日本 プロライフ ムーブメント

妊娠中絶とクローニング:新しいはぐらかし

私はこれから、今までいろいろな主要な場で話されてきた公演を振り返ってみようと思います。つまり、母親の希望でおなかの中の子どもが殺されることをよしとする確立された政策のもっともらしい説明や、未確立ではあるけれども新しく出てきた政策で、体の一部を他人に提供するためだけに生まれてこさせられた子どもたちの現状についてです。これから私が振り返る公演や議論のほとんどは、選択や行動を覆い隠そうとするはぐらかしに他ならないのです。これが私の話の題目です。

しかし、ある点において、あるいはある場合においては、公演の内容は最近になって、今までよりも多少はぐらかしではなくなってきているようです。アメリカ人の倫理及び政治哲学者であるジェフェリー・ライマン氏は、「クリティカル・モラル・リベラリズム:理論と実際」(1997年)という本を最近出版されました。その中には、アメリカの学問の場においては自由主義の中核と受け止められるような議論の多くを採用し受け継ごうという試みがみられます。

妊娠中絶については、氏は二つの点を明確にしています。まず一つは、氏が擁護し奨励しようとしている中絶の権利は、まさにおなかの中の子どものいのちを終わらせ、殺す権利だと述べています。単に母体から胎児を取り出すための権利では十分でなく、そうしようとする時に限って胎児のいのちを終わらせる権利を持つことが、それを取り出すために必要なのだそうです。そうしなければ、女性の権利を否定することになると氏は言っています。それを価値あるものにするためには、しかも多くの男女によってそうされているのと同様にするには、女性の権利が、当然法的にも、赤ん坊を死なせる権利であることなのだそうです。もしその母親が子宮から取り出された胎児の世話までしなければならないような場合、その母親は今日女性に与えられている「中絶の権利」を持っていないことになるというのです。

ライマン氏が明らかにしている二つ目の点は、氏の立場が今のところ比較的中道主義から離れた位置にあることを示唆していると思われます。つまり、新生児にはまったく権利がないというのです。人は自身を自覚し気遣うようになるまでは何の権利ももたないというのです。新生児、それに氏がはっきりと定義していない幼児、そしてある種の精神的障害をもった人には、生きる権利もないし、その価値もない、つまり尊敬に値しないというのです。人類の平等と権利に他ならない観念を無遠慮にも否定したこの言葉は、アメリカの学会においては、なんの物議もかもしていません。私と私の数少ない友人以外に、氏を公に批判する人や団体を私は知りません。ライマン氏は新生児殺しに対する法律を廃止することを求めているのではありません。それに氏は、幼い子どもを殺すことに賛成しているわけでもありません。多くの人が子どもを愛しているので、あまりにも攻撃的になってしまうからです。けれども、道徳的に言うと、彼らには何の権利もないし、生きる価値もない、愛情とは別にしても本質的に尊敬に値しないのです。お察しだと思いますが、ライマン氏は、大人には眠っている間に(眠っている間は新生児と同じように自覚や気遣いに欠けているとされるので)殺されることはないという権利を持つという、自身の主張を擁護するだけの説得力は備えていません。

私の講演の終わりで、最近の「ヒューマニズム国際アカデミーのヒューマニスト受賞者」によるクローニングを擁護する宣言について触れようと思いますが、その際、ライマン氏のような非人類主義の立場をとる人をご紹介しようと思います。

1992年のペンシルバニア南東部vsケイシーの家族計画についてアメリカ最高裁が下した判決という、真実の瞬間、あるいは少なくとも率直な瞬間がやってきたのです。当時のアメリカ政府と勇気ある民主党のペンシルバニア州知事、それに多くの人々が加わって、要求があれば24週まで、「健康」を理由にする場合は完全な出産まで、中絶を合法的に認めることになった1973年のローvsウェイド判決を無効にするように裁判所に求めたのです。この要求は5対4で却下されました。多数派の5人の判事は、中にはレーガン大統領がローvsウェイド判決を覆してくれることを期待して任命した人もいたのですが、当然虚偽とはぐらかしに満ち満ちていたのです。実感していただくためにいくつか例を挙げてみましょう。

私たちは、一個人としては中絶が、道徳の最も基本的な原則を侮辱するものであると感じているでしょう。でもそれだけでは私たちの決意を抑制することはできないのです。私たちの義務はすべての人の自由を定義することであって、自分たちの道徳律を指令することではないのです。

