日本 プロライフ ムーブメント

ダイアン・ブラッドさんの訴訟

死亡した夫の精子を人工的に受精させるために、裁判所から許可を得ようとしているダイアン・ブラッドさんの訴訟はかなり多くの皆様の同情を引き起こしました。夫の子どもを持ちたいというダイアン・ブラッドさんの願いは満たされるべきで、これを妨げるために法律を使うように試みることは残酷で衒学的なことだというのが大多数の見解でした。 

しかしながら、この訴訟によって起こった倫理的なすべての問題点に正当な取り扱いをすることは重要なことです。特にブラッド婦人自身の法律上の権利という点からは、多分、主張してきたほど明快ではありませんでした。 

精子使用の同意

この訴訟は、同意という見地からとても広く論議されました。ある人達は受精治療において死者の精子を使用する場合は、書面にした同意書が必要とされると論じました。ところが一方、他の人達はブラッド氏が死後受精も可能だと妻に同意したという事実があれば同意書を作成するのに充分であると論じました。 

事実は、夫と妻の間で交わされた証拠とならない口頭のやりとりが、死後に子どもを創るというような重大なことについての公式な同意として見なされることは疑わしいことです。その上、人が半永久的に意識不明の状態になった後や死亡後に、生殖の目的のために、その人の配偶子の血統に根拠の確実な同意をただ単に与えることはできないということも議論されています。(昏睡状態に陥っている人が性的な行動をする場合と比較します。道徳的に見て、そのような行動が行われることに、前承諾があってもなくても強姦が成り立つでしょう。) 

人間誕生に対する敬意

死人や意識不明の人から精子を取り出すという前承諾が与えられていてもそうでなくても、いずれにせよ、子どもの誕生のために遺伝の材料の源として死人や意識不明の人を利用することは間違っています。 

子どもが誕生することは、とても重要なことです。それは、よい親であることと子どもの幸福という矛盾のない方法で行わなければなりません。理性的に、愛情を持って、夫と妻による人間相互間の行為を通して、子どもが作られる時、結果として妊娠するかもしれないという事実から離れてさえも、本来の尊厳のある行為によって、彼あるいは彼女は人間になります。象徴的に、夫婦間の性交は夫婦のお互いの絶対的な受諾の表現であり、あるいはそうなりえます。それは許容性のある方法であり、少なくとも故意に敵意のない方法です。そのような性交によって生命が誕生してもしなくても、いずれにしても、性交の本来の意味の長所により、そうすることは価値があるでしょう。そのような行為によって夫婦は彼ら自身の親族関係の中に子どもを迎え入れ、子どもを人として尊厳を持つ彼らと同じように等しく扱う準備をします。 

対照的に、彼らの配偶子に小細工をすることによって両親が関わり、子どもが人間になった場合、物が製造される過程ととてもよく似ている方法で、彼あるいは彼女は製造されます。その過程は片親あるいは両親が子どもを「作り」たいと望んだ見地からのみ説明ができるものです。危険なことは、もし生産の象徴的な満足を伴う行為によって子どもが人間になった場合、両親が自分達の子どもを所有物として考える傾向になるであろうことです。この象徴的な満足の影響は、一般にはびこった非性的な概念の「産出物」の乱用によく見られます。これらの胎児は多量生産されたり、隠されたり、捨てられたり、実験に利用されたりしています。それゆえに、自然の生殖の象徴を守るための配慮について何も抽象的なものはありません。そのような配慮は、たくさんの子ども達(もちろん、全ての子ども達ではないけれども)が、非性的概念を持って扱われているという意味で、充分に正当だと理由づけられています。 

死亡した親から産まれた世代の子ども

死人あるいは意識不明の人が生殖の材料の源として使われる場合、子どもの創造によって、どういう点で本人の意味が奪われるかは明確です。父親がすでに死亡している場合、不自然な人工授精という行為は、進行中である夫婦お互いの責任を表現することはできません。そしてまた、現存している関係へと新しい生命を「喜んで受け入れること」もできません。父親は生きている人間としてもはや存在していません。子どもを作るために彼の一部を使用するということは、人間生殖の一般並みの意識を戯画化します。 

