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『忙しさ』は『時間貧乏』に拍車をかける

あなたは「お元気ですか?」と尋ねられて、「忙しいです」と答える人々のうちの一人ですか。もしそうならあなたは一人だけではありません。実際、最近の調査では、この質問に対して70%の人が「忙しいです」と答えました。自分自身に問いかけてみてください。「私は時間貧乏でしょうか?」「本当にそんなに忙しくする必要があるのでしょうか?」「忙しさに追われることで、もっと重要な問題を避けているのではないでしょうか?」そしてもう一つ、「神様のための時間を確保しているでしょうか?」聖書では、イエスがマルタに、マリアがしていることは人生にとって非常に重要だと言っています。実際、イエスは「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を取られ、心配しているが、必要なことは一つだけです」と述べています。言っている意味は明瞭です。イエスはマルタに尋ねています。「私をどれだけ本当に愛していますか?忙しいスケジュールの中で私とともに過ごせますか?」

数年前、ニューヨークの地下鉄で実験が行われました。チップで数ドル儲けたいとラッシュアワー時に音楽を演奏するミュージシャンがいるのは珍しくありません。その特別な朝、驚くべきことが起こりました。世界的に有名なバイオリニスト、ジョシュア・ベルが300年もの歴史を持つストラディバリウスのバイオリンを持ち込み、仕事に急ぐ人々のためクラシック音楽を演奏し始めました。彼は、誰かが彼を認識するか、少なくとも彼が演奏している音楽を認識するかどうかを知りたくて、この実験を行ったのです。

その間に、千人以上の人々が彼の前を通り過ぎました。その中で、立ち止まって聞いたのはわずか7人。信じられないかもしれませんが、彼を認識したのはたった一人でした。その日、仕事へ急ぐほとんどの人々にとって、ジョシュア・ベルはただの地下鉄で音楽を演奏している一人のミュージシャンに過ぎなかったのです。多くの人々は、そこにいた偉大な才能や、彼が演奏していた最高のクラシック音楽に気づかなかったのです。

これは今日の世界でも同じことが言えます。キリスト信者として、私たちは「休む」ことと「奉仕する」ことの両方を求められています。しかし、研究によると、人間は一般的に「奉仕する」傾向があり、忙しくするために何でもすることによって、自分の人生の真実に直面することを避けようとします。彼らは無為を恐れ、「休む」ことが人生で何を求めているのか、そして自分自身が本当に何者であるかを考えさせられることになるからです。それは防御戦略のようなものです。人間は長い「やることリスト」を持って自分を孤立させ、正しい方向に進んでいると自分に言い聞かせます。しかし実際には、「過剰にコミット」し、「多くのことに心配し、悩んでいる」ことに気づきます。

イエスはマタイ11:28-30で、私たちに彼と一緒に逃れるように、彼の話を聞くように、そして私たちの人生を再発見するようにと懇願しています。イエスは私たちに一緒に歩き、一緒に働くように招いています。彼は「私があなたに道を示します。私を見て、私のやり方を見てください。私の軛は軽いです。私の愛の中で、あなたは『働く』時間と『休む』時間を見つけるでしょう」と言っています。

私たちがしばしば急いでいるために、周囲の美しさに気づかないことがどれほどよくあることでしょうか。行かなければならない場所ややらなければならないことが非常に急に感じられ、それが周囲で起こっている素晴らしい出来事を見逃してしまう原因となります。私たちはそれらを当たり前のことと思い込んでいます。また、通り過ぎる人々や一緒に住んでいる人々に対しても同じように扱います。その人々の素晴らしさに気づかないのです。

聖書は、忙しさが不安や神からの精神的な断絶につながると述べています。詩編46:11には、「やめよ、私が神だと知れ」という静けさと神を知ることの直接的な関連があります。私たちが神のために忙しすぎると、神の前での静けさは消え去り、平和も失われてしまいます。忙しさは、私たちの精神的な活力や効果を打ち砕きます。急ぐことは、神への愛の大きな敵です。

忙しすぎることの危険性とは何でしょうか?忙しさの一つの欠点は慢性的なストレスであり、それは不安やうつ病、心臓病や肥満などの身体的な健康問題を引き起こす可能性があります。さらに、仕事と生活のバランスが悪いと、睡眠不足や消化器系の問題などの身体的な健康問題も引き起こす可能性があります。

私の人生の中で、忙しさが私の幸せのすべてだと思っていた時期がありました。忙しければ、時間を有効に使っていると思っていました。忙しければ、自分が価値ある人間であることを証明していると思っていました。忙しければ、将来より良い生活の可能性を作り出していると思っていました。しかし、忙しさは私を幸せにすることはなく、ただいつか幸せになるという幻想を作り出しただけでした。

忙しさは現代の私たちだけでなく、特にナザレでのイエスの時代にも存在しました。イエスは30年間、家族や友人と共に生活し、働いていました。しかし、彼らはイエスが本当は誰であるかを認識することはありませんでした。彼らにとって、イエスは小さな町の普通の大工に過ぎませんでした。彼らが「この男は誰だと思っているのか?」と言っているのを想像することができます。

このような態度が、地下鉄でジョシュア・ベルを素通りした多くの人々やナザレの村人たちがイエスを拒絶した原因です。現代の世界でも同様の態度が見られます。無神論者が「もし神が本当に存在するなら、なぜ自らを現さないのか?」と言うのをよく耳にします。しかし、彼らが気づいていないのは、神の栄光は自然の美しさや神の似姿に作られた人間の善良さの中に常に現れているということです。ちょうどパリサイ人たちが、イエスが罪人と食事を共にすることを理由に彼がメシアであることを疑ったように、現代の人々も、私たちが罪人であるために、教会がイエスがこの世に姿を現す場所であることを疑っています。

神を見つけるために遠くまで旅する必要はありません。神に近づくために神秘的な宗教体験をする必要もありません。神は私たちの周りに常に存在しています。神はいつも私たちと共にいます。日々の生活の中で神を見つけることができなければ、決して見つけることはできません。ちょうど、イエスがナザレの人々と共に生活し働いていたように、神も私たちの側にいつもいます。私たちの一日のあらゆる瞬間や状況のうちに。

この常に共にいる神をどのように見つけることができるでしょうか?それは、ペースを落とすことによってのみ可能です。忙しいスケジュールの中で「マリアの瞬間」を見つけることです。例えば、朝の数分間の静けさと孤独の時間を持つことは重要です。私たちの日々はとても忙しく、やるべきことにすぐに取りかかりたくなります。

数分早く起きて、一人で神に心を向けて座ることによって、神の存在を感じることができます。その静けさは一日中持続し、神や人々、周りの美しさと善良さに対する意識を高めてくれます。そして、少しずつ、周りの普通のことがそれほど普通ではないことに気づくでしょう。

神の絶え間ない存在は、物事を正しい視点で捉える助けとなります。これらの活動は本当にそれほど緊急性がありますか?神やいのちそのものへの意識を失う価値があるでしょうか?おそらくそうではありません。次に誰かが「お元気ですか?」と尋ねたとき、「いのち」を選んでみてください。

ノボトニー ジェリー,omi

英語原文投稿 2024年7月9日

“Busyness” Finances “Time Poverty”

翻訳日 2025年 2月20日
翻訳者 大岡 滋子