日本 プロライフ ムーブメント

全て実弾

殺人犯が銃殺隊によって最近処刑されたということを聞いたとき、子どもの時見た全てのB級映画のシ-ンが私の心にぱっと浮かびました。私は、反射的に体がすくみ、目隠しをされ弾が当たるのを待っている恐怖を即座に想像しました。しかし私に想像できなかったのは、銃を持ち上げて、冷たく硬い鋼鉄の弾丸を別の人間に狙いを定めることを要求されている人間のひとりであるという気持ちでした。その人は、それが一回の射撃練習にすぎないふりをしてうまく対処することができるでしょうか。その男は、そのような犯罪の結果として当然生じる激しい怒りの気持ちを奮い起こすために殺人の詳細と犠牲者の家族の涙を思い出そうとするでしょうか。処刑のあとその男は何を感じるでしょうか。感じるのは悲しみでしょうか、満足感でしょうか。 

のちになって、銃殺隊の銃のひとつには実弾が込められていないということを知ったとき、私は驚きませんでした。そのような状況では、それぞれの死刑執行人に自分が他人のいのちを終わらせたということをわからせないようにする配慮が必要なのです。もっと一般的な薬物注射による処刑においては、その処刑を始めるために少なくとも2人の人間が関わり、ボタンは少なくとも2つあると言われています。この場合も、他人のいのちを合法的に終わらせる手順において、恐ろしい仕事を執行することを社会に求められている人々を守るように配慮がなされているのです。 

従って、社会が自殺幇助というさらに新しい種類の処刑を合法的な処刑のリストに加えようとしていることは皮肉なことです。しかしこの処刑には空包は使われないのです。 

親族あるいは家族が幇助する自殺を合法化することを真剣に考える人はほとんどいないでしょう。この種の私的殺人に固有の危険はあまりにも明白です。従って、目標は医者による自殺幇助、もっと正確に言えば医療関係者による自殺幇助に違いありません。なぜなら医療施設や家庭で療養中に自殺幇助が行なわれる場合、看護婦もまた必ず関与するに違いないからです。社会は今、私たち医者や看護婦に、いのちを終わらせる行為を実行することを求め考えているのです。しかしそうすれば、銃殺隊や薬物による処刑チ-ムと違って私たちは、自分が死をもたらしたということを知り、それとともに生き続けなけらばならないでしょう。 

殺人犯が、自分の処刑を止めさせようとする弁護士の努力を思い止まらせようとするとき、このことはストレスや精神錯乱の兆候だと考えられるのですが、病気の人が死のうとする気持ちは理解することができ、勇気のある決断とさえ考えられることはいっそう皮肉なことです。殺すということが殺人犯にとって究極の罰であり、また無実の死にかけている人々や身体障害のある人々にとっては究極の恵みであるというふたつの考え方をどうすれば両立させることができるでしょうか。 

アメリカ医学協会もアメリカ看護婦協会も最近、自殺幇助と安楽死に反対する強い声明を発表しました。終末期医療では、不十分なことが実際頻繁に見られるということを認めつつ、これらの協会は、末期病患者やひどい身体障害のある人々を殺す、あるいはこのような人々が自殺するのを幇助するという簡単で危険な選択肢ではなく、教育と援助の手をもっと増やすことを要求しています。私たちのいのちへの関心が治療可能な人々にだけ限定されるべきではないということは極めて当然のことです。 

そしていくつかの世論調査は、一般大衆と同様にかなりの医師や看護婦が仮説のケ-スでは自殺幇助を支持することができると言っていることを明らかにしていますが、自殺幇助を合法化するという現実とその結果に直面した場合、ほとんどがその実行に対して深い憂慮と恐怖を表明しています。 

長年にわたって社会は、医療の専門家は社会に対する保護の一つの形として最高の倫理基準を断固として守るべきであると主張してきました。病人が脆弱だということと全ての医療に関する決定と行為を社会が監視できないことが、そのような基準を課することを強く命じているのです。何千年もの間、医者(と看護婦)は、「私はいかなる人にも死をもたらす薬を与えることはしないし、またそのような助言を与えることもいたしません。」というヒポクラテスの定義を大切にしてきました。殺人と治療を区別するために医者や看護婦が自ら引いた明確な一線が今、立法者や裁判官によって消されるべきなのでしょうか。 

一看護婦として私は、患者のためには殺すこと以外は何でも喜んでいたします。末期病患者を看護した中で、このような人々が「死にたい。」ということがいかに稀であるかを知って驚いています。そしてそのような気持ちを言葉に出す数少ない人々も、自殺の選択肢への支持をしてもらうのではなく、自分たちの心配や不安を聞いてもらいそれに対応をしてもらうと明らかに安堵の表情を浮かべるのです。私は、そのような患者が自殺までするのをまだ見たことがありません。 

このようなことが驚くべきことでないことは当然です。考えてみてください。私たちはだれでも、危機的な状況に陥ったとき少なくとも一時的には自殺することを考えたことがあります。もしこのことを親しい友達や親族に打ち明けて、その人々が「君の言うとおりだね。私も窮地を脱する方法は他には見つけられないね。」と答えたら、あなたはどう感じるでしょうか。私たちはそのような返事を思いやりがあると考えるでしょうか、それとがっかりして絶望的になるでしょうか。末期病の人も身体障害のある人も、この点においては、私たちと全く変わらないのです。 

死ぬ権利の支持者は、本当に私たち医者や看護婦はひとりの患者の自殺を幇助し、そのあとこのことが私たちの倫理感や感情に影響を与えることなく、生きたいと思っている同様の患者のケアに当たることができると思っているのでしょうか。彼らは、もっと多くのジャック・カボ-キアン医師に、誰が生きるべきで誰が死ぬべきかという勝手な基準を作らせるという危険を本当に冒したいのでしょうか。 

実際的な問題は患者の選択だけだという言い訳は、家に帰って自分が他の人間を殺すのに手を貸した、あるいは私たちの誰かが合法的にその行為に関わっている間自分は何もできずに黙っているしかなかったという事実に直面しなければならない私たち医者や看護婦にとっては全く慰めにならないのです。そうなれば、私たちにとって、あるいは社会にとって、いつも実弾となるのです。 

Valko, Nancy (ヴァルコ、ナンシー)
Copyright © 2002
2002.11.13.許可を得て複製
英語原文 www.lifeissues.net