日本 プロライフ ムーブメント

いのちは研究より大切

幹細胞とは、私達人間の初期の構成単位である。人間が持つ210もの異なる組織はすべて、これらの基本細胞から出来上がっている。この幹細胞は、例えば脳や心臓や皮膚といったどんな組織にもなる可能性があるので、この細胞は人の臓器や身体の一部をゼロから「作り出せる」新しい時代への鍵になる、と科学者達は考えている。この新たに台頭してきた学問分野は、組織工学と呼ばれている。幹細胞は、出生後の人の身体にも、生まれる前の胚にもある。この細胞を使用するにあたって、次の2つの質問が重要になってくる。一、幹細胞を使った治療法は効果的なのか?二、胚性幹細胞の使用は倫理にかなっているのか?

幹細胞研究に秘められた科学的・医学的可能性の影響力については、科学界で一致した意見が得られている。2000年5月にアメリカ国立衛生研究所は、以下の明白な声明を発表した:「重症疾患の治療開発に幹細胞が多大に有望であるならば、そして幹細胞の供給源が明らかであるなら、この研究が医療に革命をもたらし、生命の質を上げ寿命を延ばすと言っても良いだろう。」

幹細胞研究は、少なくとも2つの点で社会に得をもたらすようだ。一、幹細胞をどう使えば病んでいる組織や臓器を治療したり、再生させられるのかが分かる。二、幹細胞の根本的な生態を研究することによって、人間がその初期の段階にどうやって発達するのか、より深く理解出来るようになる。

ところが幹細胞に関する意見も、どの幹細胞が最も有望かという議論になると、ハッキリしなくなる。胚性幹細胞、又はES細胞は、メディアから多くの注目を集めている。

この初期の胚細胞は、個人の遺伝子情報を持つだけでなく、200以上の細胞や組織へと発生していく潜在能力を持っている。進行中の研究によれば、これらの細胞にはおびただしい科学的・臨床的な可能性があるというのである。

しかしES細胞には、その使用に学理的な限界がある。臨床に使われるとなると、これらは必然的に他の「個人」である胚から得られることになる。

胚から得られた幹細胞や組織を別の個人に移植する場合、拒絶反応を防ぐ為に、移植される側に有毒免疫抑制剤を投与する必要性もあり得る。又、他人の細胞にはウイルスや他の数少なくとも無視できない病原菌がついていて、移植される側に移る事もあり得る。

更に、ES細胞のような細胞(例えば奇形腫)は、腫瘍を作ると言われている。だがもちろんES細胞から作り出された組織が腫瘍を作るようではいけないし、その組織への「発達せよ」「発達を止めよ」「回復せよ」といった脳からの普通のシグナルに反応できる内在的能力がなくてはならない。

最近、非胚、又は「成人」幹細胞が確認されており、これは臨床的に使われるES細胞の有力な代替物になる可能性を持っている。これらの細胞は、すべてとはいかなくとも人間の多くの組織の中に静かに存在しており、恐らく、外傷や重症疾患があれば、経過に反応して傷付いた組織を治癒させるのを待っているのだろう。

新たに出てきた科学的証拠から分かることは、我々には、以前考えられていたよりかなり未発達の幹細胞の「蓄え」があり、それらは恐らくES細胞のように、すべては無理でも多くの細胞や組織になれる可能性があるということだ。

驚くべき事に、人間の脂肪にも幹細胞があると証明されており、骨や軟骨や筋肉等他の組織が欠落したり、最初からなかった場合に、再現する可能性を持っているという。脂肪組織は脂肪吸引という一般的な外科手術で入手できるので、これらの細胞は事実上無制限にあり、簡単に自分の幹細胞を入手できる供給源であるかもしれない。

近い将来、自分の幹細胞を提供し、それを濃縮してから適切な形や大きさにして身体に戻し、傷付いた身体の部分を治したり、快復させたり出来るようになるのである。これらの細胞は患者自身から取り出されているので拒否反応が起きる可能性はなく、免疫抑制剤も要らないし、病気が移る危険性もない。

幸いにも、普段は無活動であるこれらの細胞が腫瘍に発達する危険性は、ほとんどないようである。

正直なところ、幹細胞の研究自体がまだ発達の初期段階にある。将来、幹細胞研究のどの方法がうまくいくか、成人幹細胞か胚性幹細胞か、又は両方か、が分かるようになるだろう。しかし、どちらの方法が正しいかは分からないのである。

