日本 プロライフ ムーブメント

やさしく殺して:無意味な延命治療の革命

私たちにはサービスを拒否する権利があります。よくレストランや小売店でこういう表示を目にします。しかし現在、患者のいのちに質的に治療費をかけるに値するものが欠けていると医者が判断するような場合、その患者に対して、延命治療を望まれても医者にノーと言える権利を与える「ヒュータイルケア(無意味な延命治療)」のガイドラインを支持して、病院の入り口にそれとなくそのような意味を表す掲示物を掲げている病院がいくつかあります。 

主要な新聞に気づかれないうちに、私たちへの医療を制限するために、医学のエリートたちの間で密かに計画されていた運動の突然の発表である、ヒュータイルケアの運動が実際すでにどこまですすんでるかが「保健倫理学ケンブリッジクォータリー」の2000年秋号に掲載されたある気にかかる論文によって明らかにされました。その論文の著者は、カリフォルニアの26の病院で現在行なわれているヒュータイルケアについての方針を検証しました。これらのうち、延命治療を求められた場合、「医者は患者のいのちを維持するために行動しなければならない」と明記してあるのはただ一件でした。2ヶ所以外の病院の方針は全て、「たとえ患者や患者の代理人から要請されても、治療が強制的なものではないと考えられるべき状況を具体的に規定していました。」言い換えれば、26の病院うち24の病院で、求めれた生命維持治療を医者が一方的に拒否することが許されているのです。 

どうしてそのような医療放棄が正当化できるのでしょうか?ヒュータイルケアについての理論を唱える人たちは、焦点を患者に与えられる生理学上の効果から、患者が「その治療の恩恵を認識する可能性」があるかどうかということに巧みにすり替えているのです。調査した26のうち12の病院で、患者が自分が治療を受けていることを認識できないだろうという可能性に基づいて、永久に意識が戻らないと診断された患者の治療(緩和ケア以外の治療)が禁止されていると、ケンブリッジクォータリーは報告しています。そのような病院は、この条件ではしばしば誤診があること(ある英国の報告によると40%が誤診)をいくつかの医学論文が証明していることを無視しています。そして最近のニュースの見出しで証明されているように、そのような患者の意識がふいに戻ることもあるということを全く無視しているのです。 

最も気掛かりなのは、もしこのような方針が実施されれば、脳に重い障害を負った人や痴呆の患者がチューブで食物や水を摂取することが、医療とみなされるという理由で妨げられるのではないかということです。そのことは、意識の無い患者を医者が治療するのを禁止するヒュータイルケアのガイドラインによって、たとえ生命維持を希望する旨の医療指示書に前もってサインをしていても、これらの無力な人々が脱水状態で意図的に死に至らしめられる運命にあるということを意味しています。 

このことは全く皮肉なことです。20年前では、認知障害があるという理由で患者にチューブで食物や水を与えるのを止めることは臨床医学ではほとんど考えられないことだったのです。実際、そのようなことをすれば多くの場合、犯罪となっていたでしょう。しかしながら、1990年代初期までに、ナンシー・クルーザン訴訟の判例にならって、ほとんど全ての州において、「死ぬ権利」の問題として、家族がチューブでの栄養補給や水分補給を中止決定をすることが認められたのです。現在ではわが国のいたるところで、意識があるないに関わらず、認知障害のある人は、家族が同意すれば、医療的慣例として意図的に脱水死させられているのです。  

脳に重い障害のある人のいのちを、脱水状態にすることによって終わらせることを正当化する生命倫理学的原理は、今日までは自主性にまかせられていました。その原理とは、つまり他人の価値観を押しつけられることなく、患者とその家族がこの難しい「個人的な」決定をできるべきだというものです。しかし、ヒュータイルケアの考えを唱えている人は、多くの場合チューブフィーディング(チューブを通して栄養を与えること)を家族が拒否することを認めることに賛成していた生命倫理学者ですが、今は、たとえ家族が治療を続けてほしいと希望しても医者の個人的な価値判断に基づいて、チューブフィーディングを拒否することが認められるべきだと言っているのです。このことは、その目的が最初から、脳に重い障害を持った人を確実に死なせることにあったのでなければ何の論理的な意味も成さないのです。この点から考えてみれば、うわべの矛盾はなくなります。もし、「選択」が死にかけている人を死なせるならば問題はないでしょう。しかしながら、「まちがった」決定をすれば、ヒュータイルケア理論が押しつけられることになるのです。どちらにしても死の文化においては、一方的に勝者が決まっているのです。 

