日本 プロライフ ムーブメント

平和への道と基盤としての兄弟愛





1 このわたしの最初の「『世界平和の日』メッセージ」により、個人と諸国民を含めたすべての皆様に、 喜びと希望に満ちたいのちが与えられるよう、お祈り申し上げます。実際、 すべての人の心のうちには完全ないのちへのあこがれが宿っています。 このあこがれには兄弟愛への抑えがたい望みも含まれます。兄弟愛はわたしたちを他者との交わりへと駆り立てます。 こうしてわたしたちは、他者を敵や競争相手としてではなく、受け入れ抱き合う兄弟姉妹として見いだすのです。

実に兄弟愛は、人間に不可欠の特徴です。人間は関係的な存在だからです。 このような関係性をはっきりと自覚することにより、わたしたちはすべての人をまことの兄弟姉妹とみなし、 接することができます。兄弟愛がなければ、公正な社会と堅固で持続的な平和を築くことはできません。 すぐに次のことを思い起こす 必要があります。わたしたちはふつう、兄弟愛を家庭の中で、とくに家族全員–とりわけ両親– が補い合いながら担う責任ある役割によって学び始めます。 家庭はすべての兄弟愛を生み出す源泉です。そのため、家庭は平和の基盤であり、平和に通じる最初の道でもあります。 家庭の使命は、その愛を世界に広めることだからです。

現代世界の交流と通信の機会の増大により、 わたしたちは諸国家間の一致と目的の共有をいっそう強く自覚するようになりました。わたしたちは、 歴史のダイナミズムと、民族・社会・文化の多様性のうちに、 互いに受け入れ合い配慮し合う兄弟姉妹からなる共同体を形成する使命が宿っているのを見いだします。しかし、 こうした使命は現代においても、「無関心のグローバル化」を特徴とする世界の中でしばしば妨害され、否定されます。「 無関心のグローバル化」により、 わたしたちは少しずつ他者の苦しみに「慣れ」、自分のうちに閉じこもるからです。

世界の多くの地域では、基本的人権、とくに生存権と信教の自由の権利の深刻な侵害が続いているように思われます。 人身売買という悲惨な現象–そこでは 人命と絶望が容赦なく取り引きされます–は、憂慮すべき一例にすぎません。武力による戦争のほかに、 それほど目立たないながら、残虐さにおいては劣ることのない戦争が存在します。この戦争は、 生命と家庭と企業活動を等しく破壊する手段を用いて、経済と金融の分野で行われています。

ベネディクト十六世が指摘したとおり、グローバル化はわたしたちを隣どうしにはしても、兄弟にはしません(1)。 さらに、さまざまな不平等、貧困、不正の状況は、兄弟愛の深刻な欠如だけでなく、連帯の文化の不在をも示しています。 個人主義と利己主義と物質的消費主義の広まりによって特徴づけられる新たな思想は、社会のきずなを弱め、「使い捨て」 の風潮を助長します。このような風潮により、弱者、すなわち「不要」とみなされた人々はさげすまれ、見捨てられます。 こうして人間の共同生活は、ますます功利的で利己的な単なる「ギブ・アンド・テイク」となるのです。

同時に次のことも明らかです。現代の倫理も、真の兄弟愛のきずなを作り出すことができません。 究極的な基盤としての共通の父に関連づけられることのない兄弟愛は長続きしないからです(2)。 人々の間の真の兄弟愛は、超越的な父を前提し、また必要とします。このような父を認めることにより、 人々の間の兄弟愛は堅固なものとなり、すべての人は互いのことを心にかける「隣人」となるのです。

「お前の弟は、どこにいるのか」(創世記4・9)

2 人間の兄弟愛への使命をよく理解し、兄弟愛の実現の妨げとなる障害を十分に知り、 この障害を克服する方法を見いだすために、神の計画を認識し、それに導いてもらうことが不可欠です。 神の計画は優れたしかたで聖書の中に示されます。

