日本 プロライフ ムーブメント

生命尊重(プロ・ライフ)活動のための司牧・使徒職活動計画

「いのちの文化」と「死の文化」との間の劇的な闘争に特徴づけられる現代の社会風潮においては、真の価値と必要を識別できる、深い批判的判断力を研ぎ澄ます必要があります。

まず必要なのは、いのちを擁護する大規模な運動を展開するために、広く良心を結集することであり、倫理的なことがらについて団結して努力することです。これらすべてをもって、わたしたちはいのちの新しい文化を打ち立てなければなりません(ローマ法王ヨハネ・パウロ二世、『いのちの福音』、no.95)。 

はじめに

我々は生命尊重(プロライフ)活動における使徒職活動計画を発表している。この生命擁護運動にて「人間のいのちの価値とその不可侵性を明確に、力強く再確認しようとするものであると同時に、すべての人に向けられた神の名による緊急のアピールでもあります。すなわち、いのち、あらゆる人間のいのちを尊重し、守り、愛し、助けよ、というアピールにもなっているのです。」(『いのちの福音』、no.5)。 

宗教的指導者および教育者として、我々は人間のいのちが神からの尊い贈り物であることを宣(の)べ伝える。この尊い贈り物を受け取った一人ひとりには、神への、自身への、そして他者への責任を担っている。社会はその法律と慣行のもとに人間のいのちをその存在のあらゆる段階においても守り保護せねばならない。こうした信条は、不変の道理から、そして我々の信条における普遍のあかし――「いのちはその受精の瞬間から最大限の配慮のもとに守らねばならない」(Pastoral Constitution on the Church in the Modern World、no.51)――から生まれている。この教えは十二使徒の時代から変わらぬ神の託宣である。 

いのちに対する一貫した倫理観

多種多様な問題が、人間のいのちの保護、人間の尊厳という問題と連なっている。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はこう述べている。「いのちがあるところでは、愛の奉仕は徹して首尾一貫したものでなければなりません。愛の奉仕は、偏見や差別を許容することはできません。それは、人間のいのちはどのような段階にあり、またいかなる境遇にあろうとも、神聖で不可侵だからです。人間のいのちは分割できない善なのです。」(『いのちの福音』、no.87)。 

教会では、人間のいのちの尊厳にかかわる重要な問題のなかでも、人工中絶が必然的にその中心的存在となっている。人工妊娠中絶、すなわち無垢な人間を直接手にかける行為は、永遠に重篤な罪である(『いのちの福音』no.57参照)。その犠牲者は我々のなかでももっとも傷つきやすい、もっとも無防備ないのちである。この法律にまつわる問題に緊急に目を向け、優先権を与えることがなによりも重要である。 

この問題と教会が守るいのちに対する一貫した倫理観は相互補完的な関係にある。いのちに対する一貫した倫理感は教会の福音を道義として説明するものであり、中絶や安楽死への懸念をおとしめるものでも、人間のいのちの尊厳にかかわるあらゆる問題を均一化するものでもない。それぞれの問題に内在する特質を認識し、各問題に首尾一貫した倫理感をもってしてしかるべき場所を与えるものである。米国司教として我々は、戦争と平和、経済上の公平、および人間のいのちの尊厳に影響をおよぼすさまざまな社会問題について司教教書を発表してきた。人間のいのちの尊厳については教会の見解を推進すべく、小教区や学校やその他の教会組織(Communities of Salt and Light〔1994年〕やCatholic Social Teaching〔1998年〕など)を通じてさまざまなプログラムを実施してきた。こうしたさまざまな司教教書や実際のプログラム活動は個々に独立したプロジェクトではなく、あらゆる段階のあらゆる状況の人間のいのちを守るための一貫したプロジェクトである。 

中絶や安楽死という故殺の罪に焦点を合わせることは、中絶や安楽死以外の人間の尊厳をおとしめ人権を脅かす切迫したさまざまな状況に目をそらすことではない。中絶や安楽死に反対することは、「貧困や暴力や不平等に苦しむ人々から目をそらす言い訳としてはならない。人間のいのちにかかわるあらゆる政策は、戦争という暴力や極刑という行為を阻止するものでなければならない。人の尊厳にかかわるあらゆる政策は、人種差別や貧困や飢餓、雇用や教育や住宅供給や医療等の問題に真剣に取り組まねばならない」(『いのちの福音』)。キリスト教徒があらゆる分野での弱者やマイノリティの擁護者であることを我々は願う。「しかし、こうした問題の『正論者』となることが、無垢な人間のいのちを直接攻撃するといった誤った選択の言い訳にはならない。さらに、もっとも無防備な段階のいのちの保護や擁護を怠ることは、その「正義」という立場を疑わしいものとし、コミュニティにおいてもっとも貧困な状況にある人や弱者と呼ばれる人に悪しき影響をおよぼすことになる」(『いのちの福音の実践』、no.23)。 

人間のいのちへの大きな脅威

人間の始まりはいつであろう?「人格の諸権利が不可侵であると荘厳に宣言され、いのちの価値が不可侵であると公式に確認されている、まさにそうした時代にあって、とくにいのちが重要な意味を持つ誕生の時と死の時において、いのちの権利そのものが否定され、踏みにじられるのです」。(『いのちの福音』no.18)非常に困難な状況、ときには悲劇的な状況がいのちに反する選択の引き金となることがある。かかる状況はそうした選択をした咎を小さくはしてくれる。しかしローマ法王ヨハネ・パウロ二世が指摘しているように、こんにち、問題はいっそう複雑になっている。「それは文化的、社会的、政治的レベルに存在する問題です。そのような諸レベルにおいて、問題そのものにいっそう邪悪で憂慮すべき側面があることは明らかです。その側面とは、いのちに対する右に述べた諸犯罪は、個人の自由を合法的に表すものと解し、事実上の権利として承認され擁護されるべきものだとする傾向の中にうかがわれます。このような傾向は、かつてないほどに広く浸透しているのです」(『いのちの福音』no.18)。 

「人間の始まりとは?」――この質問への答えは簡単である。「我々は、無垢ないのちを、いかにそれが傷ついたものであれ、未熟なものであれ、障害があるものであれ、死の淵にあるものであれ、故意に手をかけてはならない、つまり殺人に共謀してはならない、というところから始めなければならない」(『いのちの福音の実践』、no.21)。 

