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避妊がいけないわけ

「避妊がいけないわけ」は1994年5月オハイオ州コロンブスにある教皇庁立ヨゼフィーヌス・カレッジで開催された米国カトリック医師会での講演です。講師紹介はデニス・ドゥーディー博士。 講師紹介

講師のジャネット・スミス博士はグリンネル・カレッジ卒業後ノースカロライナとトロント各大学で古典言語学修士号と博士号を取得されました。ノートルダム大学で十年間教壇に立った後、現在に至るまで、ダラス大学哲学部で助教授を勤めておられます。教授は各地の大学で聖職者や信徒を相手に講演活動を続け、教皇ヨハネ二十三世医学倫理研究所では三回にわたって全米司教団に講義なさっておられます。著作は多く、中でも回勅『フマネ・ヴィテ』に関してはすでに著作・編集が二冊あります。その他、プラトン、徳、中絶、避妊に関する専門的記事が種々の学術誌に掲載されています。スミス博士は現在オハイオ州各地を講演旅行中ですが、運良くわたしどものためにも時間を割いて下さることになりました。家庭と結婚に関する教会の伝統的教えに関する興味と熱意を、スミス教授が新たにして下さることを願います。では、ジャネット・スミス博士、どうぞ。

挨拶と導入

ありがとうございます。当地で皆さんにお話しする機会を得て、うれしく思います。何しろ父はアシュタブラ、母はクリーヴランド、わたしはここからさほど遠くないペンシルヴァニア州ウォーレンで育ちましたから、これは里帰りのようなものです。 さて、ドゥーディー博士が言われたように、この件に関してはかなりの量の著作があります。一冊は四百二十五ページ、もう一冊はそれ以上あります。ですからわたしがここで言いたいことがどれほどたくさんあるかお分かりでしょう。聴衆にとってこれはさほどいいニュースではありません。ことに、皆さんが座っている椅子もだいぶ堅いようですし、また、わたしはしゃべり始めると途中で止まることができません。どうしましょう?しかし、頭の中にある多量の情報を処理する一ついい方法があります。それは簡潔な文章の中に言いたいことを全部圧縮してしまうことです。ラジオで耳にしたガリソン・キーラーがこんなことを言っていました。「エミール神父は一年に一度避妊について説教をします。それは『もしあんたたちがミネアポリスに行きたくないのなら、何でミネアポリス行きの列車に乗っているのかね?』というたった一つの文章から成り立っています」。賢明な皆さんはお分かりですよね?

さて、今夜、わたしは避妊とそれに関連する性の問題に関する教会の教えについて話します。ご存じの通り、わたしたちは避妊法が人類の歴史始まって以来最高の発明であると考える文化の中に生きています。もし、車、コンピュータ、避妊ピルの中でどれか一つ断念しなければならないとすれば、どれを選ぶか答えに窮してしまう人は多いことでしょう。ピルはそれほどまでも現代生活に欠かせず、現代医学最大の発明であると思われています。それにもかかわらず、わたしたちの古めかしいカトリック教会はピルが人類の歴史で最悪の発明だと主張します。教会によれば、ピルこそわたしたちの歴史始まって以来最大の災難なのです。

この世はそれが最高の発明である、カトリック教会はそれが最大の災難であると主張しているのですから、これは他に類を見ない二極化と言えましょう。今夜は、なぜ教会の教えにはわたしたちが真剣に受け止めるだけの価値があるか、皆さんに分かっていただけるよう努力するつもりです。

人工避妊の登場

ほとんどの人が知らないことですが、1930年8月14日までは、キリスト教のどの宗派も一致して避妊などとんでもないと確信していました。その日、英国国教がこの連綿たる伝統を破って、深刻な理由があれば夫婦が避妊することを認めたのです。同年12月31日、教皇ピオ十一世は回勅『カスティ・コンヌビイ』で、教会の伝統的教義を確認なさいました。カトリック教会内部では、1960年代半ばまで異論が聞かれることはほとんどありませんでした。反論が出始めたのは1963年になってからです。それまではまるで一枚岩のように教会内部にこの点に関する一致が見られました。1960年、カトリック信者の66%は教会の教えを実践していました。現在、80%のカトリック信者が何らかの避妊行為をしています。30%のカトリック信者は不妊手術を受けています。NFPを実践しているカトリック信者はわずか4%と言われます。わたし個人としてはこの数字はもう少し低いのではないかとさえ思っています。

過去三十年の間に従順の度合いが66%から4%に急落したのはなぜでしょうか? 理由の一つは、六十年代には効き目のある避妊薬がまだ登場していなかったということです。ピルはその少し前に開発が始まったばかりで、まだ市販されていませんでした。少なくとも州境を越える取引に関しては、ほとんどの避妊剤とか避妊用具はほぼ全米各州で非合法でした。避妊剤とか避妊用具を非合法化したのはプロテスタントの議員たちでした。避妊は常に社会における性的放縦の源と見なされ、道徳的にまともな社会であれば禁止されて当然であると思われていたものです。しかし、皆さんもご承知の通り、合衆国憲法の周縁部に見つけた「プライバシーの権利」のために、それらの法律が廃止されました。州境を越えた避妊剤とか避妊用具の取引禁止法を廃止した最高裁の決定はロー対ウェイド判決の前触れでした。プライバシーの権利はグリスウォルト対コネティカット州判決中に見られ、次に、中絶を合法化したロー対ウェイド判決で繰り返されることになります。そのころはまだ、カトリック信者にとって従順は徳であると考えられていました。まだ、教会が病気になっていなかったのです。カトリック信者は理解するしないにかかわらず、教会がそう教えるから従う心づもりがありました。

1960年代にピルが入手可能になりました。同時に避妊薬に関連する革命が起きました。ピルはいくつかの理由で人類にとっての救いであると考えられたのです。当時、人口に関して人類は破滅に突き進んでいると人々は考えるようになり始めていました。わたしが高校生であった頃、地球から人間がこぼれ落ちているポスターが校内に張り出されていたものです。当時、地球が満員になってしまうと本気で予想されていたものです。しかし、実際はといえば、人口増加のために大飢饉と数々の戦争を預言したマルサスとポール・エーリッヒ以上の大間違いをした人物を見つけるのは至難の業です。

人口過剰の神話について詳しく話す時間はありませんが、何人かの著者を紹介することならできます。お薦めは人口学者のジュリアン・サイモンとベン・ワッテンブルグ。たくさんいるうちからもう一人だけ挙げるとするとマルサスとエーリッヒの著書を批判したジャックリン・カズンです。

マルサスの主張は、人口は幾何学的に増加するのに食料供給はせいぜい数学的にしか増加しないであろうというものでした。人口が著しく増加したのは確かですが、これは必ずしも悪いニュースではなく、そういう事実があったというに過ぎません。いいニュースはマルサスが夢想だにしなかったほどの食糧増産です。アメリカ合衆国だけで世界中の人間を養っていけるほどの食料生産があるのです。ですから食糧危機は問題ではありません。現代農業技術のお陰で食糧増産は指数関数的に増加しました。海洋での食糧増産も可能ですが、それすら今のところ必要がなさそうです。限りある鉱物資源に関しても、マルサスによれば、石炭、銅、貴金属はすでに不足しているはずですが、現状がどうかと言えば、一人当たりのこれらの資源は彼の時代より豊富なのです。また、たとえば原子力エネルギーのようにこれら以外の資源も人類は発見していす。

繰り返しますが、わたしはここで人口過剰という神話を打破しようとしているのではありません。わたしが言いたいのは人口過剰神話を疑ってかかるだけの根拠があるということだけです。それでも、皆さんはテレビ画面でやせこけた子供たちの姿を目にするのはいったいどうしたことだろうと不思議に思われるでしょう。飢えさらばえた子供たちの写真を見せられたりすると、つい人類は人口過剰に悩まされていると思いたくもなります。しかし、飢餓は人口過剰と何の関わりもありません。飢餓の原因は部族間、人種間の憎しみと争いにあります。また、腐敗した政府と食料配分の不手際もその原因です。さらには人類が制御することのできない自然災害にもよります。にもかかわらず、避妊ピルによって人類が進歩したと考える根拠には人口過剰の心配があるのです。

フェミニズムも避妊ピル受け入れフィーバーの一因です。フェミニストによると、避妊ピルを使用して子供をたくさん産まないようにしなければ、女性が職場で自己実現することが不可能であり、子供の数を減らすには高性能避妊ピルが必要なのです。

さらに、避妊剤、特に避妊ピルによって結婚生活はもっと幸せになると信じられています。その理由は明らかです。結婚した人たちが避妊ピルを使用すれば、自分たちが望んでいたあの至福の性生活に水を差す妊娠の恐怖がなくなると思ったものです。人々はすぐにこぞってそう信じ込みました。避妊ピルが結婚した人たちの性生活から妊娠の恐怖を取り去るのであれば、結婚前の人たちの性生活からも同じく妊娠の恐怖を取り除くはずです。であれば、婚前セックスをしない方が間違いなくおかしいと人々は考え始めたのです。

六十年代にわたしは十代でしたが、こういう考え方は当時当たり前になっていました。なるほど、運転しないのであれば車を買うことはありません。もちろん、どうせ結婚する相手なら婚前セックスをしない方が馬鹿みたい、ということになりました。本当に車を買うのであれば、まず何台か試乗しないで買う人はいないでしょう。どのモデルが気に入るかもまずは試乗しないと分かりません。乗り心地と性能も確かめてみたいものです。結婚に関しても六十年代はこんな風でした。それ以前の世代の人たちは、性の衝動を抑えることができなかったので結婚するか、結婚するまでは歯を食いしばって我慢するしかなかったのは不幸なことでした。しかし、避妊ピルがある今、結婚していなくてもセックスができるので、結婚前に試してみることで、もっと落ち着いて将来の配偶者を評価・選択できるようになりました。何といういい時代になったものだと考えられたのです。

また、避妊ピルがあれば望まない妊娠の劇的減少が可能になるとも思われました。理論上、避妊によって計画外妊娠を減らすことは可能でした。計画外妊娠の減少には必然的に妊娠中絶の減少が伴うはずでした。これが避妊ピルに対する六十年代の願望でした。以上のどれ一つとってみても、愚かしい期待であったと言うつもりはありません。皮肉に聞こえるかもしれませんが、これらの期待はすべてもっともであり、論理的でもあるように思えます。

回勅『フマネ・ヴィテ』の預言

しかし、当時のカトリック教会は異議を唱えたのです。1968年7月25日教皇パウロ六世は回勅『フマネ・ヴィテ』を発表しました。当時すでに成人していらした方もここにいらっしゃいます。それは教会とそれ以外の社会の上に落とされた爆弾のように感じた記憶がありませんか? カトリック教会が避妊に関する昔からの教えを再確認したのはすべての人にとってショックだったのです。避妊ピルの入手が容易になり、社会に蔓延すれば何が起こるかについて、教皇は回勅『フマネ・ヴィテ』十七でいくつかの預言をなさっています。

