日本 プロライフ ムーブメント

荻野久作博士(世界の荻野)

日本の医学史を飾る偉人の名前を挙げるとしたら、小学生でも野口英世、北里柴三郎などの名前を言うことができる。 しかし視点を海外に置き、日本人の医師の中で最も有名な医師は誰かと外人に訊けば、 それは新潟に住んでいた一介の勤務医、荻野久作先生が間違いなく第一位になるであろう。 

貧しい生い立ち

世界的な学者である荻野久作博士は、明治15年3月25日、愛知県八名郡下条村(現在の豊橋市下条東町)の農家、 中村彦作の次男として誕生した。幼少時から無口なほうであったが、小学生時の成績はずば抜けていた。 下条村高等小学校の卒業試験は平均99点の成績で、もちろん首席での卒業であった。 時習館中学へ進学してからもその秀才ぶりを発揮したが、 貧乏な農家であった中村家には高校に進学させるだけの財力はなかった。 また久作は次男だったので家督を継ぐこともできなかった。久作が生まれた明治時代は、 まだ江戸時代からの長子相続の伝統が残されていて、 どんなに優秀な成績であっても長男以外はよけい者としての扱いを受けていた。このままでは久作は高校にも進学できず、 小作農の百姓になるしかなかった。 

明治33年5月、中村久作が17歳の時に大きな転機が訪れた。 愛知県幡豆郡西尾町に住む荻野忍が久作を養子にしたいと願い出たのである。荻野家は中村家から60キロ離れており、 代々三河西尾藩に使えてきた漢学者の家柄であった。荻野忍も藩主に漢学を指導していた学者であった。 しかし明治維新となって、荻野家も他の士族と同じように凋落していた。 荻野家には男の跡取りがいなかったので養子を探していた。そして中村久作の秀才ぶりを伝え聞くと、 荻野忍は荻野家の復興を久作にかけたのである。 

中村久作が荻野家に養子に入った翌年、荻野忍は日本赤十字の事務員の職を得ることができ、 一家は東京に移り住むことになった。荻野久作は時習館中学から私立日本中学に転校し、 明治35年には旧制一高に入学することになった。荻野久作の成績は優秀であったが、 特に医師になりたいという意志はなかった。おとなしい引っ込み思案の性格だったので政治家には向かず、 さらに文才も美的感覚もないと自分では思っていた。工科、あるいは生物学科に進みたいと漠然と思っていたが、 進路を養父の荻野忍に言い出すほど強い意志はなかった。 

産婦人科に入局

荻野忍は養子の久作が医師になることを望んでいた。 当時の開業医はいずれも収入が良く大きな屋敷に住んでいたからである。荻野忍は凋落した荻野家の再興を願い、 久作を開業医にさせたかった。久作はこの両親の意志を無視することができず、明治38年7月に東京帝国医科大学に入学 、卒業と同時に産婦人科に入局することになった。 

医学部の中では内科や外科が花形であったが、久作はそこで産婦人科を選ぶことになった。 それは養母フサの意志が強く働いていた。フサは忍の後妻であり、前妻の妹、高橋瑞が女性の産婦人科医師で、 羽振りの良い生活をしていることを知っていたからである。高橋瑞は日本で三番目の女性医師で、 日本橋で産婦人科を開業していた。女性の産婦人科医師として繁盛し、多くの書生を抱え、男まさりの働きぶりであった。 フサは高橋瑞の羽振りの良さを見せつけられ、久作を産婦人科医にしたかった。このこともあって、 久作は明治42年に東京帝国医科大学を卒業すると産婦人科学教室に入局することになった。 養母フサは三河西尾藩の御殿女中を勤めた勝ち気な女性である。温厚な久作は養母フサに逆らうことはできなかった。 またに逆らってまで自分の人生を進みたいと思うほどの意志はなかった。 

産婦人科学教室に入局すると、木下正中教授について研究生活を送ることになった。 しかしその当時は入局したばかりの医師は無給だったため、多少のアルバイトはできたものの両親を養う生活は苦しかった 。東京帝国医科大学で2年間の研修や研究に打ち込んだが、荻野家は生活費に困るほど苦しい状態にあった。 そのため久作に早く開業してくれという両親の希望を無視することはできなかった。明治45年、 荻野久作は木下正中教授に生活苦を訴え開業したいと相談した。相談を受けた木下正中教授は、 卒業してまだ2年の開業は早すぎるが、そのかわりに就職先の病院を斡旋すると約束してくれた。 ちょうど久作が教授に相談したのと前後して東京帝国医科大学内科教授入沢達吉が、 親戚である新潟の竹山病院が産婦人科医を捜しているという話を木下教授に持ってきた。 

竹山病院は遠く離れた新潟の田舎の病院である。新潟は生まれ故郷の愛知県とは遠く離れ、厳しい寒さの雪国であった。 しかし荻野久作は教授からの斡旋をすぐに受け入れた。東京にも病院の職はあったが、 東京の病院は月給が50円であるのに、竹山病院では月給200円を約束してくれた。 それほど竹山病院の給料は良かったのである。このように将来を有望視されていた東京帝国医科大学の医師が、 新潟市の竹山病院に就職したのは、養父母の面倒をみなければいけないという単に経済的な理由であった。 

久作は東京を離れ、新潟の竹山病院に赴任することになった。養父の忍も日本赤十字の事務員をやめ、 養母フサとともに新潟に移り住むことになった。荻野家にとって竹山病院は腰掛けにすぎず、 竹山病院で開業資金を貯めて故郷の愛知県で開業する予定であった。 養父母にとっては凋落した荻野家を故郷の三河で再興させることが強い願いであり、故郷に錦を飾ることを常に夢見ていた 。しかし腰掛けのつもりだった新潟の竹山病院で、久作は勤務医として生涯を過ごすことになる。 そしてまた両親も新潟で生涯を終えることになった。 