ある種の行為はつねに誤ったものであり、つねに神の愛、人間の尊厳と相反するものである。妊娠人工中絶、つまり出生前に無垢な人間のいのちを直接手にかける行為は、いつの時代においても倫理に背いたものである。いかなる理由においてもそれは胎児の故殺行為である。自殺幇助や安楽死は慈悲の心による行為ではなく、道義上認められない。戦争にて罪のない市民を殺戮する行為、非戦闘員を標的とするテロ行為はつねに糾弾すべきものである。 

毎年中絶による100万以上の死をもたらしている政策や慣例がいのちの尊厳をおとしめている現状は我々の懸念を大きくするばかりである。この司牧・使徒職活動計画において、「中絶とそれ以外の重要な問題との結びつきという大きな課題が指針となる。正確に表現すれば、人間のいのちをとりまくあらゆる問題は複雑に絡み合っており、法律という正義の名のもとに中絶処置にて人間のいのちを死にいたらしめる社会は、別の意味においてもいのちの尊厳をおとしめている。出生前の人間のいのちを守る法律や慣例は、胎児のいのちだけでなく、あらゆるいのちの擁護と結びつくことになる(生命尊重活動における司牧・使徒職活動計画、活動宣言〔1985年〕5)。こうした理由から、中絶という行為に頼る風潮、中絶を承認推奨して助成金まで出している政策、そして安楽死という選択にて故殺を推進しようとする流れのなかでいのちに忍び寄る大きな脅威をここで取り上げている。 

「ロウ対ウェイド」裁判が残したもの

1973年1月、米国連邦最高裁は「ロウ対ウェイド裁判」とその関連裁判「ドウ対ボルトン裁判」の判決により、出生前の人間へのあらゆる法的保護を事実上剥奪してしまった。この「ロウ事件」判決が残したものは無数である。そこには死、哀しみ、そして次のような悲しい混乱が残った。 

  • 出生前、ときにはまさに生まれようとしているときに殺されている何百万といういのち。 
  • 中絶によって傷つき、心の住処や癒しやあきらめを見出すために長い年月を要する無数の女性。 
  • いのちの誕生に関与しながらも、その子どもを守ることを「選択」できなかったことを嘆く男性。 
  • 人命故殺の採決を黙認・容認することによってすさんでいく社会。 

人間のいのちへの攻撃が、家族のなかで、癒しを目的とした専門家を巻き込んで――従来病人や弱者をまもるべき機関にて――行われている。父親――子どもを守るのではなく、その唯一の義務は中絶費用を負担することと信じている――の無理強いによって行われることも少なくない。こんにち、中絶を気軽に支持容認するものは殺人が行われていることを認めており、かつては一般の倫理観から罪とされ、拒絶されていた選択肢が社会的に幅をきかすようになってきた。 

1992年、最高裁は「ロウ対ウェイド裁判」判決を大筋にて是認した。間違いを認め、先の判決を覆すことは裁判所の権威をおとしめるため、としている。また、「人々は、避妊に失敗した際に中絶という手段がある社会にて、異性との親密な関係を築き、自己の見解をもっている」ためとしている。(「家族計画対ケーシー裁判」)つまり、米国人は避妊失敗の対応策として合法化された中絶に依存するようになってしまった。 

2000年、「ステンバーグ対カーハート裁判」においては、裁判所は中絶の自由の範囲を子宮内の殺害から広げてしまった。現在、合衆国憲法は出産時の殺害までも認めている。中絶は、多くの人にとって出生前に妊娠を中断する「権利」としてだけではなく、中絶した子どもが生存しないという保証となっている。これはパーシャル・バース・アボーションや、中期や後期の中絶時にまだ生存している新生児が放置され、死んでいく状況が数多く報告されていることからも明らかである。こうした子どもはそもそも生きることが想定されていないためである。 

現在、人間の疾患を治療する目的で、研究の一環として胎児を意図的に殺処分している研究者がいる。こうした研究は、人間のいのちの質を高めると謳っているものの、実際には「人間のいのちを自由に処理される単なる『生物学的材料』のレベルに引きずり下ろしているのです。」(『いのちの福音』no.14)。実験の対象とされる胎芽は、不妊症に悩むカップルを助けるために体外受精というかたちにて実験室で製造されているものが少なくない。しかしこうした医療行為では、最終的に行き着くところを考えずに人間のいのちを製造しており、科学技術の濫用が生み出したあまたの倫理上のジレンマがそこにある。 

暴力について

我々がめざすところは、出生前の子ども、母体、そして死の淵にある人間への暴力をなくすことである。この目的達成に暴力を用いることはいかなるかたちであれ断固反対であり、そうした手段で目的を達成しようとする行為を糾弾している。この十年、中絶医に対する暴力・殺人事件が発生しており、これは生命尊重を履き違えた人物による悲劇である。人間に対するこうした暴力は弁明の余地のない行為である。神の教え(出エジプト 二十:13)――殺してはならない――に背いている。また多くの米国人にとって、生命尊重(プロライフ)運動が暴力的で狭量であるとの烙印を押すことになっている。我々はこうした暴力を無条件に否定している。 

中絶と避妊

責任ある親に関する教会の福音や聖職者の教えは別の教書にて詳しく説明しているが、ここでもこの問題を扱っている。その理由は、中絶件数を少なくするための方法として避妊を推奨しているグループや、こうしたアプローチを承認していない我々を非難する団体さえあるためである。 

注目すべきことは、避妊を受け入れ、利用する傾向が社会に浸透しているのと同時に、中絶を受け入れ、利用する傾向も広がりをみせていることである。避妊しながらもうっかりと妊娠してしまったカップルは、そうでないカップルよりも中絶という解決策に走る傾向がはるかに大きい。残念なことに我々の社会は、子どもを重荷としてみなし、避妊失敗の「対応策」として中絶を考える精神構造になりつつある。こうしたことがもっとも明白なのが、実際に早期堕胎薬として作用する「緊急避妊」薬(モーニング・アフターピル及びRU486)の開発が押し進められている事実である。 

ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の言葉の通り(『いのちの福音』、no.13参照)、我々は避妊および中絶が「本質的に異なる悪」であるとみなしている。その理由は、「後者は人間のいのちを破壊する」ものであるためである。しかしこのふたつは絡み合っている。心にしかと留めておくべきことは、「避妊」と呼ばれる手段が、実情は堕胎であることが少なくないことである。中絶根絶は避妊推進運動によって実現するのではなく、人間のセクシュアリティや人間のいのちが神聖な贈り物であり、慎重な舵取りを要することを深く理解することによってこそ実現されるのである。 

極刑について

米国は西欧先進国のなかで唯一死刑を実施している国である。司教の死刑反対の声は高まりをみせており、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世や司教は死刑囚への温情ある措置を求めている。死刑反対には誰もが納得する理由――まったくの残酷な行為であり、最終的措置のなにものでもないこと――があり、その不公平な実例や欠陥のある法制度(無実の人間に死刑判決が下されることがあった)への懸念もある。 

カトリック教会の要理は次の通りである――「死をともなわない方法で人々の安全を侵略者から守り、防御できるのであれば、権威を有するものはその方法に限定すべきである。公序良俗を維持し、人間の尊厳に則したものであるためである」(no.2267)。死刑によって殺されたものに敬意が払われることも、残されたものに栄誉を与えることも、ましてやその痛みを和らげることもない。唯一愛と許しだけができることである。米国が裁可している殺人は、あらゆる人間のいのちの価値をおとしめており、国民すべてに悪しき影響を与えている。死刑という処置は、罪人の精神のめざめや悔悛の機会も絶ってしまう。 

人命軽視がもたらした結果――いたるところで発生している暴力、中絶の容認、自殺幇助や胎児を殺処分する研究への高まる擁護――は、極刑の無効化、あらゆる人間のいのちの不可侵性保護への動きに拍車をかけている。「我々のいのちへの敬意は、我々があらゆる人間のいのち、たとえ他人のいのちに敬意を払うことができなかった人間のいのちさえも大切に思ってこそ、もっとも輝かしいものになる」(『いのちの福音の実践』、no.22)。したがって、神が創造したすべての人間、たとえ大きな過ちを犯したものにも神の愛を注ぐことが我々に求められている。そうしてこそ、「刷新された社会の基礎である人間のいのちを無条件に尊ぶような配慮」をつくりだすことができる(『いのちの福音』、no.77)。 

生命尊重運動への献身

生命尊重(プロライフ)の司牧・使徒職活動において、すべてのカトリック教徒、あまたの教会施設や組織に対し、あらゆる人間のいのちを尊重し法的に守ることをめざしたこれまでにない活動への結束を呼びかけている。霊父が願うような人間、つまりいのちを尊び、いのちのともし火を輝かす人になるのである(『いのちの福音』、no.78参照)。我々が望むことは、無垢な胎児や障害者や病人や瀕死の人間のいのちを尊重保護することに力を注ぎ、すべての人間のいのちへの敬意を深めることである。 

プログラム

司牧・使徒職活動計画は教会に属するすべてのもの――人、奉仕、施設――が次の4つの分野にて新たなエネルギーと献身のもとに力を注ぐことを呼びかけている。 (I) 情報と教育の普及――人間のいのちの不可侵性、胎児の人間性、ならびに無垢ないのち――それが始まったばかりのものであっても終焉であっても――を故意に断つことの倫理上の過ち、すべてのいのちを認め献身する教会の使命への理解を深める。 (II) 使徒職活動――妊娠にかかわる問題を抱えている女性、中絶処置にたずさわるすべての人間、障害者や病人や瀕死の状態の人間、およびその家族や介護者、暴力によって愛する人を失った人間、死刑囚を対象とする。 (III) 政策――胎児や自殺幇助にてそのいのちを絶とうとしている人間のいのちを保護する法律の策定。中絶や自殺幇助に取って代わる倫理上容認できる措置の策定。 (IV) 祈りと礼拝――教会の典礼やグループ/個人レベルでの祈りへの参加。現在我々をとりまく「死の文化」を「いのちと愛の文化」へと生まれ変わらせる。 

本計画は米国司教会議と、司祭や助祭や修道者、そして一般信徒との個人レベルかつ集団レベルでの意見交換と協力を考えている。この目標においてすべてのカトリック組織が協力することを期待している。 

教会と他宗教グループのあいだでの意見交換も不可欠である。これからもこうした重要な問題について異教間の協議と意見交換を続けていくことを、そして倫理専門家同士の意見交換を奨励している。 

キリスト教徒がその家族や教会やコミュニティ、そしてその職業人として属する団体組織において生命尊重(プロライフ)の姿勢を押し進めることを願っている。我々は、カトリック系医療施設や医学研究者に対し、あらゆる人間のいのちの守護者であることを願っている。 

あらゆるレベル――国家、地元、州、教区、小教区――にて重要なのは、聖職にたずさわる個人や団体組織の支援を求めることであり、また支援してくれるそうした人間や団体組織のため、つまるところ人間のいのちのため、生命尊重活動の支えとなることである。我々はみな人間の尊厳を高めるという神の働きのなかで結ばれている。 

この司牧・使徒職活動計画を成功へと導く鍵は、知識と献身の心を備えた全米の一般教徒の活動にある。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はカトリック米国教会にてこう述べている――「世界の教会の存在と使命は、一般信徒の聖霊の賜物と奉仕という尊いかたちにてかたちづくられている」(no.44、カトリック米国教会会議、提議55より引用)。特に小教区レベルの一般信徒の献身は、司祭や助祭や修道者の励ましと支えが必要である。 

(I) 情報と教育の普及 

人間のいのちへの敬意を深め、中絶や安楽死に反対する社会の風潮を大きくするには、二層の教育活動――カトリックコミュニティを対象としたものと一般向けのもの――が必要である。 

カトリックコミュニティ

カトリックコミュニティにおける現在進行形の長期・集中型の教育が、本問題の理解を深め、自覚と献身を促すことになる。こうした普及活動では最善の医学/社会学/法学の情報を活用せねばならない。ここでは、受精の瞬間から連綿と連なる人間の発達の連続性を明らかにする医療技術の最新情報も活用する。しかし根本的には倫理と神学がこのもっとも知性を要する問題である人間の生命尊重問題の核となる。 

教会の教えの奉仕に参与している人々が人間のいのちのために捧げてきた献身、そしてこれからも力を注ごうとする姿勢に深い感謝を捧げる。こうした人々が「いのちの文化」を築く本運動の指導者となることを願っている。特に次の人々の献身が不可欠である。 

