日本 プロライフ ムーブメント

真に幸福な人間とは誰か

10月ともなれば、南国鹿児島にも秋が来て、わが家の庭の木々の落ち葉かきに忙しくなる。ひらひらと舞う落ち葉の一つにも人生の無常を感じ取る仏教徒ならずとも、やはり秋は人生の終末を想い、本当の幸せはいずこにと問う季節である。

幸せになりたい、というのは昔からすべての人間の生まれながらの根本的な願望である。しかし、なにが幸せかについては人によってさまざまだろう。文明開化の現代でも、人々が生業に励み、協力して衣食住の充足を図るのは当然のことながら、現世に執着するあまり、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(1ヨハネ2:16)を求めていたずらに金儲け主義や消費主義に走る風潮も見られる。しかし、精神的な満足や希望に幸せを求める人は多い。さらに、宗教に、あるいは神に幸せを期待する向きも決して少なくあるまい。 

聖書にこんな話がある。「イエズスがこう話しておられると、群衆の中から、一人の女が、『なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎と、あなたが吸った乳房とは』と声高らかに叫んだ。しかし、イエズスは、『むしろ幸いな者は、神のことばを聞き、それを守る人々である』と仰せになった」(ルカ11:27-28)。イエスの話を聞いてその素晴らしさに感嘆し、こんな立派な人を産んで育てたお母さんはなんと幸せだろう、と叫んだ婦人に対するイエスの答えである。肉身の母であることよりも、「お言葉通り、この身になりますように」(ルカ1:38)と言って神の言葉にこたえた母マリアへの最上の賛辞であると同時に、すべての人への教訓とされたのである。 

では、神の言葉とは何か。神はいつ、どのように人類に語ったのか。人類はどのように神の言葉を聞き、これを守ることができるのだろうか。カトリック教会の答えはこうである。すなわち、神は自然と啓示との二通りの方法で人類に語られ、人間は理性と信仰によって神の言葉を聞く。理性は迷信を廃して真の信仰を選択する人間本来の力であり、信仰は理性の本質的な限界を補い、神の言葉を聞き分けて信じる天与のたまものである。 

まず、神は自然を通してすべての人に語られる。つまり、神の知性の分与である人間理性は、自然界を通して神の存在を感知し、良心の声を通して「悪を禁じ善を命じる」神の法を知るという意味である。聖パウロは、「神の永遠の力や神性のような、神についての目に見えない事柄は、宇宙創造の時から、造られたものを通して明らかに悟ることができます」(ローマ1:20)と言い、「律法を持たない異邦人が、律法に定められている事を生まれつき自然に実行するときは、律法を持たない彼らにとって、自分自身が、律法なのです。このような異邦人は、その心に、律法の命じるなすべき事が書き記されていることを示しています」 (同2:14-15)と言っている。神の啓示をまだ受けなかった人々も、理性の働きにより自然を通して神を知り、良心を通して立法者からの声を聞いている。こうした人間の神についての感知や認識は「みことばの種子」(宣教教令15参照)と呼ばれた。 

他方、神は自ら人類に語りかけられ、その心の内を明かされた。聖書は言う。「神は、昔、預言者たちを通して、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖たちに語られたが、この『終わりの時代』には、御子を通してわたしたちに語られました」(ヘブライ人への手紙1:1-2)。かつて神はアブラハムを選んで「選びの民」の先祖となし、そのご意思を伝えてこれを導かれた。その後もモーセをはじめ、数々の預言者を通して人類に語られた。最後に、神はご自分の「生き写し」 (コロサイ1:15)である御独り子を世に遣わし、人となったその「言葉」(ヨハネ1:1)を通して人類に対する「秘められた神秘」(エフェゾ 1,1,10)を明らかにされた。人類に対するこうした神の語りかけを、教会は、自然を通して行われた「自然的な啓示」に対して「超自然的な啓示」と呼んでいる。 

このように、世界の諸宗教が「語らない神」について教えているのに対して、一神教の神、とくにキリスト教の神は人類に「語る神」であり、人類の祈りを聴いて対話する「人格神」である。この神は人類の真の、そして永続的は幸福を望んでいる。神の言葉は、愛の神が人類に与える至福へのメッセージであると同時に、救いの約束なのである。キリストは言われた。 「神は独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。 

公的啓示はその頂点であるキリストにおいて完了した。イエス・キリストは人間に真の幸福をもたらす「神の言葉」であり、「福音=良い知らせ」(マルコ 1:1)そのものだからである。ただ、神は今もキリストの継続である教会を通して人類に語り続けられる。つまり、教会は、聖霊の導きのもと、聖書と聖伝に基づき、さまざまな歴史的な体験の中で、神の言葉・キリストをよりよく解き明かしながら宣べ伝えているのである。

Itonaga, Shinnichi (イトナガ ・ シンイチ)
出典 糸永真一司教のカトリック時評
2009年11月1日掲載
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