明治36年に建てられた竹山病院は、木造2階建の長屋のような粗末な病院であった。 荻野久作は産婦人科医長として赴任したが、赴任してみると産婦人科医師は自分ひとりだった。 東京帝国医科大学で2年間修行したとはいえ、2年間の臨床は見学に近いものであった。 産婦人科の知識も少なければ臨床の腕も未熟であった。 それでも患者の前では医長として何でも知っているように振る舞わなければならない。 荻野は手術に立ち会ったことはあったが、それまで一度もメスを握ったことがなかった。初めての手術のとき、 荻野の鼓動は患者の脈よりも早くなった。 

最初の頃は冷や汗の連続であった。誰に教えてもらうこともできず、誰に頼ることもできず、毎晩、 夜遅くまでドイツ語の産婦人科教科書とにらめっことなった。荻野が竹山病院に赴任する2年前に新潟医専( 新潟大学医学部)が創立されたが、荻野は新潟医専の産婦人科に頼らず独学で婦人科疾患を学び、 そして臨床の腕を上げていった。 

荻野のもとには様々な婦人科疾患の患者が押し寄せてきた。毎日、80人の外来患者を診察し、20人の入院患者を抱え、 連日のように手術を行った。荻野の性格は温厚そのもので、患者に接する態度は親切だった。 また治療成績も良かったので新潟の人たちの信頼は大きかった。竹山病院には大勢の患者が集まり、 やがて新潟医専の産婦人科の医局員も荻野のもとで研修するまでになった。 

排卵と月経の謎

多忙な診療を行いながら荻野には心に決めていた研究テーマがあった。それは「排卵と月経」の関係だった。その当時は「 排卵と月経」の関係はまったく未知の分野だった。 

妊娠については、女性の卵子が卵巣から飛び出し卵管に入り、そこで受精して子供ができる。そこまでは解明されていた。 しかし女性の排卵がいつ起きるのか分からなかった。女性の排卵時期に関する論争は、 17世紀に卵巣に卵子が発見されて以来、諸説が入り交じり、まったく未知の分野、学問的には暗黒の世界であっ た。 

排卵日と月経の関係については多くの学説があった。18世紀までは月経は発情期と同じようなもので、 排卵と月経は同時に起こるという考えが支配的であった。多くの動物は発情期に排卵することから、 女性の月経も発情期に相当すると考えられた。またウサギは性交の刺激によって排卵することから、 女性の排卵も月経とは無関係で、性交の刺激によってなされると主張する学者も多かった。しかし19世紀になると、 ドイツで統計的な研究がなされ、月経初日の14日から16日目に排卵が起きる。 あるいは月経初日の8日から14日目に排卵が起きるとする学説が出された。このようにたくさんの学説があったが、 いずれも確実な証明はなされず、排卵時期に関してはまだ混沌としていた。そしていずれの学説でも「 月経や性交などの何らかの刺激によって排卵が起きる」という考えが支配的であった。さらにこれだけ学説があるのだから 、月経と排卵日との関連性はないと主張する学者までいた。 

荻野はこの混沌とした「排卵と月経の謎」を明らかにしたかった。 排卵という人間の誕生につながる基本的問題を解決したかった。 子供ができるためには卵子と精子が一緒にならなければいけない。しかし女性の排卵は月に1回である。 排卵の時期が分かれば、子供をほしがっている夫婦にとっても、ほしくない夫婦にとってもその価値は大きかった。 荻野は日常の診療に追われながら、 この排卵と月経の謎を解くことが自分に与えられた使命であるかのように常に頭から離れなかった。 

月経カレンダー

大正5年、竹山病院の院長が仲人になり、荻野久作は新潟県小千谷市の大塚幸三郎の四女のトメと結婚することになった。 久作34歳、トメ29歳で当時としては晩婚であった。トメは長岡高女を卒業した才女で、久作との結婚以降、 荻野家の家事や姑の世話などこまめに働いた。結婚の翌年には長女の常子が誕生し、その2年後には長男の磐が生まれ、 トメは診療と研究に没頭する久作を支え、荻野家を守ることになった。 

荻野はトメとの結婚が決まると、いきなりふたつのことを願い出た。 ひとつは月経があった日にはカレンダーに斜線の印をつけてほしいということ、もうひとつは夫婦生活があった日には× 印をつけてほしいということである。トメはこの突然の申し出に躊躇したが、久作はトメに対し「 世界であなたにしかできない重大な仕事だ」と説得して同意させた。 

月経カレンダーを頼まれたのは妻のトメだけではなかった。 荻野は自分の患者にも月経と夫婦生活のカレンダーをつけるように頼んでいた。 そして看護婦にも同じように月経カレンダーの記入を依頼した。その当時は今以上に性生活は秘め事であり、 夫婦生活については口に出すのも恥ずかしいことで、 夫婦生活を話題にすることは淫乱な夫婦とのイメージが持たれがちであった。 荻野が多くの患者や看護婦に月経カレンダーをつけてもらえたのは、彼の熱心な研究心、 誠実で真面目な人柄があったからである。さらに、それに答えようとする新潟の明るく、 そして素朴な土地柄によるものであろう。荻野から月経カレンダーを頼まれると、 突然の話に患者は顔を真っ赤にしながらも応じたのである。 

荻野は東京帝国大学の出身でありながら、威張ることを知らなかった。患者を心配させないように態度は穏やかで、 医師というよりも人生の相談役のようであった。診察は丁寧で的確であった。そのため荻野の人気は高く、「 久作先生のためなら何でもする」という患者がたくさんいた。 