  • 一般信徒およびボランティア――小教区や社会におけるリーダーの役を担い、その聖霊の賜物と無比の責務にて個人レベル、そして広範なコミュニティに影響をおよぼすことになる。 
  • 司祭、助祭、修道者――小教区プログラムにて、あるいは民間の生命尊重プロジェクトへの支援というかたちにて、説教をおこない、教義を広める任において、御言葉――「折りが良くても悪くても励め」――を宣(の)べ伝える責務がある(テモテへの手紙 二 4:2参照)。 
  • 教会が後援/提携するカトリック系組織――成人向け教育/秘跡の準備(全米、地元、教区、小教区レベル) 
  • 教師、修道士教育プログラム、キャンパス援助組織、教会後援教育機関――青少年を対象にした事実にもとづく情報、倫理教義、動機付けの提供。 
  • セミナーおよび修道士集会所――学芸教育プログラムや司牧・使徒職活動プログラム。 
  • カトリック系ソーシャルサービスおよび医療機関――教育セミナーやその他のプログラム(プログラムの広報活動や中絶に取って代わる処置の提供、中絶後の懺悔と癒し、末期患者や障害者へのケア等をふくむ)。 
  • キリスト教徒の医療従事者――産前/後ケア、遺伝相談、およびそれ以外の人間のいのちの尊厳を保護するさまざまなケア。 
  • カトリック系出版/定期刊行物――掲載記事、論説、広告からいのちに関する教義を広める。 
  • 親――家庭にていのちに関わる重要な問題を話し合い、自ら手本となって方向性を示し、子どもが人間のいのち――受精から自然死まで――を神聖なものとして認識できるように手助けをする。こうした活動のなかで、単なる介護の受け手だけではなく、信仰を同じとするコミュニティにおいて活動的かつ尊い一員である障害者やその家族を受け入れる姿勢がとりわけ求められる。そうした姿勢や行動は、あらゆる人間のいのちの尊厳を守るうえでかけがえのない存在となる。 

教育プログラムは次の内容を含むものとする――人間のいのちの神聖さと尊厳を証明する聖書/神学上の根拠、胎児の人間性に関わる学術的情報(特に遺伝子関連の最新の科学や技術)。 

独立宣言にて明言されているように米国の礎には次のことが反映されている――人間への変わらぬ忠誠/あらゆるいのちを保護し、可能な限りいかなる場合も非暴力的な方法にていのちを守り、無垢ないのちを故殺することのない社会の責務/末期患者や障害者への有効かつ慈悲深い介護/いのちの最期における選択についてのキリスト教教義の教育/妊娠中/後の女性が背負う非常に現実的かつ難しい問題に対する有効かつあわれみ深く倫理的に容認できる解決策に関する情報/中絶という行為の結果に苦しむ女性への支援。 

人間のいのちの神聖と尊厳に関するキリスト教の福音のなかでももっとも包括的な見解は、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の回勅である『いのちの福音』のなかにある。この霊性に満ちた回勅はあらゆる分野にあてはめることができ、『いのちの福音』を宣(の)べ伝えるうえで力に満ちた強い動機となる。『いのちの福音の実践』(Living the Gospel of Life)――1998年に米国カトリック司教が採択した声明書――は福音を米国の特殊な状況にあてはめている。 

司教会議が後援する例年のいのちの尊厳プログラム(Respect Life Program)では、現代社会が抱える大きな問題に関連した情報を取りあげ、こうした問題とキリスト教の福音を関連づけて検討している。この全国レベルのプログラムは、人間のいのちや人間性の尊厳への脅威として挙げられている問題――死刑、戦争、貧困、人口制限、児童虐待や放棄、セクシュアリティのゆがんだ見解、ヒトクローン化、ヒト胚を殺処分する研究など――と関連して中絶や安楽死を捉えており、人間のいのちの神聖と尊厳を呼びかけている。 

一般社会への情報

一般社会を対象とした教育プログラムの主要目的は、いのちを尊重し、中絶や安楽死を拒否する姿勢を育むことにある。現在でもこうしたいのちへの脅威にかんする正確な情報が必要となっている。 

情報普及プログラムでは、中絶やヒト胚を殺処分する研究、安楽死、自殺幇助、嬰児殺し、死刑に内在する人間のいのちや人間性への脅威に対する認識を高めようとしている。プログラムを推進することにより、いのちの権利の法的保護を策定して現状を是正する必要性がはっきりしている。プログラムによって問題の全体像がはっきりとし、これまで関心の薄かった人も確固たる見解をもつことになる。 

プログラム活動は大衆の討論にしかるべき情報を提供し、教会が長年生命尊重のために注いできた献身の軌跡を明らかにする。こうしたプログラムは、多くの女性たちに(しばしば長きにわたって)のしかかる中絶の悲しい衝撃に心晴れる情報を提供することにもなる。 

公共の場に登場するあらゆるプログラムは、その表現にも内容においても人間のいのちの価値を肯定するものでなくてはならず、異を唱えるいかなる人間も尊重したかたちにて説明し説くものでなければならない。そのかたちはさまざまである。声明文、プレスリリース、報道価値のある事件についての正確な報告やこうした事件が発生した際にメディア代表との会談、生命尊重(プロライフ)問題に関する議会やセミナー、教育資料の作成と配布、広報活動や宣伝キャンペーン、新聞広告、地元の店やコミュニティセンターへのポスター配布などがある。

(II) 司牧・使徒職活動

司牧・使徒職活動は、能力と情熱と尊厳のもとにさまざまなかたちとなって提供される。ここには精神的な支援や必要な物資の援助も含まれ、場合においてはコミュニティで提供できる支援の範囲を越えた補足的なサービスが含まれることもある。支援を要する人への司牧・使徒職活動は、教会が示す神の子すべてへの愛のかたちである。 

妊婦のケア

人間のいのちを尊重するということは、特別なケアを要する人に手を差し伸べることでもある。信仰グループの支援のもと、カトリック系組織や機関は、妊婦、特に中絶の危機にある女性や質の高い医療がなかなか受けられない、もしくはまったく受けられない女性に対し、奉仕と介護をおこなう。理想として次のような内容を組み入れたプログラムを考えている。 ・ 中絶に取って代わる処置に関する実際的/教育的情報。 