自由の核心となるのは、存在、意義、全人類そして人のいのちの神秘についての各自の概念を明確にする権利であるはずです。これらに関する信念は、国の強制により形成された場合、個性を明確にすることはできません。

妊娠中絶は他の人々に多大な影響を及ぼします。自分の決断にまきこまれて生きていかなければならない女性、その処置を行った者、援助した者、また、罪のない人間のいのちへの暴力以外の何ものでもないとされる処置が存在するという知識に直面する配偶者、家族そして社会に影響を与えます。そしてまた、自身の信念にすがった際の中絶されたいのちあるいは潜在的ないのちにも影響を与えているのです。

それでも率直な瞬間もあるのです。これらの判事たちはローvsウェード判決を覆すことの結末がどのようなものになるかを考慮しているのであって、「生殖の計画は、中絶を禁止する当局の突然な回復を事実上早急に考慮するものです。」という議論に立ち向かっているのです。そして彼らの回答は、経済と社会が発展したこの20年の間、人々は親密な関係を築き、自分及び社会における自分の居場所、そして避妊に失敗したときの中絶の有効性への信頼についての見方を明確にする選択をしてきました。国の経済・社会生活に平等に参加するという女性の能力は助長されているのです。中絶は避妊とまったく同様で、健康にまつわる理由や国の経済・社会生活における平等な参加と頻繁かつ自発的な性交を結合させる理由などが必要とされるのです。

もちろん、これは率直あるいは恥知らずとされるものであり、道徳的真実ではありません。「世の中で最も大切なのは自分のことだけを考えることである。」といった道徳的真実のアドバイスは込められているのでしょうが。

これらの判事たちによる判決は、スカリア判事が異議を唱えたことによって見事に覆されたのでした。彼は当時最高裁で活躍している唯一のローマカトリック教徒でした。(ローvsウェード裁判の建設者で1990年までの計略に富む被告弁護人はウィリアム・J・ブレナンというローマカトリック教徒でした。)けれどもスカリア判事の判決にも、その核心において悲劇的な欠陥がありました。判事は、ローvsウエードの判決及びケイシーの判例における判決の大部分において、おなかの中の子どものいのちは人間のそれではなく、「人間のいのちの可能性を有するもの」としかみなされていないという点を指摘しています。この仮説が一度も立証されたことはなく、またいかなる反論からも擁護されたことがないという点をも指摘しています。ところが、彼はこんな大きな問題について、口にしたのです。

「もちろん、これを法的問題として決定する方法は皆無なのです。実際、これは価値観の判決なのですから。」

いいえ、スカリア判事。これは価値観の判決などではありません。事実、真実の判決なのです。きっと判事のおっしゃる「価値観の判決」は「論争上の判決」を意味しているのでしょう。そうだとしてもまだ甘いと思います。論争的というのは、実際には異なった意見を闘わせるというだけのものだからです。生まれてくるまで、あるいは「生育力が得られる」までのおなかの中の子どものいのちは人間のいのちではないという考えは、当然生命の初期の段階から人間であるという理由から、筋の通った意見だとはいえません。そのような考えは、自分自身または他人のためにその人を自分の将来から消し去る力を持つ「自由」と選択を望む場合、または合理主義によってその選択の本質を自分自身または他人から隠そうと望む場合を除いては、誰にも支持されることがないでしょう。

中絶における妊娠中絶合法化反対派の立場が公の議論の場から、判断が正しくないとか間違っているなどの反論もできないまま除外されている現状について、哲学者たちがここ数年議論するのがはやっているのも別に驚くことではありません。それは、判断がまだおなかの中にいる子どもの本来の姿に関する事実についてであろうと、人間の権利に関する道徳についてであろうとも、です。

これらの哲学者の中にジュディス・ジャーヴィス・トムソンという人がいます。彼女は1970年に中絶に関するよく練られた哲学的主張を提示しました。それは、女性には自分の体を好きなようにする権利があり、見知らぬ人に手を貸す義務はないというものでした。1995年には新しい主張を提示しましたが、それは要求があり次第中絶ができるという法的制度を正当化し、それを正当化するにあたって、おなかの中の子どもには意図的または不当に殺されない権利と殺人に対する法律を平等に守る権利があるという中絶合法化反対派の本質的な議論において何ら問題がないかのように述べているものです。議論は以下のように発展しました。