創造の初めに関する記事によれば、すべての人は共通の祖先であるアダムとエバに由来します。 神はご自身の像と似姿としてこの二人を創造しました(創世記 1・26参照)。この二人からカインとアベルが生まれます。この最初の家族の物語のうちに、わたしたちは社会の発生と 、個人と諸民族の関係の発展を見いだします。

アベルは羊飼いで、カインは農夫です。二人の深いアイデンティティと使命は–たとえ彼らの活動と文化、 神と被造物とのかかわり方に違いがあったとして も–「兄弟となること」です。しかし、カインによるアベルの殺害は、 兄弟となるという使命を根底から拒絶したことを悲惨な形で示します。二人の物語(創 世記4・1-16参照)は、一致を生き、互いのことを心にかけるという、 すべての人が招かれた使命を果たす困難さを明らかにします。神は、 羊の群れの中から最高のものをささげたアベルを心に留めます–「主はアベルとそのささげものに目を留められたが、 カインとそのささげものには目を留められなかった」(創世記4・4-5)–。 このことを受け入れられなかったカインは、嫉妬のゆえにアベルを殺します。 こうしてカインは、相手を兄弟として認め、よい関係をもち、神の前で生き、 そのために他者を心にかけて守る責任を果たすことを拒絶します。神は「お前の弟は、どこにいるのか」とカインに尋ね、 彼のしたことを説明するように求めます。カインは答えていいます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」( 創世記4・9)。創世記が述べるとおり、その後、「カインは主の前を去り」(同4・16)ました。

わたしたちは自らに問いかけなければなりません。 カインが兄弟愛のきずなをないがしろにした深い理由は何だったのでしょうか。なぜカインは、弟アベルと彼を結びつける 、相互の交わりのきずなをないがしろにしたのでしょうか。神ご自身が、悪に手を染めたカインを非難し、とがめます。「 罪は戸口で待ち伏せて」(創世記4・7)いると。しかしカインは悪に逆らうことを拒んで、「弟アベルを襲って殺す」( 創世記4・8)ことに決め、神の計画を無視します。こうしてカインは、神の子となって兄弟愛を生きるという、 本来の使命を放棄するのです。

カインとアベルの物語は次のことを教えてくれます。兄弟愛への使命とともに、この使命を裏切る力が、 人類のうちには刻まれています。日々の生活の中に存在する利己主義がこのことを示しています。 利己主義は多くの戦争と不正の原因です。実際、多くの人が兄弟姉妹の手で殺されています。 これらの兄弟姉妹は自分たちが兄弟姉妹であることを認めません。すなわち、互いにかかわり合い、交わり合い、 与え合うために造られたことを認めないのです。

「あなたがたは皆兄弟なのだ」(マタイ23・8)

3 そこで自然に疑問が浮かびます。この世の人間は、 父である神から記された兄弟愛へのあこがれに完全にはこたえることができないのでしょうか。自分の力だけで、 無関心と利己主義と憎しみに打ち勝ち、兄弟姉妹がもっている正当な違いを受け入れることができるのでしょうか。

主イエスが与えてくださった答えを、少し言い換えて、次のように要約することができます。 あなたがたの父は神おひとりだけだ。あなたがたは皆兄弟なのだ (マタイ23・8-9参照)。兄弟愛の根拠は、神の父としての愛です。ここでいう父としての愛は、 あいまいで歴史的に力のない、一般的な意味での父性のことではありません。むしろ、すべての人に対する神の個人的、 具体的かつ特別な愛のことです(マタイ6・25-30参照)。それゆえ、この父の愛は兄弟愛を 力強く生み出します。なぜなら、神の愛は、わたしたちがそれを受け入れるなら、 生活と他者との関係を造り変える強力な動因となり、連帯と真の分かち合いへと人間の心を開くからです。