  • 母親への栄養学的/産前/出産/産後ケア――出生前や新生児医療の最新情報提供等。 
  • 新生児への栄養学的/産後ケア。 
  • 養子縁組や里子を望む人に対する機関支援プログラム、および養子縁組のすぐれた側面を提供する教育プログラム。 
  • 妊娠や子育てに関する問題を抱えている人へのカウンセリングおよび精神的支援(将来誕生するであろう子どもの健康に不安をもっている夫婦や婚約カップルも対象とする)。 
  • 十代および大学在学中に親になった青少年に妊娠中や出産後も学業を続けることを推奨するプログラム――こうした学生が学業を続けることを推奨し、卒業できるように考慮した教育プログラム、大学・大学院進学を奨励するカウンセリングや支援プログラムを含む。 
  • レイプやそれ以外のさまざまな虐待・暴力の被害者への暖かい心のこもった理解、応援、支援。 
  • 若い男女を対象とした道徳教育および妊娠関連知識の提供(各自の生殖能力への責任感をもたせる)。 
  • 自然受胎調節プログラムや責任ある親としての使命を説く教育プログラムの提供(夫婦および婚約カップルを対象)。 

上記サービスの多くは専門家とボランティア双方の奉仕によって成り立つものである。これらサービスは、教会支援の医療機関やソーシャルサービス機関にて提供されてきており、今後も継続されていく。それ以外の官民の機関やボランティアグループや地元コミュニティとの協力体制、および政府レベルの支援を求める姿勢がこの長期レベルの活動を広げていくうえで不可欠である。地元教会でも妊娠支援サービスが増えつつある。これまでに記したサービスは小教区でも可能であるが、小教区プログラムと地元サービスとが連携して支援をおこなう場合もある。 

特に問題のない妊娠であっても、新しく子どもを迎えるカップルには応援や支援をおこなう。親となることに否定的な意味をもたせることが少なくない文化においては、新しいいのちという贈り物を祝福することが重要となる。 

中絶後の癒しとゆるしの秘跡

多くの男女にとって中絶という行為には哀しみと苦悩がつきまとう。長い年月苦しむことも少なくない。現在では女性は中絶後のストレスを口にし、出版物やサポートグループの「チャットルーム」でその悲哀を吐き出している。 

教会では中絶後のトラウマに悩む男女に対してゆるしの秘跡の場を提供するとともに、プロジェクト・ラケル(Project Rachel)と呼ばれることの多い司教を中心としたプログラムにて精神的/心理的ケアをおこなっている。本プログラムは特別な教育を受けた司祭や専門カウンセラーがおこなっており、一対一のケアとなっている。サポートグループや修養グループによる中絶トラウマ支援も多く実施されている。 

教会支援プログラムやカトリック系組織・機関はいずれも中絶後の癒しが必要な人が頼るべき場所を知っておく必要がある。聖職者への中絶トラウマ支援資料類は生命尊重活動事務局(Secretariat for Pro-Life Activities)や多くの教区のプロライフ事務局で入手できる。 

末期患者や障害者や死を迎えようとしている人へのケア

安楽死や自殺幇助は、疾病に苦しむ人や死の床にある人やその家族にとってもっともな解決策に、ときには慈悲深い解決策にさえ思えるであろう。しかしこうした行為は真の解決策ではない。人間としての問題を解決することなく、無条件の愛をもっとも要するいのちを断つだけである。 

キリスト教徒として我々は、重症患者やその家族がけっして見捨てられることのない、献身と友情と愛に満ちた支援が受けられる、「いのちと愛の文化」を築かねばならない。そのために我々がすべきことは次のようなことである。 

  • 小教区やコミュニティのなかで死を迎えようとしている人、特に孤独死の可能性がある人に手を差し伸べ、ともに過ごす時間をもち、とりわけ愛する人の人生の最期に難しい選択を迫られている家族たちを支援する。また、人々に地元のホスピスプログラムへのボランティア活動や支援活動への参加を呼びかける。 
  • 医師や医療従事者に適切な緩和ケアをするように要請する。 
  • 死にゆく人やその家族のため、彼らが必要な尊厳やケアが受けられ、神の安らぎにて慰められるようにミサや自宅にて祈りを捧げる。
  • 自宅で重症患者を介護している家族が一時休養できるプログラム、療養所の訪問プログラム、小教区の介護プログラムをつくり支援する。 
  • 教会コミュニティに障害者を暖かく受け入れる体制をつくる。

囚人、死刑囚、暴力犯罪の被害者へのケア

暴力犯罪がコミュニティで発生した場合、怒りと復讐というかたちで対応したくなるが、福音は更正とゆるしの秘跡と救済を呼びかけており、すべての人間、たとえ恐ろしい犯罪に手を染めた人であっても、そのいのちの尊厳に敬意を払うことを我々に教えている。このようなケアとして我々がすべきことは次のようなことである。 

  • 訪問や文通プログラム等を介した囚人のための救済活動を奨励する。 
  • 囚人対象の精神的ケアが施され、典礼が受けられる体制を築く。 
  • 暴力犯罪の被害者への救済活動を進める。 
  • 囚人の家族(特に子ども)や刑務所内の妊婦や出産したての女性への精神的、物質的支援をおこなう。

(III) 政策プログラム

人間の不可侵な権利を保護し奨励することは、行政のもっとも神聖な責務である。米国人として、そして宗教上の指導者として我々は、人権を守り、公序良俗を維持する法律制度を土台とした行政となるように力を注いでいる。 

我々が心に留めておくべきことは、「教会には、立法や政府や司法にかかわる一般信徒を教育・支援する務めがあり、そうしてこそ法律制定は、正統な人間学と矛盾のない、公序良俗を推進する倫理の価値と原則を反映するものとなる」(カトリック米国教会、no.19、カトリック米国教会会議、提議72より引用)。 

200年以上前に作成された独立宣言は、歴史的な宣言――「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、そのなかにはいのち、自由、および幸福の追求が含まれていることを、われわれは自明の真理であると信じる」――に先立って「自然および創造主の法」を高らかに謳っている。今日、こうした土台となる原則と現実の政治とのはざまにて緊張が高まりつつある。胎児のいのちの権利を無視しようとする風潮や、安楽死や自殺幇助を認めようとする活動ほど、歴然とした事実はない。 

