日本 プロライフ ムーブメント

人の誕生をめぐる倫理(2002年)

一 般 原 則

キリスト教社会では、長い歴史を通して、人は、「結婚」した「一夫一婦」のカップルの「性的関係」 の結果生まれるのが当然で、他のケースは非倫理的なものとして捉えられて来ました。ところが、現在、 ある社会で認知されているものには、「結婚していない」女性から生まれたり、「一夫多妻」の環境の中で生まれたり、 人工的受胎(人工授精・体外受精等)に見られるように「性的関係なし」に生まれたりしているケースがあります。 これらのケースは、皆、非倫理的と断罪すべきことでしょうか。まず、この点に関して考えてみましょう。 

(一)異なる価値観 

キリスト教社会を含め、上記のどのケースも、心からそれでいいと考えている人々がいるのです。それは、 それぞれの人々が「異なった価値観」をもっていて、 その価値観に基づいて判断しているからです。それぞれの「尺度」が違うのです。土俵が違うのです。リングが違うのです 。 

例えば、相撲で、膝を着いて相手を投げては「いけない」ですが、柔道でなら「よい」のです。柔道選手が土俵へ来て「 相撲を取ろう」と言って力士に挑戦した場合なら、力士は相手に「それはダメだ」ということができますが、 柔道選手が柔道の道場で、柔道をしている場合は「それはダメだ」とは言えなくて、(自分たちのルールには合わなくても )「それはそれでよい」と認めるべきなのです。要は、「相撲は相撲のルール」に基づいて、「柔道は柔道のルール」 に基づいて 判断するのが当然なのです。 

同じように、例えば、キリスト教、イスラム教、仏教、無宗教を心から信じている人々は、それぞれの価値観(ルール) に基づいて「いけない」ことと「よい」 ことを判断するのが当然です。ここでも、自分の価値観(ルール)で他の価値観(ルール) に基づいた判断を断罪することは出来ないのです。ただ、スポーツの例でも、非人道的なもの(例えば、 そのルールでは大けがをしたり命さえ危ないというようなもの)の場合は、 自分に関係のないスポーツでもクレームをつけたり、意見を述べたりするように、 自分とは異なる価値観に基づいた判断でも非人道的と思われるものに関しては、 クレームをつけたり意見を述べたりすることは 出来ると思われます。 

(二)成熟した良心

もちろん、以上の考え方は、「人の誕生をめぐる倫理」に関してだけではなく、あらゆる倫理的問題に関して言える、 大切な「根本原理」です。以前は、 カトリック教会の中でこのような見方はあまり受け入れられていなかったと感じられる読者もおられることでしょうが、 これは第二バチカン公会議によって強調された教会の姿勢なのです。それは、例えば、 次のような言葉から読みとることが出来ます。 

「このバチカン公会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由 は、・・・・宗教問題においても、何人も、自分の良心に反して行動するよう強制されることなく、・・・・ 正しい範囲内で自分の良心に従って行動するのを妨げられないところにある。」(「信教の自由に関する宣言」2) 

「したがって、自分の良心に反して行動するよう強制されてはならない。また、特に、宗教の分野において、 自分の良心に従って行動することを妨げられてはならない。」(「信教の自由に関する宣言」3) 

これらの文章は、カトリック信者が自分の信仰を守り、その良心に従って行動できる権利を訴えていると同時に、 他の信仰を持っている人々に対しても同様の権利を認めています。 

人々が自分の宗教観(あるいは無宗教観)を持つようになる動機やきっかけは、それぞれ異なるでしょう。いずれにしても 、何らかの動機やきっかけで得た自分の宗教観やそこから来る価値観に基づいて生きながら、 色々な機会に他の宗教観や価値観と比較吟味して、「自分はこの生き方でよかった」と思うか、「 他の生き方の方がよさそう」と思うか、最終的には「良心による選択」が求められます。この点を、 日本カトリック司教団の『命へのまなざし』(2001年)は「 今後ますます発展するであろう生命科学が提供するものの成果を、倫理・道徳・ 宗教の示す価値観のもとに識別していく必要性がある」(105頁)と述べています。そのためには、当然、「 成熟した良心」が必要で、この点も第二バチカン公会議は強調しています。 

カトリック教会の観点より

以上の点を前提に、「カトリック教会の観点」から、すなわち「カトリック教会の土俵」で「人の誕生をめぐる倫理」 について考えてみましょう。今回は「夫婦間での性的関係なしの受胎」および「結婚外の性的関係による受胎」 について考えてみます。この問題は、結局、「人間」「結婚」「性」「夫婦」「親」「子」 等をどのようなものとして捉えているかにかかってきます。 

(一)夫婦間での性的関係なしの受胎について

このテーマに関する「カトリック教会の観点」は、歴代教皇や、公会議、教皇庁教理省等がいろいろな時に、 いろいろな形で触れていますが、それらをまとめた形で1987年に教皇庁教理省より『生命のはじまりに関する教書』 として発表されましたので、その中より「結論的な部分」をピックアップしてみましょう。 (「引用・参照」は、ホアン・マシア他訳、カトリック中央協議会、1996年、第三版より 