排卵日と月経の学説はいまだに混沌としていたが、1913年、ドイツのシュレーダーが「 卵巣の黄体と子宮粘膜に規則的な変化」を見出し、 排卵は月経第1日目から起算して14日から16日の3日間におこるという統計的学説を発表した。当時、 このシュレーダー学説が多くの学者の賛同を得ていた。欧米の婦人は28日の月経周期が多いことから、 シュレーダー学説はいわば欧米では定説になっていた。 そしてドイツ医学に追従する日本の医学界もシュレーダー学説を定説として受け入れていた。 しかしシュレーダー学説は28日周期の女性には当てはまるが、 それ以外の周期の女性には当てはまらないという難点があった。日本の場合は、 月経28日周期の女性は半数に満たなかった。月経周期が一定していない女性も多かった。患者の月経カレンダーをみると 、農繁期や盆暮れなどで忙しくなると月経周期はずれる傾向にあった。このように月経周期に例外が多すぎる以上、 排卵と月経の関係は未解決の問題であり、シュレーダー学説では説明できない部分が多かった。 産婦人科医である荻野はこの「月経と排卵との関係」を明らかにするという当初からの研究テーマを変えなかった。 女性の排卵日はいつなのか、彼の探求心は日々強くなるばかりであった。

肉眼による卵巣の観察

荻野は女性の排卵期をつきとめるため、開腹手術に際しては必ず卵巣を観察していた。卵巣は他の臓器と違い、 一ヵ月単位で周期的に形態が変化するので、それを肉眼で確認していた。そして排卵の証拠となる黄体の観察を行っていた 。卵巣の黄体は卵巣周期によって出没することから、何としても排卵と月経の関係を黄体を手がかりに解明したかった。 つまり卵巣の肉眼所見から排卵と月経の関係を解明できると考えていた。荻野の卵巣の観察は一つひとつが緻密であった。 そして開腹手術を行うたびに多くの臨床データを蓄積させていった。 

女性の卵巣周期について説明すると次のようになる。卵巣は約一ヵ月周期で三段階に変化する。 まず卵巣の中で卵子の元となる原始卵胞が発育しながら成熟卵胞になる(卵胞期)。 そして膨らみを増した成熟卵胞は卵巣の表面に近づき、成熟卵胞の中の卵子が卵巣からパチンと排卵される(排卵期)。 そして排卵後に残された成熟卵胞が黄体へと変化する。黄体は排卵後1日から4日の間に形成され、 赤黄色から黄色に変化しながら直径1センチぐらいの大きさになり(黄体期)、 妊娠しなければ14日ぐらいで萎縮して消失する。もし妊娠すれば黄体は大きさを増し、 胎児が成長するまで黄体ホルモンを出し続ける。この卵巣周期は肉眼で観察することができた。 

このように卵巣の形態を観察すれば約一ヵ月の卵巣周期を知ることができ、黄体の有無、 形状によっていつ排卵したかが分かった。つまり卵巣に黄体があればそれは排卵後の卵巣で、 黄体がなければ排卵前の卵巣ということになる。 

病院では毎日のように開腹手術が行われていた。荻野は婦人科疾患の開腹手術だけでなく、 大腸癌などの外科的疾患で手術が行なわれる場合にも手術に参加し、卵巣の状態を観察した。 そして黄体のある排卵後の患者と、黄体がみられない排卵前の患者について、 次に来る月経が手術から何日目であるかを詳細に記録していった。 排卵したばかりの新鮮な黄体が手術時に観察できた患者の月経は、多くは手術後14日目にあったが、 遅い場合でも17日目までに月経がみられた。この観察は女性の卵巣周期を知る上で価値の高いものであった。 なぜ17日目までに月経がみられるのかは分からなかったが、この観察がその後の荻野学説の基盤をつくることになる。 

昼は診察、夜は研究

大正11年2月、荻野は新潟医学専門学校(後の新潟医科大学)の病理学教室で研究を行う決心をした。 そのため東京帝国大学の木下正中教授から新潟医学専門学校の病理学教室に紹介状を書いてもらい、病理学教授、 川村麟也の部屋を訪ねた。大学で研究を行う場合、研究テーマは担当教授が決めるのが通常である。 しかし病理学教室の川村教授は、荻野に何の研究をしたいかと尋ねた。 教授は東京帝国大学を卒業した荻野に一目置いていたのだった。 

荻野は「排卵と月経の関係」を博士号の研究テーマとひそかに決めていたので、即座に「 排卵周期によって卵巣内で変化する黄体を研究テーマにしたい」と申し出た。「研究材料はどうする」と川村教授が訊くと 、荻野は「手術した臓器を保存してあります」と答えた。この即答に川村教授は荻野の申し出を受け入れ、 教室にある卵巣の標本を自由に使うことを許可した。 川村教授はドイツ留学中に脂質の研究を行っていたので卵巣の黄体にも興味があった。荻野は川村教授の指導を受け、 大正11年2月から7年間、新潟医科大学病理学教室で病理学の研究を行うことになった。病理学教室で「 排卵の時期と黄体、そして子宮粘膜の変化についての組織学的関連性」を探求する研究に取り組んだ。 

竹山病院での多忙な診療に追われ、夜は病理学教室で研究するという毎日が始まった。荻野の頭の中から「 排卵と月経の関係」が離れることはなかった。排卵日が分かれば、子供に恵まれない夫婦の役に立ち、 また子供が多すぎて困っている夫婦にも役に立つ。このような強い信念が彼を支えていた。 荻野は竹山病院での仕事を終えると、新潟医大の病理学教室に直行し、夜遅くまで研究に没頭した。 この生活は土曜日も日曜日もなく毎日繰り返された。一介の町医者として日々の診療に追われながら、 夜は病理学研究室で研究生活を送った。 

荻野は教科書だけでなく、ドイツを始めとした欧米の論文を読みあさった。 しかし排卵と月経の関連を解き明かす答えは思い浮かばなかった。「排卵と月経の関係」 を博士論文のテーマと決めたものの、それはあまりに大きな謎に包まれていた。 妻や患者が持ってくる月経カレンダーを眺めても、月経と排卵には何ら法則性を見出すことはできず、 膨大な月経カレンダーを前にしながら、その謎に頭を抱えこむ毎日だった。 

発想の転換

妊娠を喜ぶ女性もいたが、その一方では8人以上の子供を身ごもりながら、貧困のため苦悩に暮れる婦人も多かった。 子供は授かりものというものの、もし排卵日が分かれば女性たちは望むときに子供を身ごもることができる。 そうなれば女性たちは不妊や多産の苦しみから救われる。この思いが荻野の研究を支えていた。女性の排卵日はいつなのか 、この人体の謎を解明することが彼の研究者としての純粋な気持ちだった。しかし研究は行き詰まっていた。 月経周期と排卵の関係がつかめなかった。 