その一は社会に広く道徳低下が見られるであろうというものです。六十年代の事情を知っている方で、九十年代の現在、目が覚めている人であれば、この預言がどれほど正しかったか説得する必要はないでしょう。六十年代に十代の少女であったわたしはDonna Reed Show, I Love Lucy Show, Father Knows Best, The Spin and Marty Show など家族そろって楽しむことのできる健全な番組が数多くありました。ところが今はどうでしょう!ソフトポルノとして通じるような午後のソープオペラ、想像もしなかったような性的倒錯を恥ずかしげもなく紹介するトークショーはもちろんのこと、画面に登場する広告を見て腹が立たないことはないぐらいです。これをわたしは「水の中のカエル現象」と名付けました。もう耳にしたことがおありかもしれませんが、カエルを熱湯に入れると、熱いのですぐに飛び出します。しかし、ぬるま湯の中のカエルは、だんだん熱くなって湯が沸騰するまで危険に気づかないので、煮えて死んでしまいます。わたしたちもこのカエルと同じです。六十年代のわたしの父親だったら、いやどこの家の父親でも、MTVを目にしたら、腹を立ててテレビを窓から放り出してしまったことでしょう。しかし、現代、わたしたちはテレビもろとも煮え殺しの目にあっています。通りすがりの犯罪、車中からの銃撃、ギャングによる犯罪、校内で起こる子供たちによる銃撃事件、その他わたしたちを怯えさせる諸々の悪は言うまでもありません。「それが避妊とどうつながるのだろう」といぶかる方もいらっしゃることでしょう。すぐに分かりますが、その前にまず教皇パウロ六世の預言を最後までかいつまんで見てみましょう。 第二の預言。教皇パウロ六世は男性が女性の肉体的、心理的幸福を広く侵害するであろうと預言なさっています。ポルノは男性による女性の肉体的、心理的幸福の侵害でなくて何でしょうか?

男性による女性の性的乱用は激増しました。統計によると同じ所帯に住む男性によって乱暴される女性の数は鰻登りしています。また、合衆国貧困層の60%が母子家庭であることは何を意味するのでしょうか? こういうことが女性の肉体的、心理的幸福の侵害を意味するのは明らかです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか? これほど多くの未婚の母親がどうして存在するようになったのでしょうか? すぐそれに触れます。

第三の預言は避妊薬が入手可能になったら政府が強制的目標のために家族計画政策を採用するであろうということでした。この点に関する現行の政策はひどいものです。合衆国が強力に後押ししている国連は、第三世界諸国への経済援助を厳しい人口政策の実施と結びつけています。これらの諸国で先進国が食料その他の援助を受けるのであれば、避妊薬を強制的に配布し、不妊手術を実施し、妊娠中絶も合法化しなければなりません。ニュースで見られたかもしれませんが、カトリック系のメディアでは女性代表がこういうことに激怒して抗議していました。これは弱い者いじめに他なりません。これらの女性は自分たちがまるで家畜並の扱いを受けいると感じています。彼女たちに必要なのは避妊政策とタイアップされない出生前健康診断、教育、子供たちのための食料ではありませんか? 中国での強制的一子政策を描いたスティーヴン・モーシャー氏の著作A Mother’s Ordeal(邦訳は「チャイニーズ・マザー」上下巻、祥伝社、定価各巻千八百円―訳者)をご存じの方もいらっしゃるでしょう。中国各地で二人目以降の胎児は強制的に中絶されてしまいます。妊娠後期であっても女性は畑から強制的に連行されて中絶手術を受けさせられます。わたしたちはここ何週間か、シンガポールで一人の若者がむち打ち刑を受けたことで、全国的憤激の嵐を経験しました。それがとんでもない人権侵害であるというのです。それなのに中国で現在毎日のように起きつつあることについて同じような世論があったでしょうか?

パウロ六世の第四の預言は、わたしたちが人間の体をあたかも機械であるかのように見なし始めるということでした。わたしたちが肉体と霊魂の完全統一体である人間人格に対する尊敬を失ってしまい、肉体は自分たちの好き勝手に取り扱うことのできる機械になってしまうということでした。この預言が実現した証拠に、二、三の例を挙げると、わたしたちが使用している生殖技術の使用、代理母、試験管ベビー以上のものを考えつくことができるでしょうか?

昨年のクリスマスの頃でしたが、英国では五十九歳の女性が試験管受精で妊娠しました。エルマ・ボンベックに言わせると、これは不可解だそうです。彼女曰く、五十九歳にもなっていれば赤ちゃんをどこかに置き忘れることもあり得ます。高校の卒業式に行っても自分がなぜそこにいるのか分からないかもしれません。しかし、この話の要は女性が今や赤ちゃんを購入できるという点にあります。女性であればだれでも試験管ベビークリニックに行って精子を購入して、好みの赤ちゃんを入手できるようになりました。ですから「デザイナー・ジーンズ」には新しい意味が付け加わったことになります(genes=遺伝子jeans=ジーンズ―訳者)。ノーベル賞受賞者の精子が欲しければスタンフォード大学に、切れ者の赤ちゃんが欲しければマサチューセッツ工科大学隣接のクリニックに、アイヴィーリーグの天才の子を産みたければハーヴァード大学の近くに出向けばよくなりました。結婚していようがいまいが、レスビアンであってもなくても、女性であればだれでも支払い能力さえあれば赤ちゃんを買うことができます。現代人は肉体を機械のように扱っていないでしょうか?

離婚の理由

さて正しかったのはこの世だったでしょうか? 教皇パウロ六世だったでしょうか? 避妊法がすばらしい発明であった、結婚生活が改善されるはずだ、とした世俗的世界の預言は成就したのでしょうか?

ある意味でよくなった結婚があったかもしれません。しかし、離婚率が示しているのは、悪い結婚がたくさんあったということに他なりません。しかし離婚に終わる結婚は当事者にとって悪い結婚であったからではありませんか? 実際、1965年から1975年までの期間に離婚率は倍増しました。離婚率は今世紀に入ってから、25%だった1965年に至るまで緩やかな上昇を示していました。ところが1975年にはすでに50%になりました。わずか十年の短期間に離婚率は倍加したのです。スタンフォード大学にロバート・マイケルという社会学者がいます。かれは離婚率のこの異常増加率に注目しました。1975年から1976年にかけて避妊ピルが自由に入手できるようになると離婚率も平坦化したのです。

統計・科学的調査で、彼は避妊ピルが離婚率の急上昇に貢献した三つの理由を発見したと信じています。この急上昇の45%は避妊ピル使用にあると主張しています。以下に彼がいう三つの理由を挙げますが、わたしはそのほかにも理由があると信じます。 マイケルがまず観察できたのは、統計データによると避妊ピルを使用する夫婦には子供の数が少なく、高年になってから出産する傾向があるということでした。彼の統計によると結婚して二年以内に初子を、その後二年以内に次子を出産する夫婦の結婚はそうでない場合よりも永続性があるということでした。さて、皆さんの中には二十五年も結婚していて、子供が八人とか十人いる知人で、結局離婚してしまったケースを知っている方もいらっしゃるだろうと思います。しかし、こういうことは非常に珍しいのです。彼のデータによると子供を早くもうけた場合の離婚率は比較的低いのです。

彼はその理由については触れません。三秒ほど上げますから、皆さんも考えてみませんか?

いくつかの理由が考えられます。その一は、皆さんの中にはもう長いこと結婚している方も、新婚の方もいらっしゃるように見えますが、結婚初期のあの幸せな時代が確かにあっても、それが永続しないことを皆さんご存じです。わたしの知人も夫婦喧嘩をすると、もう帰ってやるものかと思いながら車に飛び乗って、そこらを一回りすることがあるそうです。何かの理由でかんかんに怒っています。しかし、子供が家にいると、朝起きてその笑顔を見るあの幸せを放棄したくありません。それで仕方なく、腹を立てている相手がいる家に帰って、仲直りしてしまうのです。家には愛している人が二人います。そのうちの一人に腹を立ててはいても、もう一人の笑顔は何物にも代え難いとあなたは思っています。腹を立てていてもうちに帰って仲直りする他ありません。結婚生活においては、何とか妥協を見つけだすことが非常に大切なのです。

子供のいる人が、子供がいる前よりいい人になるのは事実であると思います。しかも、その現象は子供が産まれたほとんど直後に起こります。わたしは分娩室からでて来たばかりの何人かの男性同僚を目撃する幸運に恵まれました。皆さんも同じことを体験なさったかもしれませんし、またそのような親戚や知人を見たこともあるでしょう。彼らは普通もう有頂天になって「信じられない。今までの人生で体験してきたことの中で最も奇跡的で、すばらしく、神秘的なことだ。ぼくが見たことは本当だったんだろうか?」とか「もうすべてが変わってしまった」などと言うものです。そしてそれは正にその通りなのです。なぜなら前日までは、だれが市長であろうが、警察署長であろうが、教育委員長がだれであろうが、公園が安全な遊び場であるかとか、成人向けの映画がどの程度あるかとか、テレビ番組の質が悪いとかは彼らと関係がなかったのです。しかし、今日からは違います。これからはこういう事柄に関して注意深くなります。独身時代にだれがこんなことで心配するでしょうか?

それはあなたと関係ないのです。子供がいなければそんなことはどうでもいいのです。しかしこの世に送り出さねばならない子供がいると、突然あなたはこの子を保護したくなり、前記の事柄が重みを帯びてくるのです。あなたは忍耐強く、寛大、親切、勤勉になります。この赤ちゃんがそれを要求するからです。赤ちゃんはあなたの時間と関心を要求し続けます。それであなたはいい人になり、よくなった人の配偶者になり、それがいい結婚に役立つのです。

マイケルが発見した第一の理由は、避妊する夫婦は子供の数が少なく、しかも高年にならないと子供がいません。ですから彼らの結婚は弱いのです。全く同感。 第二の理由。彼は避妊ピルの出現以来、以前より不倫が増加したと言います。二秒差し上げますから皆さんも考えてみて下さい。歴史始まって以来人類にはその誘惑がありました。不倫をしたくなるのは理解できますが、その結果の妊娠を望む人はいません。しかしほとんどの女性が避妊しているのであれば、ある意味で、ほとんどの女性は間違いなく入手可能になります。しかし不倫は結婚生活にとってタブーです。 第三の理由。女性が経済的に以前より独立するようになりました。子供が少ないから職に就けます。繰り返しになりますが、結婚生活に困難を感じると、それを乗り越えるよりも家を飛び出してしまう方が簡単に見えてきます。何しろ以前と比べると夫と和解しなければならない理由が一つ少なくなったのですから。

さて、わたしが思うに、避妊が結婚生活に有害であると考える理由は他にもいくつかあります。明白な統計こそありませんが、最近読んだU.S.A. Todayにあった世論調査によると、37%の高校生が性的に活動的であるそうです。別の調査によるとこの数は57%に跳ね上がります。さらにもう一つの調査によると、大学生の87%にはセックスの体験があるそうです。童貞、処女のまま結婚する人たちが激減していることは皆さんもご承知のはずです。こういう人たちはますます少なくなりつつあります。婚前セックスには結婚にとっていいことが一つもありません。こういう人たちはどこかでうそを信じさせられています。彼らは約束をしたことがあり、それを破った経験があります。約束を履行してもらえなかった経験もあります。彼らはうそをついたことがあり、約束をしながらそれを破った人たちと結婚します。ですから互いに相手をそれほど信用しません。彼らは自分自身さえも信用せず「わたしはあんなことを言ったし、こんな約束もしたけど、約束を守ることができるだろうか? 彼はあんなことを言ったし、こんな約束もしたけど、彼は約束を守ることができるのだろうか?」と考えざるを得ません。

