日本 プロライフ ムーブメント

私は裁きません!

このところ、あまりに重要な取り決めがたいした議論を経ないでストンと決まることが多い気がする。「裁判員制度」もそうだ。私が世間知らずなだけかもしれないが、少なくとも騒ぎになったときにはもう決まっていた観がある。

調べると、平成十六年五月二十一日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立し、今年五月に公布され、来年五月には施行されるという。欧米キリスト教諸国が採用している方法であること以外に、いったいどんな重大な理由があったのだろう。「裁き」に慣れた彼らの習慣を、慣れていないこの日本に採用するためには余程重大な理由がなければ納得できない。なぜなら、それは神道や仏教の信教の自由まで脅かしかねない改変だからである。

教育機関などは今や躍起になり、気軽に人を裁けるよう、自分のことなど棚上げにして自分の考えで裁いていいのだと、学生や市民を「教育」中である。しかし果たして、日本はそういう国なのだろうか。

日本で初めての罪人はスサノヲだと思う。彼は「古事記」にあるように幾つもの宗教的禁忌を犯したため、国外追放になる。仏教でも殺人など重大な罪を犯した場合、波羅夷罪といって教団追放になるが、思えば共に追放しておしまいなのである。基本的に神道も仏教も処罰にはあまり関心がない。それは専門家に任せるということだろう。

法律という基準で法律の専門家によって裁かれる分には、法律の定める罰を受けなくてはならない。しかし法律的に罪人になったとしても、世間がそれとは違った見方をする可能性こそ重要である。宗教的には尚更そうだ。なぜなら、法律そのものが時代に流された不定見であることも多いからである。治安維持法しかり、ハンセン病患者の強制隔離絶滅政策である「らい予防法」しかりである。日本人はそうした制度と世間が一致することの怖さを肌身で知っているのではないだろうか。また個人主義の土壌で育つ欧米の人々とは違い、日本人には独特の関係性への目配りがある。これが裏目に出れば多数への迎合ということになるが、これほど「裁き」に向かない人間性もないだろう。そのことも、たぶん日本人は承知しているのである。

だからNHKなどの世論調査でも、八割の人々が「できれば参加したくない」と解答している。

まず「裁かない」という宗教に由来する心性が直観的に拒否し、世間と法の合体した怖さを知っているだけに尚更嫌がる。こんな状況で、無理に裁判員制度を始める必要がどこにあるのだろうか。

少なくとも私は仏教徒として、ウソを戒めた「不妄語戒」を犯す懼れがあるという理由で、参加はご遠慮したい。それが認められないなら信教の自由の問題だと思うが、如何?

Genyu Sokyu (ゲンユウ ソウキュウ )
玄侑 宗久(芥川賞受賞作家、臨済宗僧侶)
出典 玄侑宗久公式サイト 日曜論壇 第24回
Copyright ©2008年06月15日福島民報
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