道徳問題も又、考慮されなければならない。

道徳問題が、「科学の発展に規制を作らない」為に切り捨てられるようであったら、私達は過去の残虐行為、1920年のタスキーギ実験等の残虐行為を非難することなど出来ない。この時は、梅毒に苦しむ黒人に治療を約束しておいて、科学者達がこの病気を研究するのに治療もせず利用したのであった。

反対意見もあるが、胚性幹細胞研究(ESCR)についての道徳問題は複雑ではない。それはひとつの問いに絞られる。「胚は実際、人間なのか?」

もし胚が人間であるなら、他人の益のために胚を殺してしまう事は、道徳的にゆゆしい間違いである。固有の道徳的価値を持ったまぎれもない人間を、使い捨ての道具として扱っているのだから。逆に、もしその胚が人間でないなら、幹細胞を取り出すために殺すという事は、歯を抜くのと同じ位、正当であろう。だったら他の人の利益になるよう、研究目的だけのための胚を作ればいいではないか?

科学的に見て、人間のいのちが受精の時から始まるという事に、異論を唱える人はあまりいない。単に人間の遺伝子情報を持っている精子や卵子とは違って、胚はその先胎児、幼児、子ども、大人へと発達していく活動的な(固有の)能力を持っている。

胚は紛れもない、ひとつの完全な人間の生物体なのである。試験管内受精を初めて成功させた科学者ランドラム・シェットルズ博士は、受精はいのちを与えるだけでなく、いのちを「明確に定める」と書いている。つまり、生を受けた紛れもない生物体が、ある時点から本質が変わったり性質が変わったりすることはない、という事である。それは初めから人間で、ずっと人間のままなのである。確かに未成熟な人間ではあるが、それは幼児と同じ事で、人間に変わりはないのである。

確かに胚は、新生児(あるいは幼児)とは大きさ、存在する場所、発達において異なる。しかし道徳的に見て、その違いには、ESCRの支持者達が望むような意味があるのだろうか?

例えば胚が、この文章の最後につく点よりも恐らく小さいであろう事は、誰でも納得するだろう。しかし、いつから権利が大きさによって左右されるようになったというのか?男性は普通、女性よりも大きいけれど、だからといって権利も大きいとは決して言えない。

発達の程度から見て、胚が完全な人間ではない、としてしまう事も出来ない。4歳の少女は14歳の女性よりも未発達であるが、だからといって少女がより不完全な人間、とは道理をわきまえた人なら結論付けないだろう。それにも関わらずESCRを支持する多くは、人間の胚を、知覚を持たず理性もない、「人間」という身分にはふさわしくない、ただの細胞の塊だと主張している。

しかし、もし理性と自己意識が道徳的に重要な人間の決め手になるというのならば、理性的で有ればあるほど、その分人間としても立派だということになるのではないか?従って、知能と芸術に才能がある人は、才能を持たない人達を犠牲にして、自分の快感を自由に最大化してもいい、という事になってしまう。

またある人達は、胚のいのちを奪う胚研究について「これらの胚は、どちらにしろ廃棄されるのだから」と正当化して反論する。この理由付けには問題がある。もしそれが正しかったら、「これらの人間はどうせ死ぬのだから」と、中絶される予定の妊娠6ヶ月の胎児や、中国で死刑が宣告されている政治犯を、研究に使っていのちを奪ったり出来る、と言えることになる。

事実、私達は皆いつかは死ぬのである。後から死ぬ人には、先に死ぬ人を殺す(そして利用する)権利があるというのか?

いくら人のいのちが残り少ないからといっても、いのちを奪うような研究に利用することはやはり許されない。だから私達は死刑囚を実験に使ったり、承諾なしに彼等の臓器を採収したりしないのである。

要するに、ESCRに反対する者達は、一度は政治的自由を素晴らしいものにしていた原則そのものを、この研究が犯している、と言っているのである。その原則とは、人間社会の一番の弱者や最も傷付きやすい人達を守る、という基本的な関わり合いである。

有り難いことに、医学的向上と道徳的原則とのどちらかを選ばなくてはならない、というのは間違ったジレンマである。何故なら新しい研究によって、胚である人間のいのちを奪うことなく、私達人間を救うことが可能である、と分かったからである。

道徳的に受け入れられる方法で、医学の研究も出来、病気と闘う事も出来るのである。

Heldrick, Mark (ヘルドリック・マーク)
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