ある日のことである。以前に子宮筋腫の手術を行った「おハナ」が夫を伴って竹山病院を訪ねてきた。 おハナ夫婦は子供を希望しているのに、子宝に恵まれないとしきりに訴えた。 荻野はおハナの子宮を調べたが異常はなかった。夫の精子を調べたが問題はなかった。 荻野はなぜこの夫妻に子供ができないのか不思議だった。おハナと夫は定期的に性行為を行いながら、 子供ができなかったのである。しかし話を聞いているうちに、おハナは妙なことを言い出した。「 いつも月経が始まる2週間前に腹痛があるので、腹痛のある日は、お腹にさわると思い性行為を拒んできた」 ということであった。この言葉に荻野ははっと気がついた。その腹痛とは排卵時に感じる排卵痛であろう。 そうであれば排卵時に性行為を拒めば子供ができないのは当然のことだった。おハナ夫婦に「 お腹が痛いときに性交渉を行えば子供ができる」と教えると、翌月、おハナは見事に妊娠した。 

そのときおハナが言った、「月経が始まる2週間前に必ず腹痛がある」という言葉が久作の頭から離れなかった。 このおハナの言葉を聞き逃さなかったことが荻野学説誕生のきっかけとなった。これまでの「排卵と月経」 に関する学説のすべては、最終月経から次の排卵日を求めるものだった。だから迷路に迷い込んでいたのである。 

月経から次の排卵日を求めるこれまでの学説は間違いで、本当は逆ではないだろうか。月経は排卵の結果であり、 排卵日が月経日を決定しているのではないだろうか。つまり「月経があって排卵があるのではなく、排卵があって、 その結果として月経がある」という発想にたどりついた。この発想の逆転はまさに「コロンブスの卵」だった。 荻野はこの学説が本当かどうか、過去のデータを調べ直すことにした。 まずドイツの産婦人科学会誌にツィルデバーンが書いた「月経と排卵痛」を記載した論文を思い出し、 書斎に埋もれたその論文を探し出すと徹夜で調べ直した。 

ツィルデバーンの論文には、ある婦人の月経と排卵痛の日が、1917年(大正6年) から1年8ヵ月にわたり記載されていた。その婦人の月経の周期は29日前後が多かったが、 24日から36日と一定していなかった。そのため月経から次の排卵日を求める従来の方法では、 排卵日は月経が始まってから14日から22日目とばらつきがあった。 これまで信じられていたドイツのシュレーダー学説では、この女性の月経と排卵日の間に法則性は見出せなかった。 しかし排卵痛の次に来る月経から逆算して計算してみると、排卵痛は次回月経前の12日から16日の間に集中していた。 排卵痛から次の月経までの期間は、月経周期の長短に関係なくほぼ同じだった。おハナが言っていた「 月経の2週間前に腹痛がある」という言葉が正しかったのである。

ついに排卵時期を発見

排卵痛を訴える女性はそれほど多くない。おハナやドイツの女性に当てはまっても、すべての女性に当てはまるとはかぎらない。次回の月経が排卵時期を決定するという結論を出すにはまだ早かった。荻野の推論が正しいかどうかの検証が必要だった。 

荻野は65例の開腹手術で子宮内膜、卵巣、黄体を観察しており、詳細な記録を残していた。そして手術後何日目に月経が来たのかを記録していた。黄体の状態と月経との関連を調べてみると、例外なく月経前の12日から16日に排卵日が集中していた。このことは排卵は次の月経と密接な関係をもつが、月経が次の排卵を決定することはないことを示していた。 

また患者に書いてもらった月経カレンダーの膨大なデータを調べてみると、月経カレンダーは荻野の考えを裏付けていた。そこで彼は「排卵は次の月経予定日から逆算して、12日から16日前の5日間に起きる」とする新説を唱えたのである。多くの学者が「月経から何日目に排卵がくるか」で争っている時に、不妊患者おハナの言葉をヒントに、「排卵日を次の月経から逆にさかのぼる」という天才的な発想であった。 

ついに荻野久作は世界で初めて排卵時期を発見した。女性の月経周期がまちまちなのは、排卵から次の月経までの期間(黄体期)は一定しているが、卵胞が大きくなって卵巣から排卵するまでの期間(排卵期)が一定していないことが原因であった。だから月経を起点に排卵の日を計算する方法では、一定しない排卵期を算出することになり混乱を生じていたのだった。 

排卵後に黄体ホルモンによって子宮の粘膜は柔らかくなり、受精卵が着床しやすい状態になる。そして受精しなかった場合に、黄体ホルモンの低下により子宮内膜がはがれ血液となって体外に排泄される。これが月経の本態であった。だから月経から排卵日を求めるのは大きな間違いであった。月経は妊娠しなかったための結果であった。荻野久作はついに女性の神秘の謎を解いたのである。 

さらに荻野は自説が正しいことを証明するために妻に頭を下げた。予想される排卵日を避けて性交し、妊娠しないことを確認する。次に、予想される排卵日に性交して妊娠する。この人体実験を妻に頼んだのである。妻のトメは、子供は天からの賜りものだから、意図的に子供をつくるような実験に最初は応じなかった。 しかし久作の学問的熱意に負け、しぶしぶ応じることになった。そして荻野の学説どおり1年後に妊娠した。大正13年9月に次男の荻野博が誕生、次男は荻野学説を証明する子供となった。 

荻野はこれまでの成果を2つの論文として同時に完成させた。「人類黄体の研究」を大正12年、「北越医学会雑誌」第38巻第1号に発表。「人類の黄体の発生について」は「日本病理学会雑誌」の同年2月号に掲載された。黄体発生機序について書かれた論文であるが、その中で「月経は排卵によって起きる」という新しい知見を示していた。 