とくに人間の兄弟愛は、死んで復活したイエス・キリストのうちに、また彼によって、新たに生まれ変わります。十字架は 、人間が自力で生み出すことのできない兄弟愛を築くための決定的な「場」です。 人間をあがなうために人間本性を受け取り、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで御父を愛したイエス・キリストは (フィリピ2・8参照)、復活によってわたしたちを新しい人類とします。 わたしたちは神のみ心と計画に完全に一致します。この計画は、兄弟愛への使命の完全な実現も含みます。

イエスは最初から御父の計画を受け入れ、それが他の何ものにも増して優先されることを認めました。しかしキリストは、 御父への愛のゆえに死に至るまで身をささげることにより、わたしたち皆の新しく決定的な始まりとなりました。 わたしたちはキリストのうちに自分たちを兄弟として認めるよう招かれます。わたしたちは同じ父の子だからです。 キリストは契約そのものです。彼は人間と神とを和解させ、また兄弟どうしを和解させるための場となるかたです。 イエスの十字架上の死は、諸民族の分裂をも克服します。契約の民と異教の民の分裂をも克服します。異教の民は、 このときまで契約の約束から除外され、希望をもてなかったからです。エフェソの信徒への手紙に書かれているとおり、 イエス・キリストはご自身においてすべての人を和解させます。キリストは平和です。二つの民を一つにし、 敵意という隔ての壁を取り壊したからです。キリストはご自身のうちに一つの民、一つの新しい人、 一つの新しい人類を造り出します(エフェソ 2・14-16参照)。

キリストのいのちを受け入れ、キリストに結ばれて生きる人は、父である神を認め、神に自分を完全にささげ、 すべてを超えて神を愛します。和解された人は神のうちに万物の父を見いだします。その結果、 すべての人に開かれた兄弟愛を生きるよう促されます。キリストに結ばれた人は、他者を受け入れ、他者を、 よそ者や競争相手や敵としてではなく、神の子、兄弟姉妹として愛します。 すべての人は神の家族のうちにあって同じ父の子であり、御子における子としてキリストに接ぎ木されるので、「 使い捨てのいのち」など存在しません。すべての人は平等の不可侵の尊厳を享有します。すべての人は神に愛されています 。すべての人は、すべての人のために十字架上で死んで復活したキリストの血によってあがなわれています。だから、 わたしたちは兄弟の運命に無関心でいることはできな いのです。

平和への基盤と道としての兄弟愛

4 以上述べたことから、兄弟愛が平和への基盤と道であることが容易に分かります。 このことに関してわたしの先任者たちの社会回勅がたいへん助けとなります。パウロ六世の『ポプロールム・プログレシオ 』やヨハネ・パウロ二世の『真の開発とは–人間不在の開発から人間尊重の発展へ』 による平和の定義を参照するだけで十分です。 わたしたちは前者から諸民族の完全な進歩が平和の新しい呼び名であることを学びます(3)。後者から、 平和は連帯の行動であることを学びます(4)。

パウロ六世は、個人だけでなく国家も兄弟愛の精神をもって出会わなければならないといいます。「 このような相互の理解と友情の中で、そしてこの聖なる交わりの中で、 人類共通の未来をともに建設する仕事に取りかからねばなりません」(5)。 この務めはまず、恵まれた条件にある諸国にかかわります。彼らの責務は人間的・超自然的な兄弟愛に根ざしており、 三つの形で示されます。一つは連帯の義務です。富める国は発展途上国を助けなければなりません。 二つ目は社会正義の義務です。強い国民と弱い国民の間の不平等な商取引を正しい姿に戻さなければなりません。 三つ目は普遍的愛徳の義務です。すなわち、すべての人のために世界をもっと人間にふさわしいものとすることです。 そこでは、すべての人が等しく与え、等しく受け、 他人を犠牲にして自分だけが発展することのないようにしなければなりません(6)。

