日本 プロライフ ムーブメント

涙の谷で嘆き悲しむ

私の両親には、深い信仰心があった。二人とも祈りは毎日欠かさず、私達子ども達にもいっしょに祈らせた。両親が毎日していたお祈りは、「サルヴェ・レジナ」という古い有名な祈りで、マリア様に私達の取りなしを願い、聖母をたたえる祈りだった。このお祈りを知っている人は多いと思う。このお祈りの中に、人生における私達の有り様を「涙の谷で嘆き悲しむ」と表している部分がある。このような言い方は、健全だろうか?両親は、そんなことは考えもしなかった。ただ彼等には、この祈りには優れた意味があった。

 だが今日の若い世代の人達には、もはや何の意味もないようだ。時が経つにつれて、このフレーズ(又は古い祈りの文句や賛美歌に出てくる似たようなフレーズ)に人々が段々否定的になってきているのが分かる。自分達を「涙の谷で嘆き悲しむ」と表す事は陰気で良くない神学理論であるし、人生に沁み通るべき健康さ、祝福、喜びの精神を侮辱するもの、と多くの人には思えるのである。この一行があるが為に、健全性や立派な神学理論、そして全体論の精神の名において、このサルヴェ・レジナの祈りを拒む人が少なからず居ることを私は知っている。それは正しい事なのだろうか、悪いことなのだろうか?

 こういうことは正しいとか悪いとかいうより、私達の幸せに有益か有害か、であろう。自分が涙の谷間に住んでいる、ととらえることの益とは、また害とは何であろうか?

 私が思うに、きちんと理解すればこのフレーズは健全である。この通りにお祈りすることに、沢山の価値が(皮肉にも全体論的価値が)あり得る。このようなお祈りが私達に何をもたらすかというと、自分があまり幸せでない時に、「幸せでないことは異常なこと」と思わなくて良い、という考え方を与えてくれる。嫌な日があっても良いではないか、寂しい季節があっても良い、緊張して落ちつかない日々から逃れられなくても良いではないか、と教えてくれている。元気がなくても自分を責めないで、なぜならそういうことはよくあることだから、と。もっと大切なことは、この人生においてすべてを調和させようとしなくても良い、ということ。そしてそれを受け入れるということは、配偶者や家族や友達や休暇や仕事に、それらから得るのは不可能なこと、つまり何の陰もない幸せ、完全な調和を得ようと不当に期待することを止められるということなである。私達は常に不完全な状態にある、ということが認められれば、非現実的な理想でもって人生の良いことまでダメにしないで済む。

 ヘンリ・ノーウェンもそう思うだろう。彼はこう言う。「我々の人生は短いもので、哀しみと喜びがどの瞬間にも顔をつきあわせている。人生のどの瞬間にも必ずつきまとう種類の哀しみがある。曇りのない純粋な喜びなどなく、生きていく上のどんな幸せな瞬間でも、私達は哀しみの片鱗を感じるものであるらしい。どんな満足感にも、限界の存在を感じる。どの成功にも、嫉妬への恐れがある。すべての微笑みの後ろには、涙がある。すべての友情の後ろにも、距離はある。そしてどんな形の光にも、その周りに暗闇があることが分かっている — 帰ってきた友人の手を取りながら、又彼が去っていくのがすでに分かっている。太陽に照らされた静かで広大な海に感動しながら、いっしょに見る友人がいないことを悲しむ。」

 カール・ラーナーはそれに関し、そのユニークなゲルマン的表現の中で独自の意見を述べている。獲得可能なものが獲得できないという不十分さの激流の中で、人生の交響曲には永遠に終わりがないことを私達は悟る。

 私の両親はそれが分かっていて、彼等にしてみればそれがそのまま「祈り、涙の谷で嘆き悲しむ」という一行に表れていたのである。こう祈ることで、人生に課せられた逃れられない限界を受け入れる事が出来た。また、人生から決して与えられることのない曇りのない純粋な喜びを、求めなくて済むようにしてくれている。皮肉にも、真実を口に出して言うことで(「私達の人生で、交響曲が完全に終わることはない!」)、人生が与えてくれる本当の喜びを楽しめるように解放されたというわけである。更に多くを求めて落ち着かない思いをしなくても良くなった。嫌な気分であっても良いチャンスを逃しても、それを不快に思わなくてもいい。お互いがお互いの神になれなかったからといってがっかりして顔を見合わせる必要もない。人生が欲しい物すべてを与えてくれないからと、人生を破壊する必要もない。自分の人生、またすべての人生の終わらない交響曲を受け入れ、それだからこそ、そこにある美しさや喜びを楽しむことが出来たのである。両親はフラストレーションにうまく対処するための、私達にはない備えを持っていた。

 私達は健康や全体論や前向きの考えを重視し、限界を表すすべてのものを排除しようとするが、人生の避けられないフラストレーションに対処する術は、私達に本当に備わっているのであろうか?

Ron Rolheiser OMI
ロン・ロルハイザー
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net
Copyright © November 12, 2000
2002.9.5.許可を得て複製