日本 プロライフ ムーブメント

心停止後の臓器移植に関する倫理的含意

運転免許証を更新する時、テレビを見ている時、あるいは新聞を開いた時、私たちは臓器移植の意思表示カードへの署名を薦めるキャンペーンを常に目にする。愛する人が亡くなり、その臓器を提供したことで悲しみにくれていた遺族がいかに慰められたか、「いのちの贈り物」を受け取り、新しい人生をはじめることになった人がいかに感謝をしているかといった話も次々に紹介されている。 

臓器移植によってできるだけ多くのいのちを救う、あるいは延命しようとする熱意は十分に理解できるものだが、こうした行為は倫理的に問題はないのだろうか?その一例として、心停止後の臓器移植(NHBD)が新たな論争の的になっている。NHBDは、現在、臓器移植件数の約2%となっているが、その割合は今後増加するものと考えられる。 

臓器移植に関して公開されているほとんどの情報では、「救命のためのあらゆる手段が尽き」、脳死と判定された場合にのみ臓器の摘出が可能であることが強調されているが、一般にはほとんど知られていないものの、最近10年間でこの法則に逆らった新しい動きが生じている。現在、脳死状態でなくても、親族が人工呼吸器(呼吸を補助あるいは維持するための機械)の取り外しに合意すれば、心臓が停止した時点で患者から腎臓、肝臓、膵臓を摘出し、臓器移植を行うという事例が実際に生じている。 

心停止臓器移植の歴史

最初の臓器移植は、死亡した直後の患者から摘出した臓器を用いて行われた。しかしながら、こうした臓器は患者が死に至る過程で劣化が進んでおり、移植のほとんどが失敗に終わった。 

1968年に、ハーバードの特別委員会が新しい死亡の判定方法を紹介した。その判定方法とは、全脳機能の停止、いわゆる脳死である。脳死という判定方法が導入される以前は、心臓および呼吸機能の不可逆的停止(心臓死)が死亡時点の判定として用いられていた。 

脳死は、脈や血圧などの生命兆候はあるものの、人工呼吸器によってこれらが維持されている患者の死亡を判定する方法として普及した。脳死は、全脳の機能が失われることが死亡を表す真の合図であり、たとえ人工呼吸器を使用し続けたとしても、体の他の機能は間もなく失われるであろうという考えに立っている。この新しい死亡の判定方法が法律として認められた結果、心臓、肝臓、腎臓などの生命維持に不可欠な臓器をそれがまだ機能している間に摘出できることになり(移植の専門用語で「採取」という)、移植の成功率が高まったことで、臨床面での直接的な利点につながった。脳死患者からの臓器移植では、臓器の摘出が終わるまで人工呼吸器が作動したままとなる(1)。現在全ての州の法律で、従来の不可逆的な心臓死または脳死のいずれかによって死亡が判断されることになる。 

脳死に関する問題は、現在も倫理団体において議論の的になっているが、脳死を宣告された患者から摘出した臓器だけでは、臓器移植が必要な患者全員を救うには不十分であるというのが現状である。そこで、この10年間において、医師や倫理学者たちが臓器の新しい供給源、すなわち脳死ではないが、人工呼吸器につながれ、「回復の見込みがない」患者に注目するようになった。これらの患者の場合、人工呼吸器が外され、脳死ではなく心臓死が宣告された時点で臓器が速やかに摘出される。これを心停止後の臓器移植という。この新しい臓器獲得方法を知っている人は少ないものの、現在、臓器調達機関の約半数が少なくとも1回はNHBDを経験している。 

NHBDがメディアで取り上げられた回数はごく少ないが、その中で初めてこの問題を取り扱った番組のひとつに、1997年4月に放送されたCBSの『60 Minutes』がある。この番組の内容は次のとおりであった。頭を撃たれた若い女性が、脳死ではないものの、致命的な傷害を負い、NHBDの候補として適していると判断された。ところが、後に解剖を行った検死官は、銃弾の傷は回復可能なものであったと発表した。これを受け、司会のマイク・ウォーラスは、まだ一般には知られていないものの、彼の言葉を借りれば「完全には死んでいない」人からの臓器摘出を可能にするNHBDが一部の病院で行われていることに関し、疑問を呈した。 