  • (イ)「夫婦の性行為」には夫婦の「一体化」と「生殖」という二つの意味があり、この両者の間には「 神によって望まれ人間によって断ち切られえない密接なつながりがある」というのが、「 結婚と人間の生殖に関して教会の教えるところ」である。(39頁参照)
  • (ロ)「結婚の成果」は「(夫婦行為による)互いの愛の表現」と「親になるという人間の使命の実現」であり、 このいずれかを「積極的に排斥する程度まで」夫婦行為の二つの意味を分けてしまうことは許されない。(40頁参照)
  • (ハ)「人間の本姓」は「肉体的であると同時に精神的(spiritual)なもの」(11頁)であり、「 夫婦が互いに自分を与え会う表現としての性行為は、同時に生命のたまものを受け入れる意志の表現でもある。 この行為において、肉体的な側面と精神的な側面を切り離すことは出来ない。」(41頁)

このように、教会は、「人間の誕生は夫婦行為の実りとしてもたらされるべきである。」(42頁参照) ということをかなりはっきりと主張しています。とはいえ、「不妊症に悩む夫婦」を「支え助けるのは、教会の役割である 」とも言い、科学者たちが「 不妊の夫婦が自分たちと子供両方の尊厳を十分に尊重しながら子供をもうけることが出来るよう研究を続けていくこと」 に期待を表明しています。(51頁参照) 

(二)結婚外の性的関係による受胎について 

一般的に「セックス」の目的は、「快楽」「生殖」「二人の特別な関係作り」の三点だと言われています。ただ、現実には 、この三つが「同時」に意図されるべきだという価値観と、「バラバラ」でもいいという価値観とに別れます。「 カトリック教会の立場」は前者ですが、後者の立場をとる人々が最近ますます増えてきました。ここでは「 カトリック教会の観点」から、「後者」の立場のマイナス面、および、「前者」の立場のプラス面を指摘したいと思います 。 

(イ)バラバラでもいいという立場のマイナス面

例えばセックスから「快楽」だけを切り離したとき、ある者は力ずくで(従軍慰安婦、レイプ等)それを手に入れ、 ある者はお金で(性産業関係、援助交際等) 手に入れようとします。このようなケースは、特に「カトリック教会の観点」からでなくても「人間として」 倫理的に問題があると考える人々は多いと思われますので、ここではこれ以上の吟味はいたしません。 

いろいろな観点から、今、特に問題なのは、お互い「合意」の上で、 その目的を切り離してセックスする若いカップルが多いということです。 

「婚前性交」に関する若者たち(生徒・学生対象)への全国調査では、「どんな場合でもいけない」と考えているのは、 高校生男子で3.7%、女子で3.9%、大学生男子で1.9%、女子で1.8%であり、「結婚が前提ならかまわない」でも、それぞれ、7.5%、7.3 %、3.5%、9.4%とかなり低く、ほとんどは「愛し合っていれば・お互い納得していればかまわない」で、それぞれ 、81.7%、84.9%、91.7%、87.3%となっています(日本性教育協会編 『青少年の性行動』  1994年、67頁参照)。 

この結果、「セックス経験」は、高校三年で男子28.7%、女子28%、大学四年ではそれぞれ、53.4%、62.9%となっています(日本性教育協会編  『「若者の性」白書』 2001年、207頁)。また、高校三年でも、東京のような大都市では、男子37.8%、 女子39%と全体的な率も高く、1995年以降は女子の方が男子よりも高いという結果になっています( 2001年9月9日「朝日新聞」参照)。 

もちろん、これらのセックスでは「生殖」を切り離しているので、もし妊娠すれば中絶の率が非常に高いのは当然です。 また、相手が、将来の伴侶というわけでもないので、相手を一人に絞る必然性もなく、将来「結婚」したときに「夫婦」が 「二人だけの特別な関係」というわけにはいかなくなってしまっているのも問題なのです。このような立場を取りながら「 夫婦となった二人だけの永遠の愛を誓う結婚」は、 なんだか芝居のようなものになってしまう危険性を含んでいるように思われるのです。 

(ロ)同時であるべきという立場のプラス面

セックスにおける「快楽」「生殖」「二人の特別な関係作り」という三つの目的は同時に考慮されるべきだという立場は、 結局、セックスは「結婚」している夫婦に限られるべきであるという結論に達します。結婚している夫婦なら、 妊娠に対しても責任ある立場をとることが出来る率は非常に高くなります。また、セックスが夫婦の間だけのものであれば 、夫婦としての二人の人間関係が、世界中の他の誰にもない特別な関係となることも容易に理解できます。この立場なら、 人間として「責任」ある立場をとりつつ、「二人だけの永遠の愛を誓う結婚」も成り立つと期待できるのです。( 日本カトリック司教団 『いのちへのまなざし』  16頁–17頁、39頁–45頁参照) 

Matsumoto,Nobuyoshi (マツモト・ノブヨシ)
松本信愛
(聖トマス大学 旧:英知大学)/ガラシア病院チャプレン)
1998年出版『いのちの福音と教育』
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