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「仕えられるためではなく、仕えるため」(マルコ10:45 )

4月は新生活、新たなスタートの月です。 これは少なくともここテキサス州・サンアントニオでは顕著に見られます。 天気は暖かくなり、緑はますます青くなり、ブルーボネットが満開になり、イースターを迎えています。 最近、私はサンアントニオに来て春とイースターを経験できることを嬉しく思います。

さて、司祭が聖週間に休暇をとるのは珍しい機会だと思います。 今年、私は宣教地である日本を離れ、聖なる過越の三日間とイースターを経験する機会に恵まれました。 私が最も印象に残ったことの一つは、聖木曜日の「洗足式」でした。司式者は数人の足を洗った後、会衆に同じことをするよう勧めました。 恥ずかしがらずに典礼に参加する多くの人々が前に出て行く姿は美しかったです。私は 小さな女の子がお父さんの足を洗っているのを見て感動しました。 彼女の顔に浮かんだ笑顔は父親への愛を表していたと思います。 少女は足を洗うことの意味を理解していなかったかもしれませんが、父親にしたことは彼女の記憶に残ると思います。

その後、私はあるカップルが足を洗い合っているのを観察しました。 二人は愛の行為を焦らずじっくりと実行し、最後に妻は笑顔で夫を抱きしめました。 人前でお互いへの愛を表現することに抵抗を感じる人がいると思いますが、このカップルはためらうことなく愛を表現しており、それは見ていて美しいジェスチャーでした。

私の注意を引いたのは、人々と一緒に座っていた司祭のしぐさでした。 聖木曜日、教会の主任司祭が祭壇に立つのではなく、人々とともに座るというのは多くの人が予想しないことではないでしょうか。 とにかく、彼は人の足を洗うことを志願しました。 彼は前に進み、かがみ込み、水がめを取り、足を洗いました。そして、司祭に足を洗ってもらった人が司祭の足を洗いました。 私は司祭の謙虚さを賞賛しましたが、私にとって彼は素朴な神の人のように見えました。 もし司祭に足を洗ってもらった人がその小教区の信者だった場合、羊飼いである司祭は自分の羊に良い模範を示してくれたと思います。

私が目撃した「足洗式」は、私たち全員が可能な限り互いに奉仕し合うよう招かれていることを思い出させてくれました。 これは、私たちの耳には心地よく聞こえるかもしれませんが実践となると、それがいかに難しいかは分ります。 その夜、教会で経験したことは私に挑戦を与え、愛、謙虚さ、奉仕のより深い意味について考えさせました。 日々の生活の中で司祭としての召命を生きる中で、イエスの「仕えられるためではなく、仕えるため」ということばが私の耳に響き続けることを願い、祈っています。

Bradly Rozairo(ブラッドリー • ロザイロ)
オブレート会前管区長

Copyright ©2024年4月6日

2024年04月05日許可取得
2024年08月06日許可を得て複製

出典 聖母献身宣教会(日本オブレートサイト)