さらに、平和が連帯の行動であることを考えるなら、兄弟愛が基本的な基盤であることがおのずと分かります。ヨハネ・ パウロ二世はいいます。平和は分けることができない善です。すなわち、すべての人のためにあるか、 あるいはまったく存在しないかのいずれかです。平和が生活の高い質と、より人間的で持続可能な発展として達成され、 享受されるには、すべての人が「共通善のために働くべきであるとする堅固な決断」(7)をすることが必要です。 すなわち、「利潤至上主義」や「権力の渇き」に導かれてはなりません。他者を搾取するのではなく、他者のために「 自らをささげる」心をもって、また自らを優位に立てるために他者を踏みつけにするのではなく、「彼に仕える」 心構えをもたなければなりません。「個人、民族、国家を問わず、 『他者』を安価に使うことのできる労働力、物理的力をもった、 そして利用価値がなくなればお払い箱とすることのできるある種の『道具』ではなく、わたしたちの『隣人』として、『 助ける者』として」(8)見なければなりません。

キリスト教的連帯は、隣人を「種々の権利を保有し、万人と変わらない基本的な平等性を備えた人格というだけでなく、 御父、神の似姿を体現し、イエス・キリストの血によってあがなわれ、 そして聖霊の不滅の行為のもとに置かれた生きた存在」(9)として、 すなわちもう一人の兄弟姉妹として愛することを前提とします。ヨハネ・パウロ二世はいいます。「このとき、 普遍的な神の父性が認識されるのであり、 『御父のもとでの子どもたち』、キリストのもとではすべての人間が兄弟である、と体得されるのであり、聖霊の存在が、 そしてその生命付与の行為が理解されるのですが、こうした認識や体得や理解の結果、世界を望むわたしたちの視野に、 世界を解釈」し変容「する新しい基準が与えられ、見えてくるのです」(10)。

貧困との戦いの前提となる兄弟愛

5 わたしの前任者は『真理に根ざした愛』の中で、 個人間および民族間の兄弟愛の欠如がどれほど貧困の重要な原因となっているかを世界に思い起こさせました(11)。 わたしたちは多くの社会で、家族や共同体の堅固な関係の欠如による、深刻な関係性の貧困を経験しています。 わたしたちは、さまざまな種類の貧困、疎外、孤独、依存症の増大を、懸念をもって目の当たりにしています。 このような貧困を克服するには、家庭と共同体の中で兄弟愛に基づく関係を再発見・再評価することが不可欠です。 そのために、人間生活に伴う喜びと悲しみ、困難と成功を分かち合わなければなりません。

さらにわたしたちは、一方で絶対的貧困の減少を目にしていると同時に、 他方で相対的貧困の深刻な増大をも認めないわけにはいきません。相対的貧困とは、 同じ地域または社会的・文化的状況に住む個人また集団の間の不平等のことです。これに関して、 兄弟愛の原理を推進する実効的な政策も求められています。それは、その尊厳と基本的権利において平等な個人が、「資本 」、サービス、教育、保健、科学技術の資源を用いることを保障し、すべての人が自らの計画を表明また実現し、 人格として完全に成長する機会を与えられるためです。

収入の過度な不平等を是正するための政策も必要です。いわゆる社会的抵当権に関する教会の教えを忘れてはなりません。 この教えによれば、聖トマス・アクィナス(1224/1225-1274年)もいうとおり、「 人間が固有のものを所有することは」(12)正当であり、必要不可欠でもあります。しかし、物財の使用に関しては「 自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、 すなわち富が自分だけでなく他人にも役立ちうるという意味において共同のものであると考えなければならない」(13) のです。

最後に、すべての他者の基盤にあるべき兄弟愛を推進する–また、それによって貧困と戦う– もう一つの方法があります。すなわち、簡素で最低限の生活様式を生きることを選んだ人、 自分の富を共有のものとすることによって他者との兄弟の交わりを味わう人における、富からの離脱です。 このことはイエス・キリストに従い、まことのキリスト信者となるために不可欠です。これは、 清貧の誓願を宣立する奉献生活者だけでなく、多くの家庭や責任ある市民にもいえることです。 彼らはもっとも貴い富を築くのは隣人との兄弟としての関係であると堅く信じるからです。

