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福音のすすめー待降節第2主日

今日の第一朗読と福音書の箇所は、どちらも同じ内容となっています。その内容は、神が通る道は、まっすぐで、でこぼこでない道です。今でいうならば、高速道路のように、舗装された一直線の道を想像すれば良いのではないでしょうか。

(今日の聖書朗読箇所)

第一朗読イザヤ書(40章1ー5,9ー11節)

第二朗読ペトロの手紙 II (3章8ー14節)

福音朗読マルコによる福音書(1章1ー8節)

今日の第一朗読と福音書の箇所は、どちらも同じ内容となっています。その内容は、神が通る道は、まっすぐで、でこぼこでない道です。今でいうならば、高速道路のように、舗装された一直線の道を想像すれば良いのではないでしょうか。とはいいましても、実際の道を表しているものではありません。また、神がいらっしゃる道というよりは、わたしたちが神のもとへ歩んでいく道のことを表しています。つまり、神の道というのは、わたしたちにとってとても歩みやすい道だということです。ただ、現実の道でもそうですが、常に整備していませんと、雑草が生えたり、アスファルトが割れたりします。そこで、今日は、どのように神への道を整備していったら良いのかを一緒に考えていくことにしましょう。 

わたしたちの身の回りにある道路を思い起こしてみましょう。おそらく、水道やガスなどの工事をした後ががたがたになっていたり、傾斜になっていたり、もしかしたら、アスファルトが壊れていたり、ひびが入っているようなところもあるでしょうし、道路に書かれている標識が消えているところもあるでしょう。少なくとも、高速道路を走っているときと比べると状態が悪いのは、一般道路です。それから、高速道路では、最近、車が走りやすいように、トンネルの明かりを今までのオレンジ色から白い色に変えたり、雨が降っても道の表面に水がたまらないようにしているところが増えています。少し、寄り道してしまいましたが、道路上にあるいろいろな障害というのは、わたしたちの神の道に置き換えると罪や人間的弱さです。罪や人間的弱さに打ち勝っていかなければ、神の道を歩んでいくことはできません。何か強く偉そうなことを言ってしまいましたが、少なくとも、打ち勝って生きていこうとする姿勢は大事です。なぜならば、その姿勢がわたしたち人間を完成させる礎となりますし、愛の実践にもつながっていくからです。 

もう少し、根本の問題に触れてみようと思います。はじめにお話しした神への道というのは、けっして空想ではなく、信仰生活の歩み方です。しかも、人間はそのことを知りませんでしたので、神は独り子であるキリスト・イエスをこの世に人間として派遣され、どのように、神への道を整えていけば良いのかを自らの言葉と行いでわたしたちに示してくださいました。わたしたちの信じている神というのは、とても世話好きで、あるときにはお節介のようにも思えてしまいますし、わたしたち人間が何をしようと何も言わずにゆるし、必要なものは無条件で与え続けてくださる人間にとても甘い存在です。 

だからといって、安心して何も努力しないのは、神の意志に反することです。わたしたち人間には、神から自由意志が与えられています。この自由意志というのは、何をしても良いというものではなく、わたしたち一人ひとりが神に従って生きていくか、自分中心に生きていくかの判断をすることです。万が一、神の御前に出たときに神から、「あなたは、このまま永遠にわたしと一緒にいたいですか? 」と訊ねられたときに、「いやあ、あなたと一緒にいると息苦しいので、自分のやりたいように生きていきます」とわたしたちが答えたとしますと、神は、そのことをおゆるしになります。しかし、二度と神と一緒にいれなくなります。その状態は、とても暗く、寂しく、だんだんと生きていくのが辛くなります。なぜなら、そこには真の幸福や希望といったものがないからです。このような状態をわたしたちは望んでいるのでしょうか。おそらく、そのような頑なな人間は誰一人いないとわたしは信じています。なお、その神と絶縁した状態を教会では、「地獄」とよんでいます。 

さて、それでは、どのように、神への道を整備していけば良いのでしょうか。一番大切なことは、この世の道路のようにこまめに道を見回り、少しでも汚れていたり、痛んでいたら整備することです。その見回り方ですが、まずは、心を落ち着かせ、聖霊による助けを求めながら、自分は神の望まれる道を歩んでいたかどうかを振り返ることです。神の望まれる道は、いうまでもなく「愛の道」です。ということは、日々の生活の中で、誰か困ったりしている人がいた場合に、その人を手助けしたり、寄り添って歩んでいくことができたのかどうかです。また、神は、この世の中が平和で、みんなが幸福になることを望まれていますから、そのために自分としてはどんなことが欠けていたのかどうかです。たとえば、難民の人やその他社会から虐げられている人のことを考えたことがあるのか、また、自分は環境を守ろうとしたのかどうかです。少なくとも、自分の利益のみを追い求めていなかったかどうかです。この振り返りは、聖霊とともに第三者の目で自分を見つめ直さなければ、何か理由をつけては自分の方が正しいと思い込んでしまいますので、気をつけなければなりません。そして、もし、そこで、何か足りないことなどがあれば、それを改善していこうとすることです。そのためにも、最低一週間に一度あるミサに参与して、その場で振り返りの時間をもつことが大切でしょう。ミサというのは、そのためにもあるのですから。 

さて、わたしたちが時々立ち止まったり、道を外れたりして道路整備を怠ることがあったとしても、なんとか神への道を歩んでいこうとしますと、この世の中も少しずつ神の国へと変わっていきます。とはいいましても、この世の中の人はキリストのことを知りませんし、福音的生活をしてもいません。これは、キリスト教信者の方たちにもいえることです。でも、先ほどお話ししましたように、少しでもわたしたちキリスト教信者一人ひとりが、愛を実践していく信仰生活を送っているならば、周りの人たちもなにかしらの影響を与えます。中には、自分の生き方を見直す人もいるでしょうし、他にも、わたしたちのような生き方はすばらしいので見倣いたいと思ったりする人もいるでしょう。そのような人たちの数は少ないかも知れません。たとえ一人にでも影響を与えられたなら、今度は影響を受けた人が別の人に影響を与えますと、ほんの少しずつでもこの世の中は変わっていきます。これが、キリストがわたしたちに示された、福音宣教のあるべき姿ではないでしょうか。 

今日の福音書では、洗礼者ヨハネが出てきました。彼は、旧約最後の預言者ともよばれています。彼は、キリストがこの世の中で福音を宣べ伝えるにあたって、そのための地ならし、つまり、人々がどのようにしたら福音的生活を送るべきかを伝えていきました。そして、多くの人が彼の言うことに共感しました。キリストがこの世の中で活動をはじめますと、洗礼者ヨハネのもとにいた人たちは、キリストのもとへと集まってきました。そこで、彼らは、洗礼者ヨハネのときよりも、より深い福音について知り、自分の生き方を変えようとしました。この洗礼者ヨハネの活動をわたしたち一人ひとりがしていかなければならないのです。それは、将来キリストご自身が約束された再臨するときの準備をするためです。この待降節を通し、一人でも多くの人に福音を宣べ伝え、また、自分の生き方をより福音的にしていくことによって、ほんの少しでもこの世の中に神の国を完成させていきたいものです。 

わたしたち一人ひとり、再臨されるキリストを迎える準備をしていくことができますように、聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。

Shimazaki, Hiroki (シマザキ・ヒロキ)
嶋崎 浩樹
出典:LOGOS(みことば)
福音のすすめ
2018年度 B年 12月10日
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