多くの人たちが結婚生活にそれこそ滑り込むのをわたしは見てきました。結婚前のセックスで配偶者のよりよい選択ができるという考えは、どう考えても間違っています。性的情熱は物事を明瞭に見定めさせるどころか、目をくらませてしまわないでしょうか? 性的関係が習慣的になってしまうと、相手が利己的であるとか、怠け者であるとか、いずれ二年も経つとはっきり見え始めるかもしれないことを無視するようになります。現在進行中の性的関係のためにこういうことには目をつぶってしまうのです。以下は交際中のボーイフレンドがいたある友人のことです。二人は互いにどうしようもない性的魅力を感じていました。それで二人の性的関係が始まったのですが、両方ともその結果惨めになるばかりでしたが、別れることはできませんでした。二人はそれぞれ西岸と東岸に住んでいるにもかかわらず、その関係は五年か六年続いたと思います。その間、互いに電話で情熱的会話を続けたものです。ある時点でわたしは彼女に言いました。「彼と結婚するつもりが本当にあるの? こんな関係が永遠に続くなんて! 彼がいるからあんたはほかのだれとも交際していないじゃないの?」考えたあげく彼女は「彼の子供を産むなんてわたしには考えられないわ。彼はあまりにも変わり者だし、わたしたちの考え方はあまりにも違いすぎるんだわ。わたしはカトリック信者だし、彼はカトリック教会が大嫌いなの」。彼女はこう言ったとたんに彼と別れなければならないことに気づきました。しかし、何年も続いたあの性的執着はこの日に至るまで彼女の目をくらましていたのです。

結婚前に同棲していた人たちを何組か知っています。そして、事実、同棲は結婚が失敗に終わる明白な前兆です。これは確認がいるのですが、先日ある司祭が自分の小教区で行った研究結果である統計を見る機会を得ました。婚前セックスの体験があるだけでなく、同棲した男女が三年以内に離婚する確率は75%であるということです。わたし自身そのような男女を知っています。二十五歳から二十八歳の人たちです。彼らは二、三年同棲しており、周りの人たちからしつこく「なぜ結婚しないの?」と聞かれます。それで、互いに「結婚しようか?」と思い始めます。あまり喧嘩もしないし、別の人と最初からやり直す気もないので、結婚しようかということになります。彼らは「ここ二、三年は難しい時期だったから、またやり直しもしたくない。もうそろそろ結婚しよう」と思いますが、これは結婚への最善の道ではありません。ですから、避妊はよりよい結婚に役立ちません。

ピルと婚外子

避妊ピルは望まない妊娠を減少させたでしょうか?

この点に関する統計には驚いてしまいます。1960年、白人の赤ちゃんの6%が婚外子でした。1992年その率は22%になりました。四倍に近い増加率であり、現在もさらに増加中です。どなたか詳しい数字をご存じですか? 68%?

68%の黒人の赤ちゃんが婚外子です。それには三十年かかりました。現在の道をたどるなら、22%の白人の婚外子が68%に上昇するのに三十年はかからないと見ています。以下がその根拠です。まず、この世が主張しているのは、より効果的な避妊薬が広く入手可能になればこれらの問題を解決できるというものです。つまり望まない妊娠が減少するというのです。しかし、大事なことは、1960年、特に十代の若者にとって、避妊薬はまずは入手不可能でした。安くでコンドームを買える薄汚い給油所を知っていればどうにかなったかもしれませんが、それ以上は不可能でした。しかし現今の十代は学校でカウンセラーから簡単に避妊ピルをもらうことができます。入学時に受け取る歓迎キットの中にそういう物が含まれている場合もあります。現今、学校でコンドーム配布は認められても、聖書の配布は禁止されています。これが現代社会です。ですから、より効果的避妊薬のより簡単な入手可能性は何らの解決にもなっていないことがお分かりでしょう。十代の若者たちがどれほど簡単にそういう物を入手できるかは信じられないほどです。しかし、十代は自分の部屋を掃除したり、宿題をしたりするのと同じ程度にしか避妊薬を使いこなせません。効果が上がらないのも当然です。

避妊と中絶

わたしはかつてサウスベンドで妊娠ヘルプセンターでボランティアを勤めた経験があります。妊娠してしまった女の子たちに「避妊薬は使っていたの?」と聞くと、返事は「いいえ、今月はプリンスのアルバムを買いたかったので、お小遣いはもうなかったの」とか「わたしたちは喧嘩別れしたので、彼と会うこともないと思っていたら、突然彼が帰って来たの」というものでした。そのあげく妊娠して、びっくり仰天しているのです。この国には毎年百五十万件もの妊娠中絶があります。どうしてこんなことになったのでしょうか?

中絶クリニックに行く女性の半数は避妊に失敗したからだと白状しています。50%ですよ。8.0%は避妊の経験があり、その使用法を心得ており、以前使用したことがあるけれど、何らかの理由で肝心なときには避妊していなかった、とわたしたちに教えてくれます。

しかし、わたしが思うに、大事な点は避妊薬が、婚外セックスを導入するような、赤ちゃんと男女の親密の切り離せない関係が歓迎されそうもない生活様式をもたらしたことです。ですから妊娠は即災難になってしまいます。ですから、婚外セックスの結果妊娠すると「偶然に妊娠した」などというおかしなことを平気で言います。わたしはいつもこの不正確な言い方を耳にする都度「もう一度言ってちょうだい。どうして妊娠したの?」と言ってみるのです。世間知らずに聞こえるかもしれませんが、しばらくするうちにその本当の意味を理解し始めました。偶然に妊娠したりはしないものです。偶然に車にはねられたり、崖から落ちたりすることはあるかもしれません。しかし、偶然に妊娠はしません。それが意味するのは性交に伴ってしかるべきことが起こったということです。その反対ではありません。しかし、彼女たちは避妊薬を使用しているので、妊娠は意外なのです。「どうしよう?

妊娠してしまった。そんなつもりはなかったのに。だからどうにか処置しなくては。どうしよう? ああ、そうだ、中絶クリニックに行かなきゃ」ということになるのです。 さて、米国でこういうことに関する最高の権威筋である最高裁をご紹介しましょう。「避妊と中絶の関係」という記事のコピーが出口に置いてあります。自由にお取り下さい。そこに家族計画連盟対ケーシーの判例が記載されています。そこには少し省略した形ではありますが「いくつかの重要な側面で、避妊薬使用の決定は妊娠中絶の決定と同一である」という判決文が引用されています。つまり、中絶する決定は避妊する決定と同じというわけです。そして次のような説明があります。「ここに十年の間夫婦は避妊に失敗した場合妊娠中絶の可能性に彼らの親密な関係を基づかせていました」。さて、妊娠中絶に関する最高裁判決決定のどこを見ても、胎児の人権については一言も触れていません。胎児に人格があるかどうかについては一言も触れていません。それが疑問であるとさえ言われていません。全く考慮に含まれていないのです。その代わりに言われているのは、避妊があるのだから、妊娠中絶も許されるということです。最高裁は妊娠中絶が必要であると決定しています。二十年もの間、避妊が失敗した場合、夫婦は妊娠中絶に頼ってきたと述べています。何しろ最高裁がそう言っているのです。

さて、元に戻りますが、六十年代に避妊薬が結婚をもっと幸せにし、望まれない妊娠を減らし、妊娠中絶も少なくするであろうとの期待はそれほど愚かしいものではありませんでした。しかし、今日の文化を鑑みるとそれが全く正反対なのです。でも、現代文化、大統領、その内閣が、現代社会にはもっと高性能の避妊薬がさらにふんだんに必要であると繰り返しているからです。

教会はその正反対を教えています。先ほど触れたように、教皇パウロ六世はこれを詳しく述べることはしていません。しかし、現代に起きていることを大まかに預言しています。「どのようにして教皇にはそれが分かったのだろう?

わたしたちには予想もできなかったのに。わたしたちは知らなかったのに教皇に分かっていたのは何だったのだろう?」とわたしたちは考えてしまいます。教皇は二千年にもなる教会の全歴史を参照することができましたし、わたしたちの中には教皇に聖霊の導きがあり、それが人間の知恵に基く判断でなかったが故に、教皇が間違うことは不可能であったと考える人たちもいます。人間的知恵がたどり着いた結論は全く異なるものでした。それに説得力がなかったともわたしは思いません。しかし結果を見ると、それがとんでもない間違いであったことがはっきり分かります。

教皇には何か特別の秘密があったのでしょうか?

教会の教えはカトリック信者だけが知っていることに基づくのではありません。その教えはいわゆる自然法に基づきます。今、三分ほどいただいて、自然法の講義をしたいと思います。自然法によれば、物事を成功させたければ、何事であれその性質に従った取り扱いをすること、その実体もしくはその性質に沿った扱いをすることが肝心です。トマトの収穫を上げたければ、日光、水分、肥料、土壌を与えなければなりません。車を走らせたければ、ガソリンとオイルを供給してやらねばなりません。トマトの苗を押入に入れておけば収穫は期待できません。水をやらずにおいてその収穫を期待する人はいません。車にガソリンでなく泥を入れても走るわけがありません。教会が教えるのは人間の性には特定の性質があり、その性質に沿った生き方をしない限り、混乱が生じるということでした。水などトマトが必要とするものを与えずにトマトの収穫は不可能、ガソリン無しに車が走るわけがないのと同じく、人間のセックスに与えられた性質を大事にしなければ、人間が幸せになるわけがありません。性に関する教えは啓示に基づいていない知恵であると教会は主張します。教会の教えによれば、それは人間の理解力が特定の文化によって暗くなっていなければ、自分の理性の力で発見することができるのです。しかし、わたしたちの文化は知恵をくらます文化に他なりません。

性交の意味と性質はいったい何でしょうか?

わたしにとってそれは全く明白でしかありません。その目的は二つあります。一つは赤ちゃん、もう一つは夫婦のきずなです。性交があるとき、この二つ、つまり赤ちゃんときずなが伴います。赤ちゃんが欲しくなければ、また互いにきずなが欲しくなければ、性交をするべきではないと思います。性交に伴う赤ちゃんときずなは結婚だけで実現すべきものです。この点をどこかのラップミュージックのグループが歌ってくれないかなと思います。「赤ちゃんときずなを望まないのであれば、セックスは御法度! 結婚していないのであれば、セックスなんてとんでもない!

