣わした母親が傍にいるように、ボチェッリは視力を失った後も母親のシルエットをみていたのだろうか。

今日は、世界の母親に感謝を贈る日としたいものだ。


Editorial (オピニオン)
国連記者室
出典 ウィーン発『コンフィデンシャル』
2021年05月09日掲載
Copyright ©2021.5.10許可を得て複製