まず、〔中絶の〕限定的な規制は、女性の自由を容赦なく束縛するものです。そして、その自由の束縛は、束縛された女性が拒否することが無分別ではないという考えのもとに課されるものであってはいけないのです。そして三つ目に、胎児は受精の瞬間から生きる権利を持つという主張を拒絶する多くの女性がそうすることは無分別ではないのです。1

いいですか、彼女はこれらの女性の意見が正しくて、中絶合法化反対派のそれが間違っていると思わせるような理由を探そうとしているのではないのです。この議論の論点は、彼女もはっきりさせているように、中道的な反中絶についての道徳的議論と結果に対抗することなく結論を出すということなのです。つまり、おなかの中の子どもたちには意図的にあるいは不当に殺されることのない権利があり、殺人に対する法から平等に守られる権利があるというものです。だからこそ、私たちは彼女の立場を精巧なはぐらかしだと言っているのです。

彼女の議論、または策略は、その目的から外れていると思います。彼女は、本人も認めていることですが、おなかの中の子どもが殺されることについて、また殺されることのない道徳的権利、そして法のもとに守られる道徳的権利についても、(例えば)新生児とは別の問題であることについて議論を提供しているのではありません。けれどもそのような議論が欠落している状態では、おなかの中の子どもの生きる権利を否定する多くの女性の立場は、彼女も言うように、筋の通ったことではないのです。むしろ不合理なのです。このような女性たちの多くが、あるいは何人かが、他の事柄に関して全体的にあるいは多くの部分にあるいは一部において合理的であるという事実も、彼女たちの立場が合理的であるとか、一般的な道理と一致していることには決してならないのです。ある一点について、あるいは場合によっては複数の事例において(その人の私欲や先入観にかかわる特別な感情的源にかかわるものの場合は特に)不合理な立場をとっていたとしても、その人のことを「合理的な人」だと呼ぶことはできます。

アメリカを代表する政治哲学者であるジョン・ロウルズ氏は、トムソンの論点の大意については認めています。彼はそれを頼みの綱としてそうしたのです。以前、彼は自身の本である「政治的リベラリズム」の中の悪名高い一説において、「合理的とされる人ならみんな、『健康な成熟した女性には自分の子どもを自分の都合のために、妊娠3ヶ月まで、あるいはそれ以上の時期においても、殺してしまう権利がある』という点について同意するものと期待されているし、『合理的とされる人ならみんな同意するものと期待されているので』同意しない人たちは非民主的であるとみなされ、有無をいわせずに彼らの意見は無視されるべきなのです。彼らの妊娠中絶合法化に反対する主張に、議会や下院などの公開討論の場をかりて異議を唱えようとするのは間違っています。この一節は、自由な中絶を支持する人々の間でさえも広く満足を得られるには至りませんでした。だから彼の頼みの綱はトムソン氏の見解だったのです。

おなかの中の子どもを自由に殺すことを認める大多数の決断が『合理的とみなされるべき』とか『絶対的な原則で市民を束縛するもの』であると主張したロウルズ氏は、それが人を惑わすような誤ったもので、その結果基本的正義を拒絶したものであろうと、中絶反対派の市民(氏には偏見をもって『カトリック教徒』と呼ばれていますが)についていくつかの主張を続けているのです。

「〔1〕彼らは自分たちにおいては中絶する権利を行使する必要がない。〔2〕彼らはその権利を合法だと認識できるはずである。だから、〔3〕力ずくで抵抗しようとはしない。〔4〕それは無分別なことではないか。つまりそれは常識的な道理をわきまえない一般市民に対して、自分たちの総合的な主義を押し付けようとするものに他ならないのである。」(1vi-1vii)

これらの4つの主張は、どれも道理にあっているとはいえません。主張〔1〕は、議論においてロウルズ氏側の「社会の道理」としてとおる怠慢さを暴露するものであります。中絶反対派の市民たちは、いくつかのよい主張をもって、中絶がむしろ奴隷を支配しているようなものであると訴えています。つまり、市民として保護されるべき権利を奪われた人々に、過激で根本的な不正を行っているようなものなのです。「あなた方自由な市民は、その立場において〔奴隷を支配したり〕〔自分の子どもを中絶したり〕する権利を行使する必要はない。だから、われわれみんなに適用する私たちの法をあなたは合法だと認めることができるし、そうしなければならない。」というのが返答でありますが、これはあつかましいだけであって、思慮を欠くものであります。

主張〔2〕―「彼らはその権利を合法だと認識できるはずである。」というのは、大多数がひどい不公平を正当と認める場合にさえ、あるいは、それが相互関係の原理や基準と首尾一貫しているかどうかを示すことなくそうする際に、「絶対的な原則」が束縛するものであることを想定しているのです。彼の同情をひく不公平に関するこの仮説をロウルズ自身が受け入れると信じる人はいるでしょうか?

