日本 プロライフ ムーブメント

私の被爆体験から

1945年8月6日、原爆が投下されたとき私は13歳でした。 

その日私は病気で、爆心地から1400mの自分の家にいて、原爆が投下された瞬間、私は眠っていました。そのため、ピカッと光った閃光も、ドンという衝撃音も知りません。原爆の破壊はそれほど瞬間的なものでした。 

気がついたときは、つぶれた家の下敷きになっていました。必死にもがいて、壊れた家の中から、やっと這い出すことができました。潰れた家の上に立ち上がったとき、外は暗闇でした。朝日を遮った焦げ茶色の空気はやがて茶色から黄色に変わり、白っぽくなって、最後に遠くが見えるようになりました。その瞬間、私はびっくりしました。広島の街全体が、見渡す限りつぶれて平らになっていたのです。私には何が起こったのか見当がつきませんでした。 

その時、すぐ足下から私の名を呼ぶ母の声がしました。母と私はそんなに離れていないのに、母の声はとても遠くからのように聞こえました。それは、母の声が、壊れた屋根や幾重にも重なった壁土や材木に遮られているからだとわかりました。 

母は、脚を太い柱か梁に挟まれて動けないと言いました。私は持てる力いっぱいに梁や柱を引き抜こうとしました。壁土をめくりとろうと力いっぱい押し上げてみました。しかし、私の力ではどうにもなりませんでした。大人に助けを求めましたが、怪我をしている大人は、自分が逃げるのが精一杯でした。母を助けようとしながら、
「大地震が起きたんね」
と尋ねますと、母は 
「いや違う。大きな爆弾が家の近くで爆発した」
と答えました。 

初めは、破壊された建築物の残骸に火がついていることに気づきませんでしたが、原爆が爆発した瞬間に、燃えるものには火がついていたのです。しばらく、くすぶっていた火が次第に強くなってきました。火が迫ってきたことを母に話すと、母は 
「お前は生き残って、よく勉強して立派な人間になりなさい」
と言ってくれました。 

さらに火が強くなったとき、母は 
「あきらめなさい。母さんはもういいから、ここから早く逃げなさい」 
と言いました。私は母を置いて逃げるのを躊躇していました。 

大きな火事嵐が起こったそのとき、母から火は見えないはずなのに 
「今すぐ逃げなさい」 
と命令のように言いました。その声は遠くてかすかでしたが、きっぱりとした言葉でした。この言葉は私に、母を残して立ち去る覚悟をさせました。私は 
「お母さんごめんなさい!」 
と言って、その場から逃げ出しました。これが、私が母とかわした最後の会話になりました。 

道がなく、炎と煙の中を逃げました。潰れた家が折り重なり、ひどく火傷をした人が逃げているのしか見ていません。焼けただれた皮膚があごや爪から垂れ下がっていました。やっとのことで川岸にたどり着き、川を泳いでわたり、砂浜に突っ立って、対岸が激しく燃え上がっているのを眺めつづけました。煙と炎は雲になって私の頭上に覆いかぶさってきました。あの炎の中にいる母のことを思うと、はらわたが千切れる思いでした。「何とかして助けることができなかっただろうか?」今でも母のことを想うたびに、同じ思いをめぐらします。 

1954年3月、南太平洋のビキニ環礁で米国は水爆実験を行いました。その水爆は私の体験した広島原爆の1000倍の破壊力でした。水爆の出現に私は大きな衝撃を受けました。そのとき私は、専門にしようとして物理学を学ぶ学生だったからです。核物理学が悪用され、このままでは物理学の成果によって人類と地球上の生き物が滅亡してしまうという強い危機感を持ちました。それ以来、物理学の学生として、後に物理学者として、核兵器をなくす運動を始めました。 

私は今、被爆者の政府に対する原爆症認定集団訴訟に関わって、原爆の後障害を科学的に明らかにする研究をしてきました。その結果、米国政府の支支援で行われる原爆放射線の影響に関する研究では、放射性降下物と誘導放射化物質による残留放射能の影響が完全に無視しされていることを見出しました。残留放射線の影響は主として内部被曝によって起こり、これらの影響が現在の被爆者の主要な障害であることもわかりました。残留放射線の影響を無視することは、「地下貫通核兵器」のような新しい「使いやすい核兵器」の研究と開発を推進してきたブッシュ政権と密接に関連し、こうした核兵器を使うと、大量の残留放射能によって広島・長崎とは別の「この世の地獄」が出現するでしょう。 

今、日本、韓国、その他の国々に約25万人以上の被爆者が、今なお身体、生活、精神の困難と苦闘し、それは年齢とともに深刻になっています。米国、旧・ソ連諸国、その他の核保有国を含め、世界中に、核実験参加兵士や風下住民のように、ウラン鉱山から核兵器製造までの全課程で引き起こされた放射線被害者は何百万人もいます。原爆の被爆者にとって、核兵器を使うことは人類の歴史上もっとも許されざる犯罪であることは明らかです。誰に対しても、どんな目的と理由があろうとも、何処ででも核兵器を使ってはなりません。 

私は、人類に対して核兵器廃絶のために2重の責任をもっており、これが母の最後の言葉に応えることだと考えてきました。責任の一つは、科学者あるいは物理学者としての責任です。もう一つは、あの日の惨状を体験した被爆者としての責任です。 

今こそ核兵器を廃絶する時です。不道徳な核抑止論から離脱し、この核不拡散条約再検討会議で、核兵器条約についての誠実な交渉を始めるよう訴えます。

Sawada Shouji (サワダ ショウジ )
沢田 昭二
素粒子の理論物理学者
名古屋大学名誉教授
原水爆禁止日本協議会代表理事
原文出典 
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