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自殺:その重大性と責任

自殺に関する教会の教えはどのようなものか? 私は、自殺を常に大罪と考えてきた。したがって、自殺した人を教会で埋葬することにも疑問を持っている。 


自殺という行為について話す前に、すべてのいのちは神から授かったものであることを思い出して欲しい。私たちは、一人一人、神の姿にかたどって創造された(創世記1:27)身体と精神を持っている。したがって、生命は受精の瞬間から自然死を迎えるまで神聖なものであり、罪のない生命を故意に奪うことは何人であっても許されることではない。 

神がこの世界に舞い降り、人を創ったことから、クリスチャンにとって、この教えは特に意味深いものである。神は私たちが人生で直面する喜びと苦痛、成功と挫折、快楽と苦役、幸福と悲しみを理解し、その上で私たちが神の愛を受け、神の意思を信じながら、どのように人生を歩むべきかを教えてくれる。さらにイエスは、苦役を受け、そのいのちを捧げることで我々をその罪から解放し、永遠のいのちを約束してくれた。洗礼を受けた私たちは、神と新しいいのちを分かち合っている。聖パウロは次のように述べている。「あなたがたは対価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(第1コリント6:20) 

したがって、私たちは、自分のいのち(体と心)を守っていくことは人間の義務であり、自分の好きなように処遇してよいものではないことを認識しなければならない。私たちは、身体面と精神面からいのちを守り、育んでいかなければならない。「自分にいのちを与えてくれた神の前では、だれもがそのいのちに責任を持たなければならない。いのちの主として支配権を持つのはいつも神なのである。感謝を持っていのちを受け取り、神への崇拝と自分自身の魂の救済のためにそのいのちを守っていくことが我々の義務である。我々は神から託されたいのちの管理人であり、所有者ではない。自分のものではないいのちを勝手に捨てることは許されない。」(#2280) 

この基本的な考えを念頭におけば、自殺が以前から道徳に反する重大な悪行、すなわち大罪と考えられてきた理由がわかるだろう。ローマ法王は、最近の回勅「いのちの福音」においてこの点を肯定している(#66)。(自殺は神のために自己のいのちを犠牲にすること、つまり殉教や、他の人を救うために自分のいのちを差し出すことや危険にさらすこととは異なるので注意すること。) 

いのちを意図的に奪うことは、次の理由から誤った行為と考えられる。第一に、最も基本的なことだが、人間は誰もがいのちを維持したいと考えるものである。自分のいのちを奪うことは、生きようとする本能を否定することである。 

第二に、自殺は、自分と自分の周りの人々、すなわち家族、友人、隣人、知人に対する真の愛を裏切ることである。これらの人々は、私たちがそれと気づかなくても私たちを必要とし、頼っている。私は、神父として自殺者の家族を慰めるとき、自殺した人物に自分がいかに愛され、必要とされていたかをどうにかして知ってもらいたいと考える。また、残念なことに自殺した人は、自分では克服できないほどの耐えがたい苦悩を感じ、神の愛から離れ、自殺してしまったのだとも思う。 

最後に、自殺は、神に対する私たちの愛を否定することである。苦悩に満ちた辛く苦しい時期は私たちだれもが経験することである。しかし、私たちは、私たちを決して見捨てずその人生を無事に過ごせるよう見守ってくれる神の手の中にある。「私たちの父」…「み旨のままに」…という言葉は、私たちにとって真実でなければならない。自殺は、私たちの生命に対する神の「支配権」を拒否することなのである。 

したがって、客観的に見て、自殺は大罪なのである。(さらに、自殺幇助も大罪である。)ただし、その罪が救いを得られないほどの大罪となるのは、行為の目的(この場合、自分のいのちを奪うこと)が重大あるいは深刻である、行為の主がその意味を理解している(その行為が間違っていることを知っている)、その意思を明確に示している(意図的に行為を行う)場合である。 

自殺の場合、自殺する人が常にはっきりとした意思を持っているかどうかは疑わしい。恐れ、威圧感、無知、惰性、情欲、心理的な問題が正しい意思判断を妨げているとしたら、その人物は、自殺という行為に対する責任を一部あるいは全面的に免除されることもある。「重大な心理的不安、苦悩、あるいは困難、苦労、苦痛に対する極度の恐れが自殺者の責任を減じることもある」(#2282)。こうした配慮があるからといって自殺が正当化されるわけではないが、さまざまな状況やその人の状態から、自殺したことを全面的に責められない場合もあることを理解すべきである。 

私たちの魂の奥深くを知るのは神だけである。神だけが、私たちがいかに彼を愛し、責任を持って行動しているかを理解している。審判は神にのみゆだねられている。次のような大いなる希望の言葉が与えられている:「自分のいのちを絶った人は永遠に救われないと考え、絶望すべきではない。神は、自分だけが知っている方法で懺悔の機会を与えてくださるだろう。教会は、自分のいのちを絶った人のために祈りを捧げよう」(#2283)。 

私たちは、神の愛と慈悲、そして悲しみにくれる遺族へのご加護を求めつつ、自殺者の魂が安らかに眠れるよう祈りを捧げたい。 

William Saunders
サンダース・ ウィリアム
Arlington (VA) diocese
英語原文 lifeissues.net
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2003.8.28.許可を得て複製