似たような哲学まがいの主張が、最近ドイツを代表する政治哲学者ユルゲン・ハーベルマス氏によって提案されました。「倫理」と「道徳」を区別して考える人です。倫理は、単に「人は自分をどう見るかと人は誰になりたいのか」を考えるものだと彼は言います。だから、「すべての人の利益」にかかわる「道徳」とは違う分野のものになるというのです。2この区別を、彼はロウルズ氏が自身の「包括的原理」と「常識的道理」を区別するのとほとんど同じ方法で展開しています。それぞれの区別は無視することのできない大きな問題から巧みに逃れるための精巧な手段なのであります。ロウルズ氏は、先にも述べましたように、幼いおなかの中の赤ん坊の殺害に対する反論をはぐらかし、これらの反論は「重複する意見の一致」なるものや「常識的」感覚における「道理」なるものの枠にはまるものではないと主張しています。ハーベルマス氏も単に「倫理的」でしかないという理由で、同じような反論を回避しています。つまり反論は、すべての人が平等に受けられる利益と道徳的に不可欠な尊重が必要とするものについてではなく、単に「私たちにとって最善のこと」についてのみ、気にしているというのです。そこで彼は、多くのいのちを意図的に終わらせることを合法的に認めるという、非常に多くの人間を見捨てるかなり誤った合理化を提案しています。そうすることによって、決断はすべての人の利益のもとに下されなければならないという自身の根本的「道徳的」命題を断念することになるのです。そして、自身の「さらに広い地域社会へのアピール」を放棄しているのです。3

彼の主張は次ぎのように続くのです。中絶の賛成派と反対派の間で交わされる議論は通常道徳的なそれではありません。単なる「倫理的」なもので、「私たち」の視点から「私たちにとって最善な」規制が何なのかを問う倫理的疑問でしかないのです。4だから、現実において意見の相違が「話し合いや妥協によって解決することができなければ」その問題は新しい「レベル」のものに格上げされなければならない、と彼は言うのです。

一人一人の参加者は、倫理的な問題から顔をそむけなければなりません。そして、代わりに道徳的視点からどの規制が「すべての人に平等に良しとされるのか」を共存のための平等な権利に対する先ほどの主張を考慮して検討しなければならないのです。5

規制が「平等によしとされる」べき「すべての人」には、おなかの中にいる(または永遠に意識不明となった)子どもは含まれていません。むしろ含まれているのは、これらの殺害を選択したいと望む人々、または「その必要がある」すべての人々、それらに反対する人々、そして多かれ少なかれ無関心を装う人々、なのです。「共存のための平等な権利」は「おなかの中の子どもと永遠に意識不明に陥った子どもの平等な権利」ではありえず、それはいわゆる「倫理的」論争における片一方の人々が支持しているものなのです。とんでもありません。論争のそちら側にいる人々はみんな、―今こそ対する側の「共存の権利」によってー対する側の人々が自分たちの提案する殺害(むろん、多くの場合が不本意ながらでしょうが)を選択するのをただ眺めているべきなのです。

これについての標準的な期待、(必要とされる場合は、私たちは「私たちの」見解から倫理的に非難されるべき振る舞いをするもう一方のグループのメンバーを許容することもあります)は、必ずしも私たちの誠実さを傷つけることをほのめかすものではないのです。「私たち」(例えば、「開放的な」中絶法に直面しているカトリック教徒として)は、今までどおり他のグループの法律的には許される慣習を倫理的レベルで忌み嫌っていくべきなのです。その代わりに私たちにとって法的に必要なのは、「私たち」の見解においては「倫理的」常識からはずれていると思われるような慣習を許容するということなのであります。6

しかし、これらすべては、中絶や安楽死、そしてそれらに関する法律についての実際的及び歴史的論述をもとの面影も残らないほどにゆがめてしまうものなのです。ウォルトン委員会が安楽死に関する報告を行った際に、法律上正当と認められた安楽死や殺人幇助に対して満場一致で否決されたことを説明していましたが、それはまさに正義を口実に行ったものでした。