大正13年、荻野久作は東京帝国大学に主論文「人類黄体の研究」を提出し、同大学から医学博士号を取得した。この博士論文の審査に関し、担当教授はこれまでの学説とはまったく異なっている論文に対し、学位授与を思いとどまるように周囲から忠告を受けたほどである。 

そして同年、この基礎研究をさらに発展させた論文が「排卵の時期、黄体と子宮粘膜の周期的変化との関係、子宮粘膜の周期的変化および受胎日について」という長い題名で「日本産婦人科学会誌」第19巻第6号に掲載された。この論文で、「婦人の排卵期、つまり婦人の受胎期は、月経の長短にかかわらず、次にくる月経の12日から16日前までの5日間である」ことを証明した。 

それは竹山病院の118例の症例を検討しての論文であった。この論文の中に、1人の女性の月経記録が記載されていた。実名は伏せられ37歳の女性と紹介されていたが、その記録は自説を証明するための妻との12ヵ月におよぶ人体実験のデータであった。月経は斜線、性交日は×で示されていた。はじめの10ヵ月は排卵予定日とずらした日に性交し、そして11ヵ月目は排卵予定日に一回だけ性交するという実験であった。そして最後の×印の後に月経が停止し、見事に妊娠したのである。 

荻野学説が認められる

この論文が、「排卵と月経の関連性」を明らかにした荻野学説の最初の論文となった。それまでの産婦人科医の常識は「月経があって排卵が起きる」というドイツ学説によるものであった。しかし荻野学説はドイツ学説を完全に否定する「排卵があって月経がくる」という考えであった。排卵と月経のメカニズムを、次回の月経に結びつけるという偉大な発想であった。荻野は人間の原点ともいえる排卵時期を発見したのだった。 

論文発表の翌年、名古屋で行われた第23回日本産婦人科学会総会で、荻野久作の論文が産婦人科学会の懸賞論文に当選した。学会会場にいた荻野はまさか自分の論文が当選するとは思っていなかった。あまりの名誉に驚き、会場を飛び出し鶴舞公園をとめどなく歩き回った。 

懸賞論文は「日本婦人科学会誌」に発表された最も優れた論文を、年に一編だけ選び懸賞金を与える制度である。この懸賞論文の制度は、日本産婦人科学会を創立した荻野の恩師である木下正中東大教授が設けたもので、すでに木下教授は退官していたが500円を学会に寄付をしてつくられたものである。荻野には金メダルと賞金200円が渡された。 

懸賞論文は学会評議員によって決められるが、荻野の論文を当選させるかどうかで収集がつかないほどもめた。それまでの懸賞当選論文は動物実験ばかりで、臨床研究から大きな発見がなされた論文はなかった。また「月経や性行為が排卵の誘発となる」というこれまでの常識が、荻野の学説では婦人の排卵には誘発というものはなくなってしまう。また、「月経とは排卵後に形成される黄体に由来する黄体ホルモンの分泌量低下に伴っておきる出血」となる。このことはそれまでの学説とはまったく違っていた。荻野の論文はあまりに画期的すぎて、評議員たちは世界で初めて排卵期を発見したこの学問的価値を判断できなかった。しかも大学教授や助教授の論文ではなく、田舎の民間病院の医師の論文である。「田舎の医者に何がわかる」という偏見が強かった。荻野学説が間違っていたら当選させた評議員に責任がおよぶ。このような意見が出され当選論文とすることに反対する委員が多くいた。しかし会長のとりなしで荻野の論文は当選となった。そして彼の当選論文は英訳された。 

ドイツ留学と海外での支持

この論文を発表した後、反対説も多く出たが、荻野学説は比較的容易に日本の医学界で受け入れられた。しかし彼は荻野学説の真価を世界に問いたいと考え、昭和4年8月、ドイツに1年間留学することを決意した。荻野はドイツ語の読み書きはできたが、ドイツ語はしゃべれず、英語もしゃべれなかった。紹介状も持たず、「ドクトール・オギノ」の名刺を持って婦人科で有名な大学を訪ねてまわるという無謀な留学であった。それでもベルリン大学の産婦人科教室では、手術やお産の見学をさせてもらった。言葉は分からなくても、手術やお産は見れば分かるので勉強になった。そして持参した論文をベルリン大学に提出し、「ドイツ婦人科中央雑誌」に「排卵日と受胎日」と題する論文を発表した。そして「婦人の受胎期は月経周期の長短にかかわらず、次回月経前12日から19日の8日間である」とする論文は世界の常識をひっくりかえすものであった。 

次の月経から排卵日を逆算する荻野学説は、学者たちから多くの批判を受けながらも世界的に大きな反響を生んだ。彼が「ドイツ婦人科中央雑誌」第22巻第2 号(1930年)に提出した「排卵日と受胎時期」の論文は、(1)受胎時期は次に来るべき月経前の12から19日目の8日間である。(2)次の月経前の20から24日目の間では受胎は可能であるがまれである。(3)次の月経前の1から11日目の間では受胎は不可能である。このような結語であった。 

これまでの考えとは逆である荻野学説に反論が出るのは当然であった。荻野学説の真偽を問う議論が白熱する中、荻野学説の追試が始められた。第24回ドイツ婦人科学会総会でアルブレヒト教授は「ドイツ女性1033例中、荻野学説に当てはまるもの1000例、当てはまらないもの33例」との成績を発表し、荻野学説を支持した。他にも多くの産婦人科医が追試して荻野学説の正しさを証明した。また実験結果も次々に荻野学説を支持していった。 

海外に広まるオギノ式

昭和5年7月、荻野久作が帰国するとスイスの国際連盟から手紙がきていた。その内容は、オランダのスマイダー医師から荻野の論文をオランダの医学雑誌に転載してよいかどうかの照会であった。荻野が許可すると、スマイダー医師はオランダの医学雑誌に荻野久作の論文を転載するとともに、「この荻野学説は周期的禁欲法として避妊に応用できる」と宣伝文を挿入したのだった。さらに「オギノ式避妊法はキリスト教徒に対する救いの手である」という文章で賞賛した。スマイダー医師はカトリックの医師で、それまでの周期的禁欲法があてにならないことを知っていた。そこでオギノ式なら絶対に大丈夫だと紹介したのだった。これによってオギノ式避妊法が脚光を浴び、荻野久作の知名度は海外で加速度的に高まっていった。特にキリスト教徒のあいだではオギノ式避妊法が大反響で迎えられた。 

