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安楽死:議論の再燃

安楽死の定義は実に幅広いため、安楽死について議論するには、まずその言葉の意味に注目するべきだろう。オランダでは安楽死という言葉が狭い意味で使われているが、私自身は、生命倫理の文献で頻繁に用いられている定義を反映した形でこの言葉を使用するつもりである。私は、生きる価値がないという理由から、作為または不作為によって意図的に寿命を縮めることを安楽死と考える。この定義では、安楽死は、用いる手段および患者の同意の有無により、自発的または非自発的、能動的または受動的に分けられる。何か他の目的のために行動した結果、その副次的影響により寿命が短くなった場合、それは安楽死ではない。疼痛を緩和するために高用量の鎮痛剤を投与する場合、結果的に死期が早まることがわかっていても、それが意図したものでない限り、安楽死とはいえない(1)。また、(例えば)苦痛を伴う治療を行わないことで、結果的に死期が早まることがわかっていても、それが意図したものでない限り、安楽死とはいえない。作為または不作為によって寿命を縮めることを目的とした場合のみ、安楽死と呼ぶのである(2)。 

オランダ 

オランダでは、通常、「安楽死」という言葉は、自発的な安楽死に対してのみ使用されている。また、自発的かつ能動的な安楽死に限定して使用される場合も多い。これを受けて、ファン・デル・マースの調査(3)およびその後ファン・デル・マースとファン・デル・ウォル(4)が行った調査の経験的データに対して多くの議論が生じている。オランダの医師に対し、生命の終焉について医学的決断を下す意図は何かという質問が行われた。調査実施者の統計方法では、自発的安楽死(オランダにおける安楽死の定義)と非自発的安楽死の双方について、その発生率が最小限に抑えられる傾向が見られる。しかし、非自発的安楽死や不作為による安楽死を含めた広義の安楽死の件数を計数した場合、安楽死や医師の幇助による自殺の合計数は発表されている数字をはるかに上回ると考えられる。 

ファン・デル・マースの調査では、寿命の短縮を「明らかな目的とした」医師の作為または不作為(5)が行われた症例を1990年において9,050例と発表しているが、その半数以上の5,450例は患者からの明確な依頼に基づいたものではなかった(6)。したがって、裁判所、王立オランダ医師会、保健省によって策定された、安楽死は自発的なものでなければならないというガイドラインにもかかわらず、1990年には、非自発的な安楽死が自発的な安楽死を上回っていたことになる。遵守されなかったのは、安楽死を自発的なものであるべきとするガイドラインだけではない。患者が耐えがたい苦痛を受けている、安楽死は最後の手段である、安楽死を報告するべきであるというその他の要件も医師自身の判断で無視されていたのである。 

報告件数の増加など、処理面でいくつかの変化があった以外は、1990年から5年経っても事態の改善は見られなかった。ファン・デル・マースとファン・デル・ウォルが1995年の実情について調査した結果、自発的安楽死および安楽死の希望件数がともに増加していることが判明した(7)。患者の希望がないにもかかわらず生命を奪うという行為は、それが調査に計上されるようになってからやや減少している。ただし、この調査には、患者からの要請がないにもかかわらず、死期を早めることを明らかな目的として苦痛緩和剤を投与した1,537例が含まれていない。これらの症例を含めていたとしたら、非自発的な安楽死の件数は増加していたに違いない(8)。不作為による安楽死の件数も明らかに増加しているが(9)、その大半は、患者からの要請がないままに行われている。調査では、新生児の受動的および能動的安楽死も記録している。もちろん、こうした行為は、寿命を縮められた赤ん坊自身の希望によるものではない。これらの事実から、オランダにおける安楽死が完全にあるいは大半において自発的なものであると断言することは早急と言える。むしろ、計画に沿って進められていると言えるだろう。 

危険な坂道 

事実、オランダで起こってきたことは、「現実的に」危険な坂道、すなわち、自発的な安楽死が裁判所や医療専門家によって容認されることで実際に危険な事態に陥った典型的な例である。しかしながら、いわゆる「理論的に」危険な坂道、すなわち、自発的な安楽死が容認された結果、非自発的な安楽死も容認されるという理論上の根拠について考察することも重要である。その根拠を明らかにするために、議論の出発点となる安楽死の定義に戻ることにする。 

安楽死は、生きる価値がないという理由から、作為または不作為によって意図的に寿命を縮めることと定義されている。安楽死を行う医師が、安楽死させられる患者の生命の価値を判断するには及ばないと反論する人がいるかもしれない。おそらく医師は、患者が安楽死を希望していることを確認し、それが患者の望みであるという判断に基づいてのみ安楽死を実行しているのだろう。 

