日本 プロライフ ムーブメント

聖書と産児制限

たくさんのキリスト教徒達は、今日、次の子どもをいつ産むかの間隔を考えています。一方では、ある人達は、神のみが胎を開閉する権利を持っているという理由で避妊薬を使ったり、周期的に節制したりという家族計画は罪深いことだと主張しています(参照 創世記 二十:18、二九:31)。また、一方ではその命令はアダムとイブのみに与えられたものだと主張したり、その教訓はもうすでに果たされてしまって、現在、世界は無責任に人口過剰になっていると主張したりして、創世記の命令を実際的に適用することは完全にお終しまいにしています。神の言葉はどのような手引きを私たちに与えているのでしょうか? 

結婚した夫婦は子どもを持つ義務は負っていないという結論は、明らかに聖書に反しています。子どもは神からの贈り物であり、報酬であることを聖書は繰り返し主張しています。(1)だから子どもたちは最も大切なものです。実り多くあれという神の命令が、すべての人間にあてはまらないのもまた事実で、創世記一:28は、結婚に関する神の計画の本質をなしているということもまたはっきりしています。(2)祝福されている命令は、神がアダムとイブを男と女として結合している典型的な夫婦間の誓いです。そして、神は彼らを祝福して、言いました。「産めよ、増えよ。」創世記12章の教えは、アダムとイブにあてはまるだけでなく、すべての結婚している夫婦にあてはまることを、マタイによる福音書19章の中でキリストはそのように理解しています。敬虔なユダヤ人もまた「産めよ、増えよ。」という命令を果たすための義務として結婚しました。(3)もし、それが本当だったなら、人口過剰の神話はそのようにして、子どもを持たないことを正当化しなかったでしょう。(4) 

子ども作りの間隔すべての型に反対する議論は、聖書と常識をものともしません。聖書は、慎重さや学びや技能を賞賛し、神からの贈り物として知恵を認めます。(5)もし家族において箴言 三一:10~31とテモテへの第一の手紙 五:8が証明されているとするならば、そのような慎重さが使われています。産めよ、増えよという命令のあとにただちに、地球を征服するという神の命令が続いているという事実は、人間の多産は責任ある世話役から離れられないことを示しています。最後に、結婚した夫婦はいつ妊娠するか理性的に分かるということは、コヘレトの言葉にはっきりと暗示されています。何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時/抱擁する時、抱擁を遠ざける時/(コヘレトの言葉 三:5)(6) 

そうすると、夫婦間の抱擁にとって、ふさわしい時期とは何でしょうか?この質問に答えるために、夫婦は子を宿す時期かどうか第一に決心しなければなりません。第二に、もっとも明らかですが、夫婦はふさわしい時期の間に抱擁しなければなりません。すなわち、女性が最も繁殖力のある時にです。 

夫婦が何人の子どもを持つべきかと言うことに関して、正確な数字は与えられていませんが、キリストの慈愛への祈りや忠実さは決断を支配しなければなりません。もし、産めよ、増えよという神の命令が責任ある世話役の職から分離することができないならば、神は人間の多産に優先権を置きます。本当に、産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよという命令は、神自身が彼の子どもたちに供給している神の暗示に従っています。(7)これは、出産が貧困や危機によって遅れるかもしれないということではなく、例えば、新しい車か家を購入するかあるいは子どもをもうけるかという選択肢が与えられるのです。そのような時、子どもを授かる祝福のほうが好まれます。(8)箴言 三十:8では、ほとんどの立場において質素な心地良いモデルを提案しています。貧しさも富も私に与えないで下さい。最も安全な規則は、痛みを感じるまで与えることです 。 

第二の点においては、コヘレトの言葉 三章の文脈内において、抱擁は、植え付けたり、刈り取ったりするように周期的なパタ-ンに正確に生じます。春夏秋冬のような四季のようなパタ-ンは、人間によって見分けることができます。しかし、彼の支配権に関するものではありません。(9)どんな種類の種でも、人間の種を植える時は、ふさわしい時期があります。パウロが教えている通り、結婚の中でさえも、自制の時期が存在します。(コリント人への第一の手紙 七:5)この時期とは何でしょう? 

