日本 プロライフ ムーブメント

死刑の一時停止支持

一般的に、死は私たちの誰もが望まないものです。実際、それは考えることさえしたくないものです。死が自然に起きるとき、それは私たちの力の及ばないことですが、死が意図的にもたらされる場合、それは非常に不幸なことです。もちろん私たちの法体系においては、死刑を用いるある理由と目的があると言われています。それは犯罪者を罰するために、犯罪者が犯罪を繰り返すことを防ぐために、そして他のものを思い止まらせるために用いられます。しかし、その状況をもっと注意して調べてみれば、それが本当の解決になっていないことがわかるでしょう。

有害な行為やそれがもたらす悲劇的な結果は、精神的混乱と否定的思考に全ての原因があります。そして、すべての人間にはこのような心の状態に陥る可能性があります。このような観点から、私たちはみな犯罪を犯す可能性を持っているのです。というのは、私たちはみな、否定的な精神的混乱と否定的な精神的特質に支配されているからです。そして、私たちは他の人を処刑することで、これらを克服することはできないでしょう。

犯罪とみなされることは、国によって非常に違っていることがあります。たとえばある国では、人権を求める発言をすることは犯罪だと考えられています。一方他の国では、言論の自由を妨げることは犯罪なのです。犯罪に対する罰も大変違っていますが、普通様々な形態の投獄や懲役、罰金があり、多くの国では肉体的苦痛もそれに含まれています。いくつかの国では、政府が非常に重大と考える犯罪は、その犯罪を犯した人を処刑することで罰せられます。

死刑は予防の機能を果たしていますが、それはまたあきらかに復讐のひとつの形態でもあるのです。死刑は、あまりにも決定的なので、特に厳格な罰の形態です。人間のいのちが終わらせられ、処刑された人は、自分を矯正したり、与えられた損害を修復したり、その償いをしたりする機会を奪われてしまうのです。処刑を口々に叫ぶ前に、私たちは、犯罪者が本質的に否定的で有害な人々かどうか、犯罪者がいつまでも罪を犯した心の状態のままであるのかどうかを考えてみるべきです。その答えは、明らかにノーだと私は確信しています。彼らが犯した行為がどんなに残虐であるにしても、誰もが、向上し自らを矯正する可能性を持っていると思います。従って私は、死刑に訴えないで、犯罪行為を抑止し、社会でのそのような行為のそのように有害な結果を防止することは依然として可能だという楽観的な考えを持っています。

私が最も優先している信念は、犯罪者が向上することはいつも可能であり、まさにその究極性によって死刑はこのことと矛盾しているというものです。だから私は、死刑の適用を終結させようと努力している組織や個人を支持しているのです。

今日、多くの社会では、教育や社会的プログラムや娯楽を通しての人間の価値観の発達にほとんど重きが置かれていません。実際、テレビ番組を例に挙げると、殺人を含む暴力が高い娯楽的価値を持っているとみなされています。このことは、私たちがいかに間違った方向に導かれてきたかを示しています。

私は、人間は本質的には暴力的ではないと信じています。ライオンやトラとは違って、私たちは生まれつき、鋭い牙や爪で殺すようには創られていません。仏教的な観点から、感覚を持った全ての人間の根本的な性質は純粋なもの、心の深い部分の性質は純粋なものだと信じています。人間は、環境や状況の結果として生じる否定的思考のために暴力的になるのです。

 私は、現在死刑を行なっている国々に、死刑制度を無条件に停止するようにとの訴えを心から支持します。と同時に、私たちはもっと教育を支援し、全ての人に責任があるという意識を高揚させるべきです。私たちは自分自身の生存のために、愛と思いやりの行為を実践することの重要さを説明し、私たちの社会における武器の拡散のような、殺人傾向を助長するような条件を最小限のものにしようと努める必要があるのです。これらのことは、一個人でも取り組むことができることなのです。

 

Dalai Lama (ダライ・ラマ)
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2007.2.27.許可を得て複製
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