質問です。なぜ今日、突然このような悪意ある「生殖への攻撃」が起きているのでしょうか?生殖、すなわち生物学的な子どもを妊娠・出産する性的な営みが、次第に「どんな犠牲を払ってでも利益と権力を得る」という考えと同一視されつつあります。周囲を見渡せば、巨大産業がどれほど強い影響力をもって「生殖」という言葉の意味を、製造・工学・管理といった概念へと変えていっているかが分かります。たとえば、赤ちゃんは体外受精(IVF)によって「作られている」のです。
体外受精(IVF)とは何でしょうか?これは、卵子に1つの精子を注入したり、シャーレで卵子と精子を混ぜ合わせたりして受精させる技術です。この過程では、平均して24人の小さなあかちゃんがいのち落とし、1人が生き残ると言われています。別の例では、選別された胚が子宮に移植されます。しかし、ここで重要な疑問が生じます。「誰の子宮に?」母親自身の子宮?借り物の子宮(代理母)?人工子宮?そうです。私たちは今、バイオテクノロジーの革命的進歩に直面しています。人工子宮は本当に可能なのでしょうか?イスラエルのワイツマン科学研究所は2021年、機械的な人工子宮を開発し、マウスの胚を子宮外で数日間育てることに成功しました。この流れをたどれば、「エクトジェネシス(体外子宮妊娠)」が将来、人間の生殖の在り方を根本から変えてしまうかもしれません。
さらにいくつかの例を挙げましょう。望まれない胎児は出産直前(部分出産中絶)まで中絶され、一部は医療廃棄物として処分され、また一部は化粧品会社に販売されたり、研究用に提供されたりします。あるいは、冷凍保存されて「商品」として扱われることもあります。こうした事例は、胎児が母親の胎内で過ごす9か月の間に直面しうる数々の危険のほんの一部にすぎません。実際、人間の生涯の中で最も危険な時期はこの最初の9か月間であり、多くの小さないのちがこの短い旅を生き延びることはできません。
最近では、胎児の「人身売買」も急増しています。「どうしてそんなことが可能なのか?」と思われるかもしれません。まだ赤ちゃんは生まれていないのに…。以前『Mail Online』が報じた記事にはこうありました――「メキシコで『子宮襲撃者』が多発:妊娠9か月目の女性を殺害し、胎児を取り出し自分の子だと主張する事件」。
「メキシコで『子宮襲撃者』が多発」という言葉が、私の心に突き刺さりました。調べてみると、妊婦が胎児目当てに殺される事件は、メキシコに限らず、米国を含む他国でも起きているのです。
この比較的新たな「胎児誘拐(fetal abduction)」の発生は、「胎児窃盗」「帝王切開誘拐」「赤ちゃん強奪」などの言葉でも表現されます。このような犯罪を行う者たちは「子宮襲撃者」と呼ばれています。「胎児誘拐」という犯罪カテゴリは比較的新しく、米国で最初に確認された事例は1974年のことです。犯人たちは通常、赤ちゃんを自分で育てるか、闇市場で売買します。需要が高いためです。この「胎児誘拐」が将来的に数十億ドル規模の産業になる可能性もあるでしょうか?それはまだ不明です。しかし、確実に言えるのは、こうした犯罪が成り立つためには「母親が殺されなければならない」ということです。
カトリック教会はこう宣言します。「人間のいのちは聖なるものであり、人間の尊厳こそが社会にとって道徳の理想の土台である」。これはカトリック教会が社会に発する説教のすべての基盤です。世界中で、胎児は中絶、安楽死、胚性幹細胞研究、「胎児誘拐」そして、この無垢ないのちに対するこの戦争が、大金への欲望を満たすために思いつくあらゆる手段によって、直接的な攻撃を受けています。このような意図的な攻撃は、常に間違っています。カトリック教会とすべてのカトリック信者は、「すべての人はかけがえのない存在であり、金銭よりもはるかに重要である」と信じています。私たちの人生の質は、「それが人間のいのちと尊厳を脅かすものか、それとも高めるものか」によって測られるのです。「人間は神によって望まれ、神のかたちにかたどられて創られました。人間の尊厳はその行動ではなく、その存在自体から来るものです」(聖ヨハネ・パウロ二世)
教皇フランシスコもこう語ります:「貧しい人々、胎児、障がいをもつ人の価値を現実の一部として認めることができなければ、ほんのいくつかの例を挙げるだけでも私たちは自然そのものの叫びに耳を傾けることもできなくなる。すべてはつながっているのです。」いのちは神からの贈り物です。したがって、すべての人間のいのちは、まさにその始まりから終わりまで、聖なるものなのです。
沈黙はもはや選択肢ではありません。教皇フランシスコが指摘するように、「私たちキリスト信者は、何も言わずにただ見ているだけで、罪のないいのちを守ることから目をそらしてはいけません。」 目をそらして、これらの問題は「自分とは関係ない」と装うことは、もはや許されないのです。人間にとって最も基本的な権利は「生きる権利」です。身体の大きさや年齢は関係ありません。この権利は、親や社会、政府のものではありません。私たちには、この「いのちの権利」を守る義務があります。いつの日か私たちは皆、神の前に立ち、自らの選択に責任を持たなければなりません。そのとき、私たちの選択が「愛の側」にあったものであるように願います。「互いに愛し合いましょう」と、聖ヨハネは語ります。「愛は神から出るものだからです」(ヨハネの第一の手紙 4:7-12)
神の祝福がありますように。
Jerry Novotny(ノボトニー ジェリー),OMI
英語原文投稿日: 2024年12月19日
Is Society Dehumanizing Unborn Babies?
翻訳許可取得日 2025年6月17日
翻訳日 :2025年 7月9日
翻訳者 :大岡 滋子