赤ちゃんときずなは結婚特有のものだから!」わたしたちの文化によれば、セックスはセックス、赤ちゃん作りときずなはセックスと全く無関係なのです。ですから、現代「一緒に食事をしたい、あなたとテニスをしたい、君と映画を見に行きたい、あなたとセックスをしたい」などと平気でセックスをそのほかの活動と同じレベルに置くことができるのです。セックスは大したことでなくなりました。避妊がそうさせるのです。ですから女性は妊娠するとショックを受けます。男女二人が互いに魅力を感じていても、妊娠と聞くと彼らはショックを受けるのです。それはそれはすてきな女性がごくありふれた男性にぞっこん惚れ込んでしまった話はよく耳にします。「どうしてこんなことになったの?」答えはセックスによるきずなです。

まとめてみますと、現代社会にとってセックス、赤ちゃん、きずなは無関係に存在すると思っています。教会は「これら三つは緊密に結びついている」と主張します。ある人たちは「とんでもない! 何か勘違いしているのじゃありませんか?

明らかにセックスは快楽のためであり、セックスを追い求める人たちは正にセックスの目的である快楽だけを求めている」と言いたいのでしょう。わたしは「とんでもない」と言います。快楽は多くの事柄に付属しています。快楽は目的ではありません。快楽は動機ではあります。快楽は結果であっても、目的そのものではありません。事実、神はわたしたちにして欲しいこと、わたしたちの生存と幸福のために必要な事柄に快楽を付属させて下さいました。ですから食べること、飲むことには快楽が伴い、眠ること、運動をすることにも快楽が伴います。そして性交にも快楽が伴います。セックスに伴う快感は目的ではありません。ある人たちはどうか知りませんが、快楽は食べることの目的ではありません。わたしたちは、例外的な少数の人たちをを除けば、快楽を味わうために眠るのではありません。快楽はこれらの行動の本来の目的ではありません。これらの行動は色々な意味でわたしたちを回復させ、わたしたちの生存のために必要です。だからこそ、神は、最終的な救いのためではなくとも、わたしたちがこの世で幸せになるためにして欲しいことすべてに快楽を付属させました。しかし、それらの行為が許されるためには適切な時、適切な方法、適切な相手、その他色々が定められています。確かに食べることは楽しくても、食べる分量には適量というものがあります。性交には快楽が伴うとしても、してもいいことには制限があり、自分がしていることの性質と実体に応じた快楽を求めなければなりません。

人間の尊厳

現代世界と教会の考え方は多くの面で真っ向から対立しています。どう見ても、現代文化にとって人間の生命は取るに足らないものでしかありません。その何よりの証拠が中絶クリニックの存在です。わたしが勤めているカトリック系のダラス大学の学生はいい子たちです。しかし彼らの考え方は外の世界の人たちと同じく混乱しています。彼らはこの世の考え方を吸収します。その限りではわたしたちだれ一人として例外はいません。ある日わたしはダーウィンについて講義する際に、人間と動物の間にある根本的相違について話しました。両者に共通点もあるでしょうが、人間には動物には絶対に真似できないことを遂行する能力があり、両者の能力を比較することさえ不可能であると教えたものです。講義が終わると、一人の女子学生が前にやって来ました。「スミス先生、人間と動物の違いをそれほど強調なさることはないと思います。わたしは両者の間にそれほどの違いはないと思います」。わたしは彼女に答えました。「そう。ではあなたが理解できるように極端な例を使うわよ。あなたがうちに帰ったとき、犬が犬小屋の天井にシスティナ小聖堂にあるような絵を描いているのを見たことがある?」「いいえ」「では、飼い猫がモーツァルトのソナタを弾いているのを見ることがあると思う?」「いいえ」「そうでしょう?

ブタがそれほど人間的活動とは思えないラグビーをしているのを見ることも見ることあると思う?」「いいえ」「一分間考えてみて。なぜ動物はこんなことをしないか分かった?」「動物はそんなことに興味がないからだと思います。興味があれば確かにするはずです。いや、できるはずです」彼女の思考は現代文化の思考そのものです。つまり、人間と動物の間にそれほどの違いはないと現代世界は考えます。ですから「赤ちゃん鯨を救おう」を初めとする動物の生存権を擁護する運動があります。人間であれば中絶クリニックで中絶してしまうのが現代社会です。

神による霊魂の創造

正にこの点で現代社会とカトリック教会の間には大きな違いがあります。キリスト教とまたはほとんどの伝統的宗教と現代社会と言うべきだったかもしれません。キリスト教は人間の生命を神が新しく創造なさる新しい霊魂であると考えます。人間は神とともに永遠の生命を生きるべく創造された霊魂であるとわたしたちは考えます。現代社会とわたしたちは人間の生命に関してこれほどかけ離れた考え方をするのです。もちろん現代文化も人々が子供を産むことに反対するわけではありません。子供は産んで欲しいのです。あの原始的欲求は人類の生存を求めます。ですから二人の子供を産むのは許そうというわけです。男の子と女の子が一人ずつ欲しいのは分かります。しかし、それ以上子供が産まれると、隣人は少しく疑り深い目をあなたに向け始めます。何を考えているの? 現代、赤ちゃんは環境に悪いのよ!

特に熱帯雨林にとっては有害なのが分からないの?

三人目の子供を妊娠した何人かの友人が教えてくれました。産科医の受付は「○○さん、妊娠テストは陽性です。この妊娠を続けられますか?」とか「今回の分娩の際についでに卵管結紮もしましょうか?

あなたもご主人も四人目はお望みでないでしょう?」とか「(三人目を出産する際に与えられる)各種避妊ピルのパンフを読んで下さいね。ご主人もあなたも自分たちが何をやっているか理解していないようですわね。少し勉強して下さいね」などと臆面もなく言うのです。三人もしくはそれ以上の子供がいれば、人々は平気で以下のようなあきれたことを面と向かって言うのです。「あなたにしてもご主人にしてもコントロールの仕方を知らないのですか?」とか「奥さん、それは全部あなたの子供?」とか「何人産めば気が済むのですか?」とか、人々は三人以上子供が欲しい人を理解することができずに、ただただ驚いてしまいます。男の子も女の子も欲しいのは理解できるから、初めの二人が女の子であるか男の子なら、三人目が欲しくなるのは我慢して上げましょう、というのがこの世の考え方です。しかし、四人というのは想像もつかないと人々は考えます。

しかし、もちろん、キリスト教の考え方はそんなものではありません。キリスト教によれば全宇宙はわたしたち人間のためにあります。宇宙はわたしたちを養い育てるための体系です。わたしたちが宇宙に存在するのは当然です。神は全宇宙を人類のために創造なさいました。神は人間霊魂の存在、しかも多くの人間霊魂が存在することを望まれます。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」。生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。そのちょっとした証拠を紹介しましょうか?

それはほとんどの女性が排卵期に性欲が最も昂進するという事実です。それはまるで神様がそれ行けと励ましておられるかのようです。自然の道、それは神が創造なさった自然の道に他なりません。

また、考えれば考えるほど不思議なことがあります。あの小さな精子に永遠不滅の霊魂はありません。彼らの生存期間は非常に短いものです。その間彼らは案外幸福であるかもしれません。卵子にも永遠不滅の霊魂はありません。卵子も案外幸福であるのかもしれませんが、永遠の生命は与えられていません。そしてこれら両者が合体するとき永遠不滅の霊魂はどこから来るのでしょう?

精子にも卵子にもそれがないわけですから、霊魂がどこから来るのかは不思議であるとしか言えません。その説明はその瞬間に神が永遠不滅の霊魂を創造なさると言うしかありません。受胎のたびに新しい創造の業が必要であるということです。司祭であるある友人は「新しい人間が創造されるときには全宇宙が新たにされる。それまで存在しなかったものがそのときに創造され、永遠に存在し続けるようになるから」と教えてくれました。正にそのとおりです。神が全宇宙を創造なさったとき、神は無から何かを創造なさるのです。それと同じように、神は無からそれまで存在していなかった新しい霊魂を創造なさいます。着陸する場所が空くのを待っている霊魂がすでに存在するわけではありません。神が実際に創造の業を新しく行われるのです。ですから男女が性的に交わるとき、彼らは神が新しい人間の生命を存在させるために設計なさったこの領域の扉を開くのです。避妊するときに彼らはこの扉を閉じて、神を閉め出してしまいます。避妊する人たちが神に宣言しているのは「わたしたちはあなたが与えたこの快楽が欲しいのです。しかしあなたの創造の業だけはごめんこうむります」ということです。だけど、避妊している男女が自分たちのしていることをこれほどはっきり意識していると言っているのではありません。しかし、これは彼らの行為が意味することに他なりません。これはオレンジジュースの中に入っている少量の毒物を飲んでいるのと同じです。毒が混入していることを知らなくても、それを飲む人は毒物の影響を受けます。これほどはっきりと意識的に避妊していなくても、避妊行為自体の意味は正にそうなのです。

ですから、教会が避妊に反対する第一の理由は、それが神によって計画された領域で神が創造の業を行われることを人間が拒否する行為だからです。神様は人間を別の方法で創造することもおできになるでしょう。実際、そうなさったこともありました。ここで少し男性いじめをすることになりますが、皆さんはもう慣れていらっしゃるので、我慢できるのではないかと思います。以前に神は人間を違った方法で創造なさいました。最初の人間、つまり最初の人間は泥から造られました。最初の女性は理性的被造物のあばら骨を材料にして造られたのです。よく考えて下さい。この事実は多くのことを説明します。ある講演の後で一人の男性がやってきてこう言いました。「確かにあなたの言うことを聞くと、わたしがなぜゴミのような扱いを受けるのかよく分かります」。ともかく、わたしたちの社会は人間の生命を大事にしません。神の創造の業に自分たちが与ることがどれほど大きなたまものであるかをわたしたちは理解していません。神は新しい人間の生命を創造するための道具として結婚した人たちを選ばれました。人間の生命で神はこの宇宙を満たすことを望まれます。実際に、わたしたちは皆自分が天国に行き、隣人もそうするよう助けることにもっともっと努力しなければなりません。これがわたしたちに与えられた仕事です。新しい人間の創造に参加するとき、結婚している人たちはこの点で大きな役割を果たします。神がわたしたちおお与えになったこの役割のすばらしさは言葉で言い尽くせません。それはわたしたちがもてあそんでいいようなものではありません。偶然そうなってしまってもかまわないものではありません。セックスをして、偶然に赤ちゃんを身ごもるのは神の計画ではありません。受胎は夫婦が愛し合う行為の枠内で起きるように定められています。なぜなら、神はご自分がわたしたちを愛されるのと全く同じように、つまり両親が子供たちを献身的かつ無条件に愛することを望まれるからです。現代社会はこれを理解し始めてさえもいません。赤ちゃんは選択肢、重荷、環境破壊要因、中絶クリニックで抹殺すべき対象でしかありません。

避妊の本当の意味

さて、現代社会が人間生命の価値を軽視するとき、生殖能力も軽視します。生殖能力はまるで邪魔者扱いです。避妊は明らかに生殖能力を敵視しています。つまり、避妊(Copntraception)が意味するのは「始まりに反対」です。新しい生命の始まりに反対するのが避妊です。新しい生命を可能にするのは生殖能力に他なりません。ではここで「ピル」についてお話ししましょう。ピルはわたしが大好きな言葉です。人はいつピルを服用しますか?