経済における兄弟愛の再発見

6 現代の深刻な金融・経済危機–その原因は、人間が次第に神と隣人から遠ざかっていること、 物質的な富の貪欲な追求と、人間関係・共同体的関係の希薄化にあります–により、多くの人は、満足と幸福と安全を、 消費および健全な経済論理に従わない利益のうちに求めました。すでに1979年にヨハネ・ パウロ二世はこう警告していました。「人間の物に対する経済的支配が 進むにつれて、人間はその支配の本質的線を失い、人間性がさまざまな形で物の支配のもとに置かれて– すぐには気づかれないにしても–共同体生活の有機的組織全体を通して、生産機構を通して、 マスメディアの圧力を通して操作されるという現実の危険が感じられます」(14)。

次々に起こる経済危機は、経済発展モデルの再考と、生活様式の変革の機会となるべきです。今日の危機は、 人々の生活に深刻な影響を与えているとはいえ、 賢明、節制、正義、勇気の徳を回復するよい機会ともなりえます。これらの徳は、困難な時を乗り越え、 わたしたちを互いに結び合わせる兄弟のきずなを回復する助けとなることができます。こうしてわたしたちは、 個人の利益を最大化すること以上のものを必要とし、また実現できることに深く信頼を置けるようになります。 これらの徳は、人間の尊厳にふさわしい社会を築き、維持するためにとくに必要です。

戦争を鎮める兄弟愛

7 昨年も、わたしたちの多くの兄弟姉妹が、すべてを引き裂く戦争を経験し続けました。 戦争は兄弟愛に深刻な傷を負わせます。

多くの紛争が起きているにもかかわらず、人々はそれに無関心でいます。わたしは、 武力が恐怖と破壊をもたらしている地域に住むすべての人に、わたしと教会全体が寄り添うことを約束します。 教会の使命は、平和のための祈りと、傷ついた人、飢えた人、難民、避難民、 恐怖のうちに過ごしている人々への奉仕を通じて、忘れられた戦争の無防備な犠牲者にもキリストの愛をもたらすことです 。教会は、政治指導者にこれらの苦しむ人々の苦悩の叫びを聞かせるため、また、敵対関係と、 基本的人権への濫用と侵害をなくすために声を上げます(15)。

そのためわたしは、武力によって暴力と死の種をまく人々に強く呼びかけたいと思います。今日、 倒すべき敵としか考えていない人のうちに、兄弟姉妹の顔をあらためて見いだし、武器を捨ててください。 武力による道を放棄し、対話とゆるしと和解により他者と話し合ってください。そして、 正義と信頼と希望をあなたがたの周りで再建してください。「このような観点から、次のことは明らかです。 諸国民の生活にとって、武力紛争はつねに、可能なあらゆる国際的協調の意図的な否定であり、 修復のために長い年月を要するような深い分裂と傷を作り出します。戦争は、国際社会が目指す大きな経済的・ 社会的目標に達するための努力に対する真っ向からの拒絶です」(16)。

しかし、現在すでに多量の武器が流通しているにもかかわらず、 敵意をかき立てるための新たな理由がつねに見いだされます。そのためわたしは、 核兵器と化学兵器からはじめて武器の不拡散と全面的な軍備撤廃に向けたわたしの先任者たちの呼びかけを自分のものとし ます。

しかしわたしたちは、国際的合意と国内法が–たとえそれが必要不可欠で大いに望ましいものだとはいえ–、 それだけでは人類を武力紛争の危険から守るには不十分であることを認めざるをえません。必要なのは回心です。回心は、 すべての人が他者を兄弟と認め、この兄弟を大切にし、 彼とともにすべての人のために満たされた生活を築くために努力することを可能にします。この精神が、 宗教団体を含む市民社会による平和のための多くの取り組みを促すのです。 すべての人の日々の取り組みがたえず成果を上げますように。また、基本的人権であり、 他のすべての権利を行使するうえでの不可欠な条件である、平和への権利に関する国際法が適用されますように。