イエス・キリストの教えは「『いのちの福音』」である。そこにはすべての人間に人間の尊厳に満ちた新しい人生を歩むように促している。その教えはこの国の道義の補完的なものであるだけではなく、この社会を蝕みつつある精神の病を癒すものでもある、と我々は考えている。(中略)もっとも弱きものを無視したりなおざりにするなかで、人権を守り、向上していくことはできない。個人の信心深い言行だけでは『いのちの福音』を現実の生活に活かすことはできない。米国キリスト教徒は教義のもとに国の指導者として、証人として、強くそして堂々と福音の道を進んでいかねばならない。そうでなければ、福音の道を歩むことはできない(『いのちの福音』、no.20参照)。法律は生活を守る手段だけではなく、人間の行動や思考への影響において大きな役割を担っており、決定的な役割を担うことも少なくない。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が述べているように民の指導者としての地位には「人々と共通善に奉仕するよう求められて、彼らはいのちを支援することにおいて、とくに立法上の処置をとおして勇気ある選択をする義務を持っています」。これは保留できない責務である。「とくにその人が、立法上の権限、あるいは何ごとかを決定する権限を委任されている場合にはなおさらです。その権限は、当のその人が神にこたえること、自らの良心にこたえること、そして共通善に反するかもしれない選択について社会全体にこたえることを求めるものです。」(『いのちの福音』、no.90)。 

公僕にはその倫理にもとづく信念を政策に適用するという特殊な特権がある。我々は、その地位と権限において、人間のいのちの尊厳を高めようと務めるすがたを尊く思う。キリスト教徒であり民の指導者でありながら、人間のいのちの神聖に関する教会の教えを退け無視するものは、そのおこないにて自身の霊的安定を危機にさらすことになる。「公僕、とりわけ自身が忠実かつまじめな教徒であると公言するものは、無垢な人間のいのちへの直接的な攻撃をその任において擁護することも、積極的に支持することもしてはならない」(『いのちの福音の実践』、no.32)。 

胎児のいのちを守る法律を復活させること、そしてあらゆるいのち、特に障害者や老人や瀕死の状態にある人間のいのちがこれ以上危険にさらされることがないようにすることがなによりも大切である。  包括的な政策プログラムとしては下記の長期、短期の目標を掲げている。 

  • 胎児のいのちを最大限可能なかたちで保護する法律修正案の可決、およびこの目標達成のためのしかるべき方策の探求。 
  • 中絶をできるかぎり制限し、中絶やヒトクローン、ヒト胚を殺処分する研究への政府支援を禁止する連邦/州法および行政法。 
  • 妊娠中絶禁止を否認する米国最高裁やその他の裁判所の判決への継続的な異議申し立て、ならびに最終的な判決破棄。 
  • 中絶に取って代わる倫理上承認できる処置――不利な条件下にある親や子どもへの教育、健康、栄養、その他の支援拡大への助成金など――を提供する法律制定への支援。 
  • 長期的に病いに悩まされている人間や末期状態にある人間に効果的な緩和ケアを提供する連邦/州法制定への支援。 
  • 安楽死や自殺幇助の合法化や国民投票で公認しようとする動きに反対する活動の支援。 
  • 死刑廃止運動への支援。 

政策プログラムは、国家や州や地元レベルでの市民による十分に計画された協力体制での運動が不可欠である。こうした活動はキリスト教徒だけの責務ではなく、大小を問わないさまざまな宗教/非宗教グループの幅広い協調と協力を要する。米国民として、そして宗教的指導者として、人間のいのち保護を確かなものとするためには政策活動にしかるべき倫理が不可欠と考えている。米国民が我々の主張の正当性を認め、目標達成のため協力してくれることを切に願う。 

完璧とはいえない法制度

人間がつくった法律は倫理上不可欠な要素を完全に網羅していないため、つまりいのちの権利を完全に保護していないことから、弱者を守り、すべての人間のいのち、この世に生まれ落ちたいのちも、まだ生まれていないいのちもその権利を保護する義務をさらに完全なものにするため、法制度を継続的に改正する余地があり、また改正していかなければならない。『いのちの福音』にてローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、「欠陥のある」法律――すべての中絶措置を禁止せず、現行の消極的な法律になにかしらの取締りをして中絶件数を制限しようとしている立法制度など――がその時点で最善のものであれば、そうした法律を支持してもよい、としている。そうするなかで現在の法律がもたらす問題を最小限に抑える道を模索していくのである。「このことは、実は不正な法に不法に協力することを意味するのではなく、その法の悪い面を制限する、合法的で妥当な試みなのです。」(『いのちの福音』no.73)。 

(IV) 祈りと礼拝

いのちへの崇高な祈り――世界の隅々まで呼びかける祈り――がなによりも求められている。特別なイニシアティブや日々の祈りを通じて、神への祈りにいのちが吹き込まれる(中略)謙遜と祈り精進する力を新たに見出し、天からの力が嘘と欺瞞の壁を崩すことができるように。この壁が多くの視界から(中略)いのちの敵となる慣例や法律の悪弊をさえぎっている。――(『いのちの福音』、no.100参照)。 

我々一人ひとりが教会の秘跡の生活への参加を継続すること。教区や小教区が祈りや断食のプログラム、信心業プログラムを設けること、そして信徒に日々の祈りを生活に組み入れたプログラムを奨励することを希望している。 

司祭や助祭があらゆる人間のいのち、この世に生まれ落ちたいのちもまだ生まれていないいのちも、その尊厳について、そして中絶や安楽死や自殺幇助や嬰児殺しといった無垢ないのちを故殺する倫理上の罪悪について説くことを奨励している。これも司祭や助祭に要請していることであるが、聖職者やその教区民たちに対して、困難な状況にある人に暖かい心をもって接し、いのちの尊厳を大切にする選択ができるように実生活に役立つ支援をすることを奨励してほしいと考えている。流産や中絶やそれ以外の理由でお腹の子どもを失った哀しみを抱くものに対し、小教区民は特別なケアと祈りを与えるものとする。教会の祈りの本の朗読は年間を通じて人間のいのちの尊厳への敬意を明確にするうえで十分な機会となる。時課や典礼聖歌もまたいのちを祝福し、教会の道義を説くすぐれた機会となる。 