病気になったときです。しかし、妊娠は病気ではないし、生殖能力も病気ではありません。生殖能力は健康な大人であればあって当然です。生殖能力のない人こそ生殖能力を回復するために外部からの助けを必要とします。薬を必要とするのは正にそういう人たちです。生殖能力があるのは全く健康な状態です。わたしの言ったことに間違いがあるのであれば、どうぞ後から訂正して下さい。これは医師である皆さんへの挑戦状です。わたしは十五歳の男の子が診察室で医師にこう言っているのを想像するのです。「先生、ぼくは女の子にもてたいんだ。そのために筋肉をもっと発達させたいから、ステロイド注射してよ」。まともな医師であれば「出て行け、この馬鹿者。レスリング部にでも入って、重量挙げと腕立て伏せでもするんだな。ステロイドの注射なんてとんでもない。ステロイドは体に悪い。そんなものを注射したらおまえは廃人になるぞ。お断りだね」と言わないでしょうか?

しかし、同じく十五歳の女の子が診察室に入って来て「先生、わたしは男の子たちとセックスをしてみたいの」と言えば、医師は処方箋を書くのです。ステロイドがあの男の子にとって有害である以上に、長い目で見ると、避妊がこの女の子にもたらす生活様式は彼女の健康を心理的、肉体的にむしばむのです。世の中はどうなっているのでしょう? なぜわたしたちの文化はこういうことが理にかなうと判断するのでしょうか? なぜわたしたちの文化はこういうことをする医師を分別ある人と見なすのでしょうか?エレン・グラントという女性が書いたThe Bitter Pill(苦いピル)という本があります。彼女は六十年代にロンドンで盛んに避妊薬を普及していました。しかし女性たちが次々と高血圧、血栓、乳房腫瘍、その他多くの避妊ピル関連の病気になって自分のクリニックに診察を受けに来るのを体験しました。それで彼女は避妊ピルの処方をやめたのです。そして研究を始めたところ、大変な発見をしました。避妊ピル開発当初は男性用と女性用の両方の避妊ピルについて研究が行われていました。そして判明したのは、男性に避妊ピルを投与すると睾丸が少し萎縮するということでした。それは男性用避妊ピルのテストを止める十分な理由になったのです。男性用の避妊ピルが市販されていないことはご存じかもしれません。最初の被験者女性グループに三人の死者が出ました。研究者たちは処方を少し調整しただけでした。皆さんはこの事実についてどう考えられますか?

わたしは何かおかしいと感じます。ピルを服用する女性は今でも死に続けています。 もし避妊ピルのインサートを見れば、避妊ピルには血栓、高血圧、心臓病、ある種のガンにかかる危険率上昇、不妊などの副作用について書いてあります。これらの危険率はそれほど高いものではありませんが、合衆国では千六百万人もの女性が避妊ピルを使用しています。ですからこれらの病気にかかる女性の絶対数は決して少なくないということではありませんか?

以上は毎日体験する副作用を勘定に入れていません。こういうことにわたしは驚いてしまいます。避妊ピル使用を始めるほとんどの女性、実に50%の女性は不愉快な副作用のために一年以内に服用を中止してしまいます。ですから、これらの副作用は服用を続ける千六百万女性の大部分が経験していることになります。ですから服用を止める半数の女性が体験する副作用による苦しみがどれほどのものであったか想像できるでしょう。これらの副作用は、具体的にはいらいら、抑うつ傾向、体重増加、性欲減退などです。さて、他の女性はいざ知らず、わたしはセックスができるために短気、抑うつ、体重増加、性欲減退の薬をいつでも探してきました。これは望ましい女性のタイプでしょうか?

まさか、ここにいる男性はだれでも自分に関係ある女性がもっといらいらして、もっとふさぎ込んで、もっと太り、性欲が減退していることを望んでいるのではありませんよね? さて、なぜ避妊ピルは女性にこんな副作用をもたらすのでしょうか? その理由は避妊ピルが女性の体に自分が妊娠したと思わせるからです。妊娠初期の二ヶ月間に女性が分泌するホルモンが避妊ピルの中身です。その時期の女性はいらいらしがちですし、抑うつ状態になり、体重が増加し、性欲は減退するのです。これはピルを服用する女性が毎週、毎月、毎年経験し続ける状態と同じものです。驚く他ありません。

ピルの妊娠中絶促進効果

さて、わたしはまだ避妊ピルに関する最悪の現実についてお話ししていません。それはピルには中絶促進効果があるという事実です。ピルが避妊薬であるかのように話を進めてきましたが、ピルには中絶を促進させる作用もあります。少なくとも、ピルに添付されるインサートにはそう書かれてあります。それによるとピルには三つの作用があります。一つは排卵を止めてしまうこと。はっきり分かるのは、ピルが女性の体にもう妊娠しているという信号を送るということです。妊娠しているのであれば、排卵する必要はないと体が判断します。すでに妊娠しているときにはそれ以上妊娠できないわけですから。妊娠しているということは新しい赤ちゃんが子宮内で成長しているということですから、新たに妊娠する必要はありません。この効果が作用しない場合、いわゆるすり抜け排卵という現象がありますが、女性は自分の体の中でそんなことが起こったことに気づきません。ご存じのように、女性のホルモン体系は実に複雑です。解剖図でもし女性ホルモン体系を見れば、生殖システムに関するものとしては三つがあります。その分泌量は山と谷のように増加したり減少したりして、互いに交錯しています。ある日、友人にそれを見せたところ、彼女曰く「わたし毎日毎日同じ人間であると感じたことがないんだけど、やっと分かったわ。わたしは同じ人間ではないの! 毎日わたしの化学体系は変化するのね!」女性の皆さんならお分かりでしょう?

皆さんは朝目が覚めてこう言うのです。「さて、今日は一日中世界で一番優しい人になろうかしら? それとも世界一の意地悪になろうかしら?

まだ決められないから、まずコーヒー飲んでから決めましょう」。これは主に皆さんのホルモンと関係があります。男性のホルモン体系についても皆さんはご存じです。それはただひたすらすばらしいものです。揺れがどの程度あるかご存じでしょうか? 二つです。まっすぐな、が一つ、もう一つは線、つまりまっすぐな線です。月の始めから終わりまで、男は昨日も今日も毎日安定しています。女性は昨日、今日、明日、自分が何者であるのか知りません。その説明は可能です。ホルモンがその答えです。

ピルを服用しているとき、もしくはすり抜け排卵があるとき、女性は月経周期に自分のホルモンがどのように作用するのか理解できません。ピルには子宮頸管粘液の粘度を変化させる作用があります。ある種の粘液は精子が卵子に到達する手助けをします。また、ある種の粘液は精子が卵子に達するのを妨げます。ピルは時としてこの粘液を変化させます。また、それは受精卵の着床を妨害することもあります。つまり、新しい人間である受精卵が卵管を降下して来ても子宮壁に着床できないことがあるということです。ピルは着床を妨害し、子宮は受精したばかりの卵子を廃棄してしまいます。しかし、女性は自分の体の中でピルがそのような作用をしていることに気づきません。ノープラント、避妊リング、デポ・プロヴェラにも同じく中絶促進作用があります。

障壁法

では他の避妊方法、真の意味での避妊法である障壁法についても考えてみて下さい。何とすてきな言葉なんでしょう! あなたを愛したいのだけど、まず障壁を装着しなくては! これはまるで愛でなくて戦争を始めるようなものです。あなたの精子を殺す殺精子薬を持ってくるから待っててね。あなたを愛したいのだけど、わたしの体内に入るあなたの精子は殺してしまうわよ。この行為には敵意が付きまとっています。しかし、わたしの主張は避妊は基本的には女性の生殖能力に対して敵対的であるということです。なぜかと言えば、ご存じのように、男性は性交の結果妊娠することがないからです。ピルとかその他の避妊用具、避妊剤は女性をセックスはしても妊娠しない動物に変身させてしまいます。しかし、わたしたち女性はそんなものではありません。そして性交の結果として妊娠できる人であることは大きな重荷であったり、大きな欠点であるわけではありません。これはすばらしいたまものなのに、わたしたちはそれが何かどうしようもない、薬品とか道具を使用する必要のある一種の欠陥であるかのように取り扱うのです。 これで避妊の悪について教会が教える二つの理由を提示しました。その一は神を創造の業から閉め出してしまうということでした。もう一つは避妊が生命と生殖能力という自然のたまものをあたかもそれが重荷であり、欠陥であるかのように取り扱うということでした。第三の理由は、避妊が性交に伴う産児の意義に反するだけでなく、一致の意義にも反する行為であるとする教皇ヨハネ・パウロ二世の観察です。それは赤ちゃんがいらない、という意味だけでなく、二人のきずなもいらないということにほかならないというのです。

愛と赤ちゃんときずな

話を進める前に、もう一つアダムとエバに関する冗談を紹介しましょう。アダムと神が楽園にいます。アダムは神様に申し上げました。「神様、あなたがわたしに造って下さったエバのことで、心から感謝いたします。彼女は何てすばらしいのでしょう! ありがとうございました」「どういたしまして」「でも神様、少し苦情を申し上げてもいいでしょうか?」「いいよ、アダム。何でも言ってごらん」「彼女をあんなに美しくお作りにならなくてもよかったと思います。彼女があまりにも美しいので、わたしはしょっちゅう彼女のことばかり考えていて、注意散漫になり、仕事がはかどりません」「そうかい。わたしはおまえの助け手を創造するだけでなく、おまえが愛するに足る価値がある女を与えて、おまえに幸せになって欲しかったんだよ」「そうだったんですか。心から感謝しいたします。あなたは何と思慮深い方なのでしょう。ところでもう一つ苦情があるのですが」「そうかい。もう一つの苦情とは何かね?」「言い難いのですが、神様、なぜあなたは彼女をあんなに愚かにお造りになったのでしょうか?

彼女の言うことは筋が通りません。彼女は非合理的ですし、彼女に話しかけても、どんな返事が返ってくるかわたしには見当もつきません。今日はわたしのことを宇宙で一番すてきな人間だと言ったかと思うと、明日はこの宇宙にはわたしみたいにたちの悪い人間はいない、などと平気で言うのです。神様、なぜあなたは彼女をこんなに愚かしくお造りになったのでしょうか?」「アダムよ、よく聞きなさい。これがそのわけなんだよ。わたしはおまえがあの女を愛することを望んだだけでなく、彼女がおまえを愛することも望んだのだよ」。

男性の皆さんには失礼なことを言ってしまいました。どちらにも当たり障りがありますよね。しかし、要点は神が男女を創造したのはお互いが愛し合い、子供を産み、結びつくためであったということです。

そこで、性行為に伴う産児の意義に反する行為はどれほど一致の意義にも反するかについて話しましょう。教皇ヨハネ・パウロ二世は性行為の意義について非常に深く、美しいことをおっしゃっています。ここでは非常に短くそれに触れることにしましょう。あなたがだれかを心から愛するのであれば、持っているものをすべて与えてしまいたくなるものです。ところで自分の生殖能力を愛する相手に与えないことは、性行為に当然属しているはずの大事なものを拒むことではありませんか?