このような生殖が片親の死後に行うことが出来るようになったことで、非性的な生殖が急進的に公の問題としてとらえられることになったという事実は自然の成り行きです。私達が考えている訴訟は夫の精子は代わりにならないけれども、夫の存在は子どもを作る目的に取り替えられるものとして見られています。それは、彼の生命と結婚が終わった後、彼と妻の子どもの世話をする充分な常識を持つ父親ではなく、徹底的に不毛にされ衰えた常識を持つ父親にされるという提案なのです。 

子どもにとっての父親の必要性

受精治療を施す場合に、人間受精と発生学行為は明確に、この必要性は考慮に入れられているという事実にもかかわらず、子どもにとっての父親の必要性は、この訴訟で公の議論において無視されている一つの側面です。 

ブラッド夫人は、受精治療に精子が使用される頃までには死亡しているかもしれない匿名のドナ-から精子の寄付を受けることが出来たと論じました。独身女性がときどき受精「治療」を与えられることは事実です。しかしながら、この実践の正当さは確かではありません。そして、道徳的に見て正しくありません。父親をただ単に遺伝上の材料の源としてのみ扱うことは、―どの段階においても存在が必要とされない人―子どもを人間へと育てる人達との関係形成における子どもの強い関心を無視することになります。 

養子になった子ども達―もちろん、夫婦によって普通に養子にされた子ども達―はしばしば、本当の親を知りたいという強い思いを持つ事は良く知られています。独身女性の子どもは、ただ単に遺伝子上の父親だけでなく、遺伝子的にも社会的にも父親を奪われています。子ども達―特に男子の場合―は、普遍的な情緒の発達や、男女の関係について学ぶために母親と同様に父親が必要です。 

私達が考えている訴訟の場合、子どもは誰に責任もなく孤児にされているので、その子どもは偶然に父親を奪われていません。むしろ、その子どもは親が剥奪されているという境遇を計画的に作られています。受精治療の場合、これはただ単に、子どもを作ることに関わっている母親が、父親を剥奪しているのではなく、公の監督下に正しく配置されている医者達によるものでもあります。独身女性が、自分自身の子どもを持ちたいという望みに大いに同情はするけれども、この望みは産まれてくる子どもの関心の方を先にしなければなりません。 

繁殖力のある女性の「治療」

人工授精をする独身女性は医学の治療を受けていないという事実は別の関心事です。夫が死亡していたり、不在であったり、夫がいないことにより、自然に妊娠することが出来ないような、不妊症でない女性や、夫に生殖能力のない女性です。どうして、不妊症でない女性や、夫が生殖能力のない女性は、妊娠するための手助けを受ける権利があると考えるべきなのでしょうか。 

ブラッド夫人は、彼女の夫の精子を使う権利があると主張されています。しかしながら、それはとても疑わしいものです。彼女の夫さえも精子を彼の好きにするという権利を持っていませんでした。子どもの創造において、特に、健康管理の専門家が関わっている子ども達の良い「成長」の助けとなる境遇において、社会は子どもの創造に強い関心をよせています。 

さらに、道徳的にみて問題があり、しかも産まれる子どもをたった一人で育て上げるという務めがある子どもの創造に独身女性の関心は本当に促進されるかどうかということを尋ねなければなりません。いかに子どもが欲しいと彼女が望んでも、独身女性は一人で子どもを育てるという難しい務めに直面します。もし、どの段階にも父親が存在しないなら、―妊娠期間でさえも―その女性は、かけがえのない支援の源を奪われます。約束済みの結婚関係にある二人の人間が、子どもの創作に関係するべきです。そして、可能な限り二人の人間が、誕生した子どもの面倒を見ることに関わるべきです。 

最近、肉親に先立たれた女性は、片親というのが彼女や子どもに与える影響を客観的に判断できる状態に置かれていなかったかもしれません。 

Watt, Helen (ワット・ヘレン)
The Linacre Centre
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net
Copyright ©2002
2002.12.4.許可を得て複製