日本 プロライフ ムーブメント

恐れることなく、イエスの招きにこたえよう

(ルカ5:1-11)

今週の「漁師を弟子にする」という物語は、中田神父にとって非常に慰めになります。私が小学生の頃、漁師は「危険で、きつい仕事」の代表格でした。同時に、中学を卒業して手っ取り早くお金を稼ぐのに「もってこい」の仕事でした。それは裏を返すと、「勉強ができない人が行き着く仕事」というイメージでした。

私は漁師になろうと思ったことはありませんが、当時帯封のかかった給料を持ち帰っていた父を「すごいなぁ」と思ったものです。同級生にも遠洋漁業の船に乗った人がいて、運転免許を取った途端、身分不相応のクラウンを買って乗り回したり、二十歳になる頃にはすでに一軒家を建てたりしていました。それでもイメージは拭えませんでしたが。

漁師のイメージは、イエス様の時代にもあまり良くなかったかも知れません。マルコ1章16節には「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」とあるのですが、「彼らは漁師だった」という言い方は、ただ職業を紹介しているようには聞こえません。下に見られている感じがすごく伝わります。

その、漁師をしていた人たちに、イエスは声をかけてくれました。私にとっては大いに慰めになるのです。下に見られている人を、イエスはそばに置いてくださり、宣教のために働かせてくれる。こんなに有難いことはありません。私もかつては、「輝明の息子が神父になれるわけのなかろうもん」と、父親の漁師仲間から言われていました。

なぜイエスは、漁師に目を留めたのでしょうか。危険な舟の上で、一致団結して魚をとる「強い結束力」でしょうか。号令にすぐに従う、「忠実さ」でしょうか。何もとれなくても、あきらめず希望し続ける「忍耐心」を高く買ったのでしょうか。

それも、弟子を集める条件に含まれていたかも知れませんが、私は詰まるところ、「下に見られている人たちだった」ということが、彼らを弟子に選んだ理由なのではないかと思っています。もちろん、誰が選ばれても構わないのですが、どうしてこんな人を選ぶのだろうと疑う人がいるなら、パウロの言葉を思い出す必要があります。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1コリ1・25)

イエスの指示に信頼して行動した漁師たちは、自分たちの知識や経験をはるかに超える結果を見て、イエスに従います。彼らは月の満ち欠け、季節、天気をすべて把握していて、それらの知識や経験をすべてつぎ込んで何もとれなかったのに、イエスは彼らの知識と経験をすべて凌駕する結果を示して、ご自分に従うように招くのです。

「恐れることはない」(5・10)とイエスは漁師たちに呼びかけます。「恐れないで」と言われても恐れるのではないでしょうか。一介の漁師に過ぎない自分たちが、これからどれだけの人と向き合って、神様の網で彼らをとることになるか、全く予想が付きません。きっと多くの人々が、自分たちを下に見ている人々です。それなのに「恐れることはない」とイエスは励まします。どこまでも、イエスに信頼を寄せて従う。これ以外に恐れに打ち勝つ術はありません。

「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(5・11)舟は、水の上に浮かべてこそ意味があります。陸に引き上げたままでは、舟の役割を果たせません。弟子に招かれた彼らは、こうしてすべてを捨てたのです。舟も、舟を生活の糧にすることも、これまでの知識や経験も、すべて横に置いたのです。

私たちの中で、もし舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従うつもりがあるなら、イエスの目に必ず留まると思います。イエスは今も、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)と答えてくれる人を探し続けています。

それぞれの生活の中で、ある人には社会の中で、ある人にはイエスのそば近くで、イエスに全面的に従うことを選んでくれる協力者を探しておられます。そして手を貸してくれるあなたにかけるイエスの声はこうです。「恐れることはない。」

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ちょっとひとやすみ

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▼入院患者は、本当に会話が少ない中で過ごしている。知らない人ともすぐに友達になれる人は別だが。

▼そうなると、入院患者の家族のサポートは大きな慰めになる。今は便利なものがあり、入院している家族を励ます道具もいろいろある。

Nakada Kouji (ナカダ コウジ )
中田輝次
カトリック福江教会

出典 こうじ神父のブログ 神の母聖マリア

Copyright © 2025年2月8日(No. 1339)

2025年 2月11日掲載許可取得