拒むということは自分自身を完全には相手に与えないということです。以前避妊薬についてだれかがこう言うのを聞いたことがあります。「君の髪の毛は今日はめちゃめちゃだね。頭に紙袋をかぶってくれないかね?

君を抱きたいのだけれどその髪の毛には我慢できない。そんな髪の毛を見るとぼくはゾッとするんだ」。コンドームにしろピルにしろ、言っているのは同じことです。「ぼくは君を愛しているけれど、性行為に当然属しているかもしれないけれど、君の中にある一番大切なものである受胎能力は欲しくないんだ」。

以下の二つの文章を比較してみて下さい。「君とセックスしたい」「君に赤ちゃんを産んで欲しい」の違いは歴然としています。現代社会では「君と昼飯を食べたい、君と映画を見たい、君とテニスをしたい、君とセックスしたい」という具合です。セックスの軽さに驚いてしまいます。それでもだれかがあなたに「君に僕の赤ちゃんを産んで欲しいのだ」と言えば、もう腰が抜けるほどびっくりしてしまうことでしょう。もし彼らが何を言いたいのかはっきり知っているとすれば、言いたいのは「僕は君と永遠に一緒にいたいのだ。まず僕たちは新しく永遠不死の霊魂をこの世にもたらすために神に協力し、僕たちの交わり無しに存在することが不可能であったその霊魂を通じて僕たちも永遠に結ばれることになる。それがさらに意味するのは、僕は君の目、君の微笑、君の歩き方が好きだ。君とそっくりの人間がこの世に生まれてくるとすばらしいと思うよ。僕は君の考え方も気に入っている。僕らの子供たちも君と全く同じく考えるようになって欲しいものだ。夜中におっぱいを飲ませるときも、朝食の時も手伝うよ。PTAにも結婚式の時も一生いつも一緒にいるつもりだよ」。だれかにこんなことを実際に言うなんて信じられないぐらいです。一方「君とセックスしたい」の方を人々は何と気軽に口にすることでしょう!

「君に僕の赤ちゃんを産んで欲しいのだ」これはもしその意味を考えた上で言うのであれば、すごいことです。性交が生殖に対して開かれていれば、それはある人と信じられないようなきずなで結ばれたい、という希望を表明していることになります。それが文字通りの意味であるのか、象徴的意味であるのかの違いはあるとしても、少なくともある意味でそこには大事なことがそこで言われています。

避妊とNFP(自然に基づく家族計画)

そろそろ最後の点に入ります。よく我慢してわたしの話を聞いて下さいましたが、もう少し聞いて下さい。大事な話ですから。それは避妊とNFPの相違についてです。多くの人は「どこが違う?」と言います。二組の夫婦がいます。両方とも赤ちゃんは欲しくなくても、性交は望みます。彼らは同じことをしているのではないでしょうか?赤ちゃんを産もうとしない、もしくは赤ちゃんを望まないまま性交だけは望むのです。同じことではないのでしょうか?

これはよくある混乱、よくある反論です。これからこの点を解明するつもりです。 まず、このような夫婦に聞きたいのは「では、もし避妊とNFPが同じであれば、なぜあなたたちはNFPを選択しないの?」ということです。答えは決まったように「だってそれとこれは全然違うでしょう?

生活様式が今までと違ってしまう」というものです。それで「ちょっと待って。あなたは同じだと言ったすぐ後で全然違うって言ってるのね?」と言います。しかし、もちろん、彼らが言いたいのは両者の間に道徳的相違がないということであって、彼らも両者の間に大きな生活様式の相違があることは認めます。ですから、わたしは「ちょっと待ってよ。もし生活様式の違いがあるのなら、そこには道徳的な違いもあるじゃないの?」と聞きます。わたしは、まず、手段は目的を正当化しないという倫理学では初歩の原理を彼らに指摘しようとします。言い換えると「いい目的のためにはいい手段が必要である。目的がいいだけでなく、手段もまたよくなければならない」ということです。おそらくいい目的のために子供を今は欲しくない夫婦がいるとして、彼らは人工避妊をします。もう一方はおそらくいい目的のためにNFPを使います。違いは人工避妊とNFPです。さて、家族を養わなければならない二人の男性がいます。一人は銀行強盗をし、もう一人は就職します。両方とも同じこと、つまり、家族の養育をします。しかし、その手段は違います。

以上でわたしがなぜ人工避妊を否定するか示すことができたと思います。避妊は神の創造の業を否定します。それは生殖能力がいい条件でなく、悪い条件であると主張します。それは夫婦間にあるべき互いの完全な与え合いを否定します。それは社会全体に悪い影響をもたらします。わたしの主張はNFPであれば、こういう反論は成立する余地がないということです。

ほとんどの夫婦はNFPを極端に恐れています。本当ですよ。その理由は二つあります。一つは、それには効果がないということです。しかし、これは間違い。British Medical Journal1993年9月18日号に掲載されている記事で、ある医師がNFPを調査して、それがどんな避妊法よりも効果的であると評価していることからも分かります。そうです。より効果的です。彼は何とカルカッタでの調査を引用しています。そして、そこでNFPを指導しているのはある背丈の低いカトリック修道女です。著者が気づいたのは彼女が教える対象は主にヒンズー教徒と回教徒でであるということでした。NFPの有効率は0.004%であり、妊娠率は限りなくゼロに近いのです。

これほどの情報があっても人々は納得しようとしません。多くの人たちはNFPと27%の失敗率があった「リズム法」を混同しています。リズム法と現代のNFPと比較すればそこには大きな違いがあります。次にその復習をしましょう。

必要とされる禁欲を怖がる第二の理由は、それが困難であり過ぎると考えていることです。怖がっているのは主に女性の側です。「主人が腹を立てるだろう。主人が不平を言うに決まっている。彼が他の女性の所に行ってしまうのではないかしら? どうやって仲直りするの? どう話していいか分からない。NFPを始めた後が不安だ」などと考えるのです。男性の側は「そんなに長期間禁欲できるわけがない。七日から十二日もだって? それは無理。何のために僕は結婚したんだ?」という反応を示します。 興味深いのは、このような反応があるのは結婚前から人工避妊を実行していた人たちです。また、結婚後に避妊した経験のある人たちも含めて、彼らは禁欲を怖がります。なぜなら彼らにとっては、セックスが二人の関係の中で鍵になっているからです。二人の関係からセックスを取り去ってしまえば、即、愛も消えてしまう、二人の間にあるきずなもなくなってしまう、と彼らは考えます。

結婚前に禁欲した夫婦はNFPにほとんど、もしくは何らの問題も見いだしません。実に、彼らにとって禁欲は愛を表現する方法ですらあり、それが大きな困難であるとは思いません。結婚前に彼らが禁欲した理由は、彼らが愛し合っていなかったからではなく、体内にホルモンが煮えたぎるほど情熱的に愛し合っていなかったからではなく、お互いに愛し合っていたからなのです。「愛しているから婚前セックスはしない。君を傷つけたくない。越えていけない一線をわたしは越えない。君がまだ準備できていないのに、妊娠などさせたくない。セックスによるきずなの準備は結婚であり、妊娠は結婚してから。僕は君を愛しているから待てる。僕は待つことができるほど君を愛している」。彼らの思いはこういうものではなかったでしょうか? 

結婚してからの禁欲には同じ側面があります。「今赤ちゃんを産むのはちょっと問題。だから禁欲しよう。結婚する前にもそれができたのだから。今度もまた愛し合っていることを証明できる」。そして、実際それができるのです。

NFPを使用する女性の特徴は驚くほどの自尊心と幸福感です。配偶者が自分の生殖能力を尊敬していると感じています。従ってそこから、自分の夫がとてもいい人であると考えます。「うちの人はすばらしい人なの。高い倫理観があるし、わたしを性の対象として見たりしないわ。彼は信頼できる人なの。禁欲しているときも彼はわたしを愛してくれている。彼はすばらしい人なんだから。わたしは何て運がいいんでしょう」。男性の側も同じく妻とその生殖能力を尊敬します。妻の健康を気遣います。ピルとか避妊具なんか使用して欲しくありません。「愛している妻にそんな危険を冒させるわけにはいかない。僕の赤ちゃんを産みたがっているなんて感動してしまう。妊娠とか出産はそんなに簡単なことではないというのに! だから僕は彼女の受胎能力を尊敬するね」。であれば、NFPを使用する夫婦の間に強い愛のきずなが生じないわけがありません。

また、NFPは神に向かって拒否権を発動するわけではありません。NFPは女性の受胎能力を尊重します。社会的に悪い影響がないどころか、いい影響がたくさんあります。離婚率を限りなくゼロに近づけます。神は以下のようにおっしゃいます。「新しい人間を創造するために計画した受胎可能期にはわたしもそこにいたい。その期間に夫婦の交わりがあれば、新しい人間の創造をするかどうかはわたしに任せて欲しい。しかし、受胎が不可能な期間も月経周期の半分から四分の三あるのだから、その期間は受胎することなく夫婦の交わりに伴うきずなを強める力を養いなさい。その期間わたしはよそで忙しい。招待されることは期待しないから自由にしなさい。わたしは来ないよ。来ることができない。わたしは女の体をそのように造っておいた」。ですから、NFPは神に拒否権を発動していないのです。NFPを使用する夫婦は女性の受胎能力を聖なるものとして尊敬します。聖なるものであれば、そこに土足で踏み込んだりしません。準備ができたときにその能力を使います。

NFPがダイエットのようなものであるなどと言う人もいます。拒食症という現象もあります。食べたものを吐いてしまうのが拒食症です。快楽は望んでも、その当然の帰結は望まない。人工避妊もこれにちょっと似ています。その行為をしておきながら、行為自身を冒しています。NFPの方はどうでしょう?こちらはダイエットにとても似ていますが、それよりずっと優れています。ダイエット中にチョコレートケーキは御法度です。人参とかセロリは食べなくてはなりません。受胎不可能期間中のセックスは人参とかセロリより遙かに好ましくありませんか? 選択の自由があるのはすばらしいことです。危機も困難もあることでしょう。しかしそれは決して不可能ではなく、結婚をずっとよくします。

NFP関係の雑誌にしょっちゅう書かれてあることですが、NFPを使用する夫婦は相互に意志疎通がいいと言われます。わたし自身はこれがいったい何を意味するのか長いこと不思議に思っていました。夫婦はセックスしているかおしゃべりしているかで、両方を同時にはしないのなのだろうか? とか、受胎可能期に禁欲するのでその期間はもっとおしゃべりをするのだろうか? 

などと想像していました。しかし、この頃分かってきました。ところでわたし自身は結婚していません。そして、もちろん、色々な意味で、特に二人の親しい交わりをうらやましく思ったりします。最近どこかで夫婦は週に平均二十七分しか言葉を交わさないと書いてあるのを読みました。「何だ、それだけならぞれほどうらやましくなんかない」と思ったものです。たった二十七分ですよ?