しかし、実際には、患者が希望しているという理由だけで安楽死を行う医師は稀である。患者が一時的に気落ちしているとしても、それ以外の面である程度の健康状態が維持されていれば、安楽死賛成派の医師であっても、患者の生命を価値あるものと見て、安楽死を拒否するべきだと我々は考えている。医師は、患者にとって単なる道具ではなく、依頼されたことに対して責任ある判断を行うべき専門家なのである。したがって、安楽死を支持する医師は、生きる価値がなく、死にたいと考えるもっともな理由がある患者と、生きる価値があり、死にたいと考えるべきではない患者とを自分の裁量で判断することになる。医師は、患者の自主性という点から安楽死を擁護する一方で、一部の患者、すなわち生きる価値のない患者に対しては、死なせてもらいたいという彼らの自主性を尊重すべきだと考えている(10)。 

しかし、安楽死の擁護者が主張するように、生きる価値のない人がいるとしても、必ずしもそうした人々に自分の人生を選択する能力があるとは限らない。患者の人生に価値がないとしても、精神的に障害があり、安楽死に同意することができなければ、患者の親族が同意したとしても、その患者を死に至らしめることに問題がないとは言い切れない。したがって、自発的安楽死の支持者が(公然あるいは内密に)非自発的安楽死も支持していることは別に驚くことではない。死ぬことが患者の救いになる、あるいは少なくとも苦痛をもたらすことでなければ、その意思を示すことができない人に対して安楽死を拒否する理由はないと思われる。実際に、自発的な安楽死から非自発的な安楽死に移行していることは、生きる価値がない人生は価値がないのだから終わらせてもいいだろうという理論に基づいた結果である。 

イギリスにおける安楽死 

当然ながら、この概念を信奉しているのは、オランダの医師に限らない。イギリスでは、ブランド裁判の判決において、不作為による非自発的安楽死が司法によって事実上、法律化されている。トニー・ブランドは、ヒルズバラのサッカースタジアムで事故に遭い、永続的な昏睡状態に陥った。この裁判で、判事は、トニー・ブランドの状態は彼にとってまったく無意味であるという担当医の意見を認めた。5人の判事のうち、3人が(残りの判事は異議を申し立てた)栄養管を抜いた目的は、トニー・ブランドを死に至らしめるためであったと述べた。現在、経口栄養法を含め、食事供給の中止は、「遷延性植物状態」(PVS)および末期状態に至っていない成人にまで適用が拡大されている。さらに、障害を持つ新生児に鎮静剤を使用したり、栄養補給を行わなかったりするケースも時折報告されている。患者の人生に価値があると考えられない場合、患者のためというより患者の親族のために、患者の安楽死を拒否することはさらに難しくなる。生きる価値がない人生という考えを容認することは、非自発的な安楽死だけでなく、両親や社会といった患者以外の利益のための非自発的な安楽死が増加する原因になる。ブランド裁判の報道では、PVSに陥ったトニー・ブランドの今後の人生に価値がないことに加え、トニーの状態が原因で両親が受ける苦難や、トニーの苦痛を終わりにしたいという彼らの願いが強調された。PVSの家族を持つことは確かに苦難であるが、患者以外の人の苦悩が罪のない人間の生命を絶つ理由になることは驚愕すべき事態である。息子の生命を絶つことに協力したことがトニー・ブランドの両親にとって本当に救いであったかどうかに疑問を持つ人もいるだろう。 

「人間としての」生活 

トニー・ブランドのような重篤な精神障害の場合、生きる価値がないだけでなく、生活、あるいは「人間としての」生活も失われると考えられる。判事の1人は、トニー・ブランドの肉体を彼の魂が抜け出した後の「殻」と説明している。トニー・ブランドの脳幹は機能し、自発的な呼吸も行われ、心臓が鼓動していたにもかかわらず、このような説明が行われたのである。我々は、人間というものについて、人格を持つ個人と、生物としてのヒトとを区別して考えている。哲学者(など)の多くは、我々が肉体を持つ存在として経験を重ねるという観点からこの概念を否定している(11)。 

生命の価値 

魂や「人格」が患者の生きた肉体から離脱するという考えがある一方で、患者が現在も生きていることを認めながらもその生命に価値はないとする考え方のほうが多いだろう。しかし、文字通り生命に意味がなく、それを保護する必要もなく、また保護すべきではないとする見解は、人間の生命に対する従来の概念から逸脱しすぎている。法の基本として考えると、こうした概念は、それ自体およびその含意において過激である。人を殺した者の中には、「確かに私は人の生命を奪ったが、その生命には価値がなかった」と言う者もいる。しかし、これは正当防衛として人を殺す場合の正当性とは異なるものであることに注意しなければならない。自分を殺そうとしている相手を殺す場合、自分の生命を彼らが故意に脅かしているために、攻撃をしかけている相手の生命の価値を認識しながらも、彼らの生命を狙わざるを得ないのである。生命に価値がないという理由で人を殺すことは、人の生命を正当防衛による殺人とは異なる視点から見ることである。 