意図的な人殺しを社会が禁止することは法律と社会関係においての第一歩となるのです。それは私たち一人一人を公平に守り、私たちがみんな平等であることに確信をもたせてくれるからなのです。7

1998年5月に、ピーター・シンガーと私がオクスフォードの哲学ソサイエティでこれらの問題を討議したときには、私たちが議論しているのが、「私のあるいは私の支持者の立場から」みた「私あるいは私の支持者にとってそれぞれ最善のこと」が何なのか、または「私の誠実」を保護あるいは傷つけるものが(不合理にも、ソクラテスが示したように)正義と切り離すことができるのか、についてであったことに気がついた人は、私たち自身にも、そしておそらく、当時その部屋にいた多くの哲学者たちにもいなかったのです。倫理的疑問が「私の立場からみて善(または正義)が何であるかという主張に暗に意味された純真な相対主義は、決定的に批判され、それが倫理的論説(議論、論争)を事実上無意味なものにするという論証のもと、遅くとも1960年までは分析的な哲学からは置き去りにされていたのです。

ロウルズ氏の「キリスト教徒」に向けた意見は、ハーベルマス氏の挑発に際立ってよく似ています。つまり、「例えば、キリスト教徒は中絶や安楽死について傍観し、容認している。なぜならそのような「行動」は私たち(あなたたち)の誠実さをほのめかしたり、傷つけたりすることがないから。」というものです。ロウルズ氏の言葉は、「彼ら(キリスト教徒)は、彼らの場合においては中絶する権利を行使する必要がない。」8つまり、こういうことです。中絶に反対している一般市民は、中絶がどちらかといえば奴隷を所有しているようなものだという立派な議論を主張しています。

(圧倒的な俗人及び非キリスト教徒からなるウォルトン委員会は、安楽死においても本質的に同じ基本的平等の権利にかかわる問題があるとしています。)この市民たちの論拠は、ロウルズ氏とハーベルマス氏が擁護する法律のもとにおける人殺しが、市民権の保護を奪われたあるいは今後奪われるであろう人々に課された根本的、基礎的不正であるというところにあります。ロウルズ氏とハーベルマス氏の論証から得られる回答は次のようなものになるでしょう。「あなた方のような自由な市民には、実際に〔奴隷を所有したり〕〔(自分の子どもを中絶する)権利を行使する必要はないはずである。だから、他の人々には適用するものとして(もし妨げようとするなら、あなたに対してこれを守らせなければならない)、この法律を合法であると認めなければならない。〕「あなた方はこれらの〔人殺し〕〔奴隷の所有〕を自分で行う必要はない。あなたの誠実さは傷つけられずにすむから、あなた方と共存するというもっと重要な権利を行使することを傍観し容認してくれる(そして無理に従わせる)べきなのである。つまり、〔奴隷と共存すること〕〔おなかの中の(胎児)や生きる価値のない人々との共存を終わらせる〕権利である。9

不正を許容するということについては、ある程度の影響力はありそうです。ロウルズ氏とハーベルマス氏が意図する議論、つまり不正などないというものはまったくのはぐらかしであり、間違いなのです。

クローニング

クローニングは、生殖の複製です。生物学的に言うと、それがコピーされたものだという事実は、その事実を暗にほのめかしているに過ぎないのです。(羊のドリーを作り出すのに使われた技術では、女性の性細胞の皮が使われ、それに加えて別の羊の体細胞が使われました。しかし、男性の要素はというと、これからクローニングされる体の細胞のドナー(あるいはドナーの祖先)の性的一世代におけるものを除いて、過去のクローニング前の時点、つまり製造の過程において、あっさりと消えてしまったのです。クローニングの結果生まれた人間は双子、「遅発の遺伝的双子」であります。つまりクローンを作り出すのに体細胞が使われた擬似親(ドナー)から生まれたものなのです。このドナー親から生まれた双子は、非常に小さな胎児が人工的に双子にさせられたことによって分裂されたものなのかもしれません。あるいは、それは成人で、体細胞の一つが性細胞の皮に挿入されたことによって人工的に「活発にさせられ」、「全能生」、つまり分離によって体のどの部分にでも発達できる能力を持てるようになったのかもしれません。それは生命の最初の5~6日間において細胞の一つ一つが受精卵または非常に小さな胎児の中に持っているものなのです。

