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「太平洋戦争”言葉”で戦った男たち」(NHK世紀の映像)

7月11日NHK総合夜10時からの番組「映像の世紀」を見て、戦争という非人間的な一面に対し、人間的な面を垣間見ることができ、一抹の感慨を覚えた。インターネットの番組紹介文を下記する。

太平洋戦争の勝敗に大きな影響を及ぼしたのが、米軍が急いで養成した日本語情報士官だった。暗号読解や捕虜の尋問に当たった彼らは、戦後の日本復興にも大きな役割を果たす。戦時下のテニアン島で日本人のための小学校を作ったテルファー・ムック、昭和天皇の戦後巡幸を進言したオーテス・ケーリ、川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献したサイデンステッカー、言葉によって日本と戦い、そして日本との懸け橋となった男たちの物語。

日本全土をB29により焼け野原にし、原爆でとどめを刺した太平洋戦争。戦争というと人間の心もどこかに置き忘れ、むごいこともできるのが人間との印象をウクライナの戦争でも感じていた。しかし、上記3人に加え、最後は「日本人として死ぬ」と日本国籍を取って亡くなったドナルド・キーンも日本語情報士官の一人として戦争勝利に寄与したが、日本を知るにつれ、その人間性、文化、芸術、自然に傾倒し、戦後を中心に日本の復興に寄与した。

米国が、サイパン島制圧(1944)後、近くの島テニアン島も制圧した。テニアン島は10数年前から砂糖の生産のため沖縄の人たちが移住した島で、多くの沖縄人が犠牲になった。多くがジャングルに追い詰められ自決をしたが、9500人が捕虜としてつかまった。内2000人が子供たちだった。それを見たテルファームックは、「日本の子供たちにも将来がある」と学校を自ら作り、校長も日本人を据え、男女共学であらゆる科目を教えた。体操での子供たちの一糸乱れぬ所作に、日本人のすごさを覚え、B29で日本を爆撃して帰還した戦士も、子供たちに混じって遊んだという。ムックは、子供たちに平和な世界を目指すよう教育をしたという。

オーテスケーリは、小さいころ日本に住んでいたこともあり、ひと際日本に関心があった。戦後爆撃調査団として来日し、敗戦で落ち込んでいる日本人とできるだけ話し込んだ。ある日、高松宮殿下に会い、落ち込んでいる日本人を励ますために、天皇の地方行脚を勧めた。その半月後、天皇は人間宣言をし、地方行脚を開始した。あらゆる地で熱狂的な歓迎を受け、国民は復興に向けた大きな力を得た。ケーリの目指した“人民のための天皇になる”との思いが現実のものとなった。

サイデンステッカーは、GHQの一員として佐世保に降り立ち、日本人が復興に向けて瓦礫の後に家を建て、一生懸命働く姿に感銘を受け、この人たちはやがて世界に伍して恥ずかしくない人になるとの確信を得る。そのあと日本にとどまり、東大に入学、日本文学、日本の風習研究に没頭した。谷崎潤一郎や三島由紀夫、川端康成などとも親交を深め、本の翻訳をし、次々と世界に向け発信した。そのおかげで日本文化が世界に広まり1968年の川端康成の日本人として初の文学賞受賞となった。授賞式には川端の要請でサイデンステッカーも出席した。

テニアン学校で教育を受け沖縄に帰った子供たちも成長し、多くは沖縄の復興、世界平和を願う若い人たちを教育する立場になっていた。その子たちの同窓会が1991年に開かれそこにテルファームックが招待され、初めて日本の地を踏んだ。オーテスケーリは、同志社大学の教授や学生寮の館長を務め、学生との対話を楽しんだ。サイデンステッカーは日本を終の棲家とすることを願っていたが、残念ながら不忍池を散歩中に突然死亡。

戦争のために養成された日本語情報士官が、日本語ができるがゆえに捕虜たちや戦後の日本人との対話を可能にし、日本あるいは、日本人を知ることによって、日本を何とかしたいと立ち上がる姿に、私は何か感慨を覚えてしまった。今回の「世紀の映像」の締めを下記する。

「あらゆる機会を通じて,お互いに関わりあうこと。ともに歩み寄り積極的に働きかけ、それぞれの幸せと平和を目指すべき。」

当初、米国では日本人は自決するとき”天皇陛下万歳”と叫び、ゼロ戦のように自ら死を覚悟して突っ込む姿を見て、狂信的で普通の人種ではないと見ていたという。戦争は避けられなかったとは思うが、お互いにいかに知り合うかの努力があれば、戦争という悲劇は少なくなるのでないかと、今回の世紀の映像で強く思った。まさにウクライナの戦争は狂気の沙汰と思わざるを得ない。フェイクニュースに惑わされず、お互いに真実を知る努力が出来ればこんなことにはならなかったのではと思うが、無理なのだろうか?

Okinaka,Ichirou (オキナカ イチロウ)
冲中 一郎
出典  JASIPA / 冲中ブログ
Copyright ©2022年7月19日
2022年8月31日許可を得て複製