キリスト教徒たちは避妊具の使用は禁じられていて、夫婦であっても子供をほしがらない夫婦、あるいはこれ以上子供を欲しくない夫婦は、生涯にわたり夫婦間の性行為はできないという難問に直面していた。オギノ式避妊法は1、2年の間に世界中のカトリック信者の間で広まっていった。「避妊暦」が市販され、カトリック信者以外の人々の間でも流行することになった。そして大流行とともに、オギノ式を避妊法として用いることがキリスト教の教義に反するかどうかの大論争が始まった。 

荻野学説の目的は子供をほしがる夫婦のための受胎法であったが、その本来の目的をはずれ、いつのまにか避妊法として一人歩きしていった。荻野学説はもともと妊娠を希望する夫婦が、妊娠しやすい排卵日を知って妊娠に役立てるためのものであった。しかし逆に、妊娠したくない人にとっては妊娠せずにすむ避妊法と受け取られ、このことから新潟の荻野久作は世界のドクター・オギノになった。その後、この欧米の反響が日本に逆輸入され、荻野は日本でも有名となった。 

国内でも有名に

日本国内では荻野久作の新しい学説は産婦人科医の間では有名であったが、一般人の間では知る人は少なかった。最初に荻野学説を一般人に紹介したのは、昭和2年の「主婦の友」12月号である。「誰にでもわかる、妊娠する日と妊娠せぬ日の判別法」という記事であった。この文章は医師、赤谷幸蔵が書いたもので、 荻野学説に基づいた妊娠暦の紹介であった。つまり荻野学説によって受胎期が算定できることから、受胎調節が可能とした。しかしこの時期には受胎調節法であるオギノ式避妊法はまだ一般には浸透していなかった。 

新潟の民間病院の勤務医だった荻野の学説が注目されるようになったのは欧米からの逆輸入によってである。昭和8年に雑誌「産科と婦人科」が創刊され、その第1号に荻野学説が紹介され、徐々に荻野久作の名前が日本でも浸透するようになった。当時は昭和不況下で、子だくさんに悩む人たちが多かった。そのような人たちの間でオギノ式避妊法が迎え入れられた。しかし戦争が激しくなると「産めよ増やせよ」の富国強兵の国策に沿った受胎法として紹介されることになる。 戦争時代は避妊法を語るのは禁句という雰囲気があった。避妊を口にすることは国賊と言われてもおかしくはなかった。荻野自身も避妊法と受け取られるのは迷惑で、むしろ子供をほしがっている夫婦に役立つ学説であると主張した。しかし婦人雑誌は競ってオギノ式の計算機を付録につけて宣伝した。うまく妊娠する方法と紹介されていたが、もちろん読者はその裏に隠れた避妊法としての荻野学説を応用していた。 

戦後になると人口増加と食糧難から産児調節が叫ばれ、オギノ式避妊法が広まってゆくことになる。小中学生でも荻野久作の名前を知るようになった。オギノ式避妊法は世界の家庭で一般に用いられる避妊法となった。子供を産むため、あるいは産まないために、世界の半数以上の人々がオギノ式避妊法を利用した。 

戦後、アメリカの医師が世界的に有名な荻野久作を訪ねてきたが、あれほど有名な学者がこんな質素な病院で働いていることを知り驚いたという逸話が残されている。

ヴァチカン公認の避妊法

オギノ式避妊法が世界的に有名になったのはスマイダー医師の宣伝がきっかけであったが、 オギノ式避妊法がキリスト教の教義に反するかどうかの議論は決着がつかないままであった。 非公式にはヴァチカンはオギノ式避妊法を認めていたが、オギノ式避妊法に賛成する信者もいれば、反対する信者もいた。 キリスト教はそれまで堕胎はもちろんのこと、避妊さえも公式に認めていなかった。 性行為は子供を作ることが目的であって避妊は堅く禁じられていた。妊娠中の性行為、不妊症夫婦の性行為、 性器以外を用いた性行為、このような妊娠に結びつかない性行為の是非が議論されていた。旧約聖書では、オナニー、 膣外射精でさえも罪とされ、オナンが神に罰せられたと書かれている。しかし時代の流れの中で、 キリスト教がそれまで罪悪視してきた避妊を認めるべきではないかとの議論が盛り上がってきた。 妊娠に結びつかない性行為を宗教的にどう扱うかが議論されるようになった。 

そして昭和43年、キリスト教の歴史の中で初めて避妊を認めるか否かの会議が行われた。 避妊についての諮問委員会が開催され、世界中の神学者や医師が集まり議論がなされた。 諮問委員会の意見は避妊容認に傾いていた。そして最後の決断がローマ法王パウロ六世に求められた。 カトリックの長い歴史の中で、初めてピルやコンドームを認めるかどうか、 世界の7億人近いカトリック教徒が法王の決断に注目した。 

ちょうどその当時は、フリーセックスなどの言葉が流行し、世界的に性道徳が乱れていた時代であった。 この時流にローマ法王が妥協するか、あるいはこの流れに釘を刺すのか、世界中が注目した。 

パウロ六世はこの難題を前に苦悩していた。そして法王は「自然なる性の力を人工的に阻むことは、神の意志に反する」 として、直接に受胎を妨げるピルやコンドームなどの使用を罪として退けた。しかし一切の器具や薬品を使用しない、 禁欲と月経周期を考慮したオギノ式のみは除外するとしたのである。オギノ式だけを唯一の避妊法として認めたのだった。 パウロ六世は荻野学説を「神のおぼしめしの学説」として全世界のカトリック教徒に公表した。「器具や薬品を用いず、 神の定めた人間の身体の法則に従うことは、決して神意に反しない。もし神がこれを嫌うならば、 神は何故人間に不妊期を与えたのだろうか」。 このパウロ六世の発言によりオギノ式避妊法はバチカンが公認した避妊法として世界中の脚光を浴びることになった。 神様でさえ解決できなかった問題をドクター・オギノが解決したと世界中が騒ぎ出した。 