それはともかく、NFPを使用する夫婦はその二十七分を非常によく使っているに違いありません。この短い時間に彼らが何を話すか見当がついたのです。こんなものじゃないでしょうか? このような会話を彼らは月に一回、もしかすると年に十二回するのではないでしょうか? 

義理の母親が子供たちを自分の所に預かってくれている週末とか、夫婦でちょっとした旅行に出て、二人っきりの週末を過ごせるときとかにこういう会話をするのではないでしょうか? 

静かなランチ、買い物もちょっとだけ、映画、ロマンチックな晩餐、子供もそこらにいないくつろいだセックスのための夜、ストレスを感じさせるものは何もない、何とわくわくするような夜! そういうとき妻は朝目が覚めて夫に言います。「あなた、今日から受胎可能よ」。それで二人の期待はしぼんでしまいます。失望! この週末は望んでいたような週末でなくなります。

こんな会話には普通以下が続きます。「なぜわたしたちはこんなことをしなければならないの?

禁欲する必要が本当にあるの?」そして時としては、自分たちがなぜ禁欲しなければならないのかの話になり、締めくくりは普通「赤ちゃんを今産めないなんてわたしたちどうして決めたのかしら? 

何で禁欲しなければならないんだっけ?」夫はこう言うかもしれません。「今は赤ちゃんが欲しくないと思ったのは、君が疲れていると言ったからじゃないか? まだ小さい子供も何人かいるし、仕事もあるし、君は疲れていて、もう一人産むだけの元気がないって言ったじゃないか? 

君まだ疲れているの?」妻の答えは「そう言えば、そんなに疲れてなんかないわ。小さな子たちも少しは大きくなったし、もう一人ぐらい赤ちゃんがいてもいいと思うわよ。今夜は計画していたとおりにしましょうよ」とか「そうよ。わたしはまだ疲れてるわ。子供をお風呂に入れてやると言ったのはだれかしら?

あなたは一度も子供たちをお風呂に入れてくれてないわよ。土曜日の午後はわたしに自由な時間をくれるって言ったのに、土曜日の午後はわたしいつもキリキリ舞いしてるわよ。もちろんわたしは疲れてるわよ」かもしれません。夫は「ごめん、ごめん。君が疲れているのなら、明日から子供のお風呂はぼくが面倒見るよ」と言うのでしょうか? また次のようなシナリオも考えられます。彼女が「今のところ子供が欲しくないのは、月々のローン返済が大変だってあなたが言ったからよ。あれからしばらくなるけど今でも大変なの?」と夫に聞きます。夫の答え。「いや、いまはそれほどでもない。あの頃、ローンの借り換えをしたものだから少し泡食っていたんだ。近々昇給もすることになったし、懐具合も少しは楽になってきたよ。子供が産まれてもいいんじゃないかな?」とか「そう。まだ返済が大変なんだ。君の友達のジェーンが垣根を作ったから、君も同じような垣根が欲しいって言ったじゃないか? 彼女の台所も新しくなったから、君もそうしたいって言ったじゃないか? 

ジェーンのお皿が新しくなったから、君も新しいお皿がいるんじゃない?」これに対して彼女は答えます。「お皿なんか要らないわよ」。しかし、大事なことは彼らがこのような会話をしているということです。会話の焦点は一番大事なこと、つまり赤ちゃんが欲しいのか、欲しくないのか、自分たちの財政状態、重荷を分け合っているかどうかに当てられています。

この耳で聞いた話ですが、避妊をしている夫婦であれば、このような会話無しに長い期間過ごすことは決して珍しくないのです。彼らは「後三年から五年の間は子供なんて要らない。子供のことはそれから話し合おう」と言って、長いこと経ってから初めて子供の計画をします。そして、別々の道を進みます。二人とも仕事に出かけ、疲れて帰って来て、食事をします。それだけです。

NFPには社会的悪影響が皆無であるとわたしは主張しています。家庭外でNFPを使用することは困難です。それは神の創造の業に拒否権を発動する類のものではありません。それは女性の受胎能力を最大限に尊重します。二人のきずなを強めこそすれ、弱めることは決してありません。人工避妊に対する非難は一つとしてNFPに当てはまりません。

離婚は避けることができる悲劇

さて、最後にもう一つの話をした後で、質問を受け付けます。わたしはかなりしばしば婚前セックスについて学生たちに話します。分かったことは学生たちは離婚の可能性に怖れおののくということです。離婚を憎む理由は彼女たち自身が崩壊家庭の出で、離婚の悲しみと傷を経験しているから、またはそのような経験をした友人がいるからです。ですから彼女たちは離婚を望みません。結婚するときは、相手と死が分かつまで共に暮らしたいのです。だけど、自分の周りであまりにも多くの離婚を見ているので、そうできるのだという自信がありません。わたしの義理の弟は崩壊家庭の出身です。彼がまだ幼かった頃、父親か母親と子供たちを遺棄したのです。わたしの両親は結婚してからそろそろ五十年になります。彼はわたしの父にべったりです。彼にとってわたしの父は珍しくて、うれしくて仕方がないのです。同じ女性に五十年も結婚し続けるなんて、この人の秘密は何なのだろう? どうすればこんなことが可能だったのだろう? そして彼はわたしたちのすてきな無傷の家庭がどれほど幸せであるか自分の目で見ることができるのです。

ですから、いつかわたしは非常に貧しくなるか、現代の預言者として人々からもてはやされるかのどちらかになるわけですけど、わたしは学生たちに一つの賭を提案します。つまり、わたしが教えたとおりにして離婚することになったら、千ドル上げる約束をするのです。わたしは生まれつき人に命令するのが大好きです。ですから今度もそうさせていただきます。「まず、ご静聴ありがとうございました。これは本当は要らないのかもしれませんが、役に立ちます。結婚しても、決して離婚したくなければ次の四つを守って下さい。第一。婚前セックスは御法度。すでに失格なら今からでも遅くない。そういう人は結婚するまで少なくとも一年半か二年間は待ちなさい。そしてセックスの意味をよく考えることです。婚前セックスのどこが悪いかよく考えるのです。第二。結婚するときは教会でしなさい。そして日曜ごとに教会に行って、そこで祈りなさい。教会で結婚。教会に行くこと。第三。NFPを使用しなさい。結婚したら人工避妊などしないことです。第四。十分の一税。教会の献金とかその他の善行のための金を惜しまないこと」。彼女らにわたしが繰り返すのは「神様、セックス、金の使用法を知っていれば、残りはすべてうまく行くものです」。

お約束のとおり、わたしの話は長くなりました。まだまだ話したいことは山ほどありますが、一応ここらで締めくくりましょう。繰り返しになりますが、現代文化は人工避妊が最高の発明であると信じ込んでいます。この文化の中に浸って生きているわたしたちにとって、このような視点から逃れるのは非常に困難です。しかし、教会には見えているもっと深い現実にわたしたちも目を開くとき、人工避妊の結果であるこの大混乱をなぜ教会が予見できたか理解し始めることができるでしょう。現代社会はこの混乱があることさえ理解していないようです。ましてや、その原因がどこにあるのか説明されても理解を拒みます。ご静聴ありがとうございました。

質疑応答

あなたのメッセージをカトリック教会の聖職者はどのように受け止めますか? 

悲しい質問ですね。これはどのグループにもまして話すのが難しい集団です。今までに十回ほど話す機会がありました。しかも司教様方に依頼されてです。このような集まりでさえ、わたしに反対する神父様たちは出席しようとしません。ですから、集まっている人たちはだいたい支持してくれる人たちだけということでしょう。賛成とか反対の信頼できる統計は存在しないと思いますが、それでもある研究によれば35%の司祭たちはこの点に関するカトリック教会の教えを支持するそうです。47%という数字も聞いたことがありますが、わたしの推定では35%かそれ以下でしょう。皮肉に聞こえないといいのですが。彼らの支持が低いのには理由があると思われます。わたしたちが信じるほど彼らの責任が重くない理由が。1968年以前の60年代、66%のカトリック信者は教会の教えに従っていました。回勅『フマネ・ヴィテ』以前に養成された司祭たちはこの点に関する教会の教えを教えたり、弁護したりする訓練を受けていませんでした。彼らが受けた訓練というのは教会の教えを述べる、ただそれだけでした。ほとんどの信者たちは言われたことに従ったものです。1968年以降、反対論者たちが急速にほとんどの神学校を乗っ取り、ほとんどの司祭たちは教会がそのうちに教えを変更することが見越されるので、信者はもし彼らの良心がそれを許すなら教会の教えに逆らっても責任を問われないと教えたものです。良心の問題については別の機会でなければ時間の関係で十分に説明ができません。しかし、何人のカトリック信者がこの点に関して本当に良心に問いかけたでしょうか? これも深入りはできません。ですから、司祭たちに講義するときには、二十五年間も自分たちが神学校で習ったとおり、つまり、良心が許すのであれば人工避妊が許される、と教え続けていた人たちに向かって話していることになります。

話し始めると、すぐに司祭たちが心の底から抵抗しているのを感じます。これは誇張ではありません。実際に、普通の場合、わたしを支持してくれる司祭はすぐに識別できます。彼らは主流から外され、実際に座る座席も脇とか後ろですから、すぐに分かります。また、20分も話しているうちに、これは主観的過ぎるかもしれませんが、彼らにはわたしに対する心理的防御が見られないことを経験します。彼らが「そのとおり。よく聞いておこう」と思っているのを見て取れます。そして、その後四十五分も経つと「すごい! 彼女が言っていることがよく分かる。まったくそのとおり!うちの教会にいるNFP夫婦ともう少し仲よくして、後押ししてやらなくては」という態度を感じるのです。このぐらいまでは分かると思います。しかし、これからの若い司祭たち、四十歳以下の司祭たちには希望が持てます。わたしの経験によれば、彼らはこの点に関して教会の教えにもっと忠実です。部分的には、彼らが人工避妊の文化が何をもたらしたかをもっと体験してきたからでしょう。彼らの多くは中絶反対のピケを張った経験があります。そして、ことさらデモなどしなくても、彼らが中絶を避妊に関係づけるのにそれほど時間はかかりません。そこまでできたら残りは自然に分かってきます。彼らの多くはこの教皇様の英知を尊敬し、避妊に関する教会の教えを教導職の中心にしてきた、彼を支持するのは自分たちの義務である、と先輩司祭たちよりも強く感じます。

ですから、どちらの側にも希望があると思います。司祭たちは自分たちの生命を投げうって隣人を救いたかったから司祭になりました。彼らが避妊を黙認しているとしても、それは彼らが信者を滅びに導きたいからではないでしょう。ほとんどの場合、自分たちが習ったとおりに教えているだけです。ですから、わたしが思うに、避妊が結婚にとってどれほど害があるかを彼らに教えるのは一般信徒の義務ではないでしょうか? ご質問ありがとうございました。

避妊する夫婦には恩恵の喪失という影響がありますか?

いい質問です。結婚生活に関する恩恵の喪失がありますか?