さらに、『60 Minutes』では、ドナーの臓器を維持するために、患者が死亡する前にヘパリン(血液希釈剤)やレキチーン(血管拡張剤)などの危険物になりうる薬剤を使用するNHBDを提案しているクリーブランドの病院について調査を行った。これを受け、地元の検察官は、NHBDを「臓器移植のために末期状態の患者の死を早める方法」として糾弾した(2)。 プログラムの終わりに、ウォーラスは、番組が放映されたことでNHBDは今後行われなくなるだろうとコメントした。しかし、彼の予想は当たらなかった。 

臓器移植団体は、『60 Minutes』の番組内容を不正確で不公平なものとして非難し、NHBDを死亡した人から臓器を摘出する倫理的な方法として擁護した。12月までに、国立科学アカデミーの調査機関である医学研究所(IOM)がNHBDに関するレポートを発表した。このレポートにおいて、IOMは、一部の病院では問題の多い方法で臓器移植のための臓器摘出が行われているものの、NHBDを「倫理上容認できるもの」として認め、さらに詳しい調査の実施とNHBDに関する国家基準の設定を求めた。1997年に発表されたIOMのこのレポート(3)では、治療中止の決定基準などを含め、説明されていない問題もあったが、その代わりに、心停止後5分待ってから臓器を採取し、移植手術をはじめるべきであるという勧告が行われている。このレポートが発表された後、一時的に盛り上がっていたNHBDに対するメディアの関心は薄れていった。 

ところが、2000年に、IOMは前回の続きとしてレポート(4)を発表し、その中で、これまでのNHBDに関する勧告のほとんどが守られていないという事実を公表した。さらに衝撃的なことに、2000年のこのレポートでは、レポートの作成に参加した人々の間で、人工呼吸器を使用している意識のある人にNHBDによる臓器提供が認められるかといった基本的な問題に関してさえ合意が達されていないことが明らかになった。こうした状況にも関わらず、このレポートでは、なお臓器調達機関にNHBDの利用を薦めている。 

NHBDの手順および倫理的含意

IOMのレポートにもあるように、NHBDの手順は病院によってさまざまに異なるものの、NHBDは通常「管理」および「非管理」に分類される。管理NHBDは、人工呼吸器を取り外し、心臓が止まるのを待った後(心臓死)、状態が悪くなる前に臓器を早急に摘出する状態を指す。非管理NHBDは、患者が突然亡くなり、蘇生できない状態を指す。非管理NHBDでは、ドナーに管を挿入し、移植まで臓器を保全するために冷たい保存液をしみ込ませる。患者の突然の死亡は緊急事態として起こることが多いため、このようにして臓器を保存することで、家族に連絡をとり、臓器提供に対する同意を得る時間を確保することができる。2、3の州では法律で認められているものの、非管理NHBDはコストがかかる上、技術的にも難しく、また家族の同意を得る前に臓器の保存を開始することに対する大衆の批判も大きいことから、めったに行われることはない。そこで、今回は、それよりも一般的な管理NHBDの手順について検証することにする。 

管理NHBDの手順は実にさまざまであるが、治療を中止するという決断がなされれば、血液希釈剤や血管拡張剤などの薬剤を使い、移植可能な臓器の保存を開始する。NHBDを支持する人々は、こうした薬剤がドナーとなる患者を傷つけることはなく、むしろ普通の患者にこうした薬剤を誤って投与することのほうが報告義務を要する重大な医療ミスになると主張している。 

人工呼吸器を取り外した後、医師は患者の心臓と呼吸が停止するまで待ち、その後直ちに、あるいは2分から5分待って心臓死を宣告する。その後、手術室において臓器の摘出手術を開始する。心肺機能停止後の蘇生(CPR)によっても心拍が再開せず、心臓の自発的な再開が見込まれないという判断がなされているため、この段階で不可逆的な心臓死という法的な基準が満たされていることになる。NHBDでは脳死判定は必要ないが、NHBDに賛同する人たちの中には、動物試験およびCPRの実施結果においても、蘇生処置が成功した場合には数分後に完全な意識回復が確認されているにもかかわらず、心臓および呼吸の停止後まもなく脳死状態になると主張している人もいる。 

実際に起こっていることだが、もしNHBDを予定している患者の呼吸が予想に反して停止せず、心拍も継続した場合、医師は通常1時間待ってから移植の中止を決定する。治療を中止する決定がすでに行われているため、患者は病室に戻された後、治療が再開されることなくそのまま死亡するのを待つことになる。 

