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クローニング正か邪か

最初のクローン動物として立証された羊のドリーは、エジンバラのイアン・ウィルナット博士によって最近公表されました。ウィルナット博士は大人の「ドナー」の羊から細胞を取り出し、その全ての遺伝子が活性化され成長して小羊になるように、その細胞に処置を施しました。彼はその細胞を、DNAを含む核を取りのぞいた雌羊の未受精卵と電気を用いて融合させました。その融合された細胞と卵は相互に作用しあい、小羊の胎児へと成長しました。雌羊のDNAは取りのぞかれてしまっていたので、胎児の中の唯一のDNAは「ドナー」のDNAでした。その胎児はそれから、「代理の母」となる羊の胎内に移植され、月が満ちて出産されることになりました。その結果がドリーで、「ドナー」の羊と遺伝的に全く同じ羊が生まれたのです。 

ウィルナット博士は、「血友病のような人間の病気を治すタンパク質を含んだ牛乳が出せる「クローン動物を二、三年以内に作る」ことができると予言しました。 

クローン羊は「嚢胞性線維症の研究モデルになるでしょう。治療可能となる病気は限りがなくなるでしょう。」と彼は言いました。しかし彼は、人間のクローンを作ることは、「非人道的なこと」になるだろうといいました。 

クリストファー・ボンド上院議員は、人間のクローニングについての研究に対する連邦の資金援助を禁止する法案を提出して、「人間の幸福を促進させるために、植物や動物のクローン標本を作ることは納得できます。しかし、完全に他人と瓜二つの人間を作ることは人間が神のようにふるまうことであり、またそこは私たちが一線を画さなければいけないところなのです。」と言いました。 

プリンストン大学の生物学のリー・シルバー教授は、クローン技術が可能になれば、遺伝的な病気を治したり、人間の遺伝的能力を高めたりするために遺伝子を加えることが「可能になる」と述べています。「突然、遺伝子工学がもっとたやすくなる」のです。遺伝子工学は遺伝的な欠陥を矯正するための治療目的ならば、もしかすれば正当化されるかもしれません。たとえば割り当てられた役目を果たさせたり、ある仕事を行なわせたりするために「科学」人間を作るために用いられるならば、それは正当化されないでしょう。ついでながら、たとえば遺伝子を操作して、長い手の背の高い人間を作り出せば、20年後にバスケットボールの優勝チームになることが保障できるなどということにはならないでしょう。コーチの違い等で、他の要因が彼らの発達に影響を与えるでしょうから。同様に人間のクローンがその遺伝物質の「ドナー」と遺伝子の構成が同じであっても、確実に見分けがつかないほど同じであるということにもならないでしょう。遺伝子構成が同じである一卵性双生児の場合においてもそうであるように、環境的な要因やその他の要因が作用するはずです。 

カトリック教会は人間のクローンを作ることを非難しています。1987年の「生命のはじまりに関する教書」(p.34)には、「性行為と全く無関係な形で人間の誕生を導こうとする試み、たとえば、先に述べた卵子を二つに分ける方法=クローニング、あるいは単為生殖などは、人間的な生殖のあり方と配偶者の交わりの尊厳に反するものである以上、反道徳的である」と述べられています。 

二つの理由で、人間のクローニングを効果的に禁止することは不可能でしょう。第一の理由は科学技術がますます道徳的な制約から解き放たれていることです。ヨハネ・パウロ2世は「いのちの福音」の中で、「科学と科学技術は道徳律の基本的な基準を尊重する必要がある。それらは神様の構想と意志に基づいて人間に役立つものでなければならない。」と主張されています。不幸なことに、作家のカークパトリック・セイルが予言しているように、「遺伝子の組み替えや羊水穿刺や試験官内受精を容認している社会においては、生殖に関する科学技術に対する法的規制が永続することはありえません。アメリカ合衆国の最高裁判所が1980年に遺伝子組み替えによって作り出された生物に特許を与えることが合法的であり、人々がそれから利益を得ることができると判決を下したとき、そのことがきっかけとなったのです。科学の歴史は人間社会に対する科学技術の支配の歴史なのです。」  

人間のクローンを作ることを効果的に禁止できないであろう第二の理由は、避妊倫理の優位です。1930年の英国国教会の会議で避妊が制限つきで認められたとき、それはいかなる宗派であれ、キリスト教が避妊は客観的に正当なものでありうると宣言した最初の時だったのです。ワシントンポスト紙の社説が反発したように、「教会は聖書の明白な教えを拒否するか、人間のいのちの『科学的な』生産の企みを拒否するかいずれかでなければなりません。」 

クローニングや試験官内受精や他の生物を作り出す科学技術的な方法と同様に、避妊にはセックスがもたらす一体感や出産といった面を意図的に切り離すことが含まれています。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、避妊において夫婦は「神様の計画の裁定者としての役割を果たし、人間の性を操作し低下させ、それと共に、全てを相手に捧げることの価値を変えてしまうことによって自分自身も相手も低下させているのです。」と言われました。 

問題は誰に決定権があるかです。人間にあるのか神様にあるのかということです。ヨハネ・パウロ二世が言われたように、避妊においては「男女が神様のものでしかない力、つまり人間の誕生を決定する力が自分たちにあると主張しているのです。彼らは神様の創造力の協力者としてではなく、人間のいのちの根源の最終的な保管人として振る舞っているのです。このような見方からすれば、避妊というのは、どのような理由があっても正当化することは決してできないのです。その反対のことを言えば、神を神として認めないことが合法的だと主張することになるのです。」(法王の演説:第28巻P356-357.1983年) 

人間のクローンを作ることは、避妊の倫理の前提条件と同じ道徳的な過ちの一つなのです。もし私達が人間のいのちの始まりの裁定者として振る舞う権利を主張するならば、中絶や安楽死におけるようにいのちの終わりの裁定者に自らなってしまうことは十分に予想できることです。もし私達が故意にセックスの夫婦の一体感と出産に関わる面を切り離す権利を主張するならば、どうして私達は、美的実用的理由以外の理由でホモを批判することができるでしょうか。「フマネ・ヴィテ」の中で、法皇パウロ六世は、避妊によって、人間は「女性に対する敬意を全く失い、女性を単なる自分勝手な喜びの対象としてしか考えなくなるかもしれないと」と警告しています。避妊によって、性行為はもはや自分をすべて捧げる行為ではなくなり、互いのマスターべ一ションの行為となり、女性は物となってしまうので、まさに法皇パウロ六世が警告された通りなのです。クローニングによって女性の地位は、物、非人間的な卵子の貯蔵庫となってしまうことが決定的でしょう。 

人間ではなく神様がいのちの始まりと終わりの裁定者であることの確信を回復せずに、人間のクローニングや中絶や安楽死に歯止めをかけようとすることは無理でしょう。 

Rice, Charles (ライス・チャールズ) 
Copyright ©2004.8.1.許可を得て複製