トリック信者の場合でも世間と同じく50%の離婚があるのですから、影響があると思っていいでしょう。わたしが思うに、避妊する人たちが自分たちのしていることは正しいといくら考えたとしても、そんなことをしていない人たちと比較すれば、彼らと反対のことを教えている教会を熱心に支持できるわけがありません。彼らの多くは小教区では非常に活動的で、教会を愛しています。しかし彼らは常に「教会は何か間違ったことを教えている」と考えざるを得ません。ですから心から教会に従うことは困難になります。避妊が悪であると考えないので、それを罪として告白することもありません。ですから、赦しの秘蹟から受けるはずの癒しの恵みと助力の恵みを受けるません。NFPを使用する夫婦は祈りと秘蹟が自分たちの生活の中心にあると言うでしょう。産まれた子供たちを育てるためにそのような助けが不可欠であると信じています。しかし神の恵みは目に見えないものですから、その影響を数量化することは不可能であると思います。それでも、恵みの喪失であれば結婚が現今どうなっているかを見るだけで歴然としているのではないでしょうか? さらに、NFPを使用する夫婦と接していてすぐに感じ取るのは何とも言えない仲の良さ、自分自身と相手に対する尊敬心です。避妊している夫婦にはなかなかそれがはっきりとそしてしばしば感じられません。

わたしの意見ですが、避妊している夫婦のほとんどは主観的には潔白であると思います。彼らは客観的に見れば許されないことをしていながら、朝起きたときに「さあ、今日は神様に背こう、わたしの生殖能力に反する行為をしよう、わたし自身を余すところなく配偶者に与えるのは止めておこう」などと考えるわけではありません。確かにこんなひどいことを彼らが言っているわけではありませんが、それでも、彼らの行為自体は正にそう言っているのです。ですから、彼らは予想もしなかった成り行きに傷つき、少々驚くことになるでしょう。

逸話を一つお話ししましょうか?

七人兄弟姉妹がいる友人がいます。全員がカトリック信者ですが、信仰を実践しているのは少数派です。一組を除けば全員が人工避妊しています。NFPを実践しているたった一組の夫婦には計画通りに生まれた子供が四人います。他の夫婦は人工避妊しているので子供がいません。彼らは共稼ぎですから収入は普通の倍あり、ロマンスと娯楽のための時間もたっぷりあります。ある夜、これら八組の夫婦が集まる機会があり、ざっくばらんに自分たちの性生活について話し合いました。避妊組の女性たちは揃って不満を漏らしました。セックスの際に夫が自分の体を利用してマスターベーションをしていると彼女たちは感じていたのです。しかし、彼女たちはそれが普通であると思っていました。男性たちにも不満がありました。それは自分たちが相手に懇願しなければセックスを許してもらえないことを屈辱と感じていることでした。また、もう一つの苦情は、それほど夢中になってくれない女性、自分を見つめるのでなく、テレビに見入っているような女性を相手にセックスをしなければならないということでした。ところで、NFPを実行している夫婦は不思議そうに顔を見合わせ「いったい何の話をしているの? セックスが興味深くないんですって? セックスはテレビほどおもしろくないんだって? セックスを懇願する? どうなってるんだろうね?」と言い合ったものです。この夫婦だけがまっとうなのです。 二人分の収入、フィットネスクラブ、最新流行の洋服のある避妊夫婦たちと、少し太り気味、経済的には苦労が絶えず、睡眠不足気味で四人の子供がいるNFPの夫婦を比較してみましょう。性生活に満足しているのはどちらでしょうか? 答えは意外にもわたしたちが普通考えるのとは反対でした。満たされたセックスの秘密はどうやらNFPにありそうです。若者のように引き締まった体、最新流行の服、豊富な可処分所得が満たされたセックスを保証するのではありません。その秘密は信頼、愛、思いやり、相手を知ること、相手とのコミュニケーションです。NFPはこれらすべてを提供します。

避妊夫婦は、避妊が自分たちの性生活に問題を引き起こしていると知ればびっくり仰天することでしょう。しかし、実際に彼らの夫婦関係をつまらないものにしている元凶は人工避妊であると考える十分な理由があるのです。

性教育は必要であると思いますか?

はい。禁欲の勧めだけでは不十分です。なぜなら、それだけであれば、それは単に計画外の結末とか性病を避けるための忠告であるかのようにしか思えません。もちろんそれは大事なことではあるでしょうが。死病であるエイズもありますが、それだけでなく、非常に危険な性病は三十五もあります。急増した不妊症のほとんどの原因はこれらの性病です。女性に複数の男性と性関係があれば、性病にかかり、卵管を傷つけるのは当然です。若い人たちはこういうことを知るべきです。

しかし、純潔教育は禁欲を教えるだけではありません。純潔の本当の意味は自分の性的能力が何のためにあるか理解することです。この能力を時が来るまで大事に守るような生き方をすることです。この点ではNFPの知識が助けになると思います。

お気づきのように、現代社会は性的刺激に満ちあふれています。感覚にそのような刺激のない午前中の一時間は考えられないぐらいです。出勤の途中、衣服をろくにまとっていない人たちの大きな看板を眼にします。テレビのスイッチを入れると何らかの性行為が映し出されます。先日、コーヒー沸かしを買いにデパートに行きました。デパートの隅々に至るまで、裸の男女が情熱的に抱擁している香水の広告が眼に入るのです。で、わたしはコーヒー沸かしを買いに来たのであって、ポルノを見に来たのではない、と自分に言い聞かせます。それなのにポルノが目の前に突きつけられるのです。神はこんなものを木に吊されませんでした。わたしたちの感覚がこんなものに攻撃され続けるのは神の計画ではありません。ある友人は日曜の朝になると、まず新聞の折り込みを捨ててしまいます。子供たちに女性用下着の広告を見せたくないからです。あそこに見られる姿態はプレイボーイに載る写真とさして変わりありません。十五歳の息子がこんな攻撃にさらされることは無意味です。それでも、すべての刺激を世の中から除去することはできません。音楽の歌詞にもひどいものが。

一日中事務所で働く男性を想像してみましょう。彼は一日中性的刺激にさらされています。通勤の途中、テレビの画面から、下品な冗談を聞かされるとき、コーヒーショップに入るとそこにいる女性の衣服はスケスケ、彼の想像はあらぬ方向に向かいます。一日中彼は頭の中で女性について想像を巡らします。さて、夕方家に帰ってくるときはその気になっています。そして台所には彼の女性がいるというわけです。そしてこの女性と交わります。しかし彼はこの女性を愛するのでなく、他の女性とのセックスを想像するのです。他の女性とのセックスについて空想をしているこの男性は自分の妻を思い出すことがその日一度もなかったのです。NFPはこんな非人格的セックスに終止符を打ちます。NFPは月に七日から十二日の禁欲を要求しますから、そのような状態で家に帰れば、禁欲できるわけがありません。禁欲を可能にするためには感覚を制御しなければなりません。「わたしはそれを聞きたくない。あれを見たくない。この雑誌は読みたくない。この映画はいやだ。こんなものは皆自分が制御できそうもない思いでわたしの想像力を満たしてしまうから。そしてそんなことは妻に対して申し訳ない。わたしと結ばれることになったこの複雑な女性のありがたさがやっと分かり始めたのだから、彼女だけを愛することに決めた」。これがNFPを実践する夫の思いです。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、NFPがもたらすのは自己制御の徳であると言われましたが、これは正に純潔のことに他なりません。教皇はNFPは人々によりよく愛することを教える、と言っておられますが、それもそのはずです。彼らは架空の女性でなく、自分が愛する女性を愛するようになるからです。諸々の性的衝動のままに行動するのでなく、彼らはそれらを制御します。彼らの行動原理は性的衝動でなく、愛の衝動です。純潔教育は、若い人たちには自分たちがこのような文化に襲われていることを教えなければなりません。また、原罪についてもしっかと知るべきです。わたしたちの生活のどの側面でも本能的欲望を制御するのが難しいのです。わたしたちはもっと眠りたいし、もっと食べたいし、もっと飲みたい。そして悪いことであると分かっていてももっと性欲を満たしたい。これは正に原罪によって堕落したわたしたちの性質がもたらすものです。世の中はこうなっているのです。しかし、わたしたちは体勢を再構築しなければなりません。若い人たちにわたしははっきり言います。「そうです。この性的混乱はあなたと無関係ではありません。その大部分はあなたの責任ではないでしょう。それは現代文化のせいよ。しかし問題はあなた方が人間であるということ。しかし、純潔のために努力する人にとって、報いは大きいのです」。

結婚前に純潔であった夫婦にはこのうらやましいほどの無垢と幸福感が漂います。そこには互いへの信頼感があり、セックスが汚いものでなく清いものであるという彼らの感覚をわたしも感じ取ることができます。婚前セックスの経験があれば、セックスは汚いもの、許されないもの、人目を忍ばねばならぬものという感覚が付きまといます。結婚まで禁欲できた夫婦にとって、セックスはいいもの、清らかなもの、この人のために大事にとっておいたものです。現代文化に押し流されるままの若い人たちは大事なものを見失っています。若い人たちは大人から学ぶべきことを学んでいません。わたしたち人類は色々な道を試みましたが、ある道は袋小路なのです。わたしたちは彼らに警告しなければなりません。「それはよくないよ。わたしたちがすでに試してみたんだから。そんなことを試したらだめよ。試す価値なんかないんだから」。純潔教育は禁欲教育とは大違いです。現代文化には禁欲を教える資格がないのです。一日中純潔に反するメッセージを流し続けているのですから。

友人にもこのメッセージを伝えて福音宣教するにはどうすればいいでしょうか?

ぜひお願いいたします。あなたならできそうですよ。特に友人とか身内への宣教は簡単ではありません。テープとか文書を渡すのはいい方法でしょう。自分で話す代わりに「これ聞いて、これ読んでみて。後で感想を聞かせてね」これが第一段階だと思います。情報網をつなぐのです。人工避妊の悪について考え及んでいる人はほとんどいません。その理由も分からないではありません。そんなことを考えるきっかけになるものが見あたらないからです。回勅『フマネ・ヴィテ』はおろか、回勅というものを読んだことのあるカトリック信者は驚くほど少ないのです。現代人は人類史上始まって最も識字率の高いのですが、ニュース・ウイークとかピープル・マガジンを読んでも、教会の回勅は読もうとしません。すばらしいことがいっぱい書かれてあります。読み始めたら、次から次に読みたくなります。わたしならこういうことから始めるでしょう。若い人たちは研究グループを作ればいいと思います。友達が何人が一緒になって、毎週、教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的勧告『愛といのちのきずな―家庭』を読むのです。予習なんか不要。集まって一緒に読むのです。一回に二ページぐらい読んで、書かれてあったことについて話し合ったらどうでしょうか?

結婚している人たちも同じことができるでしょう。何人か友人を招いて「これを一緒に読みましょうよ」と気軽に言うことです。このような集まりがどう発展するか、皆さんはおそらくびっくりなさるでしょう。これは一つの小さな提案です。しかし、あなたのような神学生はこれから世の中を大きく変革させる力になると確信しています。 ご静聴ありがとうございました。

Janet E. Smith (ジャネット・スミス)
Philosophy Department,
University of Dallas
recorded in May,1994,
Copyright © 2008
英語原文lifeissues.net

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