これらのいずれのクローニング技術も、胎児を作る細胞が全能性をもたなくなり特殊化するまでは、胎児は人間、または一個人ではないとの主張を正当化したい神学者や他の人々による議論の方向が無意味なものであることを明白にしている点に最初に気づくべきことでしょう。これらの議論の方向性は多くの理由から根拠が薄弱であります。根本的に、胎児は、単細胞、または二細胞、あるいは四細胞であろうと、単一性、個性そして各部分と見分けがつかないほどの全体をともなった完全な個人なのです。それはこれらの部分がそれぞれ多かれ少なかれ全能性を有している細胞であろうとも、なのです。そしてこれは、羊のドリーの実験により確立されたとおり、成人の細胞は取り出されて全能生を有することができ、それによって受胎の時から備えていた個性を一切失うことなく成人が実際は双子として生まれることができるという事実により明らかにされたのです。

もしそのような人間生物体全体、胎芽、胎児そして子どもたちのクローニングが可能となれば、その子ども、または胎児は当然完全な人間として作り出され、他のいかなる普通の双子、または他のいかなる人とも同じように何とも言いようのない唯一のものとみなされるべきです。しかし、彼らの世代の環境は、製造によって、すでにあるものを劇的に表現しており、それほど劇的ではないとしても体外受精(IVF)による世代全体においてそうなっているのです。10このIVF世代の子どもたちの特徴は、分析11を行った素人哲学者たちによって苦心して明らかにされました。その分析の本質的な結論は、キリスト教会の教理問答書第2377節に記されています。

そのような受精は、胎児のいのちとアイデンティティーを医師や生物学者の権力にゆだねてしまうことになり、それは人間の起源や運命を技術が支配してしまうことになります。そんな支配関係は、それ自体が両親と子どもにとって当たり前の威厳と平等と相容れないものにしてしまいます。

この素人哲学者の一人、ゲルマン・グリゼッツ氏は、哲学的意見を述べています。つまり、当然赤ん坊を産もうと選択する人は、将来の終止への一手段としてその選択をしているに過ぎない。赤ん坊が個人の尊厳を分かち合うのにふさわしい親交の中で正真の親子関係に恵まれるようにと願うだろう。もし実現すれば、この意図された最後は赤ん坊と両親の両方にとってよいものとなる。しかし、例えそうだとしても、赤ん坊を産む選択はよい終わりへたどり着くための悪い手段の選択なのである。なぜなら赤ん坊の結果としての子どもとしての最初の身分は準個人的なものであるからである。この身分の重要性は、研究室の欠陥品が廃棄され、その過剰製品が致命的な実験に使われるときに最も明らかにされるものである。12

だから、体外受精のあらゆる形と同じようにクローニングにとっても危険な基本的問題は、平等な威厳が保てるかどうかという点なのです。この威厳の平等は、当然死を意図した中絶の野蛮よりも、これらの技術的選択と手段において断然巧妙に妥協されているものであります。しかし、それでもそれが妥協されたものであり神聖を汚すものであることには変わりありません。おなかの中の子どもが、人殺しの対象として生まれることのないようにする権利を持っているのと同じように、製品として受精の後生まれてくることがないようにする権利も持っているのです。その権利は、絶対の法と実際ではないにしても、道徳的真実において、その技術がまぎれもない体外受精なのか、あるいは「双子分裂」か成人の原型から行ったクローンなのかを見極めるのに役立つはずなのです。

生まれてくる平等の権利と殺される恐怖と向かい合う平等の権利とは、もちろん単一で同じ権利であって、二つの応用があるのです。その応用が一緒になって、試験管ベビーという致命的な実験において権利は二倍侵されることになるのです。その実験の目的が、現存する体外受精技術を完成させるためであろうと、「純粋科学」の発見のためであろうと、あるいは多少成長した人間の細胞からクローニングするような新しい技術を生み出し完全なものにするためであろうとも、です。そしてそれは、昨年1998年12月に人類発生学当局と人類遺伝学諮問委員会が発行したレポートで多少好意的に書かれているような手順によって、明らかに侵されているのです。