兄弟愛を脅かす汚職と組織犯罪

8 兄弟愛の地平は、すべての人の完全な発展にもかかわります。個人、 とくに若者が抱く正当な野心を抑圧し妨げてはなりません。個人の自己実現への希望も奪ってはなりません。しかし、 野心を権力の濫用と混同してもなりません。むしろ反対に、互いに対する尊敬をもって競争を行うべきです(ローマ12・ 10参照)。人生において避けがたいいさかいにおいても、 自分たちが兄弟であることをたえず心に留めなければなりません。それゆえ、隣人を敵や排除すべき相手と考えないよう、 互いに教え合い、自らも肝に銘じるべきです。

兄弟愛は社会の平和を生み出します。なぜならそれは、自由と正義、個人の責任と連帯、 個別的善と共通善の間の釣り合いを作り出すからです。そのため政治団体は、これらすべてのことのために、 透明かつ責任あるしかたで行動すべきです。市民は、 政治権力が自らの自由を尊重し自分たちの代表となっていると感じることができなければなりません。しかし、 市民と政治団体の間に党派的利害がくさびを打ち込むことがしばしば起こります。党派的利害は両者の関係をゆがめ、 絶え間のない紛争の空気を作り出すのです。

個人の利己主義は、人が自由と互いの一致のうちに生きる力に逆らいますが、 真の兄弟愛の精神はこうした利己主義に打ち勝ちます。利己主義は社会的にも拡大します。それは今日蔓延する、 汚職のさまざまな形をとる場合もあれば、小さなグループから国際組織に至るまでの、犯罪組織の形をとる場合もあります 。犯罪組織は法の支配と正義を深く損なうばかりか、人格の尊厳の核心を攻撃します。これらの組織は神にひどく逆らい、 兄弟を傷つけ、被造物を痛めつけます。それが宗教の名のもとに行動する場合はなおさらです。

わたしは次のことにも思いを致します。薬物中毒の悲劇–薬物は道徳法と市民法を無視して利潤を得ています。 自然資源の破壊と進行中の汚染。悲惨な労働の搾取。違法な通貨取引と金融投機–それはしばしば経済・社会 システム全体にとって、略奪する、有害な性格を帯び、何百万もの人を貧困に追いやります。売春–それは日々、 罪のない犠牲者、とくに少年少女の犠牲者を生み出し、彼らから未来を奪います。憎むべき人身売買と、 未成年者に対する犯罪と虐待。今なお世界の多くの地域に恐ろしく広がる奴隷制度。しばしば見過ごされる移民の悲劇– 移民はしばしば不適切にも違法と考えられています。これについてヨハネ二十三世はこう述べました。「 力関係だけに基づいた社会は、人間にふさわしいものではありません。そのような社会においては、 人間の成長や自己実現が刺激され促進されるどころか、人々は束縛され圧迫されているのです」(17)。 しかし人間は回心することができます。生活を改める可能性に絶望する必要はありません。これがすべての人にとって、 それも残虐な罪を犯した人にとってさえも、信頼できるメッセージとなることを願います。神は罪人が死ぬことではなく、 彼が回心して生きることを望むからです(エゼキエル18・23参照)。

人間社会の状況の中で、広く犯罪と刑罰のことを考えるとき、 多くの刑務所の非人間的な環境のことも考えずにはいられません。受刑者はしばしば非人間的な状態に置かれ、 人間の尊厳が侵害され、解放の望みもその表明も抑圧されています。教会は多くの場合無言で、 こうした領域すべてにおいてたくさんのことを行っています。ますます多くのことをしてくださるよう勧め、励まします。 多くの勇気ある人々によってなされるこの分野での活動が、 国家権力によってもますます公正かつ誠実に支えられますように。