一つには、レビ記に示されているように、女性の月経中とその後7日間は自制を必要とします。(レビ記 十五:19)ラビは夫婦間の絆を強くするという性的な意味ではないものとして、そのような自制を命令しています。そして多産の専門家は、レビ記の規則の支持は膣感染や子宮頚管の癌という女性の危険を減らしており、実質上、夫婦に妊娠する機会を増やしているということを発見しています。キリスト教徒はレビ記の教えを遵守する義務がもはやなくなっている一方、ユダヤ人の法律は私達に、女性の周期は予測できるもので、多産と不毛の自然な周期に従っていることを思い出させてくれます。コヘレトの言葉の助言に従うことと、夫婦の理解と自分達の多産周期を利用することは、自然の秩序に従って平行すべきです。もし、夫婦が妊娠を望むならば、ふさわしい時期に抱擁すべきです。すなわち、女性が繁殖力のある時にです。もし、夫婦が子どもを持つ時でないとはっきり認めているならば、彼らにパウロの助言に服従すべきで、繁殖力のある時期が過ぎるまで控えるべきです。神はこのようにして、結婚した夫婦が聡明な家族計画を遵守することができるように多産と不毛の両方の時期をすでに供給しているのです。 

ピルの出現は、結婚に関する神の計画を無視することを容易くしています。事実上、ピルとその他の避妊薬は夫婦にとって、彼らの繁殖期に注意しなくていいことを可能にしました。(10)ピルは妊娠中絶薬として作用するという事実は、クリスチャン夫婦にとってその使用を避けるのに十分です。(11)しかしながら、もし、ピルが妊娠中絶薬でないなら、その利用に関しての判断と忠実さが必要になります。 

理由は簡単に分かります。それは、人間は神ではなく自分達が作っていない律法に従って作られた創造物だからです。実際に家族計画に対する信心深い取り組みをする時は、多産と不毛という自然の周期を神から供給されているという事実を尊重しなければなりません。非キリスト教徒は、物事の中や創られたものの中に、すなわち、自然の秩序(ロ-マの信徒への手紙 1章)の中に、本当の神に気づくべきだったと警告した時、神の想像力のある苦心を崇める必要をパウロは私達に思い出させます。 

対照的に、不信心な人間は無視したり、完全に望みどおりに自然を変えたりすることで、虚無を作ることができると考えます。ピルが具体的に表現するような技術は本質的に不信心です。なぜなら、それは自然とともに作用せず、完全に神が創造した規則を無視しています。対照的に、家族計画の方法、例えば症候体温法やビリングズ法は多産と不毛の自然の周期とともに作用します。   

自然な家族計画法は人間によって作られたものでも、科学によって作られたものでもありません。人間の生命のために、神の考えによるものなので、自然なのです。本当に、賢い洞察力とこれらの規則の利用はどういう責任が世話役に必要なのかがはっきりしています。対照的に、避妊薬の利用は、人間の繁殖という神の贈り物に対して、人間を世話役ではなく主人や主君にしてしまい神の法律を破壊します。 

人間の性行為は、人間の意志によって、操作されるものではなく、神の望みと一致するべきだという神の言葉もまた明確です。人間の性行為は結婚した男女間の中で行われることを神は要求します。同性愛や近親相姦、不貞、獣姦と同様に、この法律違反は、しばしば死をもって罰すべき罪でした。(レビ記十八:22~23、二十:10、二十:14、) 