このレポートは、その中で「お互いあるいは他の人間に遺伝学的に同一な人物の創造」と定義している人間の再生クローンを否定しています。でもここで「人間」と言っていることにより、完全に成長した人間のことを勝手に意味していると思うのです。これはレポートが人間のクローンと細胞核置き換えの技術が人間の胎児を作るのに用いることを認めるべきだと勧めているところを見れば明らかです。その胎児とは、私たちが人生の最初の14日間そうであったような完全な人間としての生物体であるのですが、ただしこの場合はこれらの人間が他人の体の部品の一部として提供され、14日以後の発育をしないうちに破棄されるものなのです。これらを人間と呼ぶことで、私は、もちろん、これらの当局のレポートがはぐらかそうとしている現実を単に認めようとしているだけなのです。でもこれは自発的また正確に、R.G.エドワーズ博士によって、博士がいわゆる試験管ベビーのルイーズ・ブラウンという彼の産出物第一号を語る中で容認されています。エドワーズ博士は、自身の本の中で、「顕微鏡によらなければ見えない人間、つまり発育の最も初期」においての子宮内での着床以前の段階においても受胎産物について記述しているのです。13

私のような弁護士が率いて、法定神学者を置いているこれらのそれぞれの委員会に対して、サイは投げられたことになります。

3.3回答者の約23%が、胎児には人間としての道徳的資格が十分に備わっているという理由から、いかなる形の胎児研究・操作も明らかに間違っていると応えています。14日の限度が気まぐれだと考える人が24%、そのうちの何人かはその延長の可能性につながると思っています。これらの二つの視点は、1990年条例に成文化された決定に異議を唱えるものであります。これに関連する問題は、HFE条例案を通過させる際に、議会と広範囲にわたる一般市民の間でも相当議論されました。この限定された質問を、クローニングにも当てはめて、人間の胎児に関する問題を再開させるのに利用するというのは適切ではないでしょう。

5.2個人を中心に、非常に多くの人々から、人間の胎児を使ったすべての研究を否定する回答が得られました。けれども、人間受精・胎児条例は、発育の14日目までの人間胎児の研究を、免許を受けたものに限って許可しています。研究目的で胎児を作ることを禁止する改正案は、下院における大多数、それと上院における圧倒的大多数により無効になったのです。このように、CNR(細胞核の置き換え)による研究目的の人間胎児の製造は認められることになったのです。ただし、研究プロジェクトが厳しい基準のもとでHFE条例から許可を得ることを条件とされてはいますが。

上院における圧倒的大多数。これはちっとも私たちを驚かせません。このエリート集団には、1997年6月に「クローニングの防御と科学研究の誠実宣言」を発行した「国際ヒューマニズムアカデミーのヒューマニスト受賞者」などの人々が当然の割合以上います。31人の署名者には、サー・イザイヤ・ベルリン、フランシス・クリック、リチャード・ドウキンズ、サー・ヘルマン・ボンディ、W・V・クイン、アンソニー・フリュー、などが挙げられます。唯一の政治家は、ヨーロッパ議会の前大統領で、フランスの中絶法を作ったシモーヌ・ヴァイルだけであります。また唯一の開業医はオランダの医学博士で、オランダの殺人的な安楽死プログラムの先駆者的存在のピーター・アドミラールだけなのです。その宣言は、高等動物のクローン開発を歓迎し、悪用を防ぐ必要性についてはほんのちょっとだけ触れ(明記はされていません)、そして本題に入っていくのです。理屈は人類の最も強力な道具です。ところがいくつかの宗教が、「人間の能力は、高等動物とは程度の差があるのであって、その種類に違いがあるのではない。」といってこの理屈に挑んでいるのです。(全人類が同じ自然界において分かち合う平等がなければ無意味なものである人間の平等についてはそれだけで、完全な動物は他の動物に比べても違う種類で、私たちが魂と呼ぶ知的で生気を与える本質の形を含んでいます。)

学者たちは、有益な研究が「ある一部の人々の信仰と相容れないという理由だけで抑圧されるのでは」と恐れています。(でももちろん、人間性の協調を信じることは、ここでいう信仰とは違って、人間の胎児への破壊的、搾取的な研究に対する異議は、彼らの人間性を侮辱し犯すものであります。)彼らは続けます。「同じような宗教的異議がかつては解剖や麻酔に対しても唱えられていたことを思い出すのは重要なことです。」するとエリートたちは、神話やブラック・プロパガンダに頼るようになります。クローンやIVFをとがめる教会は、13世紀のイタリアで一般診療として始められた医学解剖を非難したことなどありません。また麻酔を非難したこともないのです。これらの話は、中世の人々が世界は平らであると信じた話とよく似ています。これは18世紀に悪意に満ちた反宗教的伝道者によって完全にでっちあげられたもので、20世紀に入ってからもエリートや学校の先生に同じように純真に信じられていったのです。13世紀にはトマス・アクイナスが、学校の先生から教わった、世界は丸い球体であることを証明するたくさんの方法を述べています。