オギノ式乱用者に告ぐ

オギノ式避妊法は世界的に有名になったが、荻野が発見したのは「月経と排卵の関係」であり、 それを応用したオギノ式避妊法は彼にとって不本意のことであっ た。荻野学説は子供がほしい人にとっての受胎法であり、あるいは多産による貧困を避けるもので、 通常の避妊を目的とするものではなかった。しかしその考えとは反対に、オギノ式避妊法が世界的に普及し、 多くの避妊法の中で唯一カトリックが認める避妊法となった。仏教徒である荻野は宗教的論争には関心はなかった。 にもかかわらずオギノ式避妊法はオギノ式受胎法をしのぐ勢いで世界中に広まっていった。 荻野は昭和39年の文藝春秋1月号に「オギノ式乱用者に告ぐ」という題の文章を書き、 オギノ式に従うかぎり1日といえども安全日はない、どうしても子供がほしくなかったら、 オギノ式避妊法の乱用はやめなさいと述べている。 

オギノ式避妊法は月経から排卵日を想定して禁欲する方法であるが、避妊法としては失敗例が多かった。 次の月経を基準に不妊期をはじき出すため、月経周期がずれれば失敗につながった。 月経周期が安定している日本の女性は2割程度と意外に少なかった。 今度の月経は何日頃だからその前の10日間は子供ができないだろう、また月経前後1週間は妊娠しない、 といったいい加減な方法が用いられた。あまりに多くの人たちがきちんと計算をしないで、「今日は安全日」「 1回ぐらいは大丈夫だろう」などと曖昧な言葉を口にしながら利用した。そのため失敗例が多く、荻野自身も「 失敗率100%」というほどであった。月経が順調な女性でも次の月経を決めるのは難しいことで、 どうしても子供を欲しくない夫婦にとってはオギノ式避妊法の乱用は危険であった。 

オギノ式避妊法は月経周期を6回以上記録し、もっとも長い周期と、もっとも短い周期をみつけ、 それをこれからの予定月経日とする。それに精子の生存期間を3日、卵子の生存期間を2日と想定し、 さらに安全のため2日を加え、安全日をカレンダーにマークするという面倒なものであった。 またオギノ式は次の月経を基準とするため、月経不順な女性にとっては一日といえども安全な日はなかった。 このように計算が面倒で、月経周期が不順な女性には適さないことから、 オギノ式避妊法を用いて思わぬ子供を身ごもった例が多かった。成人のほとんどはオギノ式避妊法の名前を知っていたが、 その正確な計算法を知らなかった。またいざというときのために、 月経周期を6回以上記録して準備している女性は皆無に等しかった。オギノ式避妊法は性感を害せず、無害で、 費用もかからず、失敗しても胎児に影響を与えないという利点があるが、失敗例も多かった。 荻野学説は正しかったが避妊法としての応用は難しいといえた。 

避妊法のリスク

とはいえ、その後もオギノ式避妊法は世界中に広まっていった。特に信心深い夫妻たちにとって大きな福音となった。 世界中の厳格なカトリック信者たちにとっては、今でも、「法王が認めた避妊法」 としてオギノ式避妊法だけが用いられている。 

現在、排卵期と月経との関連性についての荻野学説はすでに定説となっている。昭和20年頃、 アメリカのリューペンスタインは「排卵日には女性の体温が0.3から0.5度下がる」ことを発見、 これが後に基礎体温法として避妊に応用されたが、基礎体温法によっても荻野学説の正しいことが証明された。 荻野学説は欧米の教科書にも記載され、単なる学説ではなく人体の生理的真実の発見として評価されている。 またこれほど一般庶民の生活に密着した学説も珍しいものである。 

昭和40年の国立社会保障人口問題研究所のデータによると、日本人の避妊法の約6割がコンドームで、 約4割がオギノ式であった。このようにオギノ式避妊法は多くの日本人に用いられていた。現在、 日本では約8割がコンドーム、欧米ではピルに取って代わられオギノ式は1割前後で、以前ほど用いられていない。 しかし今日でも、安全日はオギノ式、 危険日はコンドームというように2つを組み合わせて用いるカップルが多いのが現状である。 妊娠しやすい時期を避けて性交するオギノ式避妊法は薬剤や器具を用いないため安価で安全であるが、 いい加減な計算による失敗例が多かった。 

昭和50年頃から基礎体温法による避妊法が一般に広まってきた。基礎体温法はオギノ式と同じ周期避妊法であるが、朝、 目を覚ました直後、身体を動かす前に婦人体温計を口の中に入れ体温を測る方法で、面倒で煩わしいという難点があった。 さらに基礎体温法は禁欲期間が長いこともありオギノ式よりも普及していない。 

なお、オギノ式や基礎体温法できちんと避妊しても、女性が1年間で妊娠するのは100人中約15から20件、 コンドームでも12件、ピルを用いても約3から7件とされている。 

驚異的業績の数々

荻野が女性の神秘を真正面から研究し、「排卵と月経の関係」を解明したことは、 人間の身体の謎のひとつを解き明かすものであった。誰も解明しえなかった人間の永遠の真理のひとつを解明したのだった 。しかも特記すべきは、彼の研究成果は新潟医大病理学教室という研究の場はあったものの、 そのほとんどが日常診療からヒントを得たものであったことだ。開腹手術時の卵巣の観察、 排卵痛を訴える患者の言葉を見逃さなかったこと、妻をはじめとした看護婦や患者の月経カレンダー、 このように日常診療における観察の積み重ねが大きな成果をもたらした。荻野久作は158センチの小柄な身体であったが 、その身体には診療と研究を両立させる大きなエネルギーと情熱が隠されていた。 