NHBDを擁護するレポートや記事は、治療を中止するという決定がNHBDの決定以前にそれとは切り離して行われているとして、人工呼吸器の取り外しに伴う倫理的な問題を退けている。しかしながら、NHBDの最初の段階については、さらに慎重な配慮が必要である。2000年の医学研究所のレポートには、次のように書かれている。「管理心停止後臓器移植は、生命維持のための処置が中止されない限り行ってはならない。(5) 」したがって、「リビング・ウィル」などの生前指図書などの新制度や、末期状態でない人に対する基本的治療までも中止することを認めた「死ぬ権利」に関する裁判所事例は、NHBDの開発において非常に重視されることとなった。 

1997年のIOMレポートでは、心停止ドナーとなる条件を、「主に神経系の重大な疾患または損傷があり、生存あるいは有意義な身体機能の回復の面でその可能性が極端に小さく、当事者能力の無い状態に陥っている、または当事者能力はあるが生活の質が耐えがたいほど悪化した状態に陥っているものの、脳死ではない患者。」と説明している。注意しなければならないのは、この説明には、人工呼吸器につながれ、「有意義な」人生を送れる可能性がほとんどない患者だけでなく、完全に意識があり、生きることが「耐えがたいほど」辛いと感じている患者も含まれることである。事実、当初NHBDとみなされた患者の一人は、48歳の意識のある女性で、多発性硬化症のために自分で人工呼吸器を停止するよう依頼し、臓器の提供の意思を示した(6)。この患者は、人工呼吸器を取り外した後も予想外に長く呼吸を続け、実際に死亡するまでには、臓器の劣化が進み、移植に用いられることはなかった。さらに、2000年のIOMレポートでは、こうした依頼が現在も続いており、病気の末期や無能力状態ではあるものの、意識のある患者によるこうした要請を認めるべきか否かについて倫理学者や医師の間で意見が分かれていると報告している。 

この「死ぬ権利」と臓器移植との関係は多くの人の非難を浴びている。特に、障害を持つ人々の擁護者であるダイアン・コールマンは、次のように警告を発している。「生命維持装置に頼っている障害を持つ人々に対し、「プラグを抜け」という圧力が強まっている。臓器を提供することで利他主義者になれると障害を持つ人々に思わせることは、臓器を提供することで自分の人生が意味を持つことになるという確信の中で死を選ぶように圧力をかけることに他ならない。これは、障害を持つ状態になって間がなく、自分の人生には価値がないと誤解している人々にとって特に危険なことである。(7)」 

当事者能力の無い患者(意識がない、または医学的意思決定を行う能力がない)の場合、その無力な患者のために誰が何をもって「有意義な機能を持った状態であるか」を判断するのかという問題を含め、NHBDに関しては、他にも重大な倫理的問題が伴っている。NHBDの擁護者は、「望みがない」と判断された患者の人工呼吸器を取り外すことは、法的にも倫理的にも認められるものであると主張しているが、その決定は、生存する能力よりも生活の質が維持できる可能性を基に、日常的に行われている。NHBDの方針では、望みのない状態の判断にどれぐらいの時間をかけるかという問題も無視している。これは、NHBDの患者に恐ろしい結果をもたらさないとも限らない。 

例えば、2000年1月の看護図書ジャーナルの記事(8)において、ミラ・ポパーナックは、交通事故に遭い、2日後に臓器移植のドナーの候補と判断された16歳の少年について書いている。永続的な「植物」状態となる可能性は3ヶ月以上経った時点で判断されるべきであるにも関わらず、医師は、彼の家族に対し、患者は脳死ではないが、「植物」状態のまま「生命維持装置がなければ生きられないだろう」と伝えた。家族は人工呼吸器を外し、心停止後の臓器移植を行うことに同意した。 

このケースでは、少年が予想に反して人工呼吸器を取り外した後も呼吸を続けたため、臓器移植は中止された。彼は病室に戻され、鎮痛治療以外の治療を受けなかったため、当然ながらやがて死亡した。皮肉なことに、この事態に憤慨した家族は、少年の死後、角膜や骨などの組織の提供を一切拒否した。こうした結果にも関わらず、記事を書いた看護婦は尚もNHBDに賛同している。 