ヒュータイルケア理論の議論においては、脳障害の患者がいちばん関心を持たれるわけですが、彼らだけが治療を断られるわけではありません。ケンブリッジクォータリーが検証した26のヒュータイルケアの方針においては、ICUでしか受けられない生命維持治療に死ぬまでずっと依存する患者の治療を拒否しているのは8、末期患者の治療を拒否しているのは6、重い痴呆患者の治療を拒否しているのは4という結果となっています。ヒュータイルケア方針の中には治療を断るのはどんな病気かを決めることさえせず、ケースバイケースで医者の判断に任せているものもあります。 

しかし治療の拒否に患者やその家族が異議を唱えればどうなるでしょう?多くのヒュータイルケア方針では、審査の手順が確立されていて、そのもとで、そもそも難しい症例の場合に家族と医者が適切な解決策を取り決めやすくするための調停組織として設立された病院倫理委員会が、患者が治療を受けるか人生を終わりにされるかを決定する権限を与えられています。これはサン・ノゼのアレクシアン・ブラザーズ・ホスピタル(後にコロンビアHCAに売却されましたが)で1997年に採用された方法で、現在では、(アメリカ医学会誌に載っているように)ヒューストンの多くの病院やフィラデルフィアを本拠地とするマーシー病院で行なわれており、その方針がカトリック健康協会の機関誌である「ヘルスプログレス」の2000年7、8月号に再び掲載されました。これらそれぞれのガイドラインの下で、希望される治療が「無駄」とか「不適切」と委員会がひとたび判断を下すとそのケースは終わりになります。その後はたとえ家族や患者が治療を申し出てくれる医者を見つけたとしても、その病院で治療を受けることは決してできません。 

一度委員会から死の宣告を受けると、患者にできるのは、黙ってそれに従うか、他の病院を見つけるか(可能性は非常に少ないですが)、告訴するかの三通りです。訴訟に関しては、医者や病院の有利になるように法的工作をすることが、正式のヒュータイルケアのガイドラインを作成する第一の目的です。ケンブリッジクォータリーの記事が指摘しているように、治療を打ち切る前に、病院の複雑な論争解決体制に従っていけば、医者は法廷で「おそらく良い結果が得られるでしょう。」もちろんこれは、明らかに時間がかかることです。自ら皇帝の冠をかぶったナポレオンのように、拒否できると言ったのは自分たちなのだから、望まれる治療を拒否する権利は病院側にあると宣言しているのです。残念ながら裁判官や陪審員が医者に反対することを嫌うことを考えると、そのことはうまく時間を浪費させ、治る見込みのない患者とその家族を文字通り頼るすべのない状態にすることになるでしょう。 

文字通りいのちが危険にさらされているにもかかわらず、マスコミはその問題は難しすぎて大衆向けしないと判断して一般的にヒュータイルケア問題を無視してきたのです。その結果、ほとんどの人が医学の倫理基盤が自分たちの足元で変わりつつあることに気づかないでいるのです。しかし、前もって警告しておけば前もって準備できるのです。新薬の提供者が、無力な患者と患者が希望する生命維持治療の間にどんどん立てている障壁を乗り越えるつもりがあるなら、患者と家族は受けたい治療を求めて戦う準備をしなければなりません。電話ですぐに相談できる弁護土がいればと思うかもしれません。(実際そうなりつつあるのです。)少なくとも、患者自身が行なった医療決定が尊重され、「医者がいちばん知っている」調のヒュータイルケアのガイドラインが決して患者に押しつけられないという保証を患者は医者から得られるべきだと思います。 

 

Smith, Wesley (スミス・ウェズリー)
Copyright ©2004.8.21.許可を得て複製