では、生命に価値がないという理由で行われる殺人を否定する根拠は何か?それは、人間には冒すことのできない人としての基本的尊厳が備わっているという事実である。我々人間は、この尊厳を基本的性質として有している。基本的性質とは、我々が人間であるという事実に基づき、理性的な行動ができない状況であっても、理性的な行動を起こそうとする性質を意味する。人間として、我々は、知識、友情、そして人生そのものなど、人間にふさわしい「善いこと」すなわち有益な行為に対し、道徳的に大きな意義を見出す(12)。我々の行為の多くは、それが自分や他の人々にとって良いことであるという前提の下に行われている。これらは、手段としてのみならず、自分たちに利益や充実感をもたらす行為なのである。(理性的な能力に反し)生きること以外に人間に利益をもたらす活動に参加できない人もいる。しかし、生きることは、この世に存在している以上、人間が常に参加できる善い行いなのである。生きていること自体が悪いということもなければ、生命が軽視されるべきでもない。人としての善い行いだけでなく、生きていること自体にも客観的な価値が存在するのである。 

生命の尊重 

生命の価値とは、どんな犠牲を払っても生命を守るべきだということではない。人間の生命の価値を信じる人々は、患者の生命を維持するという任務に限界があることもわかっている。患者の生命を維持するために我々が取るべき手段は、患者の病状や保健医療費の支払能力など、さまざまな要因によって左右される。たとえば、患者の生命が残り数日あるいは数時間の場合、作為または不作為によって患者の死期を早める段階にはないという判断から、患者の生命を維持するために何らかの手段を講じることはないだろう。同様に、法律能力のある患者が効果を上回る負担となる治療を拒否した場合には、彼らにそれを強制する義務もない。 

生命の価値に必要なのは、我々が常にその価値を認識し、生命に価値がないという理由で人の生命が脅かされるのを防ぐことである。言い換えれば、一部の人間の生命に価値がなく、だからその生命を終わらせてもいいという考えを認めるべきではない。オランダの例からもわかるように、こうした考えは、医師と患者の関係および社会全体にとって非常に危険である。また、医師や社会が、病気や障害のある人々に対し、その状態で生きることは耐えがたい苦痛であるというメッセージを伝えることで、彼らの不安を煽ることになる(13)。生きる価値がなく、その寿命を故意に縮めてもかまわないという考えを示すことで、患者を絶望させてはならない。そうではなく、患者が人間としての存在意義を見出せるように、肉体的、感情的、精神的な面で何らかのサポートを行うべきである。 


Endnotes:

(1) Often, in fact, the use of palliative drugs is more likely to lengthen than to shorten the patient’s life, as the patient is more rested. 

(2) It is worth remembering here that the doctor may have several different aims in what he or she is doing. If one aim is to shorten the patient’s life, while the other is to end the patient’s pain or that of his or her family, this will still be euthanasia.

(3) Maas PJ van der et al. Euthanasia and other medical decisions concerning the end of life (English translation). Amsterdam: Elsevier, 1992.

(4) Wal G van der, Maas PJ van der. Euthanasie en andere medische beslissingen rond het levenseinde. De praktijk en de meldingsprocedure. Den Haag: SDU uitgevers, 1996.

(5) This gives us a highly conservative figure for euthanasia in 1990, since it excludes those cases where the doctor acted, or refrained from acting, ‘partly with the purpose’ of shortening life. In view of this purpose, such cases are also euthanasia (see note 2).

(6) Keown J. The First Survey: The Incidence of `Euthanasia’. In: Keown J. Euthanasia, Ethics and Public Policy. Cambridge: Cambridge University Press, 2002.

(7) Keown J. The Second Survey. In: Keown J. Euthanasia, Ethics and Public Policy. Cambridge: Cambridge University Press, 2002.

(8) Hendin, H. The Dutch Experience. Issues in Law & Medicine 2002; 17: 231.

(9) The situation is, however, complicated by an explanatory note to the relevant question doctors were asked, which suggested that an intention to `hasten the end of life’ could also be understood as an intention `not to prolong life’. In fact, the two intentions are by no means identical: a choice to refrain from life-prolonging treatment could be made not in order to hasten death, but simply on the grounds that the treatment was too burdensome.

(10) Watt H. Life and death in healthcare ethics: A short introduction. London: Routledge, 2000: 31-32.

(11) To say that human persons are essentially bodily is not to deny they have a spiritual aspect. It is to say, rather, that the human subject is a living individual, not a ghost. The Christian tradition, in particular, sees the soul as the source of the life of the body, and the soul after death as something incomplete, awaiting the body’s resurrection.

(12) Grisez G, Boyle J, Finnis J. Practical principles, moral truth, and ultimate ends. American Journal of Jurisprudence 1987; 32: 99-151.

(13) Compare this with the message conveyed to suicidal people who are physically well. These people are assured that their lives are worthwhile, and that suicide is not the right response to their current situation. In contrast, if euthanasia is socially accepted, both suicidal and non-suicidal people with certain conditions will receive the message that society sees their lives as not worthwhile. On this and other aspects of euthanasia, see Gormally L. ed. Euthanasia, clinical practice and the law. London: The Linacre Centre, 1994.

Watt, Helen (ワット・ヘレン)
The Linacre Centre
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net
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