こうしたケースは珍しいものではなく、それによって患者の回復の機会までもが否定されることを懸念すべきである。たとえば、私は、同じようなケースとして、あるカトリック病院の神父が、事故にあった10代の少女の母親に、事故後まもなく臓器提供の相談をしたという話を聞いている。母親は大きなショックを受け、その申し出を拒否した。数日後に、少女は人工呼吸器なしで自力呼吸ができるようになった。彼女はまだ障害の残る状態であるが、「植物」状態になるであろうという医師の当初の予想は当たらなかった。 

多くの人が持つイメージとは異なり、人工呼吸器は、危篤状態にある患者の呼吸を補助し、自発呼吸を再開させるための短期的治療として最も頻繁に用いられる手段である。以前は、生存に役に立たない治療や患者にとって負担が大きすぎる治療を中止したり、あえて行わないことは倫理上正しいと考えられてきた。しかしながら、現在では、その考えは崩れ去り、より早く死ねるように、あるいは劣悪な生活の質の状態のまま生き続けなくていいように、基本的な医療行為だけでなく、水や食事、さらにインスリンや心臓治療薬などの重要な薬の使用までもが中止されるようになっている。 

NHBDに適すると思われる重度の頭部損傷や脳卒中などの重大な障害を負った患者でも、その患者が死亡するのか否か、あるいはある程度の回復を見せるのかを初期の段階で正確に予測することは実質的に不可能である。看護婦として勤務してきた34年間で、私は、当初は人工呼吸器を必要とし、死亡するだろうと予想された患者が完全に回復した例を何度も目の当たりにしている。 

結論

臓器移植は、確かに「いのちの贈り物」にもなり得るし、成体幹細胞などの新しい医療および腎臓や肝臓の一部の生体間移植には倫理的な問題がなく、臓器不全に苦しむ人々にとって大きな希望となっている。2001年に、イギリスの医学雑誌ランセットに、スウェーデンで蘇生に失敗した女性から死後1時間に肺を摘出し、移植に成功した例が報告された(9)。残念ながら、レシピエントは移植とは無関係の原因で後に死亡したが、このケースは、治療中止を決定し、その後すぐに死亡宣告をして臓器を摘出しなくても、臓器移植が可能であるという希望を将来につないだことになる。もちろん、角膜、皮膚、骨などの組織は、自然死の数時間後まで提供することができる。 

ただし、臓器移植によって多くのいのちを救うという立派な目標のために、倫理的原則がおろそかにされたり、健全な公開審査がなされないままこうした移植が行われるべきではない。特に、臓器移植という行為が実際にどんな意味を持つかをほとんどあるいは全く理解しないままドナーカードへの署名を急がされる風潮の中で、NHBDのような新しい方法がひそかに実施されることは、憂慮すべき問題である。ドナーカードに署名する人たちは、慎重な脳死判断によってのみ臓器が摘出されると考えているが、このカードにはどのようにして死亡判断を行うかについては言及されていない。ある調査では、脳死基準に適合しなかったことを理由に、臓器移植の約1/3がキャンセルされていることが判明した(10)。したがって、治療中止の決断により臓器を摘出するケースと同様、NHBDも何とかして臓器を手に入れるための「予備」の手段と考えられている。 

NHBDによって、社会が急速に「死ぬ権利」の容認を拡大していく危険性もある。生と死の問題では、選択する権利が従来の倫理に優先することも多々ある。現在、著名な倫理学者でさえも、さらに多くの臓器移植を可能にするために、脳死の判定基準を脳の損傷がより軽い患者にまで拡大する案を支持している。NHBDを擁護するマイケル・デビータ博士は、「自殺幇助が認められれば、臓器移植に関する議論は合理的なものになるだろう」という予測まで出している。(11) 

臓器移植はいわば聖域として扱われるようになっている。現代社会では、いのちを救うことになるという理由で、誰も臓器移植を非難できない状況になっている。しかし、倫理原則に関する他の問題と同様、理想的な死の迎え方がそれに至るまでの手段の一部またはすべてを正当化するものではないことを忘れないで頂きたい。NHBDの実施には、公開審査と再調査が必要である 

Valko, Nancy (ヴァルコ、ナンシー)
Copyright © 2002
2003.9.18.許可を得て複製
英語原文 www.lifeissues.net