自然を守り耕す兄弟愛

9 人間家族は、造り主から自然という共通のたまものを与えられました。キリスト教の創造観は、 自然から恩恵を受けるために介入する正当性に関して肯定的に判断します。ただしその条件は、 責任をもってこの介入を行うことです。すなわち、自然のうちに記された「文法」を認め、 資源をすべての人の益となるように賢く用い、 個々の生物の美と目的と有用性およびその生態系における役割を尊重しなければなりません。要するに、 自然はわたしたちにゆだねられています。 だからわたしたちにはそれに責任をもって管理する務めがあります。しかしわたしたちはしばしば、支配、所有、操作、 搾取しようとする貪欲と高慢に導かれます。自然を守ることも尊重することもありません。世話し、 将来の世代を含む兄弟のために役立てるべき無償のたまものとして自然を考えることもありません。

とくに農業は、人類を養うために自然資源を耕し守るという重要な使命をもつ、きわめて生産的な分野です。 このことに関連して、世界における飢餓の継続という恥ずべき事態は、 皆様とともに次の問いかけを行うようわたしを促します。わたしたちはどのように地球の資源を用いているでしょうか。 現代社会は、生産が目指すべき優先順位の序列を反省しなければなりません。まことに、 すべての人が飢餓から解放されるようなしかたで地球の資源を使用することは、緊急の責務です。 多くの取り組みと可能な解決法が存在します。それは生産量の向上だけに限りません。現在の生産量で十分なのに、 何百万もの人が飢餓に苦しみ、死んでいるのは周知の事実であり、それが真に恥ずべきことです。それゆえ、 すべての人が大地の実りから恩恵を受けられるような方法を見いだす必要があります。 それは、豊かな者と、わずかなもので満足しなければならない者の格差の拡大を避けるためだけではありません。 なによりもそれが、正義と公平とすべての人に対する尊重から要求されるものだからです。これに関して、 わたしはすべての人が、教会の社会教説の基本原理の一つである、 財貨は万人のためにあるという原理を思い起こすべきだと思います。この原理を尊重することが、すべての人が必要とし、 またその権利を有する基本的で主要な財貨を実効的かつ公平に使用できるようにするための不可欠な条件です。

結び

10 わたしたちは兄弟愛を発見し、愛し、体験し、告げ知らせ、あかししなければなりません。しかし、 神が与えてくださる愛だけが、兄弟愛を受け入れ、完全な形で生きることを可能にします。

政治と経済に必要なリアリズムを、理想を欠き、人間の超越的次元を無視した技術偏重主義におとしめてはなりません。 神への開きを欠くなら、あらゆる人間活動は不毛なものとなり、人格は搾取の対象となります。 神はすべての人を愛されます。この神に対する開きが保証する広い空間の中で活動することを受け入れるとき、 初めて政治と経済は真の兄弟愛の精神に基づいて構築され、 人間の完全な発展と平和のために有効な道具となることができます。

わたしたちキリスト信者は、自分たちが教会の中で互いに部分であり、すべての人が互いを必要とすると信じています。 なぜなら、わたしたちにはおのおの、 キリストのたまもののはかりに従って、全体の益となるために、恵みが与えられているからです(エフェソ4・7、25、 一コリント12・7参照)。キリストはわたしたちに神の恵みをもたらすために世に来られました。神の恵みとは、 神のいのちにあずかれるようになることです。それが兄弟愛の関係という織物を紡ぎ出します。この兄弟愛は、 神の愛の広さと深さに従って、互いにかかわり、ゆるし合い、自分を完全に与えます。神の愛は、 十字架につけられて復活し、すべての人をご自分のもとに引き寄せるかたによって、人類に与えられました。「 あなたがたに新しいおきてを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、 皆が知るようになる」 (ヨハネ13・34-35)。この福音は、すべての人に求めます。さらなる一歩を踏み出しなさい。徹底して共感し、 自分から遠く離れた人を含む他者の苦しみと希望に耳を傾け、険しい愛の道を歩みなさいと。この愛は、 わたしたちのすべての兄弟姉妹の善のために無償で自分をささげ、用いるすべを知っています。