小教区はミサごとに祈り――真のいのちの文化を反映した、あらゆる人間、生まれ落ちたいのちもまだ生まれぬいのちも尊重し守る、という我々の願いが皆の願いとなるように――を捧げるものとする。  毎年、「ロウ対ウェイド裁判」(1月22日)の記念日と合わせて、National Prayer Vigil for LifeがワシントンD.C.の米国無原罪の御宿りの神苑の大聖堂(National Shrine of the Immaculate Conception)にて開かれている。全国から何千という人が集い、開会の祈りや終夜の祈りを捧げている。こうした典礼に出席できない人のために同種の典礼をおこなっている教区や小教区もある。開催日はローマカトリック教会のミサの特定日として指定されている。 

祈りは人のいのちを守る我々のあらゆる行動の礎である。我々の献身――教育、奉仕、立法のいずれにせよ――は、我々自身の心を変えないかぎり、そして我々自身の心に潜む無知の壁を乗り越えないかぎり、完全に実を結ぶことはない。祈りがあってこそ――正義と慈悲を呼び覚まし、我々の心や魂を清める祈り――現在我々をとりまく死の文化をいのちの文化へと変えることができる。 

プログラム活動

我々の社会にて人間のいのちの尊厳を回復することが教会にとってなによりも大切な課題である。この課題は教会のあらゆる施設、機関、組織へと浸透し、さまざまな課題や目標を擁している。下記は胎児のいのちの権利を守る法律を復活・進歩させ、真のいのちの文化を促すうえで、教会の資産である人間や奉仕や施設や財政をあらゆるレベルで組織化させ、割当てたモデル例である。  生命尊重活動委員会に対しては本司牧・使徒職活動計画の進捗状況について司教全体に定期的に報告をすることを要請している。 

州内調整委員会

州内のキリスト教会議やそれに相応する会議にて政策関連事項を全体レベルで調整する必要がある。州内調整委員会は州のキリスト教会議委員長と各教区の生命尊重運動理事にて構成されることが多い。少なくとも数名の委員会メンバーに立法関連活動の経験があるものとする。州内調整委員会の目的は次の通りである。 

  • 社会上、立法上、法律上の動向の監視――特に州における動向や生命尊重活動の実施状況のモニタリング。 
  • 政策関連事項の州内教区における活動の調整と進捗状況の分析。教区や小教区にて「草の根」の活動が行われることも少なくないが、州内調整委員会として活動を最大限に活かすために特殊なプロジェクトの同時遂行を奨励できる。 
  • 州レベルでのさまざまな政党や連合との結びつきの分析(区域の活動状況に影響があるため)。 
  • 州内の生命尊重グループの協力体制の促進。

教区の生命尊重委員会

教区生命尊重委員会は教区内の司牧・使徒職活動の調整をおこなう。本委員会は、教区生命尊重責任者を介して、全国レベルの司教会議の生命尊重活動理事や、全米ヒューマンライフ改正案委員会から情報を入手し、指導を受ける。 

教区委員会は、任命を受けた教区司教である教区生命尊重責任者が主催者となって開かれる。教区生命尊重責任者にくわえて、次のようなメンバーが想定される――教区生命尊重コーディネーター(別に本ポストがある場合)、教区機関の代表者(例:家族生活、教育、青年奉仕、中絶トラウマケア、教区新聞、典礼、保健使徒会、ソーシャルサービス等)、一般信徒組織の代表者(例:コロンブス騎士会、Catholic Daughters of the Americans、Daughters of Isabella、Council of Catholic Women、Holy Name Societyなど)、医療/法律/公共事業/財務のアドバイザー、地元の生命尊重グループの代表者(例:州の妊娠中絶反対組織や妊娠支援センターなど)、小教区の生命尊重/生命擁護委員会の代表。教区生命尊重委員会の目標は次の通りである。 

  • 教区/教区の生命尊重関連の情報や教育プログラムの指導と調整――必要に応じてしかるべき資産を提供。 
  • 教区生命尊重委員会のメンバーに対する教育機会や交友会の提供。 
  • 妊娠関連のトラブルを抱えた女性を対象にカウンセリング・援助をしている地元プログラムの支援。必要に応じて新たなプログラムの設置を進める。 
  • 教区レベルの中絶トラウマケアの促進・支援。 ・ 死を迎えようとしている人間をケアする地元プログラムの促進・支援。 
  • 人間のいのちの尊厳に焦点をあてた祈りや祈りのプログラムの推奨・調整。 
  • 地元の生命尊重グループとの協力体制の維持。地元の生命尊重ロビー活動ネットワーク拡大を支援。 
  • 生命尊重関連問題に関する紙面やメディアのあつかいをモニタリングする地元情報プログラムの維持。しかるべき対応の準備。 
  • しかるべき一般向け広告キャンペーン活動の推進(資金援助を活用)。 
  • あらゆる選任者との有効な意思の疎通(個人訪問、電話、手紙、e-メールにて個人的な親交を深める)。 
  • 生命尊重活動や全米ヒューマンライフ改正委員会の理事との交流。 
  • 司牧・使徒職活動計画の進捗状況の教区司教への定期的報告。

小教区の生命尊重委員会

人間の生命尊重の新しい活動を推奨することがすべてのキリスト教徒の責務である。小教区の生命尊重委員会は小教区内へのライフセンター――教区民がもっとも傷つきやすい立場にある人間(特に妊婦とそのお腹の子ども、重症患者や死の淵にいる人とその家族)の難局を救うことの意味とその重要性を理解できる場所となる――設立を助けるという役目がある。この役目は別の委員会や別の小教区組織の小委員会でもよい。 

どのような組織の構造であっても、そのメンバーには、成人教区民グループと青年グループ双方の代表者、障害者団体のメンバー、マイノリティー団体のメンバー、教育/奉仕グループのメンバーを含むものとする。 

小教区委員会の委員長は司祭が任命する。重要なことは委員長と司祭が手を携えて活動することである。委員長は委員会の奉仕を手伝うボランティアを募る。委員会は構成や人材や関心事においてつねに更新するように心がける。 

本委員会は教区のプロライフ責任者からの情報や指導を受ける。委員会は小教区の日常において不可欠な役割を果たし、司祭や主要な聖職者からしっかりとした支援を受けるものとする。また小教区の別のプログラムで行われる奉仕活動とも組み合わせる。国家レベルにおいて教区民が福音の教えを学び、話し合えるプログラムを設置する、などである。生命尊重委員会の会員はこうしたプログラムに参加し、他のプログラムのリーダーたちも生命尊重活動に参加してもらうように呼びかける。 