荻野久作は荻野学説で有名になったが、ほかにも多くの業績を残している。 京都大学の岡林秀一教授が開発した子宮頚部癌の手術法に独創的な改良を加え、「岡林術式荻野変法」 という合理的で根治率の高い子宮頚部癌の術式を開発し普及させた。 この手術法は現在の子宮癌治療の基礎をつくったとされ一般には荻野術式と呼ばれているが、 あくまでも岡林術式荻野変法として発表したことは彼の謙虚さを象徴している。 

大正10年から昭和26年までに行った子宮癌の手術件数は674件で、患者の5年生存率は61.1%であった。 当時としてはこの治癒率は驚異的成績であった。荻野は手術をした患者の術後の経過を年単位ですべて記録していた。 消息不明の患者がいると、本籍や現住所の役所に出向いて患者の予後を調べた。 このように彼の研究は緻密でデータは正確であった。そして荻野久作の子宮癌の手術件数、 治癒した患者数は世界一というのが医学界での定説となった。 市中の多忙な開業医の仕事の中で現在の子宮癌手術の基礎を築き上げ、 さらに58におよぶ論文を書いたことも驚異的な業績である。 

偉大な真の臨床医

荻野は竹山病院の勤務医として60年以上にわたり、生涯に25万人の患者を診察し、約7000人の患者を手術した。 新潟市の人口は40万人であることを考えると驚くべき数値である。彼は無口であったが、 温厚で優しい診察態度は多くの患者の共感を得ていた。新潟市民にとって荻野久作は新潟の誇りであり、 頼りになる存在だった。産婦人科医として、日曜でも夜中でも急患があれば病院に駆けつけた。昼は町医者として働き、 夜は研究者として勉学に励み、学問と診療一筋の半生であった。 そしておハナさんの排卵痛の言葉を聞き逃さなかったことからも分かるように、患者の話をよく聞き、 患者を注意深く観察し、両手で診察し、そして患者の病態を考えたことが臨床医として尊敬すべきところであった。 

この臨床に対する鋭い観察力が偉大な荻野学説に結びついたのである。臨床経験から荻野学説を作り上げた荻野久作は、 その意味では本当の臨床家であった。現在のように、コンピュータの画面ばかりを見ている医師は、 この臨床医としての荻野久作の診療に対する基本的姿勢を是非とも学んでほしいものである。 

そして臨床ばかりでなく真理を追求する科学者としても荻野は鋭い情熱を合わせ持っていた。 学問の常識に流されることなく、常に真理を求めていた。医師として、 あるいは学者としての価値観が他の人物とは違っていた。出世は眼中になく、各大学からの教授就任依頼、 大病院からの引き抜きをすべて断った。名声を顧みず、町医者を自認し、聴診器とメスで新潟市民の健康のために尽くした 。お金や名誉にはまったく無頓着で、名誉よりも新潟市民を愛し、患者が回復することを喜び、 生まれた赤ちゃんの泣き声を聞くことを何よりの楽しみとしていた。 

昭和26年、荻野久作は新潟市名誉市民の称号を受けた。昭和30年、世界不妊学会名誉会長となり、 昭和41年には勲二等の旭日重光賞を受賞した。 勲二等の旭日重光賞を受賞したのは荻野学説による人口問題への貢献がその理由であったが、朝日新聞は「 法王が認めた避妊法」との見出しを掲げ荻野久作の業績を説明した。荻野があまりに有名になったため、 新潟大学の産婦人科教授になる人がいないといわれたほどであった。多くの講演の依頼があったが、 竹山病院の診察を優先し、そのほとんどを断った。荻野は新潟の産婦人科医として、一人ひとりの患者を大切にしていた。 人間そのものが偉大だった。 

昭和11年から昭和32年まで竹山病院の院長を務めたが、院長の職を辞してからも同病院の婦人科の医局員として勤務し 、80歳を過ぎても手術をおこなった。90歳まで診察を続け、 メスは持たなかったが手術の見学を唯一の楽しみとしていた。 新潟の人々にとって診察一筋の荻野久作は偉大な臨床医であった。 

昭和50年1月1日、荻野久作は新潟市寄居町の自邸で老衰によりその生涯を安らかに終えた。除夜の鐘の音に耳を傾け、 静かに雪の降り積もる中、眠るように息を引き取った。明治15年生まれの92歳、 それは長寿をまっとうした大往生であった。1月15日の葬儀は新潟市と竹山病院の合同葬として行われた。 葬儀の日は汚れたものを全部包み隠すような大雪だった。電車も飛行機も止まるほどの大雪であったが、 多くの市民はオーバーを脱ぎ、荻野久作の好きだった「蛍の光」を歌い、別れを惜しんだ。 

荻野久作が亡くなった時、地元の新聞は佐藤総理よりノーベル賞にふさわしい人物と書いた。 たしかに彼はノーベル賞にふさわしい人物であった。それは学者としての業績だけでなく、 新潟の片隅で何万人もの患者のために力を尽くした医師としてふさわしい人物であったと回想される。 

荻野久作は新潟市寄居町に住み、自宅前の市道「寄居通り」を60年近く毎日のように竹山病院に通っていた。 昭和50年3月29日、荻野久作の功績を称え「寄居通り」は「オギノ通り」と名称が変えられた。また平成14年には、 荻野の自宅跡にオギノ公園が完成した。 

緑と花があふれ、せせらぎの流れるオギノ公園には、 椅子に座りタバコを楽しみながらバラを眺めている荻野久作博士の銅像が建てられている。 彼の慈愛に満ちた優しい人柄をその銅像からしのぶことができる。 オギノ公園には荻野久作が愛したバラが数多くの花を咲かせ、新潟市民の憩いの場所となっている。 世界的な学者でありながら名誉を欲せず、新潟市民のために尽くした荻野久作、 その名前は永遠に新潟の地に残ることになった。

Suzuki, Atsushi (スズキ・アツシ)
鈴木 厚(内科医師)
出典 平成医新
2015.2.27.許可を得て複製