結局、学者たちは自分たちの質問に対する答えを考え始めたのです。人間クローンは、どんな道徳的問題をもたらすのだろうか?と。以下は彼らの回答の全容です。

私たちは、人間外の高等動物のクローンについて、なんの固有の倫理的ジレンマもない。さらに、人間の組織のクローンや人間そのもののクローンに関する今後の発展が、人間の解決能力を超えるような道徳的窮地に陥れるようなことがないことは明白だと信じている。クローンについて取りざたされている道徳的問題は、人類が今までに直面してきた核エネルギー、DNA組み替えやコンピュータの暗号化といった技術に関するものほど大きくて深刻なものではない。単に新しいだけのことである。

これだけです。あとは「機械化反対者の選択権」、「古代神学のためらい」や「伝統主義者と反啓蒙主義者の視点」といった美辞が、「有益な科学の発展」に対して並べられているだけです。しかし、人間を作ったり収穫したり、買ったり売ったり、部品の一部として使ったり、そしてしまいには破壊してしまったりしながら人間とかかわることが、道徳的には例えば「コンピュータの暗号化」とまったく同じであるという強引な主張は、私には恥知らずの残酷さに新たな深みを増すだけのはぐらかしと言わざるを得ないのです。

人間の道理は確かにこれらの「道徳的窮地」を「解決」することができ、今までも原則的にそうしてきたはずです。その原則とは、人間のいのち、威厳そして威厳の平等を尊重するということです。それは彼ら、それから他の多くの力のある人々が、この回答を好まないというだけのことなのです。


Some further reading:

  • Patrick Lee, Abortion and Unborn Human Life (Catholic Univ. Of America P. 1996)
  • Germain Grisez, Difficult Moral Problems (Franciscan Press, 1997)
  • David Selbourne, Moral Evasion (Centre for Policy Studies, 1998)
  • Valparaiso University Law Review, volume 32, no.2, 1998 (issue on cloning)
  • John Keown, Euthanasia Examined (Cambridge University Press, 1995)
  • Catholic Bishops Joint Committee on Bioethical Issues, Genetic Intervention on Human Subjects (Linacre Centre, 60 Grove End Road, NW8 9NH).

References:

1 Judith Jarvis Thomson, ‘Abortion’, Boston Review 20:3 (1995) 11 at 15 [Back]

2 Cf. Habermas. ‘On the Pragmatic, the Ethical, and the Moral Employments of Practical Reason’, in Justification and Application, 1-17. [Back]

3 Habermas, ‘Reply to Symposium Participants’, Cardozo Law Review 17 (1996) 1477 at 1486. [Back]

4 Id. [Back]

5 Id. [Back]

6 Ibid., 1490. [Back]

7  Report of the House of Lords Select Committee on Medical Ethics (Chairman: Lord Walton), 31 January 1994, para.237, reprinted in John McKeown, Euthanasia Examined (Cambridge University Press, 1995), 102. [Back]

8 Political Liberalism, 1vi-1vii. [Back]

9 The failure of Rawls’s and Habermas’s arguments does not entail that there are no grounds for coexisting with people who authorise and fund abortions of convenience, practise euthanasia, or intend the nuclear destruction – in certain eventualities – of entire cities with their inhabitants. I have explored these matters a bit further in Finnis, Boyle and Grisez, Nuclear Deterrence, Morality and Realism, ch. 13; Finnis, ‘Public Reason, Abortion, and Cloning’, Valparaiso University Law Review 32 (1998) 1 at 10, 16. [Back]

10 Paul Ramsey, Fabricated Man: The Ethics of Genetic Control (Yale U.P., 1970), 64. [Back]

11 See especially In Vitro Fertilisation and Public Policy, Evidence submitted to the Government Committee of Inquiry into Human Fertilisation and Embryology by the Catholic Bishops’ Joint Committee on Bio-Ethical Issues (London, Catholic Information Services, May 1983). [Back]

12 Living a Christian Life (1993), 267-8. [Back]

13 Robert Edwards and Patrick Steptoe, A Matter of Life (London 1981) 83. [Back]


John Finnis(ジョン・フィニス)
Professor of Law and Legal Philosophy, Oxford University,
Professor of Law, University of Notre Dame
出典 英語原文
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2002.9.5.許可を得て複製