夫婦間の性行為の中で、唯一死に値する違反はオナンに専心することでした。(創世記 三八:16)今日、オナンの罪は、人間の多産という神の贈り物を乱用することには当たらないと多くの注釈者は述べています。例えば、ティンダルライフ適用聖書研究は、オナンは兄弟とタマルに対する彼の義務を果たすことを拒絶したので、神はオナンを殺したと述べています。新アメリカカトリック聖書はよりはっきりしています。第一に、この法律(逆縁婚結婚)のオナンの違反は、それを彼が回避していたためというよりもむしろそれが、神を不快にさせたからです。(12) 

上に述べた解釈に対する明らかな異議は、男性が兄弟の未亡人と結婚するという逆縁婚(義兄)慣習の拒絶は、公の軽い屈辱はあるものの、死によって罰することはどこにもないということです。(申命記 二五:5~10)さらに、申命記 25章における靴を履かない兄弟とは違って、オナンは神の命令を違反したと告発されるはずがありません。(13) 

他の人達は、彼の兄弟の家系を永続させることに失敗したのは兄弟殺しの型だという理由でオナンは死に値すると議論しています。しかしながら、同じ非難は申命記25章の不誠実な兄弟に対してされなければならなかったでしょう。どのような理由で、オナンはより残酷な罰に値するのでしょうか? 

オナンはタルマとの結婚の誓いを破ったから殺されたというのもまた違います。ユダヤ人の伝統は夫としての義務を行うことを拒絶する男性に対して、死ではなく離婚を定めています。そして、増しなさいという命令を果たさない夫婦は、子どもを持つようにあるいは離婚するように社会的な激しい圧力を受けるかもしれません。この立案者はそのような手ぬかりに対して死を持って罰せられるということは聖書にも伝統にも見つけられませんでした。最後に、オナンはただ単にタマルとの結婚契約を果たすことに失敗したに過ぎないのに、どうして聖書の一節にそのようなはっきりした詳細があるのでしょうか?(14) 

ユダヤ人の注釈者は、ほとんどの辞書によって定義されている分かり易い常識は述べないで、中断性交と自慰の継続から成るオナンの罪を理解することを決してやめません。ユダヤ人の百科辞典は創世記38章に関しての伝統的な教えを総計しており、ゲマラは「むやみやたらに種を前面に出すこと」に対して厳しく痛烈に罵ると締めくくっています。(15)この理由により、コンド-ムといくつかの避妊装置はユダヤ人の法律では許されないのです。(16) 

かなり最近まで、ほとんどのキリスト教神学者達もまた、過酷な時期における産児制限に不賛成でした。避妊薬は妻を売春婦に変え、自然の利用から自然に反するものに変わることによって、夫と妻の間で行われた時、よりいまいましいものになり夫婦生活を恥ずべき結合に変えるとアウグスチヌスは警告しました。同様に、オナンの罪は近親相姦や不貞よりもひどいと言ったマ-チィン ル-サ-キングは、生殖に関して神によって創られた自然の秩序がある時、従うべきだということを私達に思い出させます。ジョン・カ-ビンも同様に、オナンの行為は二重にひどいものだと描いています。テオドア・ラエッチやハ-バ-ト・カ-ルやオーサ-・ピンクやジョンスキナ-のような現代の神学者達は、避妊薬に対して批判的です。非概念上の中断性交による産児制限は生物創造という神の方法を冷酷に妨げますとラエッチは加えています。これにピンクは付け加えています。「産児制限を賛成しませんが、自制をすすめます」(17) 

自制や周期的な節制は忠実と判断力の両方を調和する子ども作りで間隔をあける唯一の形です。もし、神がオナンを許してなかったら、忘れてならないのは、寄せ集めの契約の集まりではない、神の天啓でたくさん祝福されている私達がどうやって避妊薬を大目に見続けられますか?神自身が夫婦間の性交に適当な時期と時を創っています。神の意思の善性に服従することによって神の創造物の尊厳を喜びましょう。 (ジェイムソン・テイラー) 

Taylor, Jameson (テイラー・ジェイムソン)
Copyright ©2001
2002.10.20.許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net