キリストはすべての人類を抱き締め、だれひとり失われることを望みません。「神が御子を世に遣わされたのは、 世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3・17)。その際キリストは、 抑圧することもありませんし、すべての人が心と思いの扉をご自身に向けて開くのを強制することもありません。イエス・ キリストはいわれます。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、 仕える者のようになりなさい。……わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22・26-27)。 それゆえ、すべての活動は、人々、とくに遠く離れた人、 まだ知らない人に対する奉仕の態度をもって特徴づけられなければなりません。奉仕は、平和を築く兄弟愛の魂です。

イエスの母であるマリアの助けによって、御子のみ心からわき出る兄弟愛をわたしたちが日々、理解し、 生きることができますように。そして、わたしたちの愛する地上にいるすべての人に平和をもたらすことができますように 。

1. 教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛(2009年6月29日)』19(Caritas in veritate: AAS 101 [2009], 654-655)参照。 【戻る】
2. 教皇フランシスコ回勅『信仰の光(2013年6月29日)』54(Lumen fidei: AAS 105 [2013], 591-592)参照。 【戻る】
3. 教皇パウロ六世回勅『ポプロールム・プログレシオ(1967年3月26日)』87(Populorum progressio: AAS 59 [1967], 299)参照。 【戻る】 
4. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真の開発とは–人間不在の開発から人間尊重の発展へ( 1987年12月30日)』39(Sollicitudo rei socialis: AAS 80 [1988], 566-568)参照。 【戻る】 
5. 教皇パウロ六世回勅『ポプロールム・プログレシオ(1967年3月26日)』43(Populorum progressio: AAS 59 [1967], 278-279)。 【戻る】 
6. 同44(ibid.: AAS 59 [1967], 279)参照。 【戻る】
7. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真の開発とは–人間不在の開発から人間尊重の発展へ( 1987年12月30日)』38(Sollicitudo rei socialis: AAS 80 [1988], 566)。 【戻る】
8. 同38-39(ibid.: AAS 80 [1988], 566-567)。 【戻る】 
9. 同40(ibid.: AAS 80 [1988], 569)。【戻る】
10. 同(ibid.)。 【戻る】
11. 教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛(2009年6月29日)』19(Caritas in veritate: AAS 101 [2009], 654-655)参照。 【戻る】 
12. 聖トマス・アクィナス『神学大全』(Summa theologiae II-II, q. 66, art. 2〔稲垣良典訳、『神学大全18』創文社、1985/1993年、206頁〕)。【戻る】 
13. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』69(Gaudium et spes)。教皇レオ十三世回勅『レールム・ノヴァールム(1891年5月15日)』19(Rerum novarum: ASS 23 [1890-1891], 651)、教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真の開発とは–人間不在の開発から人間尊重の発展へ( 1987年12月30日)』42(Sollicitudo rei socialis: AAS 80 [1988], 573-574)、教皇庁正義と平和評議会『教会の社会教説綱要』178参照。【戻る】
14. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『人間のあがない主(1979年3月4日)』16(Redemptor hominis: AAS 61 [1979], 290)。【戻る】 
15. 教皇庁正義と平和評議会『教会の社会教説綱要』159参照。【戻る】
16. 教皇フランシスコ「プーチン大統領への書簡(2013年9月4日)」(L’Osservatore Romano, 6 settembre 2013, p. 1)。【戻る】 
17. 教皇ヨハネ二十三世回勅『パーチェム・イン・テリス–地上の平和(1963年4月11日)』17( Pacem in terris: AAS 55 [1963], 265)。【戻る】

略号

AAS Acta Apostolicae Sedis 
ASS Acta Sanctae Sedis

Documents, Officialドキュメント, 公文書
教皇フランシスコ
2013年12月8日、バチカンにて
2014年「世界平和の日」(2014年1月1日)メッセージ
出典:カトリック中央協議会
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