小教区生命尊重委員会の目的は次の通りである。 

  • 年度レベルの人間の生命尊重プログラム活動の調整――小教区内の機関や団体組織(特に学校や宗教教育プログラム)への活動奨励。小教区の討論グループに対しては、こうしたプログラムを討論のベースとするように推奨する。 
  • 妊娠カウンセリング、総合的な出産支援サービス、ならびに中絶後トラウマカウンセリングやゆるしの秘跡のプログラムの促進と支援。こうしたプログラムの存在の小教区や地元コミュニティへの宣伝広報。 
  • 妊婦とその子どもへの小教区レベルの奉仕の推進や採用(実施可能な場合)。 
  • 教区民による重症患者や障害者、瀕死の人間やその家族への奉仕活動の推奨と支援。 
  • 妊婦とそのお腹の子ども、死の淵にいる人間、障害者、死刑囚、あらゆる犯罪の被害者、助けを求めているあらゆる人間に対して祈る祈りのプログラムの主催。我々をとりまく「死の文化」を「いのちの文化」によみがえらせる。 ・ 胎児のいのちを最大限守る法律の復活や、重症患者や障害者や瀕死の人間を保護する法律の必要性を訴える。 
  • 教区民への重要な立法措置関連の情報の提供。教区生命尊重責任者の指揮のもと、重要事項の票決がある場合、投書、ポストカードキャンペーンやしかるべき活動を組織化する。

ローカルレベルでの政策活動

連邦レベルのプロライフ法律制定を確かなものにし、憲法改正案を可決させるには、議会メンバーの支援が必要である。こうした議案を票決できるようにメンバーに働きかけるのも民主的活動のひとつであり、地元レベルで進めていくのがもっとも効果的である。特別な下院議員選挙区(特定の信条のある人や無党派層がいる)では市井レベルの活動を通した働きかけが有効となる。 

どのようなかたちで働きかけるにしても、その目的は選挙区民を組織化し、議員に生命尊重の立法措置を押し進めることである。以下にあげたプログラムの目的は、政治的にめざめた献身的な小グループがあってこそ達成される。 

  • 中絶が胎児や妊婦やその家族、そして社会に危害をくわえること、そして生命尊重の立法措置や憲法改正が必要であることを教区民等に知らしめる。 
  • 教区民等を効果的に組織化し、その声が議員や政党に届けられ、考慮されるようにする。 
  • 官公庁の役人等に対して、受精から自然死までの人間のいのちを有効に法律的に保護するように働きかける効果的なメカニズムを構築する。こうしたメカニズムとしては、小教区内の電話網やポストカードキャンペーン、ファックス/e-メールシステム、陳情書プログラムなどがある。他の教会との協力体制がきわめて望ましい。 

ここで注意すべきことは、教会が党派的利害と結びつかないことである。ここには党派的利害などなく、すべてのキリスト教徒が十分な情報を得たうえでその市民権を誠実に行使する責務を奨励し、基本的人権による権利として、そして公民の責務として投票することを目的としている。 

結 語

生命尊重司牧・使徒職活動計画が誕生し、キリスト教会が人間のいのちの尊厳を復活させるために立ち上がってから25年以上が経っている。全国小教区の信者の献身、祈り、寛容の心が大きな力となって目標は着々と達成されている。 

  • 中絶の件数や発生率は1990年代着実に低下している。「プロライフ(中絶反対)派」であると自認する国民が増える一方、「プロチョイス(中絶賛成)派」の数は減っている。世論調査によると米国人は法律が映し出すすがたよりもはるかに中絶反対派である。 
  • 勢力のある資金の潤沢な団体/グループからの反対があるものの、生命尊重運動は国内でももっとも大きな、そしてもっとも効果を生んでいる「草の根」運動のひとつである。 
  • 胎児の人間性やあらゆる人間のいのちの神聖に関する倫理論争が進んでおり、中絶擁護者さえも中絶が人間のいのちの破壊であることを認めている。 
  • 妊娠関連のトラブルを抱えている人間や中絶によって苦しんでいる人間を対象とした奉仕活動が設けられ、広がりをみせており、助けを求めている何千という人に手を差し伸べている。 
  • ほとんどの州議会が中絶を制限し、その件数を削減するための法案を立法化している。 
  • 自殺幇助法案は多くの州で再三無効となっている。禁止する新案を採択している州もある。 
  • 医療業界やホスピスグループやその他の組織/団体が、カトリック系医療従事者との協力のもとに、末期患者への最善のケアをめざし、安楽死や自殺幇助に反対している。 

今なお中絶に関する連邦法はほとんど変わっていない。「ロウ対ウェイド裁判」の判決は、人間のいのち――その受精の瞬間から完全に生まれ落ちるまで――の意義ある保護を不可能にしている。 

米国連邦最高裁が下した中絶に対するこの判決は破棄せねばならない。法王はこう述べている――「いのちの福音は、人間社会全体のためのものです。人工妊娠中絶合法化に積極的に反対するのは共通善を促進することをとおして、社会の刷新に貢献することになるのです。いのちの権利を認めず、擁護せずに共通善を促進することはできません。各個人の譲渡することのできない他のすべての権利は、いのちの権利に基づくものであり、いのちの権利から育っていくのです。」(『いのちの福音』、no.101) 

我々自身の忠誠は揺らぐことがない。我々の献身には終わりがない。我々はいのちが脅かされることがあればいつでもどこでも、いのちの神聖のためにためらうことなく声をあげる。  我々は『いのちの福音』を説き、その福音の道を進む人間を尊重する。 

その平和に満ちた行動、教育、祈り、奉仕を通じて、神の真理を認め、主のいのち――神が愛するように互いに愛し合いなさい――がかたちとなる。我々は我々の兄弟に祈りを捧げる。そしてカトリック教会コミュニティのすべての信徒に改めて呼びかけたい――手を携えて「いのちの文化」を築こう、と。 

「いのちのために働く民」が着実にその数を増し、愛と連帯の新しい文化が人間社会全体の真の善のために発展しますように(『いのちの福音』、no.101)。

 
 

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